3-8 もう一度初めてから
目の前には黒い開襟シャツ。
翔吾が隠すようにしまってあった物を、彼がいないうちにこっそり引っ張り出した。
「大丈夫、大丈夫……、誰もいない……。」
自分に言い聞かせながらゆっくりと持ち上げて、まずは胸に抱く。
とくり、とくり、と自分の胸が鳴っているのがわかった。
それからそっと頬を寄せる。少しだけ柔らかくなった綿めんの感触と、いつもの柔軟剤、それから染みついてしまっている煙草の匂い。
思わず、はぁっ、とため息が漏れた。
「大丈夫……、いつもの、翔吾の匂い。」
ふと思いついて、袖を通してみた。
ビッグシルエットを通り越して、肩線は完全に落ちて、袖口はすっぽり指先まで覆っている。
そこまでしても内臓が痙攣しない事を確認して、夕月は羽織ったシャツごと肩を抱いた。
「……良かっ、たぁ。」
そのシャツは夕月が不良集団に攫われた日に翔吾が着ていた物だった。
事件直後、夕月は干してあったそのシャツを見て吐いた。
それ以来、翔吾はそのシャツを仕舞い込んで一切着なかった。
夕月は仕舞われていたそのシャツと同じように、変わってしまった翔吾との関係を修復したかった。
あの日の記憶に焼きついたそのシャツを見ても、体調に変化が起こらない事は大きな一歩で、逆に安堵で泣きそうだった。
大きな身頃に包まるようにソファの上で膝を抱えた。
顔を伏せて翔吾の匂いを感じていると、かちゃん、と鍵の回る音がした。
「あっ……!」
今更焦っても遅かった。シャツから腕を抜く前に、玄関のドアが開いた。
「ただい……夕月、大丈夫か……!?」
ソファで膝を抱えた夕月を見た翔吾の顔色が、さっと変わった。
以前と違って、駆け寄って来たりはしない。
ゆっくりソファの側にしゃがみ込んで、夕月の様子を伺う。
「だっ、大丈夫……! ちょっと、着てみたかっただけ!」
「着てみたかったって、だってそれ……。」
「だから、大丈夫なの! 翔吾の匂いがして、安心した。」
「そっ、か……。」
気恥ずかしさに頬を染めた夕月の顔を見て、翔吾はなぜか気まずそうに口元を抑えて目を逸らした。
「大丈夫なら、いいや。俺も安心した。……でさ、悪いんだけど、早めに返して貰っていい?」
「あ、ごめん、勝手に着てて嫌だったよね。すぐ脱ぐね。」
「……嫌じゃ、ねーよ。ただお前が可愛すぎて困ってるだけ。」
ぶっきらぼうにそれだけ言って、夕月に背中を向け、それきり黙り込んでしまった。
その背中に夕月はそっと手を伸ばした。
「翔吾。……もし、嫌じゃなかったら、……ちょっとだけ、翔吾に触りたい。」
「ばっ……!」
馬鹿野郎、と怒鳴りそうになったのを、すんでで堪えた。
背中に温かい夕月の手が置かれているのを感じる。
夕月は、自分に隠れて1人でトラウマに立ち向かっていたのに。
大きすぎるシャツを羽織って、「安心する」と笑った夕月を見てどうにも落ち着かず、兆してしまった己を恥じた。
夕月の笑顔が喜ばしい筈だった。僅かでもその心が晴れたのなら、一緒に喜んでやれる筈だった。
それでも今、脳裏に焼きついて離れないのは、その笑顔ではなく。
少し内向きにソファに乗っていた白い足首や、唇の動き、シャツの袖から僅かに覗く指先。
今振り向けば、夕月の安心を踏み躙にじってしまう。
「……今は、駄目だ。」
あからさますぎて笑える程、低く掠れた声が出た。
「……翔吾がずっと我慢してたの、知ってる。」
ずっとキスもできなかったくせに、夕月は言葉を重ねた。
「……夢に、見るの。あの人達に最後までされる夢。それが怖くて、その度に翔吾が遠ざかって。……だから、ちゃんと翔吾に愛されてる身体なんだって、思い出させて。」
一瞬息の仕方を忘れた。
「あー、くそ……っ」
毒づいたのは、誰にでもなかった。
強いて言えば、都合が良いと微かに思ってしまった自分に。
「……夕月、ほんとに、いいのか。」
「うん。今なら、きっと大丈夫。」
振り向いて腕を伸ばすと、身を投げるように夕月がソファから降りた。いつかの夜のように、膝の上へ。
その柔らかな熱を抱き留めて、今できる限りに優しく口付けた。夕月が好きだったように髪を撫で、細い腰を抱く。
さっきまで滅茶苦茶に蹂躙してしまいたかったのに、夕月に触れた途端その獣欲は影を潜め、代わりに立ち昇ったのは泣きたい程の愛しさと、責任感だった。
──そういえば、夕月を初めて抱いた夜もこうだった。
「……なんだか、初めての時みたい。」
口付けの合間に、夕月が囁いた。
「俺も今、おんなじ事考えてた。」
それでもその時とは違い、身体は彼女への触れ方を覚えていた。
夕月が息を詰めるのが、恐怖からか、それ以外の感覚からなのかも手に取るようにわかった。
さすがに「止めるか」とは聞いてやれなかったが、待てと言われればできるだけ待って、名前を呼ばれればその全てに応えた。
彼女ともう一度1つになって、その肌が染まっていくのを見られたのは、きっと奇跡だった。
「翔吾の方が怖がってるみたい。」
途中で夕月がそう言って頬に触れた。
「怖ぇよ。多分、お前と同じくらい。」
「じゃあ、全然怖くないね。」
「……そうかよ。」
微笑んだ夕月があんまり綺麗で、気の利いた事1つ言えなかった。
ただ額に張り付いた髪を一筋払ってやると、嬉しそうに息を吐いた。
その日眠りについた夕月がうなされる事はなかった。
次の朝、いつもはソファに座る夕月が、翔吾の隣にぴったり寄り添ってラグに座った。
「……なんだよ?」
「今までの分、取り返そうと思って。今日はいっぱいくっつく。」
ちょっと悪戯っぽい夕月の笑顔に、胸を突かれるような懐かしさを感じた。
それは誤魔化しや恐怖を紛らわす寄り添いではなく。
ヒビの入った心が、元の姿を取り戻そうとしている証に思えた。
「…じゃあ、俺もちょっとだけ触って良い?」
「もちろん」
僅かに手を広げた夕月を抱きしめた。
壊れない。小さくならない。それが嬉しくて腕に力を込めた。
潰れる、と夕月が笑った。




