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【イギリス編・陥落のコッツウォルズと、雌伏の覇王】

【イギリス編・陥落のコッツウォルズと、雌伏の覇王】


翌日。イギリス編、第3日。


舞台は、分厚い霧に覆われたロンドンから車で西へ向かった先に広がる、『コッツウォルズ』地方へと移っていた。


はちみつ色のライムストーン(石灰岩)で造られた家々がなだらかな丘に並び、澄んだ小川が静かにせせらぐ。それは、まるで中世のお伽話の絵本からそのまま抜け出してきたかのような、牧歌的で、息を呑むほどに美しい田園風景であった。


本日の撮影テーマは「お伽話の残滓ざんし」。


持子は今、広大なイングリッシュガーデンの中央に立っていた。


彼女が身に纏っているのは、幾重にも重なる最高級のレースと、淡い生成り色のシルクであしらわれた、中世の姫君のようなひどく女性的で可憐なドレスである。背中は大胆に開きながらも、ふんわりとしたパフスリーブと、風に揺れる長いリボンが、彼女の本来持つ「魔王としての覇気」を物理的に封じ込めるかのようなデザインだった。


もちろん、これも総監督クリストファー(メフィストフェレス)の巧妙な指示によるものである。


「モチコ! こっちよ!」


「あ、ああ……今行くぞ、シャーロット」


咲き乱れるイングリッシュローズのアーチをくぐり抜け、持子は小走りで進む。


ファサッ……、ファサッ……。


その足取りは、かつて数万の軍勢を率いて大地を震わせた、傲岸不遜な魔王・董卓の闊歩ではなかった。


ドレスの裾が土で汚れぬよう両手でそっと持ち上げ、内股気味にトタトタと走る、正真正銘の『可憐な乙女』のそれである。


(雪たちは今日も別行動か……。鮎も別の村でソロの撮影だと言うし、朔夜も朝から何やら顔色悪く忙しそうにしておる。だが、シャーロットとアーサーがおるから、退屈はせんな)


完全に孤立しているという絶望的な事実に、持子は全く気づいていなかった。


いな


気づけるはずがなかったのだ。


彼女の認識は、大悪魔たちの四六時中絶え間なく放たれる認識阻害の魔力によって、「大好きな親友と、息が止まるほど素敵な男性に囲まれた、夢のような海外ロケ」へと完全にすり替えられていたのだから。


コソッ、と。

持子は、自分の胸の奥に手を当てた。


トクン、トクン、トクン……。


(……おかしい。わしの心臓は、昨日からずっと、早鐘を打ったままだ)


持子の魂の最深部。

そこには、暴食の魔王の魂と、絶世の美女たる女の魂が同居している。


普段であれば、董卓の圧倒的な暴力と覇気が精神の99%を支配している。

だが、今の持子の精神世界インナースペースは、かつてないほどの異常事態に陥っていた。


『ええい! 離れろ! 男の甘い匂いなど嗅がせるな! わしは覇王だぞ! 天下を統べる男だぞ!!』


魂の奥底で、董卓が血の涙を流しながら大刀を振り回し、吠え猛っている。


だが。


『――まあまあ、董卓様。たまには、女の子扱いされるのも悪くないじゃありませんか。ふふっ、あの方の瞳、本当にサファイアみたいで……吸い込まれそうですわ……』


董卓の足元から、底知れぬ甘い毒気と、桃色のオーラを放ちながら、女の魂が恐ろしい勢いで肥大化し、董卓の覇気を次々と呑み込んでいく。


『や、やめろ、わしをメスにする気か! あのアーサーの顔を見るたびに、胸がキュンキュンして苦しいのだ! 腹の底が熱くなって、呼吸が浅くなるのだ! こんなものは病だ! 呪いの一種だ!!』


『あら、それを世間では「恋」と呼ぶのですわ、董卓様。さあ、武器を捨てて、あの素敵な腕の中に飛び込みましょう?』


『だ、だめだぁぁぁぁっ……!!』


内部からの侵食。

初恋のトラウマを強引に上書きするほどの、致死量のロマンス。

極東の覇王は、己の中の「女」という抗えない本能の前に、その強靭な自我をボロボロと崩れ落とさせていた。


「――Princess(お姫様)。足元に気をつけて」


石畳の段差を降りようとした持子の目の前に、スッと、真っ白な手袋に包まれた大きな手が差し出された。


ビクゥッ!! と、持子の肩が跳ねる。


見上げれば、そこにはアーサー(アスタロト)がいた。


陽の光を浴びてキラキラと輝く金糸のような髪。完璧な黄金比で形作られた、彫刻のような顔立ち。そして、持子だけを真っ直ぐに、甘く、そしてどこか憂いを帯びた熱情で見つめてくる、深いサファイアの瞳。


「あ……」


ドクンッ!! と、持子の心臓が、痛いほどに大きく跳ねた。


(な、なんという破壊力だ……! ただ手を差し出されただけだぞ!? それなのに、全身の血が沸騰しそうではないか!)


「Come here.(おいで)」


アーサーが、もう一度、甘く囁く。


「す、すまない……アーサー」


持子は、カァァァッ! と耳の先まで朱に染めながら、震える手を、アーサーの大きな手の上にそっと乗せた。


ふわり、と。

あの、脳髄を直接痺れさせるような、極上のオーデコロンの香りが鼻腔をくすぐる。


(だ、だめだ……。アーサーの手に触れただけで、足の力が、抜けて……っ)


◆ ◆ ◆


その瞬間――。


コッツウォルズの美しい村全体を、目に見えない、だが途方もなく濃密な『魔力の波』が覆い尽くした。


(さあ……極上の死合い(シチュエーション)を用意してあげるわ、極東の魔王!)


持子たちから遠く離れた、小高い丘の上に建つ古い教会の屋根。

その尖塔の頂上で、一羽の巨大な漆黒のカラスが、バサァッ! と翼を広げた。


幻影の女王、大悪魔モリガンである。


烏の姿のまま、モリガンの全身からドス黒い汗のような魔力が噴き出している。

彼女は今、己の持つ幻影能力イリュージョンのすべてを、眼下で手を繋ぐ二人の男女(持子とアーサー)の周囲数メートルにのみ、極限まで圧縮して展開していた。


(この作戦は、ただの恋愛ごっこではない……! 少しでも演出に違和感があれば、あのバケモノの中の「覇王」が目を覚まし、我々は一瞬で消し飛ばされる!)


モリガンの魔力が、空間そのものを歪める。


パァァァァァッ……!!


持子とアーサーの周囲だけ、不自然なほど美しい、まるで天上界から降り注ぐような黄金の陽光が、アーサーの背後から後光のように射し込む。


さらに。


『流れよ、セイレーンの旋律(調べ)……!』


モリガンが呪を紡ぐと、どこからともなく、甘く、切なく、そしてひどく感傷的なバイオリンの音色が、春のそよ風に乗って持子の鼓膜へと流れ込み始めた。


それは、人間の脳内に直接「恋愛ホルモン」を分泌させるようチューニングされた、悪魔の音響兵器である。


そして、極めつけ。


『舞い散れ、狂い咲きの薔薇よ!!』


バサバサバサバサッ!!


季節外れの鮮やかな真紅の薔薇の花びらが、突如として空中に現れ、二人を祝福するように、いや、二人を外界から完全に隔離するように、竜巻のごとく舞い散った。


光、音、そして花吹雪。

すべては、モリガンの強大な魔法によって極限まで増幅された、現実を侵食する『少女漫画のクライマックス』という名の幻影結界である。


◆ ◆ ◆


「あっ……綺麗……」


持子は、突然舞い散り始めた真紅の花吹雪に見とれ、ほうっと感嘆の吐息を漏らした。


(なんだ……? この花びら、どこから……? そして、この切ない音楽は……?)


持子の僅かに残っていた理性が疑問を抱こうとした、まさにその刹那、いや、コンマ一秒の隙を、歴戦の大悪魔アスタロトが見逃すはずがなかった。


これは恋愛ではない。

魔王の精神を殺すための、高度な魔術戦(死合い)なのだ。


グイッ!! と。


アーサーの腕が、強引に、しかし骨を折らぬよう計算し尽くされた絶妙な力加減で、持子の腕を引き寄せた。


「きゃっ……!?」


持子の身体が、コマのようにふわりと反転させられる。

そのまま、アーサーは持子の背後にスッと回り込み――。


ガシッ!!


その華奢な両肩を、背後から己の長い両腕で強く、しかし壊れ物を扱うように優しく、完全にホールドした。


背中合わせに密着する、逃げ場のない完璧な『バックハグ』。


「ア、アーサー……!? な、何を……っ」


「I can't hold back anymore...(もう、限界だ)」


アーサーは、持子の艶やかな黒髪に己の顔を深く埋め、情熱的で、そしてひどく苦しげな熱い吐息と共に囁いた。


「君の美しさが、私を狂わせる。……モチコ、君を誰にも渡したくない」


その声は、耳殻から鼓膜を震わせ、聴神経を通り、直接持子の脳髄へと雷撃のように突き刺さった。


ドクンッ、ドクンッ、ドクンッ、ドクンッ!!


持子の心臓が、肋骨を突き破らんばかりの暴力的な鼓動を打ち始める。


(な……なななななっ……!?)


背中から伝わってくる、男の逞しく厚い胸板の熱。

自分の肩を包み込む、大きくて力強い腕の感触。

首筋にかかる、熱く甘い吐息。

耳元で囁かれる、独占欲に満ちた、あまりにもストレートな愛の言葉。

そして、周囲を包み込む、現実離れした花吹雪と甘い旋律。


「あ……ぁ……」


持子の口から、抗うことのできない、とろけるような甘い吐息が漏れた。


『あ、あああ……っ!! だ、だめだぁぁぁ……! わしの、わしの城が、落ちるぅぅぅ……っ!!』


魂の奥底で、董卓の巨大な城(自我)が、ガラガラと音を立てて崩れ去っていく。

大刀はへし折れ、玉座は砕け散る。


『ふふっ……さようなら、董卓様。あとは、このわたくしにお任せを……♡』


董卓の断末魔をBGMに、女の魂が完全に持子の精神の「操縦桿」を握りしめた。


もはや、持子の精神のどこを探しても、暴君・董卓の影は見当たらなかった。

美しき堕天使による、武術の極致すら凌駕する『魅了の力』と、波状攻撃のようなロマンチックなシチュエーションが、魔王の防壁を跡形もなく打ち砕いたのだ。


「……アーサー……」


持子は、ゆっくりと瞳を閉じた。


「わ、わし……」


持子の口から、いつもの一人称が出かかる。

だが、その言葉は、空中でフッと溶けて消えた。


「いや……『わたし』……も……」


ついに。

極黒の覇王の一人称が、完全に、可憐な乙女のものへと陥落した瞬間であった。


「あなたのこと……もっと、知りたい……」


持子は一切抵抗することなく、アーサーの熱い胸に力なく寄りかかり、その腕の中に、猫のようにすっぽりと収まってしまった。

その表情は、もはや天下を震え上がらせた化け物のそれではなく、ただひたすらに愛を乞い、男の腕の中で安堵する、か弱く、そしてとびきり可愛い一人の少女の顔であった。


◆ ◆ ◆


「…………フフッ」


その光景を。

花吹雪が舞う庭園から少し離れた、アンティークなカフェのテラス席から見つめていた二つの影があった。


親友の仮面を被ったシャーロット(グレモリー)と、銀縁眼鏡の総監督クリストファー(メフィストフェレス)である。


二柱の大悪魔は、周囲の人間の目を欺きながら、同時に酷薄で邪悪な笑みを浮かべた。


「……見事な手際ですわ、アスタロト」


カチャリ、と。

シャーロットが、ボーンチャイナのティーカップをソーサーに静かに置く。そして、ペロリと、赤い口紅を引いた妖艶な唇を舐めずった。


「器は、完全に熟しましたわ」


シャーロットの視線の先には、アーサーの腕の中で完全に骨抜きにされ、ポヤポヤとしただらしない顔で寄りかかっている持子の姿がある。


「魔王の魂は、あのか弱い『乙女(女)』の魂に完全に塗り潰された。……ええ、私の眼にはハッキリと視えますわ。彼女の周囲を覆っていた、あの忌々しくも強大なカオス魔力の防壁が、今は完全に消失している。……もはや自衛の魔力を展開することすらできない、ただ恋に溺れた哀れなメスですわ」


「完璧な仕事だ、アスタロト、モリガン。そしてグレモリー」


クリストファーが、中指で銀縁眼鏡をクイッと押し上げ、レンズの奥で冷徹な光を放つ目で持子を見据えた。


「極東の覇王とて、所詮は人間の心を捨てきれなかった、哀れなバケモノに過ぎなかったということ。あの絶大な暴力も、引きトリガーを引く自我が『乙女』にすり替わってしまえば、ただの飾り物だ」


メフィストフェレスは、手元のスケジュール帳をパラパラと捲り、ある一頁を黒いペンで強く叩いた。


「いよいよ明日だ。最終ロケ地であるコーンウォール地方――アーサー王伝説の舞台、断崖絶壁にそびえる『ティンタジェル城跡』にて。すべての幕を下ろす」


メフィストフェレスの言葉に、グレモリーが応じるようにゆっくりと立ち上がった。

彼女の背後で、一瞬だけ、地獄の業火のような赤いオーラが幻視される。


「ええ。あの荒々しい海風が吹く古城跡で……。わたくしが、完全に無防備となったあの女の精神世界インナースペースへダイブします」


グレモリーの指先が、虚空を撫でるように動く。


「あの忌々しい魔王の自我を永遠の闇に沈め、その肉体をそっくりそのまま、わたくしが頂戴いたしますわ。……強大な下僕たち(鮎やエティエンヌ)は、私が『持子の姿のまま』命じれば、容易く自害させることも可能でしょう」


「頼んだぞ、グレモリー。イギリスの闇の存亡は、明日の貴女の儀式にかかっている」


「ふふふっ……お任せを。最高のバッドエンドを、あの魔王にプレゼントして差し上げますわ」


イギリスの闇を支配する悪魔たちの、緻密で、狡猾で、そして甘い毒に満ちた策謀は、ついに最終段階クライマックスへと到達した。


愛という名の猛毒に完全に精神を侵食され、今もアーサーの腕の中でうっとりと目を閉じている持子は、己に迫る『魂の消滅』という絶対的な絶望の足音に、まだ一切気づいていなかった――。


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