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千という名の真理

書き直し

✴︎闇が、ある。


むせ返るような、古い畳の腐臭。

そして、獣のごとき男女たちが撒き散らす、濃密な汗の匂い。

都内、私立高校聖ミカエル学園の格技場である。

外の世界は令和という、平和で、軟弱で、清潔な時代だ。

だが、この格技場の重く淀んだ空気だけは、現代から完全に切り離されている。

そこは、剥き出しの「野蛮」と「暴力」が支配する、断崖絶壁の如き戦場であった。

光と、影。

格技場の中央は、眩しいほどの陽光に満ちている。

「えいっ!」

「やぁっ!」

パタン、ペチン。

白い道着を翻した三十名ほどの合気道部員たちが、健康と、交流と、自己充足のための安全な円舞曲ワルツを踊っている。

それは武道ではない。ただの遊戯だ。

だが。

その対極。照明の死角。陽光すらも忌避する暗がりに、三つの「岩」がそびえ立っていた。



合気武道同好会。


部員、わずかに三名。

だが、その三名が放つ密度は、中央で戯れる三十の雑兵を、瞬きする間に屠り去るに足る。

一人は、巨漢。肉という名の分厚い装甲を幾重にも纏った、人間の形をした重戦車。

一人は、鋭利な男。研ぎ澄まされた日本刀のごとく、触れれば切れる不吉な殺気を放つ。

そしてもう一人は、小柄な女。だが、その四肢を見よ。鋼鉄のワイヤーを極限までり合わせたかのような、異常な筋繊維が皮膚の下で蠢いている。

言葉はない。

シューッ、シューッという、内臓を焦がすような深い呼吸。

そして、ミチリ、ミチリと音を立てる肉と骨の軋みだけがある。


ズカッ、ズカッ。


「……ぬ」


恋問持子こいとい もちこは、一歩を踏み出した。

黄金の瞳が、暗がりに潜む三つの岩を睨め上げる。


(なんと甘い。なんと温い。中央で踊っておるあの阿呆共の顔を見よ。あれが戦場に出る者の顔か? 笑わせるな)


魔王・董卓。

そのいにしえの魂が、久しく忘れていた「血と汗の匂い」に、獰猛な歓喜を上げていた。


(だが、こちらの三匹は……違うな。極限まで己を削り落とした、本物の『獣』の匂いがするわ)


ヒュンッ!!!


突如、空気を切り裂く鋭い音と共に、一本の木刀が持子に向かって放たれた。

小柄な女が投げたのだ。

持子は、咄嗟に右手を伸ばし、それを無造作に掴む。


ガシィッ!


「……っ!?」


ズシリ。


持子の腕が、肩の関節から抜けそうになるほど、深く沈み込んだ。


(……何だ、これは!?)


重い。


異常だ。木刀ではない。芯に鉛でも仕込んでいるのか。重心が極端なまでに切っ先に偏っている。


(これは武器ではない。振るう者の肉体を内側から破壊し、骨を砕くための『鉄塊』だ!)


「基本稽古ッ!!」


小柄な女が吠えた。

ビリビリと、鼓膜を食い破るような咆哮。

中央で響いていた「遊戯」の音色が、一瞬にして消し飛んだ。


「千回ッ!!」


巨漢が呼応する。

問答無用。一切の妥協を許さぬ、絶対の命令。

巨漢が、その鉄塊の如き木刀を、軽々と天に突き上げた。


いちッ!!」


ブォォォォォォンッ!!!


空気が鳴ったのではない。

空間そのものが、圧倒的な質量によって殴打された音だ。

重低音の衝撃波が、持子の柔肌をビリビリと叩く。


ッ!!」


さんッ!!」


ゴオォッ。


ゴオォッ。


「……ふんっ! 舐めるなッ!!」


持子もまた、足を肩幅に開き、その異常な重さの木刀を上段に構えた。


(わしを誰だと心得る! 後漢の相国、天下を震え上がらせた魔王・董卓ぞ! この程度の鉄の棒、千回だろうが万回だろうが振ってやるわ!)


ブゥンッ!!


いちッ!!」


持子の細く白い腕が、重力に逆らって木刀を振り下ろす。

だが、その一撃の代償は、あまりにも大きかった。


「……ぐ、ぅぅっ!?」


(な、なんだこの重さは……っ! 振り下ろした瞬間に、刀の重みに身体ごと持っていかれそうになる!)


ッ!!」


持子は歯を食いしばり、再び木刀を天へ掲げる。


ブォォンッ!!


「……っ、痛ぁっ!?」


肩の関節に、真っ赤に焼けた鉄杭を打ち込まれたような激痛が走った。


ギシィッ、ギシィッ。


関節の軟骨がすり減り、悲鳴を上げている。


十。


二十。


五十。


百。


「はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」


持子の呼吸が、完全に乱れ始めた。

肺が、陸に上げられた魚のように痙攣し、酸素を求めて喘いでいる。

全身の毛穴から、滝のような汗が噴き出す。


ミチリ。ブチブチッ。


(痛い……! 痛い痛い痛い痛い! なんだこの痛みは! 呂布に喉元を貫かれた時よりも、全身の筋肉が焼けるように熱い!)


白く滑らかだった手の平に無数のマメができ、そして次の瞬間には圧力に耐えかねて弾け飛んだ。


ブチャッ。


「……あっ、があぁぁっ……!」


鮮血が、どろりと木刀の柄を濡らす。

血と汗で滑る。

握力が、指先の感覚が、砂のように崩れ落ちていく。


二百。


「はぁっ……がはっ……!」


持子の視界が、ぐにゃりと歪んだ。

脳に酸素がいかない。意識が白濁していく。

指先から完全に力が抜け――。


ガシャンッ……!!


木刀が、無惨に床へ落ちた。

乾いた音が、格技場の隅に響き渡る。


静寂。


三人の怪物が、ピタリと動きを止め、持子を見下ろしている。

その視線に、憐れみはない。あるのは、絶対的な「侮蔑」のみ。


(帰れ。着飾っただけのメスよ)


巨漢が鼻で笑う。


(ここは修羅の道。貴様のような軟弱者が、お遊びで踏み入る場所ではない)


鋭利な男が、持子から目を逸らした。


その無言の圧力が、持子の魂を激しく打ち据える。


(……帰れ、だと?)


持子の全身が、小刻みに震え始めた。

限界だ。肉体はもう、一ミリたりとも動かないと悲鳴を上げている。

だが、意識が深い闇へと沈みかけたその刹那。

魔王・董卓の魂と完全に融合しつつある持子の脳裏に、かつて北の大地で過ごした、ある「記憶」が鮮烈にフラッシュバックした。


     *


――ヒュルルルゥゥ……。


凍てつくような、吹雪の音。

刺すような冷気が肌を刺す、札幌の道場。

古い木造の床の冷たさと、ストーブの灯油の匂い。


『……順番が、逆だがな』


しわがれた、だが、岩山のように微動だにしない、深く静かな声だった。

持子に合気武道を教えた師匠、高倉である。

持子が五歳から十六歳になるまで、彼女はその札幌の道場で、師匠の孫である「竜」という少年と共に、ただひたすらに「形稽古かたげいこ」を叩き込まれてきた。

幼い持子の腕を、枯れ木のような高倉の手が包み込む。

その手はひどく温かく、そして、絶対に抗えない「ことわり」そのものであった。


『本来はな、持子。基礎稽古で、肉体を徹底的にいじめ抜くのだ。人間の身体の物理的な構造を知り、極限の負荷の中で、技のかたを筋肉と骨に叩き込む。それが先だ』


『……じゃあ、なんでお師匠様は、形ばっかりやらせるの?』


『わしが、生きているうちに……お前たちに、わしの「合気」を教えきりたかったからだ』


高倉の瞳が、静かに持子と竜を見据えた。

それは、死期を悟った武術家が、次代へ己の魂を託すような、凄絶な眼差しだった。


『よく聞け、持子、竜。わしがお前たちに教えた形稽古は、いわば「種」だ。今はまだ、お前たちの肉体という土壌が未熟ゆえ、芽は出ん』


『種……?』


『そうだ。だが、お前たちがこれから先も、合気武道に真摯に向き合い、続けることができれば……必ず、師は現れる』


高倉のゴツゴツとした手が、持子の小さな頭を撫でた。


『天の導き、とも言う。その時、お前たちの肉体を極限まで砕き、練り上げ、基礎を叩き込んでくれる者が必ず現れる。……その時こそ、わしが植えたこの合気の種が、お前たちを真の武の頂きへと導くだろう』


     *


「……あ、あ……」


持子の黄金の瞳に、再び光が宿った。

床に這いつくばり、血と汗と涎にまみれた彼女の視線の先には、自分を見下ろす三人の猛者バケモノが立っている。


(……そうか)


魔王・董卓の魂が、持子の記憶の底にあった「高倉の教え」を咀嚼し、獰猛な笑みを浮かべた。


(順番が逆、だと? 高倉という爺よ、貴様はとんでもない置き土産をこの娘に残したものよ。わしは長安で数多の武将を見てきたが、この『合気』という種は、極めれば呂布の武すら凌駕するやもしれん)


持子は、ゆっくりと顔を上げた。


(そして……『天の導き』だと? この三つの岩が、わしの肉体を砕き、土壌を耕すための『導き』だというのか。……くくく、はーっはっはっは!!)


持子の内側で、二つの魂が同調した。

魔王としての絶対的な「傲慢」と、武術家・恋問持子としての「真摯な渇望」。

肉体を破壊される苦痛など、もはや恐怖ではない。

この三人の猛者が与える地獄の負荷こそが、札幌で植え付けられた「合気の種」を発芽させるための、極上の「土壌」なのだ。


「……ふ。……ふざ、けるな……」


持子の血まみれの手が、動いた。

ピクリ、ピクリと痙攣しながら、床に転がった木刀の柄へ向かって這っていく。


ニュルッ。


己の血で滑る柄を、持子は再び、ギリィッ! と鷲掴みにした。


「……続けよ」


持子が、よろよろと、だが巨木が根を張るように立ち上がる。

その黄金の瞳の奥に、紫色の炎が揺らめいた。


「……続けんか、貴様らァァァッ!!!」


持子が吠えた。

それは、少女の悲鳴ではない。

地獄の底から這い上がってきた魔性の獣の咆哮であり、同時に、武道という終わりのない荒野へと踏み出す者の、歓喜の産声であった。


「……ほう」


三人の顔つきが、変わった。

彼らは本能で悟ったのだ。ただの着飾ったメスが、今この瞬間、「同類」へと羽化しようとしていることを。


「四百五十一ッ!!」


巨漢が吼える。

再び、地獄の連鎖が始まった。

持子は振る。

必死に、死に物狂いで食らいつく。


(肉体をいじめ抜け! 物理的な構造を、骨と筋肉に叩き込め!)


札幌の冷たい空気を思い出しながら、持子は東京の淀んだ空気ごと、異常な重さの木刀を叩き斬る。


五百。


六百。


(動け……! 動け動け動け動けェェェッ!!)


胃液が逆流し、口の端からドロリとした涎となって溢れ落ちる。

身体が、内側から焼けるように熱い。

関節はとうに外れかかり、筋肉の繊維はブチブチと音を立てて千切れている。

だが、その千切れた筋肉の隙間に、高倉から受け継いだ「合気のかた」が、強引に、暴力的にねじ込まれ、融合していく。


そして。


限界を遥かに超えた肉体は、ついにその制御タガを完全に外した。


ブツンッ。


脳からの命令系統がショートし、膀胱の括約筋が機能を放棄した。


ジョワワワワワワワッ……!


「……あ」


持子の股間から、熱い液体が溢れ出した。

白磁の太ももを伝い、綺麗な制服のスカートを汚し、床に水溜まりを作っていく。


失禁である。


だが、持子は止まらない。


止まるわけにはいかないのだ。


乙女としての羞恥? 絶世の美少女モデルとしてのプライド?

魔王としての威厳?

そんなものは、とうに汗と血と尿と共に流れ落ちた。

今の彼女にあるのは、「種を芽吹かせる」という狂気じみた執念だけだ。


「六百、三十ッ!!」


ビチャッ! ビチャッ!


自らの排泄物を踏み躙りながら、血を撒き散らし、涎を垂れ流しながら、持子は木刀を天へ突き上げる。

そこにあるのは、美貌も飾りもすべて剥ぎ取られた、醜くも純粋な「闘志」の結晶であった。


「……ねえ、ちょっと……」


「嘘でしょ……あれ、モデルの恋問さんだよね……?」


「ひぃっ……なんか、血が出てる……おしっこも……」


中央で安全な遊戯に興じていた合気道部員たちが、完全に凍りついていた。


恐怖である。


一人の少女が、己の肉体を破壊し、その瓦礫の中から新たな「バケモノ」を再構築しようとする、凄惨極まる光景。

むせ返るような汗と血と、アンモニアの臭い。

強烈な、圧倒的な、せいの悪臭が格技場を支配している。


「九百、九十八ッ!!」


「九百、九十九ッ!!」


持子の視界はとうに真っ暗だった。


ただ、己の内側で燃える紫の炎だけを頼りに、両腕を振り下ろす。


「千ッッッ!!!」


ドゴォォォォォォンッ!!!!


最後の一撃が、床すれすれの空気を爆砕した。


ピタリ、と木刀が止まる。


そして次の瞬間、持子の両手から力が抜け、木刀がゴトリと床に転がった。


「はぁっ……! はぁっ……! あ、がっ……!」


立ったまま、持子は激しく痙攣していた。

全身の筋肉が断裂し、皮膚からは血が滲み、制服は排泄物と汗で重く肌にへばりついている。


(終わった……! 振り切ったぞ……! 身体中の骨という骨が軋んでおるが……わしは、打ち勝ったのだ!)


魔王の魂が、達成感に打ち震える。


だが。


修羅の道とは、頂上だと思った場所が、次なる地獄の入り口に過ぎないことを意味する。


「……よし」


巨漢が、短く応えた。

その顔には、獰猛な笑みが張り付いている。

「これでようやく、『腕の準備運動』が終わったな」


(……は?)


持子の思考が、停止した。


準備運動? この、肉体が完全に崩壊するほどの千回が?

鋭利な男が進み出た。


「腕と肩甲骨周りはほぐれた。次は下半身、すなわち『土台』」


小柄な女が、持子を指差し、冷酷に、だが歓喜を込めて宣告した。


四股しこ。千回ッ!!」


「……な、に?」


持子の口から、絶望の吐息が漏れた。

四股。相撲取りが行う、あの動作。

足を高く上げ、全身の体重を乗せて大地を踏みしだく。

それは、股関節を極限まで開き、大腿四筋、ハムストリングス、そして骨盤のすべてを破壊し尽くす、下半身鍛錬の極致。


いちッ!!」


ドォォォォォォンッ!!!


巨漢が、右足を高く掲げ、床に叩きつけた。

格技場全体が、まるで地震が起きたかのように激しく揺れる。

木造の床が悲鳴を上げ、埃が舞い上がった。


(……馬鹿な。今ので、わしの太ももの筋肉は完全に死んだはずだ。これ以上、足を上げることなど……)


(だが、上げろッ!! 天の導きを無駄にする気かッ!!)


『……芽は出ん。……基礎を叩き込んでくれる者が必ず現れる』


高倉の言葉が、再びリフレインする。


「……あ、ああ……あははははッ!!」


持子は、不意に狂ったように笑い出した。

絶望ではない。

それは、自らの肉体をさらに深い地獄へと突き落とせることへの、魔王の歓喜であった。


(そうだ! これだ! この圧倒的な暴力による破壊こそが、わしを、この合気の種を育てるのだ!)


「ぬぅぅぅぅぅぅぅぅっ!!!」


持子は、ズタズタになった両足を開いた。

血まみれの両手を膝に置き、腰を深く、限界まで落とす。


ミシミシ、ミシミシッ!!


股関節が外れんばかりの悲鳴を上げる。


いちッ!!」


持子は、右足を、己の頭の高さまで強引に振り上げた。


ブチッ! ブチブチッ!


太ももの裏側の筋肉が、引きちぎられる音がする。

だが、痛みを越えた先にある「熱」が、持子を突き動かす。


「……ふんッ!!」


ドゴォォォォンッ!!!!


持子の右足が、床を粉砕せんばかりの勢いで叩きつけられた。

足の裏にできていた水疱が破裂し、血飛沫が床に赤い花を咲かせる。

衝撃で、内臓が激しく揺すぶられ、再び口から涎と胃液が飛び出した。

ッ!!」


巨漢が吼える。


「があぁぁぁぁっ!!」


持子が左足を振り上げる。


ドゴォォォォンッ!!!!


(喰らえ! 地面を砕け! わしの足よ、骨盤よ! 砕けて、泥となって、新たな土壌となれ!!)


血と尿にまみれた絶世の美女が、鬼神のごとき形相で四股を踏む。

一歩踏むごとに、肉体が死に、そして新たな武の細胞が生まれ落ちていく。

令和の格技場に、狂気と歓喜の重低音が、千の終わりを目指して、果てしなく響き渡り続けていた。

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