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負けてなお、王であれ

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✴︎夜の代官山。


光と影が交錯する高級マンション街の洗練された空気を切り裂くように、場違いな「異形」が歩いていた。

恋問持子こいとい もちこである。

彼女は、重く湿った闇の中を、ずるり、ずるりと引きずるように進んでいた。

肉体は、とうに壊れ果てている。

普通に歩くことすらままならない。意思とは無関係に、前へ倒れ込もうとする身体を、無理やり前進させているだけだ。


ギシィッ。ミチリ。


一歩踏み出すごとに、膝や股関節が軋み、千切れた筋肉の痛みが脳髄を激しく打つ。

絶世のプロポーションを包む制服は、どす黒い汗と、手の平から流れた血と、そして己の尊厳と共に垂れ流した排泄物で、ひどく汚れきっていた。


「……がはっ」


持子は、コンクリートの壁に手をついた。

立ち止まらなければ、心臓が破裂しそうだった。


ヒューッ、ヒューッ。


焼けるように熱い肺が、空気を求めて痙攣している。

口の端から粘り気のある涎が垂れ、ズル剥けになった手の平からは、ポタリ、ポタリと、アスファルトに血の染みを作っていく。


「……あの、大丈夫ですか?」


不意に、声がした。

仕立ての良いスーツを着た男が、怪訝そうに、だが心配げに手を差し伸べてきたのだ。


バチンッ!


「……触るな」


持子は、差し伸べられた手を血まみれの腕で激しく振り払った。

前髪の奥で、黄金の瞳がギラリと光る。

そこには、凡人を射殺すほどの強烈な「殺気」が宿っていた。

男は息を呑み、怯えて後ずさる。


(……誰の助けも、借りぬ)


持子は奥歯を噛み締めた。

脳裏に焼き付いているのは、あの格技場にいた三人の猛者バケモノたちの姿だ。

あんな地獄を見て、あの圧倒的な強さを目の当たりにした今、ここで他人の温もりにすがれば、わしは一生奴らに勝てん。

天下を震え上がらせた魔王・董卓としての絶対的な誇りと、武の道に踏み込んだ少女としての矜持が、その痩せ細った精神を辛うじて支えていた。


     *


自宅のマンションに辿り着いた。

いつもなら何気なく通り抜ける自動ドアが、今は絶望的なまでに巨大な城壁に見えた。

カードキーを持つ指が、動かない。

ピクピクと筋肉が痙攣し、言うことを聞かないのだ。


「……ぬぅぅっ!」


最後の、本当に最後の一滴の力を振り絞り、ドアを開ける。

重い扉をすり抜け、自室の玄関に入った瞬間。


ドサァッ。


持子の身体は、泥のように崩れ落ちた。

冷たいタイルの感触が、熱を持った頬に伝わる。


静寂。


そして、強烈な臭いが鼻を突いた。

己から放たれる、汗と、血と、尿の臭い。

ふと、数日前の華やかな撮影スタジオの光景がフラッシュバックする。

スポットライトを浴び、絶世の美貌を持て囃されていた「モデル」としての自分。

それと比べて、今の自分はどうだ。


「……く、くく……ははは……」


自嘲の笑いが込み上げた。

なんと滑稽で、無様な姿か。

声にならない声で、苦しい息を吐きながら、持子は這いつくばったまま笑い続けた。

だが。

その笑いが引いた後、胸の奥底に残っていたのは、決して絶望ではなかった。

暗く、熱く、ねっとりとした「闘志の炎」である。


(……見ておれ、あの三匹の獣共)


必ず見返してやる。

この身を極限まで鍛え上げ、真の強者として、奴らの前に立ってやる。

魔王・董卓として。いや、恋問持子として、この武の道における「王」に成るのだ。

持子は、裂けた手の平を、ギリィッ! と強く握りしめた。


「……ぐぅっ!」


激痛が脳天を貫く。

傷口が開き、新たな血が滲み出る。

だが、その痛みが心地よかった。

痛みが、今、自分が間違いなく「生きている」という、絶対の証であったからだ。

己の血と汗と排泄物の臭いに包まれた、玄関の深い闇の中。

魔王・董卓の魂は、ここに至ってついに、真の「武の道」へと完全に目覚めた。


格技場での、極限の『肉体の破壊』。


そして、この血塗られた帰路での、揺るぎない『精神の確立』。


絶世の美少女・恋問持子が、底知れぬ武の深淵へと足を踏み入れた、正真正銘の第一歩であった。


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