1-6 夜の彷徨
排気ガスと煙草の匂いが混ざり合った夜の空気。
廃倉庫の裏手、埃っぽい壁に翔吾は背中を預けた。
数人の男たちが煙を吐きながら粗野な笑い声を響かせていた。
「久しぶりじゃんショーゴ。ケツに乗せてた女のせいか?」
「ああ、俺も見た見た。あいつってどこ高だった?顔はまあまあじゃん、飽きたら譲れよ」
笑い声の中、翔吾は無表情のまま煙草をふかす。目を伏せたまま、「やめろ」とだけ呟いた。
「え?なに、お前あんなのにマジなの」
「冗談だよ、冗談。いつものノリじゃんか」
笑いながら肩を叩かれたその瞬間、翔吾の拳が1人の男の頬を打った。
周囲の空気が一気に凍りつく。
「言っていいことと悪いことの区別くらいつけろよ。あいつに触んな」
しばらく沈黙のあと、誰かが小さく笑った。
「……やっぱ変わったわ、お前」
黙ってバイクに跨った。
誰とも目を合わせる必要はなく、苛立ちのままにアクセルを開ける。
帰り際、信号待ちの人混みに立つ夕月の姿を見つけた。俯いて、スマホを眺めていた。
ふと何かに気付いたように顔を上げ、きょろきょろと辺りを見回す。
翔吾はヘルメット越しに彼女を見つめて、ただそのまま通り過ぎた。
もう自分が、声を掛けるべきではない。
火曜日。日付が変わる少し前。
自動ドアが開いて、冷たい蛍光灯の光が目を刺した。
冷蔵棚からお茶を取って、レジへ向かう。
そこに翔吾はいなかった。
何も買わずに出ようかと思ったけれど、手の中のペットボトルが温度を持ってしまったから、レジに置いた。
「いらっしゃいませ!」
『……っせー』
最後の音しか聞こえない、ぶっきらぼうな声が胸の奥に響いた。
なんで来んだよ。危ねぇだろ。早く寝ろよ。
またあの照れ隠しのような言葉が聞きたかった。
「レジ袋ご利用になりますか?」
「……いえ、いりません」
外に出ると、風が少し吹いていた。
自分がこの店に来ようと思った理由が、急に分からなくなった。
大学にも翔吾は出てきていない。
街を歩くと、時折あのエンジン音が聞こえる気がして、辺りを見渡す度にガッカリする。
このまま、もう会えなくなるのかも知れなかった。
「……ねぇ、明日の、一限、」
かつて彼のバイクが停まっていた店の脇で、膝をかかえた。
夕月の部屋に帰らなくなって、翔吾は誰とも連絡を取らなかった。
関係があった女は皆切ってしまったから、眠れない夜には街へ出た。
昔のように寄り集まった不良仲間とも、結局喧嘩別れした。
煙草は増えた。
吸い殻を潰す時、火が指先に当たっても何も感じなかった。
クラブで寄って来た女と寝た夜もある。
汗ばんだ誰かの髪に指を絡めながら、心は何も思わず、あの夜掴んだ手首の細さばかりが思い起こされていた。
夕月が、名前も知らない女を抱けるまでに自分を癒した。それが一番、痛かった。
ビルの隙間で、痰を吐いた。タールと血の味が、喉を切っていく。
「……全部、違ぇわ。」
あまりに掠れた声に、自分が驚く。
消したはずの連絡先を一度だけ検索した。
「……夕月。」
高岡悠馬は、いつも無邪気だった。無邪気に無神経で、自信に満ちていた。
打ち上げと称して連れ込まれた夜の街で腰を抱かれた時、「違う」と思った。
唇を寄せられた時、嫌悪を覚えた。
夕月の頭によぎったのは、かつて一度だけ熱を持って手首を掴んだ大きな手のひら。
あの寂しい人が私と誰かを間違えた夜ですら、こんな触り方はされなかった。
顔を背けた夕月に悠馬はあからさまに舌打ちした。
「ちょっと可愛いと思って構ってやったけど、やれねーんなら意味ねぇわ。勝手に帰れよ。」
湿度に満ちた繁華街で、帰り道も分からない夕月を突き飛ばして、悠馬は足早に歩き去って行った。
騒ぎ声が、路地の奥に近づいてくる。
若者たちが大きな笑い声を上げて、中心の1人を小突きながら歩いていた。
その視線が、こちらに向いた瞬間、翔吾は舌打ちをした。
「……うっせぇよ、お前ら。」
肩を叩かれ、急激に盛り上がった空気を翔吾の拳が先に切った。
頬骨にぶつかった感触と同時に、指が痛みを訴えたが、止める気は持てなかった。
誰かが叫び、誰かが押した。
コンビニのガラス戸に激突し、額が割れた。血が目に流れ込んだ。
同じように、近くにいた誰かの頭を掴んで車止めのブロックに叩きつけた。
「殺す気かよ、こいつ……!」
恐れの色を帯びた怒鳴り声に、翔吾は笑った。
何もかももうどうでも良かった。
ゆらっと揺れながら立つ彼の右手は震えていた。
一度手を開いて、もう一度拳を固めた。
それは何かを守る物ではなく、ただ苛立ちを発散するだけの、空っぽの暴力だった。
夕月は人の流れに呑まれ、ただ歩いた。
見知らぬ街の明かりはどれも冷たくて、冷えた心を温められない。
誰かが声を掛けてきても、振り返ることは出来なかった。
右腕だけが悠馬に乱暴に掴まれて突き放された痛みを覚えていた。
電車も、時間も、自分がどこにいるのかすらわからなかった。
調べようという気さえ起きなかった。
人と人の合間をすり抜けているうちに、道端の水たまりに躓きそうになって思わず足元を見る。
その瞬間だった。
「てめぇら、ざけんなっつってんだろ!」
怒鳴り声が響いた。
遠く、コンビニの白い光の輪の中。
数人の影が掴み合っていた。その真ん中に翔吾がいた。
いつか聞いた、空気を切る低い声。
喉の奥がじん、と震えて、その声にすべての神経が向かってしまった。
拳を振るう姿は、あまりに荒れていて、酔っているのか怒っているのか、目の焦点が合っていない。
額から血が流れていた。
「翔吾……っ!」
彼は反射的に振り向いた。
その目が夕月を捉えた瞬間、凍ったように動きを止めた。
一瞬の沈黙。
罵声も、夜風も、街の喧騒も、すべてが背景になる。
翔吾は、夕月を見て、少し笑った。
「……なんで、こんなとこにいんだよ。」
その笑いは、無理に形だけ作ったものだった。
夕月も、笑えなかった。
「置いてかれた。……あいつに。」
それだけで、翔吾の目がわずかに揺れた。
拳を握っていた手が、ゆっくりと解ける。
「……バカかよ、お前。」
その一言で、夕月の目から涙が溢れた。
夕月の涙に気づいた翔吾は、一瞬迷ったように視線を泳がせた。
周囲の喧騒が遠ざかっていく。
苛立ちの餌食にされた若者達は捨て台詞を吐いて、傷ついた仲間を引き摺って逃げ去って行った。
血の滲んだ額と、ほどけきれない怒気を残したまま、翔吾は手を伸ばした。
「……歩けんのか?」
夕月は、頷いたのか否か分からないほどの小さな動きで返した。
しゃくり上げる夕月の肩を引き寄せようとして、その手が触れる寸前で引っ込める。
人を殴っていた手には、わずかな擦り切れと誰のものかわからない血が付いていた。
ポケットに手を突っ込んで、ゆっくりと数歩踏み出して夕月を振り返った。
「こっち。」
コンビニの明かりが背後に遠ざかっていく。
ちかちかと切れそうな街灯に虫が集まっていた。
道の脇には、濡れた雑誌が放置されていて、雨は降っていないのに街全体がじっとりしていた。
2人は長い間黙ったまま歩いた。
翔吾は数歩先を歩きながら、夕月の靴音が遅れると止まって追いつくのを待った。
「……あの野郎、お前に何した。」
怒鳴って問い詰めたい気持ちを押し殺して訊ねると、夕月は少し笑ってみせた。
「なんでもないよ。本当。」
その言葉に翔吾は立ち止まり、夕月の方へ振り返った。
痛みを湛えたまま、それでも手を離した自分が、彼女に怒ることもできない。
見つめられた夕月の肩が、わずかに震える。
それが涙のせいなのか、冷えた風のせいなのか翔吾には分からない。
「俺さ……。」
間を埋めるように、翔吾はぽつりと呟いた。
「バイト辞めた。講義も、もう行ってない。」
「……うん。知ってた。」
知ってた。
それでだけで、翔吾の胸の奥はじわりと疼いた。
夕月はちゃんと翔吾を見ようとしていた。
不意に夕月の手が伸びて、上着の裾を掴んだ。




