3-3 「翔吾の女」
夕月は玄関に入った瞬間頽くずおれるように座り込んだ。
「夕月……!」
「ご、め……、なんか、力抜けちゃった……。」
笑おうとしたのか、弱々しく頬が引き攣る。
むしろ今まで気丈すぎた。
翔吾は夕月の靴を脱がせて、できるだけ静かに抱き上げた。湿った髪から強いアルコール臭が漂っている。
バスルームまで夕月を運び、浴槽に湯を張った。
着替えを用意して戻ると、座り込んだ夕月が震える指でブラウスのボタンを外すのに苦戦していた。
先に脱いだらしいカーディガンの袖には、ちぎれたガムテープが張り付いたまま残っている。
翔吾は目を逸らしながら、ブラウスのボタンを外し、ついでに下着のホックも外してやった。
夕月の肌に幾つか痣が浮いているのを見かけて、心臓が跳ねたのを、何度も深呼吸して抑えた。
「……あと、大丈夫?」
「うん……。」
頷いたのを確認して立ち上がると、夕月の手が伸びた。
「翔吾っ、ごめん、……ちょっとの間、ここにいて。」
「わかった。ここで待ってる。」
扉の磨りガラスに姿が映るように脱衣場に座って、夕月がシャワーを浴びるのを待った。
シャワーの音に紛れて、押し殺した啜り泣きが聞こえる。
居ても立っても居られなくて、ただ手を動かす為にカーディガンを拾い上げて、張り付いたガムテープを剥がした。
夕月の気に入っていたボタンがいくつも無くなっているのが見えて、ますます落ち着かなかった。
自分の過去が、また夕月を傷つけた。目に見える形で、はっきりと。
「くっ、そ……!」
喉の奥に込み上げた熱を感じながら、握った拳を、胡座をかいた膝に何度も振り下ろした。
自分が泣く訳にはいかなかった。
それでも、握った拳に、殴りつける膝に、点々と雫が落ちるのを止められなかった。
2人は赤い目をして黙り込んでいた。
翔吾はラグに手を這わせ、夕月はソファでブランケットに包まって。
いつも通りの距離が、酷く張り詰めている。
今2人が触れ合えば、何かを壊してしまいそうだった。
「……そうだ、」
遠回しに口火を切ったのは翔吾だった。
「夕月、後でリカちゃんに連絡して。バッグ預かってくれてる。すげぇ心配してた。」
「……わかった。」
それは、ただの連絡事項。
大切な事だったけど、2人が今本当に言葉にしたい事は違う筈だった。
「……リカちゃんが車見てたから、早く……、見つけられたんだ。」
「うん。じゃあ、リカは命の恩人だね。」
冗談めかすと、翔吾は黙り込んだ。
実際に、翔吾が現れたのはギリギリのタイミングだった。
もう数拍遅れたら、夕月は「翔吾の女」という名前の物にされていた筈だった。
ムカついた、箔がつく、そんなどうでもいい理由で。
「……怖かったよな。」
「……うん、怖かった。……翔吾が、いなくなっちゃうと思った。」
ようやく翔吾が夕月を見た。
「俺のことも、怖かった?」
「……違うよ。翔吾はちゃんと間に合ってくれた。でも、平気で誰かを壊す人になるのが嫌だった。」
あの時夕月が見た、怒っても笑ってもいない、何も映っていない目。
夕月と翔吾がこれまで拾い集めてきた何もかもを手放してしまった様な目が、怖かった。
「……せっかく、留年回避したのに、私なんかの為に翔吾の夢が潰れちゃうの、絶対駄目だった。」
「なんかって、言うなよ。……俺、いつも格好悪りぃ。」
「格好いいよ。」
夕月はソファから滑り降りて、俯いて前髪を握りしめる翔吾の隣に座った。
「こうやって一緒に帰ってこれたんだもん。私、埋められちゃうところだったんだから。」
「そんな事、言われたのか?」
夕月は口を滑らせた事を悟った。
「ぜ、全然……、怖くなかったよ! 冗談っぽかったし!」
慌てて誤魔化した夕月を翔吾の強い瞳が射抜いた。
「……壊れないでちゃんと聞く。約束するから。もし夕月が抱えきれない事言われたんなら、俺にも教えて。」
「……翔吾の事、褒めてたよ。強くて格好いいって。」
「そんな事どうでも……、」
「だから、私に何かするとハクが付くんだって。」
翔吾の顔が歪んだ。
「なんだよ、それ……、夕月は、俺の物じゃねぇよ……っ!」
「じゃあ、誰の?」
「夕月は夕月に決まってんだろ!」
翔吾が苦しげに吐き出した言葉が、夕月を1人の人として立たせた気がした。
翔吾の女ではなく。他の誰かの何かでもなく。
夕月自身も生まれてからずっと縛られていたことに今初めて気がついた。
ずっと貼られたラベルに従って生きてきた夕月を、悔しそうな彼の目が少しだけ楽にしてくれた。
「でも、翔吾の女って言われるのは、嫌じゃなかったよ。私が自分で選んだ場所だもん。」
夕月は少しだけ距離を詰めて、いつもするように、翔吾の肩に頭を預けた。
「だから、翔吾にも、私の為じゃなくて自分の為に選んで欲しい。」
「俺は……、自分の為に、お前を選んだ。でも、そのせいで、お前を傷つけちまった。」
「……いいの。ちゃんと助けてくれるから。あの恐いところじゃなくて、私を選んでくれて、嬉しい。」
夕月の髪に、震える指先が触れた。確かめるようにそっと梳きおろす。
繰り返し、繰り返し。
その夜は静かに寄り添って、互いの震える指先を慰め続けた。
「夕月……! 心配したよぉ!」
「リカ、ありがとうっ……!」
キャンパスの中庭で、夕月とリカが抱き合って飛び跳ねている。
翔吾はそれを少し離れて見守っていた。
自分といる時と、友だちといる時の笑顔は少し違う。
夕月の友だちに存在を隠されていた翔吾にとって、それは新しい発見だった。
「翔吾ー!」
2人が手を振って呼んでいる。
頬を緩めて歩み寄ると、夕月が袖を掴んだ。
「リカ、黙っててごめんね。これ翔吾。付き合ってるの。」
「本当にこの翔吾と付き合ってたんだね。この間は反射的に連絡しちゃったんだけど……。」
「なぁ、リカちゃん……、この前も思ったけど。その、あのとかこのとかって何?夕月もこれとか言うし。」
大方の予想はついていたが、半笑いで聞いてみると、夕月とリカが顔を見合わせた。
「だって、翔吾って……、ね?」
「ヤバいやつだって、有名だったもん。」
返ってきた言葉は、やっぱり思った通りだった。
そういえば、夕月に初めて会った時も、「目立つ」と言われた。
「夕月、だから俺の事隠してたのか?」
「ち、違うよ、それは! ……ただ、彼氏できたって言うのが、恥ずかしかっただけ!」
頬を染めた夕月と、それを揶揄うリカを見ながら、守る為には己の行動を律することが必要なのだと、嫌と言うほど痛感させられていた。
──俺自身が、変わらないといけない。この笑顔たちを守る為に。




