向山 VS フォルネウス
デルフィーノ神父と沖中美紀はスカイツリーの展望台にいた。営業時間の夜十時はとっくに過ぎていたが、美紀が新たに雇った黒服のボディガード二名がスタッフを処理し、不法占拠したのだった。様子の異変に気づく者はまだいない。
「ミキ。こんなこと…一体何が目的だ」デルフィーノが美紀に訊いた。
「悪魔を祓うには、それなりの準備と場所が必要よ。ここはそれに打ってつけ。準備が済んだら神父様にも手伝ってもらうから」美紀は「はいこれ」といってデルフィーノ神父にスプレー缶とペンキを渡した。
「例のもの、お願いね」
デルフィーノは仕方なく受け取ると、古い本の内容を手本に、あちこちの壁や床に何やら模様のようなものを書き始めた。
美紀はデルフィーノの従順な態度を見て、彼が犯した七つの大罪のうち虚栄と貪欲に対して、良心の呵責があるのだろうと思ったがバカバカしいとも思った。
「神父様。仮にも神に仕えるあなたが、七つの大罪を犯した。そしてその罪は死によって贖われる、それは正しいことなのかもしれないわ。でもね私のように死んでも死ねない人間にとっては、自己満足に逃げるだけの手段としか思えない」
「…死ねないとはどういうことだ」
「私はこの姿でもう三百年を生きている。親が誰だったとか、どこで生まれたとかは全く知らない。でも気がついたらこんな身体になってた。覚えているだけで三十回は死んでる。でもその都度甦るの。歳もとらないし怪我もしない」
「嘘だ。そんなの信じられる訳が無い」
「そうね。信じる信じないは神父様の勝手。でも本当のことよ」
「まさかミキ、君も悪魔か…」
「冗談、悪魔だったら悪魔祓いなんてやらないでしょう。でも昔、大西洋で大型客船が沈没した事故で一度死んだとき、救助された客の中に妊婦がいてね。そして彼女が原因不明の死産になったと聞いたわ。そして次の瞬間私は波に浮かんだ状態で目を覚ました。それから私は生き返るたびに同じようなことがある事を突き止めた。つまり私は死ぬたびに新しい命を譲り受けて生き返っている…、と言えるのかも知れない」
「神よ…」デルフィーノ神父は胸元で十字をきった。
「しかしでは何故、ヘッドハンターなる職業をやって、あまつさえ悪魔と対決しようとするのです。君が不死ならばそのようなリスクを犯さずとも生きて行けるでしょう」
「神父様、愚問ね。人が生きるためには目標が必要。自分の存在を確かめる手段もね…。あの悪魔は人間の世界にあってルールを犯して私を排除した。あとは私のプライドの問題よ」
美紀はデルフィーノ神父にそう答えると、展望台から見える夜景に目をむけ、次にガラスに映った自分の姿を見て「いよいよね」と呟いた。
濱崎綾子が乗ったタクシーは渋谷あたりを走っていた。運転手には「ただ流して」と指示し、一時間ほど走っては別のタクシーに乗り換えてこれを繰り返している。
五台目のタクシーに乗ったときは夜十一時を回っていた。
「沖中美紀どこにいるの?あなたの魂がここにあるわよ」
人間の魂は自分の肉体に帰ってゆく性質を持っている。距離が近ければ近いほど引き合う力が強くなり、近くなったとしたら魂に反応が出る筈であった。
「東京都内にはいないのかしら」綾子はそう呟きながら、もうしばらく走って錦糸町あたりを抜けたが魂に反応は現れなかった。
悪魔の力でも人間の居場所を特定することはできない。力を持つ魔王級の悪魔でも広範囲の土地を網羅して検索することはできなかった。悪魔の能力は呪いであり、自然界に存在するエレメントへの干渉であり、その実体は魔力による形成であって、たんぱく質ではない。
目的の人間を探すには、八十の軍団長であるベリアルの命令によって多くの使い魔を使って探させるか、本人から逆に接触してきたのみだった。だが下手に地獄の軍団を動かせば、人間界での活動が魔界に知られて面倒なことになる。
人間界で濱崎綾子に姿を変える悪魔ベリアルは、本来は神が創造した天使で堕天使である。大天使ルシファーのあとに創造されその位は、天使長ミカエルよりも上位であったと伝えられている。地獄では七十二柱の悪魔のうち、序列六十八番目の大悪魔で八十の軍団を率いる。法律の知識に長け、地獄の利益の公認代理人として、イエス=キリストを訴えたとされた。
「怪文書の封筒にあった消印は都内の郵便局のもの。きっとどこか都内にいるに違いない」綾子は確信を持ってそう呟いた。
向山が濱崎綾子のタクシーを、距離をとって尾行し、信号待ちとなって停車したときコンコンと窓をたたく者がいた。
向山が見るとそこには松木潤一の姿があった。向山が目を丸くすると、松木潤一が車の窓を開けるよう合図をした。
「潤一君じゃない。どうしたのこんなところで」向山はミーハー振りを発揮して舞い上がった。
「確か警部の向山さんだったよね。ちょっとバイクがエン故して困ってます。携帯をかけようにもバッテリーが切れちゃって…。よかったら事務所まで乗せてくれませんか?」
「ええ!私の車に?うーん、うれしいけど職務中なの…困っちゃったなー」向山の顔はデレデレだ。
「そうだ、今私がパトカーを呼んであげるから、それで送っていくわ」
そう言ってバッグから携帯を取り出してかけようとしたとき、ガっと潤一の手がその手を掴んだ。
「何?」向山が驚いて潤一を見た。
「実は俺、向山さんのこと前から気になってたんだよね…」
「うそん」向山は、今をときめくスーパーアイドルの松木潤一の思いもよらない言葉に、我を忘れハートはドキドキ、もちろん目もハート。そして『わたしも…』と、この際乗っかってしまおうと思った…筈だった。
次の瞬間、松木潤一の身体は吹き飛び、街路樹に背中を打ちつけた。
「ぐは!」
「潤一君。私は濱崎綾子が人外の存在なら、弟のあなたも人外の者とみなします。ましてやこのタイミングで…」
「…この魔界の大公爵に一撃を与えられる人間がいるとは」
「まおうですって?確かに流行ってますけど…。笑っちゃうw」
「魔王ではない。大公爵だ」
気がついたらあたりには水蒸気が立ち込めて、霧が発生している。
フォルネウスはソロモン七十二柱のうち、序列三十番目の地獄の大公爵で、二十九の堕天使の軍団を率いる。本来その姿は海の怪物の姿をとるとされる。
「潤一君、安易に口を開かないほうがいいわ。名前を知られるヒントになっちゃうから」
霧の中、車から飛び出した向山は潤一めがけて疾走して、ボディに正拳を叩き込んだ。しかし手ごたえはない。
潤一は霧の姿となって霧散して逃れたのだった。向山は霧で視界が悪くなる中、背後に警戒しながら拳銃を取り出した。
「そんなものが俺たち悪魔に通用すると思っているのか」潤一は覆面パトカーの上に姿を現した。その身には瘴気を纏っていた。
「通用するかしないか、やってみるわよ」
ドドウ! ドウ!
向山はマグナム弾を三発撃ち込み、次の瞬間横に飛んだ。飛ばなければ濃度の濃い瘴気に蝕まれ、魂が焼かれていたに違いない。
「やっぱり物理攻撃は効果無しか」
「その通り。人間の武器など効かない」潤一は口の中から一振りの剣を吐き出し、鞘から抜いて右手に携えた。瞬間周りの空気が凍っている。魔力で形成された水と氷の剣だ。
向山の吐く息が白くなった。一気に気温が氷点下まで下がった周りの空間に、長時間いては動けなくなること必須だ。
潤一は向山に向かって走り、剣を一文字に振ってきた。紙一重でかわすとヤバイと感じた向山はトンボを切って後方へ飛び去り、再びマグナムを連射した。
「今度の弾はどうかしら?」
潤一は弾の当った自分の肩を見たとき、血が出ているのが分かった。
「ほう…もしや銀の弾丸か」
「その通り。ファンタジーの世界では退魔用のアイテムとして常識でしょ。でもあんまり劇的な効果は無さげね」
「そういうことだ」潤一はさらに追い討ちをかけ、剣を袈裟切りに振り下ろした。向山は逆に一歩踏み込み、潤一の懐に入った。
「潤一君、だから安易に口を開かないほうがいいって」
向山は潤一の口に手榴弾を押し込み、後ろに下がりながらマグナムで手榴弾を狙い打った。
爆発の轟音と風圧が拡散した。向山は地面を転がりながら爆風を逃がして防御した。
「死んだかな?」
あたりを確認したが、潤一の姿はどこにも無い。さすがの水と霧と氷の悪魔も爆弾では死んだという期待は…持っていなかった。
潤一の姿は四つに分かれ、分身が現れた。向山を四方から包囲している。
「もう遊びはこれまでだ、すでにお前の周りには結界を張っている。間もなく瘴気と冷気がお前を包み、死が訪れる」
潤一が言ったとおり、向山の足元にはただならぬ瘴気が纏わりつき急激に気力と体力が削がれていった。その後から絶対零度とも思われる冷気が襲ってくる。向山の命もこれまでか。
「さ、さすが、魔界の大公爵ね…。実力が違うわ」向山は片膝を付きながら言った。
「あなたは、キリスト教におけるソロモン七十二柱に数えられる大悪魔でしょう?」
「…」
「何番目にその名を連ねるのかしら。この力から言って十番目か…」
「…ばかな」潤一は霧の向こうから答えた。
「え?違うの、じゃあもっと上ね。二十番目かしら?」
「……」潤一は答えない。
「そう二十番目なの。でも、じゃあ大公爵なんてのは、ちょっと誇張しすぎなんじゃない?せいぜい伯爵止まりだわ」
「無礼な!」これにはさすがに頭にきたか、潤一は思わず叫んだ。
「我はソロモン七十二柱中、三十番目の大公爵なるぞ」
「そう…」向山の目がキラリと光った。
「では、あなたに契約を申し込みます。代価は私のこの魂です」
「何!契約だと?」
「その通り。私の望みはあなたの姉濱崎綾子と沖中美紀の謎を解き、正常な人間の世界を維持すること。それに協力しなさい」
「望みは二つだ、お前の魂だけでは足りない」
「…では私の部下、畦地の命も持ってけどろぼう!」
「ちいっ、仕方ない。人間との契約など千年ぶりになるが、契約の申込みには応じなければならないのは今も同じだ。契約を交わそう」
潤一はそう言うと、掌の上に羊の皮で出来た契約書を出現させた。
「ここにお前のサインを…」
「ちょっと待って、私ラテン語は読めない。日本語か英語かイタリア語に訳して示してよ」
「…さすがに警察官、用心深いことだ。分かった」そういうと潤一はイタリア語の契約を出現させ、向山に示した。
「ふんふん…なるほど。初めて見た。これがあの羊皮紙の契約書か。伝説って伝わるのね」
「つべこべ言ってないで早くサインしろ」潤一が向山の態度にじれて言った。
「分かったわよ!気が短いわね。はい」サインした契約書を潤一に渡した。
「よしこれで契約成立だ」
「決まりね」
「そうだ」
「本当に?」
「…成立だ」
「本当の本当に?」
「くどい」
「分かった。じゃあ」と言って向山は潤一の前に立って静かに告げた。
「ソロモン七十二柱、三十番目に名を連ねる魔界の大公爵ファルネウスよ。我の命令に従え」
「何!お前は俺の名前を…」潤一は動揺した。契約において悪魔は自分の名前を知られたら主従関係を結ばなければならない。無論、主は向山で従者が潤一だ。
「キリスト教の伝承は有名すぎるのよ。予め範囲を絞って学習すれば七十二の悪魔の名前を覚えるくらい訳ないわ」
「そんな馬鹿な…」
「フォルネウス。この瞬間、魔力の行使を禁ずる」仕方なく命令に従うしかなかった潤一は、瘴気も肉体の変化も停止した。
「ではさようなら」
ズドン!
銀の素材で作られたマグナム弾を眉間に受けた潤一は、その場に昏倒し二度と動かなかった。しばらくすると松木潤一の身体は硫黄の煙となって蒸発し、夜の風とともに散っていった。
「誰が悪魔なんかとつるんで職務をするかってんだ」
向山は、足元に落ちた契約書を拾って「確かこれ、燃えない素材だったわよねー」と言い、力任せに引きちぎって破り捨てた。