1-7 おかえり
本当にまた行ってしまっていいのか?
夜の街を抜け、夕月の部屋に帰る道を歩きながら、翔吾はずっと自問自答していた。
ポケットの中の手はじっと固く握りしめられている。
自分が消えれば夕月が自由になれると思ったのに、結局夕月を泣かせた。
『……違うよ、翔吾。』
今更、出て行った夜の呟きが、頭の後ろ側に響いた。
あの時、彼女に向き直っていたら、何か変わっていただろうか。
風が吹き、前髪が乱れる。
夕月が、小さく鼻を啜るのが聞こえた。
──別に、夕月が泣いているから、ただ送ってやるだけ。
夕月を信じきれない自分の弱さが今を招いたのはわかっていた。
それでも、ほんの少しだけ。
もう一度だけ、あの温かい部屋に帰ることを夕月が許してくれたら。
上着の裾を小さな手が引いている。
その微かな重さを感じながら、翔吾は一歩一歩歩みを進めた。
帰り着いた部屋は静かに2人を迎えた。
鍵を取り出すまで、夕月はずっと翔吾の上着を掴んでいた。
そして、何も言わずに翔吾の手を引いた。
部屋の戸が、細い音を立てて閉まる。
畳まれたブランケット、柔らかい色のラグ、キッチンに並んだマグカップとプラスチックのコップ。
この部屋を離れてから1ヶ月も経っていないのに、泣きたくなるほどの懐かしさを感じて、翔吾は一歩も動けずにいた。
全てが夢のようだった。
「……戻って、来られた。」
掠れた声が、こぼれ落ちた。
あれだけ戻ってこなくていいと思っていたはずなのに、心はどこかで、ずっと願ってしまっていた。
夕月は黙ってヤカンを火にかけていた。冷たい水でタオルを濡らす。
翔吾の呟きは聞こえないふりをしていた。
「翔吾、座って。」
その声はもう濡れていなかった。
命令でもなく、懇願でもなく、ただいつも通りの声。
翔吾は、黙って座った。
夕月がすぐ近くに膝をついて、額の傷を濡れたタオルで拭う。
冷たい布が肌に触れると、思わず身を引きそうになった。
けれど夕月の指がそっと添えられて、それ以上は動けなくなった。
誰かに傷を手当てされたことなんてなかった。
痛みに触れられることはあっても、痛みを癒そうとする手は初めて触れるものだった。
「しみる?」
「……痛いのは、慣れてる。」
沁みていたのは傷ではなく、胸の奥だった。
夕月は、拭き終えたタオルを静かに手元に置き、大きな絆創膏で傷を覆った。
ヤカンが湯気を吹き上げて、また夕月が立っていく。
戻って来た夕月が、プラスチックのコップに入った温かいココアを差し出した。
自分は温められてばかりだ。
そう思うと、ひどく居心地が悪かった。
気持ちの整理はつかないままでも、何か、一言でも夕月に返したかった。
「夕月、」
ありがとう、と続けるつもりだった。
その前に、夕月がまたぼろぼろと泣き出した。
「なっ……!、んで、泣くんだよ。」
「なまえ……、やっと、名前呼んだ……。」
言われて気がついた。
長い間、夕月を呼んでいなかった。
多分、寝ぼけて夕月に触った日から、ずっと。
夕月はずっと「翔吾に」呼ばれたかったのだと泣いていた。
そんなことで、良かった。
「夕月。……名前くらい、いくらでも呼んでやるよ。」
翔吾自身が勝手に自分を邪魔者だと思って、意固地になっていただけだった。
手を伸ばすと、夕月は驚いた顔をした。
けれど、拒まない。
その日初めて、翔吾は夕月の頬に触れた。
薄い皮膚を傷つけないように親指で濡れた頬を拭った。
もう一方の手でラグの上に落ちていた夕月の手に触れると、自然と指が絡んだ。
頬を包んだ掌を少し傾けて、耳の後ろまで指を差し入れる。
夕月も少しだけ顔を寄せて、翔吾の手に頬を預けた。
今さら泣いていた事を気にしたのか、すん、と小さく鼻を鳴らした。
引き寄せ合うように吐息が混ざり合って、唇が重なる。
その時、胸の奥に小さく火が灯ったのがわかった。
背中を引き寄せて腕の中に収めると、ようやくあるべき所に自分の方が収まったような気がして、心の角が取れていくのが、また、わかった。
「……私、キス初めて。」
夕月が深く息を吐いて言った。
「マジか。……そりゃ、俺なんかで悪い事したな。」
「本気で言ってたら、怒るよ。」
鼻先を寄せ合って笑う2人を、満ちようとする月が静かに見下ろしていた。
翔吾は目を開けて、真っ白な天井をしばらく見つめた。
夕月のベッドに体を沈めていて、自分がどんな顔をして眠っていたのか思い出せなかった。
一緒に眠っていた筈の体温を探して腕を伸ばしたが、そこには僅かな空洞しかない。
キッチンから小さな音が聞こえる。
カップを揃える音と、お湯を注ぐ音。
小さな背中が浮かびあがって、差し込んだ朝日がその後頭部の丸みに合わせて光の輪を形作っていた。
身体を起こして、呼びかけた。
「夕月。」
「おはよう。……はい、コーヒー。インスタントだけど。」
そして、プラスチックのコップを彼に手渡しながら、小さく笑う。
「これ、やっぱダサいよね?」
翔吾はコップを見下ろして、肩をすくめた。
「いや、別に。飲めりゃいいし。」
でも、と夕月は少し照れたように言葉を続けた。
「朝ごはん食べたら、マグカップ買いに行かない? 翔吾の、専用のやつ。」
翔吾はその言葉に目を瞬かせた。
この部屋に、他の誰かと同じでも、ついででもない、翔吾だけの居場所を作ると夕月は言っているようだった。
ずっとこの先も、それを使い続けて良いのだと。
「……俺、カップとかよく知らねぇけど。夕月が好きなの選べよ。」
自分の形は、夕月に選んで欲しかった。
コーヒーの湯気の向こうに、夕月の姿が滲んで見えた。
夕月は少し笑って、「じゃあ、勝手に翔吾っぽいの選ぶ」と答えた。




