【東京ダンジョン1】
【東京ダンジョン1】
【甘い誓いと、突然の不協和音】
九月上旬。
暦の上では秋を迎えたとはいえ、東京はまだねっとりとした油のような残暑に支配されていた。
ジリジリとアスファルトを焼く太陽の熱と、時折吹き抜ける生ぬるい南風。
ミンミンゼミとツクツクボウシの鳴き声が、夕暮れのヒグラシの合唱へとバトンタッチを始めようとしている時間帯。
地上を行き交う人々は、日傘を傾け、あるいはハンカチで額の汗を拭いながら、それぞれの「平和な日常」を歩んでいた。
そんな喧騒から切り離された、銀座の一等地にひっそりと佇む完全予約制の高級ブライダルサロン。
カランコロン……
微かに鳴るベルの音すらも上品なその空間は、外界の熱気など嘘のように涼しく、淡いローズの香りが満ちていた。
ふかふかのベルベットのソファに腰を下ろし、分厚いカタログを広げているのは、風間洋助と葉室桐子だった。
ペラッ……、ペラッ……。
上質な紙が擦れる音だけが、静かな個室に響く。
「うーん……洋助さん。このAラインのドレスと、こっちのマーメイドライン、どちらが良いと思うかしら?」
桐子は、カタログのページを指先でなぞりながら、少しだけ首を傾げた。
普段の、TIA(高田馬場囲碁愛好会)の冷徹な参謀として見せる鋭い眼差しはそこにはない。
無駄のないタイトな服ではなく、今日は柔らかなシフォン素材のワンピースに身を包んでおり、白髪をきっちりと結い上げたその横顔には、年相応の、いや、それ以上に愛らしい女性としての柔らかな微笑みが浮かんでいた。
ドキッ……。
洋助は、その無防備な笑顔に思わず胸を高鳴らせた。何度見ても、彼女の美しさには目を奪われる。
「どれも桐子に似合うと思うけど……俺は、こっちの少しクラシカルなデザインが好きかな。桐子の気品が一番引き立つ気がする」
「ふふっ。洋助さんがそういうなら、これの試着をお願いしてみようかしら」
ニコッ。
花が綻ぶような桐子の笑顔。
洋助はたまらず、ソファの上に置かれた桐子の華奢な手を、自分の大きな手でそっと包み込んだ。
ギュッ……。
「……桐子」
「なぁに? 洋助さん」
桐子が、潤んだ瞳で洋助を見つめ返す。
その瞳の奥には、彼への絶対的な信頼と、海よりも深い愛情が湛えられていた。
洋助は、真剣な、しかしこの上なく優しい声で告げた。
「これからの人生、色んなことがあると思う。俺たちの仕事柄、平穏無事な毎日とはいかないかもしれない。……でも、絶対に君を幸せにするよ。俺の命に代えても」
その言葉に、桐子の瞳からわずかに涙が滲んだ。
彼女は洋助の手を握り返し、首を横に振る。
「……駄目よ、命に代えちゃ。あなたがいない世界に、私の幸せなんてないんだから」
ポロッ……。
一滴の涙が、桐子の頬を伝って落ちた。
「洋助さん……私、もう十分幸せよ。あなたがこうして、私の隣で笑ってくれている。それ以上の幸せなんて、この世界のどこを探してもないわ」
甘く、とろけるような時間。
二人の間を隔てるものは何もなく、ただ互いの吐息(スゥ……、ハァ……)だけが、心地よいリズムを刻んでいた。
唇と唇が、磁石のように引き寄せられていく。
世界が、二人だけのものになったかのように思えた、その瞬間だった。
ピリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリッ!!!!
ビィィィィィィィィン!! ビィィィィィィィィン!!
甘い空気を無惨に引き裂く、耳障りな電子音。
それは、洋助の胸元と桐子のバッグの中から同時に鳴り響いた。
TIA指揮官クラスにのみ支給されている、超秘匿通信端末からの「レベル5・国家存亡クラス」の緊急アラートだった。
ビクッ! と体を震わせ、二人の甘い雰囲気は一瞬にして霧散した。
「……ッ!」
洋助の顔から温もりが消え去り、極北の氷のような戦闘指揮官の貌へと変貌する。
桐子もまた、先程までの涙をハンカチで乱暴に拭い去り、鋭い参謀の目つきで端末の画面を開いた。
「……高子からだ。大禍つ炉で致命的な異常発生。炉心融解の危機……!」
「行くぞ、桐子!」
「ええ!」
バタンッ!!
二人はカタログを放り出し、サロンの扉を乱暴に開け放って、夕暮れの帝都へと飛び出した。
【崩壊へのカウントダウン】
キキィィィィィィィィッ!!!
ブォォォォォォン!!!
排気音を轟かせ、洋助の運転する特殊車両が東京の地下道を猛スピードで駆け抜ける。
ゴゴゴゴゴゴゴゴ……ッ!!
続いて、偽装された地下鉄の廃駅から、帝都の地下3000メートルへと続く超高速エレベーターが、胃がせり上がるような重力を伴って落下していく。
「状況を整理するわ」
エレベーターの中で、桐子が手元のタブレット(カチャカチャカチャ!)を高速で操作しながら洋助に報告する。
「3分前、大禍つ炉の制御システムに何者かが干渉。各魔術・宗教防壁の同期が強制的に狂わされ、内部圧力と『穢れ』の濃度が臨界点に向かって急上昇中。現場の権田さんたちも、防壁の修復に当たっているけれど……押し込まれているわ」
「ハッキングか!? 物理的に完全隔離されているはずだろう!」
「ええ。だからこそ、内部犯か、あるいは私たちの常識を覆すほどの『未知の手段』が使われている。……洋助さん、急ぎましょう。東京が地図から消えるわ」
プシュゥゥゥゥ……ッ!
ガンッ! ウィィィィィィン!!
分厚い防爆扉が開き、二人は赤と黒の非常灯が交錯する『作戦室』へと飛び込んだ。
「……チッ、クソッ! だから言ったんだ! 土台無理な話なんだよ、神も仏も悪魔も、一つの釜にぶち込んで煮詰めるなんて真似はな!」
ターンッ! ガッシャァァァン!!
飛び込んできた二人の目に最初に飛び込んできたのは、血走った目を剥き出しにして、キーボードを叩き壊さんばかりの勢いで操作している異端の老学者・真田大好の姿だった。
白衣はコーヒーと謎の染みで汚れ、白髪は振り乱され、その顔には深い絶望と狂気が混じり合っている。
帝都の地下3000メートルに建造された巨大霊脈濾過システム――通称『大禍つ炉』。
陰陽道、古神道、西洋魔術、仏教、修験道、そして現代科学。
かつて血を洗う宗教戦争すら引き起こした異端の技術群を、強引にパッチワークして創り上げられた狂気の巨大プラントである。
目的はただ一つ。
数千万の人間が密集する帝都・東京に日々降り積もる莫大な「穢れ」と「呪い」、そして「負の感情」を吸い上げ、万能のクリーンエネルギー『霊素』へと強制変換すること。
深刻なエネルギー枯渇に直面していた日本を救うはずの、人類史上最大の魔術科学プロジェクトだった。
だが今、そのシステムが断末魔の悲鳴を上げている。
「真田博士! 第4セクターの修験道『護摩焚き冷却炉』、温度上昇止まりません! 冷却用の呪符が次々と炭化しています!」
ボボボボボボボッ!!
モニター越しにも、炎が暴走している音が聞こえてくる。
「違います、真田博士! これは単なる術式の反発じゃありません!」
悲鳴を上げるオペレーターたちを制し、作戦室の奥から鋭い声を響かせたのは、無数のホログラムディスプレイを高速で弾き続ける風間高子だ。
日本の知恵の神「思金神」の転生体であり、TIAの頭脳を担う彼女の指先は、残像が見えるほどの速度(タタタタタタタタタタッ!!)でキーボードを制圧していた。
「外部ネットワークからのハッキング……!? 信じられません、物理的に隔離された大禍つ炉の制御システムに、未知のサイバー・呪術複合ウイルスが侵入しています! こいつが同期を強制的に狂わせているんです!」
「なんだと!? こんな深度まで、一体どこのどいつが……!」
通信コンソールの前で防衛システムのロックを急ぎ解除しながら、霞涼介が唸る。
高子の指がさらに加速し、侵入経路を逆探知していく。
「……凄まじい規模の並列処理です。単なるテロリスト集団じゃありません。これは……国家レベルの演算力。経路は太平洋の向こう側から。ですが、彼らの存在を示すデータは、大国の情報機関の極秘ファイルにすら一切存在しません…………意図的に隠蔽された存在……ッ!」
「高子! 状況の報告をご苦労!」
ダンッ!
洋助のよく通る声が作戦室に響き渡ると、パニックに陥りかけていたオペレーターたちの視線が一斉に彼に集まった。
「風間指令! 葉室参謀!」
「遅れて済まない。状況は道中で把握した」
洋助は迷いなく、司令官の分厚い革椅子へと向かい、その横に桐子が寄り添うように立つ。
桐子は手元のタブレットを作戦室のメインコンソールに(ガチャンッ!)と接続し、すぐさま高子のバックアップに入った。
「真田博士、真言宗の『胎蔵界曼荼羅』による結界防壁と、西洋魔術の『セフィロト浄化陣』の間のコンマ〇・〇〇三秒の同期ズレ、私がバイパス術式を構築して埋めます! 博士は物理冷却層の維持に専念して!」
「おおっ、葉室の嬢ちゃんか! 頼む、もうワシの脳みそは焼き切れそうだ!」
【決断と深淵への門】
ガリガリガリガリッ!! ズズズズズズズ……ッ!!
高子と桐子が懸命に防御を構築する間にも、地鳴りのような振動が、分厚い防爆ガラスの向こうから伝わってくる。
作戦室の正面に設置された巨大なホログラムモニターには、炉の内部でどす黒く圧縮され、行き場を失った高濃度の穢れ――『瘴気の淀み』が、まるで巨大な心臓のように(ドクンッ……ドクンッ……!)と脈打ちながら、臨界点へと達しようとする数値が赤々しく映し出されていた。
【穢れ圧縮率:480%】
【霊素変換効率:マイナス20%】
【炉心融解まで、推定残り240秒】
「このままじゃ炉の中に『瘴気の淀み』が溜まる一方だぞ! 逆流して地上に溢れ出たら、東京中の人間が一瞬で発狂して死ぬ! いや、死ねずに永遠に苦しむ悪鬼羅刹の都と化すぞ!!」
真田が頭を抱えて絶叫した、その時。
通信コンソールからノイズまみれの怒声が作戦室に叩きつけられた。
『ガァァァァッ! ズドォォォォン!!』
『……ッ、こちら第1パージ層! 応答しろ、作戦室! ピーーーーーーッ、ガァァッ!』
「権田か!? 現場の状況はどうなっている!?」
洋助がマイクを掴み、叫ぶ。
通信越しに聞こえるのは、帝国重工が誇る荒くれ現場監督・権田朝陽の野太い声だ。
背景には、高圧の霊的蒸気が配管を突き破って噴き出すような(プシュゥゥゥゥ!! ゴボボボボッ!!)、身の毛のよだつ異音が混じっていた。
『ああっ、クソッ! 第3防壁の注連縄が切れた! ブチブチって音を立ててな! 呪いが……呪いが物理的な粘液になって漏れ出してやがる! ドロドロの真っ黒いヘドロだ! 作業員を早く退避させろ!』
『先生、このままじゃプラントごと吹き飛ぶぞ! 爆発の規模は計り知れねえ。関東平野が丸ごと霊的クレーターになっちまう!』
作戦室にいるオペレーターたちが、次々と顔面を蒼白にしていく。
その絶望的で、狂乱に満ちた空間のただ中で。
TIAの戦闘指揮官である風間洋助は、司令官の分厚い革椅子からゆっくりと立ち上がった。
彼の表情は、嵐の前の水面のように静まり返っている。
先程まで銀座のサロンで見せていた甘い顔は完全に消え失せ、部下たちの命と、数千万の都民の命を背負う男の「覚悟」がそこにあった。
彼は傍らに控える参謀にして、どんな状況でも深く一途に愛し抜く絶対の婚約者、葉室桐子へと優しく視線を向けた。
「……桐子。シミュレーションの結果は?」
洋助の冷静な声に、桐子は凄まじい速度で弾いていた指を止め、顔を上げた。
彼女の美しい顔には、僅かに疲労の色が滲んでいる。
「……あと180秒で、炉は内部圧力に耐えきれず自壊するわ。防ぐ手立ては、魔術的にも、物理的にも、今の私たちの戦力では存在しない」
「そうか」
洋助は小さく、しかし力強く頷いた。そして、通信機のマイクを強く握りしめる。
「……権田さん。聞いてくれ。今から全作業員を第5防壁の外へ退避させてくれ」
『なんだと!? 退避ったって、このままじゃ爆発して全員吹っ飛ぶぞ!』
「爆発なんてさせないさ。……第3パージ弁を開放してくれ」
「なっ……風間指令!? 貴様、正気か!?」
権田の声が裏返った。作戦室の真田や霞も、信じられないものを見る目で洋助を振り返る。
『第3パージ弁の先は……ッ! ただの廃棄空間じゃねえぞ!』
「ああ。溜まった穢れを、かつて『御影』が支配していた地下深部の巨大空洞へ、意図的に排出する。いわゆる『ガス抜き』だ。……炉が爆発して、地上で暮らす三千万の都民が消し飛ぶよりはマシだろう?」
ゴゴゴゴゴゴゴゴ……ッ!!
床からの振動が、さらに強さを増す。限界は近い。
「権田さん。すべての責任は俺が取る。そのために俺たちTIAが存在しているんだ。……開けてくれ」
洋助の揺るぎない声が、通信機を通して地下深くへと届く。
数秒の、重苦しい沈黙。
やがて、権田のニヤリと笑うような気配が通信機から伝わってきた。
『……ヘッ。上等だ。後始末はテメェら戦闘狂の仕事だからな。しくじったら化けて出て呪ってやるぜ! おい野郎共! 第5防壁まで死に物狂いで走れ!!』
ドダダダダダダダッ!!
作業員たちが一斉に退避を開始する足音が聞こえる。
「真田博士、高子。こちらからもシステム側で第3パージ弁のロックを強制解除するわ。権田さんたちのサポートをお願いね」
気品溢れる桐子の声と共に、彼女の指先が最終コマンド(ターンッ!)を入力した。
【第3パージ弁・ロック解除。手動操作へ移行】
洋助は、手元のメインコンソールに現れた、仰々しい警告ランプの点滅する赤いレバーに手をかけた。
「……いくぞ」
洋助は、力を込めてそのレバーを奥へと押し込んだ。
ガコンッ!!
【地獄の産声】
ゴガァァァァァァァァァァァァァァァァァッ……!!!!
想像を絶する轟音が、地下空間全体を揺るがした。
作戦室の防爆ガラスにヒビが入るほどの衝撃波(ビリビリビリッ!!)。
3ヶ月間、大禍つ炉の中で圧縮され、煮詰められ、黒く粘り気を持つほどに高濃度化した数千万人の『穢れ』と『呪詛』。
人間の嫉妬、憎悪、絶望、そして恐怖。
それらが凝縮された真っ黒な奔流が、開かれた第3パージ弁から、一気に地下の巨大空洞へと吐き出されたのだ。
ドババババババババッ!! ギュルルルルルルルッ!!
グチャァァァァ……ドプゥゥゥゥン……!!
モニターに映し出される映像は、もはやこの世の物とは思えなかった。
泥のように粘り気のある漆黒の瘴気が、滝のように地下空間へと雪崩れ込んでいく。
【内部圧力:急低下。臨界を回避】
【炉心温度:低下中。安定値へ移行】
「……よかった。炉の爆発は防げたわね」
桐子が、大きく安堵の息を吐く。
洋助もまた、レバーから手を離し、額に浮かんだ汗を拭った。
だが、事態はそれで収束したわけではなかった。
「おい……見ろ! 地下空洞の空間波形が……狂ってやがる!!」
霞涼介が、別のモニターを指差して叫んだ。
過去の怨念がこびりついた暗黒の空間。
そこに、計算外の莫大な『穢れ』が一気に注ぎ込まれた結果、何が起こるか。
空間そのものが変質し始めたのだ。
グニャァァァ……ッ。
モニター越しの映像が、蜃気楼のように歪む。
物理法則が崩壊し、霊的な磁場が暴走する。
壁面から無数の奇妙な結晶が生え出し(メキメキメキッ!)、黒い瘴気が寄り集まっては、悍ましい「何か」の形を成していく。
ギャァァァァァァァ……ッ!!
グルルルルルル……!!
スピーカーから、人間のものとは思えない、獣の咆哮と亡者の悲鳴が混ざり合ったようなおぞましい産声が轟いた。
強力な魔物と理不尽な怨霊が自然発生し続ける、自己増殖型の異常領域。
後に『東京大迷宮』と呼ばれることになる、人類にとっての新たなる地獄が、今ここに産声を上げたのである。
「……ここからが、本当の戦いってわけだな」
洋助は、歪み続けるモニターから目を離さず、低く呟いた。
その手には、いつの間にか桐子の手がしっかりと重ねられていた。
銀座のサロンで誓った「命に代えても守る」という決意。
それが、今ここから始まる果てしない死闘への、確かな道標となっていた。




