復讐
午前一時、沖中美紀と山中直之は、中目黒にある美紀のマンションの近くの公園で口論となっていた。あたりに人影は無く、常夜灯がいくつかあったが、電球が切れているらしく、一つ点いているのみで、あたりは薄暗かった。
「逆恨みね」
「何を言う!うちの会社は、あんたが専務をあんな手口で強引に引き抜いたおかげで倒産したんじゃないか」
「だーかーらー。私は依頼によってヘッドハントしただけ。ビジネスよ」
「おかげで、社長は首を吊ったんだ。許せん!」
山中は、カバンからナイフを取り出すと美紀に体当たりした。
うっと、前のめりになった美紀は、腹部から出る血を見て「なんじゃこりゃあ」とは言わなかったが。
「しくじったわ…ね」一言呻いて、その場に倒れた。
山中はその場から逃走し、深夜の街に姿を消した。
翌日、近くをジョギングしていたサラリーマンから遺体発見の通報を受け、警察が駆けつけた。早速現場にはキープアウトのテープが貼られて、立ち入りを制限された野次馬が、不謹慎にも写メを撮ろうとしたが、後から到着した女性の刑事に厳しく注意され、すごすごと引き上げた。
「殺し?」
「向山警部、ご苦労様です。どうやらそのようです」
向山は警視庁のキャリア組みで、あっと言う間に警部に昇進した。部下の若手男性刑事の畦地は白い手袋で敬礼し、状況を報告した。
「ガイ者は、腹部をナイフのような凶器で一突きされています。死因はおそらくこれによる失血死。他に外傷はありません」
「身元は?」
「名前は…、沖中美紀二十五歳。えーっと、住まいは都内です。この近くですね。所持品に免許証がありました」
向山は手袋をしながら、畦地の話を聞き、遺体を確認した。
「争った形跡は無いわね。目撃者は?」
「今のところは…」
「そう。殺人事件なら捜査本部が立つわ。すぐにガイ者の身元を更に洗って、目撃者を探して」
「分かりました」
畦地は再度敬礼して、向山を見送った。
ストラトキャスタープロダクションの濱崎綾子は、アイドルタレントのコンサート会場の舞台袖で、携帯電話をかけていた。
「はい、社長。今日のライブも一万人満員です。ええ、分かりました」
業務連絡を終えた綾子は、事務所の中で飛ぶ鳥を落とす勢いのアイドル桜野翔のコンサートに視線を戻した。
濱崎綾子は、桜野翔を始め五人のタレントを受け持っている敏腕マネージャーだ。
ストラトキャスタープロダクションは、青山にある芸能プロダクションで、九州の福岡から事務所を進出させた。事務所の規模は中規模ながらも所属するタレントの粒ぞろいであり、桜野翔を初め、大崎諭、椎葉雅道、松木潤一、宮田一也などが所属し、男性アイドルタレントと言えば、ジャ○ーズ事務所と人気を二分するにまで発展を遂げた。
「コンサートもあと一日。ああ忙しい」とごちたとき、携帯が鳴った。
「はい。濱崎です」
「突然のお電話失礼します。わたくしレスポールプロダクションの渡辺と申します。実は折り入ってお話があります。直接お会いしたいと考えておりして、近々お時間をとっていただきたいのですか」渡辺と名乗る男はそう言って切り出した。
「大手のレスポールさんが、私に直接ご用件とは、いったい何のご用でしょう」
「お電話では、ちょっと…」
「…。分かりました。では…、明後日の夜はどうでしょう」綾子は手帳を見ながら空いている時間を確認した。
「恐縮です。では明後日の夜、お会いしましょう、またこちらからご連絡します」そういうと電話が切れた。
そのとき、曲終わりで舞台からはけて来た桜野翔は、「綾子さん、おつかれ。観ててくれた?」と爽やかに声を掛け、綾子は笑顔で「うん」と応じタオルを渡した。
殺人事件の捜査本部では、捜査会議が行なわれていた。管理官の横には向山が座り、捜査の報告を聞いていた。
「目撃者は今だおりません」
「ガイ者の職業はフリーのヘッドハンティングをやっておりまして、都内のマンションには、沖中直美という名の妹と二人暮らし。ほかに家族はいないようです」
「ヘッドハンティング?具体的にどんな仕事です」向山が訊いた。
「はい。企業などから依頼されて、ある優秀な人材を引き抜くのが仕事です。アメリカでは需要のある職業です」
「なるほど」
「仕事上、手段を問わない方法で強引に引抜を行なっていたため、人から恨みを買っていたことは多かったようです」
「交友関係は?」
「深いつきあいの友人、恋人はいないようです」
「…では怨恨の線で、彼女が依頼された仕事を洗うのが先決ですね?管理官」向山は捜査方針を促した。
そのころ監察では、監察医が沖中美紀の遺体を検死解剖を終えたところだった。
「若い身空で気の毒に…」
仏さんにシートを掛けた監察医は、手を合わせて冥福を祈り部屋を出た。暫くして係りの者が遺体を搬送しようと部屋に入ったとき、沖中美紀の遺体は姿を消していた。
事態はすぐに捜査会議にも報告された。
「遺体が消えた?」
「はい。監察医が言うには司法解剖が終わったあと、搬送の手配をしている間に消えたそうです」
「一体誰が何の目的で持ち去ったのか…」向山は首を捻った。
「至急、この近辺に検問を!遺体は思ったより持ち運びにかさばります。車両を使った可能性が高いです」
捜査本部は、向山の命令によって慌ただしくなり、所轄の捜査員も動員されて目黒区一体に非常線が張られた。
二時間が経過するも、検問に引っかかる者はおらず、遺体の行方は掴めなかった。
「単なる殺人事件ではないのか…」向山はスライドを見て、沖中に妹がいること目をつけた。
「畦地。ガイ者の妹は今どこに?」
「えーっと。あ。海外です。イタリアですね」
「いつから?」
「正確には確認しないと分かりませんが、随分前のようです」
「帰国の予定を調べて」
「了解です」畦地はスーツの上着を羽織って飛び出して行った。
畦地は外務省に行き、イタリアの日本領事館に連絡を取って、沖中直美という女性の所在地を確認してもらうよう手配した。思ったとおり返事はすぐには得られず、最短で二、三日の回答待ちとなった。
濱崎綾子は、桜野翔のコンサートの翌日、約束通り青山の喫茶店で、レスポールエンターテイメントの渡辺と会合していた。
渡辺は痩せ型、縦じまの紺のスーツで、黒縁の眼鏡をかけており、年齢は四十歳くらいか。
「ストキャスの凄腕マネージャーがこんなに美しい人だったなんて、驚きです。いっそうちの事務所にスカウトしたいくらいです」
「それで?お話というのは」綾子は、オレンジジュースを「それらしく」飲んでいた。
「はい。率直に申し上げます。桜野翔をわがプロダクションに移籍させたい」
「……。ご冗談を」
「いえ、冗談ではありません。わが社は今女優タレントが主力としてやっていますが、今後は男性のアイドルタレントの方に力を入れようと考えています。傘下の養成所に打診をしておりますが、直近で即戦力となる人材がおりません。そこで社長の黒田は今飛ぶ鳥を落とす勢いの桜野翔を、わが事務所に迎えることを発案したのです」
「しかし…」
「金額はそちらのおっしゃる額をお支払します。どうか御社の社長にこちらの意向をお伝えいただけませんでしょうか」
「そうおっしゃられましても、桜野翔は我が事務所の主力です。今後も大事に大きく育てたいと考えています。一応社長には伝えますが、いい返事は期待しないでください」
「何とか、よろしくお願いいたします」
渡辺は、頭を下げと頼み、連絡先の電話番号を綾子に渡して席を立った。
渡辺と入れ替わりに、サングラスの若い男性が入ってきて、綾子の正面の席に座った。
「綾子さん。何の話だったの?」
「雅道。今日は舞台の千秋楽でしょ?打ち上げはどうしたの」
雅道と呼ばれたのは、同じ事務所のアイドルタレント椎葉雅道だった。
あれ椎葉君じゃない? 客が気づいた。
「だってさ、綾子さんがいないんじゃつまらないじゃん」
「いつも言ってるでしょ。私はあなたたち五人を掛け持ちでマネージャーやってるの!忙しいんだから」
「でもさー」雅道は拗ねた。
「どうでもいいけど、バレたわよ。騒ぎになるから早く戻って」
「ちぇ、分かったよ。じゃあまた明日ね」
「早く寝るのよ」綾子は雅道を笑顔で見送って、オレンジジュースをおいしくもなさそうに飲み干した。
「利権としがらみか…。どこまで行っても人間は同じね」
綾子は会計の伝票を手に取るとレジで支払を済ませ、そのままタクシーに乗って事務所方面へ走っていった。
南青山にある事務所で、渡辺は今日の面談の結果を社長の黒田に報告していた。レスポールプロダクションの事務所である。
「で、どうだった」
「はい、それがやはり予想通り、難しそうです」
「そんなことは分かりきったことだ。現在小さいがプロダクションを掲げる会社が増加してきている。今や売れっ子女優も小さい事務所に所属することをハンデと感じる時代ではなくなった、このままでは我が事務所は先細りだ。何とか男性アイドル部門をわが社に立ち上げてこの先を乗り切らねばならん。そのためには、何としても桜野翔を移籍させるのだ」黒田は渡辺に気合を入れた。
「正攻法での交渉が通じなければ、多少荒っぽい手を使っても構わん」
「…分かりました。そこまでおっしゃるなら…」
渡辺は丁寧な雰囲気を引っ込め、代わりに荒事師然たる顔を出して応じた。
「何か手があるか?」黒田が訊いた。
「交渉が決裂したときは、極めて優秀なヘッドハンターを使います」
「…。任せる。ただ状況は逐一報告しろ」
「分かっています」
そう言うと、渡辺は社長室を後にして、事務所で何やら手紙をしたため、その足で二十四時間受付の郵便局へ向かった。
二日後、渡辺の携帯に着信が鳴った。非通知だ。
「私書箱に依頼をくれたのはあなたね」
「あんたが沖中美紀か」
「そうよ。で、依頼の内容は?」
「あるプロダクションに所属するタレントを我が事務所に引き抜きたい」
「…会って詳しく話を聞きましょう」
「分かった。日時は?」
「明日、昼十二時、自分の事務所にいてくれれば、また改めてこちらから連絡する。ところでテレビは見ていないようね」
「何のことだ。最近は忙しくてな。事務所にいればいいんだな。分かった」
渡辺がそう言うと相手から電話は切れた。
向山と畦地は、中目黒の沖中美紀のマンションを訪れていた。管理会社を回って、セキュリティの解除と部屋の鍵を願って部屋に入っていた。
「じゃあ、終わったら一階の管理人室までお願いします」
「分かりました。ありがとうございます」畦地は管理人に礼を言った。
マンションの間取りは5LDK。普通の仕事をしていてはとても住めない物件だ。デザイナーズマンションであり、リビングには螺旋階段があり、グランドピアノが置いてある。
「警部。押収した沖中のパソコンや、手帳に仕事の情報はありませんでした。遺留品のスマホが遺体と一緒になくなっていましたから、そっちに情報があったのかも知れません」
「…おかしい」向山が言った。
「え?何がです」
「この部屋には家族の写真が一切無い」
「妹の部屋と思われる部屋が隣にありますが、そっちじゃないですか?」
向山は、もう一つの部屋に行ってみたが結果は同じだった。
「警部。どういうことでしょうかねー」
畦地はコンビニの袋をがさがさ鳴らし、アンパンとビックラを取り出して、頬張り始めた。
「ちょっと!畦地。何飯食ってるのよ」
「だってー。朝から何にも食べてなくって…。警部もどうすか、うまいですよ。てへ」
ドボッ! 畦地はわき腹に鈍い痛みを感じてその場に悶絶した。
アンパンを咥えた向山が寝室を物色してリビングに下りたとき、何者かが立っている気配を感じた。
「誰!」
そこにはサングラスに黒いスーツを着た体格のいい男が二人、手に警棒を持って立っており、向山を認めるとするすると近寄ってきた。
「一体何事?」向山は相手の殺気を感じ取り、すぐさま螺旋階段から飛び降りた。
一人目の男が、袈裟切りに警棒を振り下ろしてきた。向山は男の肘を左手で下から叩き、そのまま右手で手首を捻って、男の身体を投げ飛ばした。
「ぐあ」
すぐさま二人目の男が中段蹴りを放ってきた。空手の使い手らしい。連続の蹴りは向山の急所を正確に狙ってきた。数発食らったが、次の蹴りを右手の回し受けで捌き、身を低くかがめ、男の軸足の左足を左足で払い、男を転倒させた。倒れた隙に警棒を蹴って部屋の隅に飛ばした。
一人目の男が、すぐさま立ち上がり、向山を後ろから羽交い絞めにして、左の脇から腕を回してそのまま首を絞めた。そのまま、三秒、五秒、七秒。
この男はマーシャルアーツの使い手か。FBIやCIAが使う格闘技だ。身動きが取れない向山が、薄れ行く意識の中でそう思った瞬間。
「警部!」二階から畦地の叫び声がした。
意識を取り戻した向山は、右足で男の足の甲を蹴り、ひるんだ拍子に右の肘で男の顔面を殴打した。
その際左手は右手のこぶしに添えられており、上半身の力を全て集中させることによって威力を増す、古武道の奥義であった。極めれば狭い間合いでもコンクリートを砕くことができると言う。
男が失神しそうになるも、辛うじて堪えて倒れなかったのは、相当鍛えている証拠だ。
向山は間髪入れず、部屋の中を走った。ピアノの上に駆け上がり高さを増した状態で部屋の壁を蹴り、反射を利用して二人目の男の顔面に向かって膝を叩き込んだ。空手の三角飛びの奥義だった。
さすがにこれを食らっては屈強な男も昏倒するしかなく、膝から崩れ落ちた。もう一人の男が、ふらふらと近寄ってきたとき、向山が袈裟切りに振り下ろした右の手刀は、正確に男の首の付け根を捉えて、止めを刺した。
「警察をなめんなよ」
「け、警部…。こいつら何者っすかねー」畦地がビックラをストローでちゅうと飲みながら、降りてきた。
「あ、あぜち…」
向山は息をぜえぜえと切らしながらも、畦地の肩に手を掛けたが、彼に止めを刺す体力は残っていなかった。