~ 六ノ刻 禁術 ~
月曜日、図書室で照瑠と別れた後、天倉癒月は久しぶりに普通の生活を送ることができた。
図書室で本を返して以来、ここ数日は、あの奇妙な夢も見ていない。久方ぶりの安眠は、何物にも代えがたい程に嬉しかった。その分、遅刻ギリギリまで寝過ごしてしまい、朝食も食べずに学校へ走ることになったのも記憶に新しかったのだが。
もう自分は、あの悪夢から解放されたのだろうか。初めの間は、そう思って安心していた。
だが、甘かった。悪夢はいつも、油断した頃合を狙ってやってくる。闇の中から獲物を狙う捕食者のように、こちらの心の隙間を見つけ、ひっそりと忍び寄って来る物なのだ。
その日、癒月は夢を見た。夢の中では相変わらず自分の意思で身体を動かせない。右も左も分からない闇の中を、こちらの意思とは関係なく歩いている。
これは、あの人殺しの夢だ。悪夢は終わってなどいない。何かの気まぐれで、一時的に頭の中から消え去っていただけだ。
今日、自分の目の前で殺されるのは、いったいどこの誰なのだろう。殺人事件の被害者としてニュースで報じられていた女性か、はたまた全く見知らぬ少女なのか。
惨劇を見せつけられることが分かっているだけに、癒月の胸の中は嫌悪の気持ちで溢れ返りそうだった。自分が人を殺している夢など、何度見ても見慣れる物ではないのだ。
ところが、その日に限って、癒月の目の前には今まで彼女が夢の中で殺して来た人間達は現れなかった。代わりに現れたのは、学生服に身を包んだ見覚えのある少女。虚ろな目でこちらを見つめているそれは、何を隠そう、癒月自身だった。
(これは……私?)
最初、癒月は自分の目の前に鏡でも置かれているのかと思った。が、すぐにそんな物は無いと分かり、目の前に立つ自分自身の姿に戸惑った。
ここは夢の世界。自分が二人いようと、三人いようと不思議ではない。頭ではそう分かっているのに、癒月は目の前にいる自分自身に何故か恐怖とも言えるようなおぞましい感情を抱いていた。
光のない、死んだ魚のような瞳をして、自分自身がこちらを見つめている。動くこともせず、喋ることもせず、もう一人の自分は闇の中に佇んでいる。
一刻も早く、こんな場所からは逃げ出したい。なぜだか知らないが、癒月はそう思って足を動かそうとした。しかし、金縛りにでもあったのか、足どころか爪先さえも動かせない。死人のような青白い顔をした自分がこちらを見つめているのが、辺りを包む不気味な雰囲気を一層強めている。
闇の中、永遠に続くと思われた自分と自分の睨み合い。このままずっと動けないままかと思っていたが、変化は突然に訪れた。
目の前で表情一つ変えずに佇む自分の口から、つうっと一筋の赤い雫が零れた。それが血だということがわかり、癒月はぎょっとして目を丸くする。
口から血を流したもう一人の癒月は、それでもまったく動かなかった。その間にも口からは血が溢れ、首を伝って制服を赤黒く染めて行く。顔や手にはどす黒い斑点が現れて、物凄い腐臭が辺り一面に漂ってきた。
(な、なによ、これ……)
あまりのことに、癒月は思わず口に手を当てて後ろに下がろうとする。が、それでも金縛りは解けず、何もできないまま目の前の光景を見つめるしかない。
既に、もう一人の癒月の肉体は崩壊を始め、人間としての形を保ってはいなかった。指は腐って下に落ち、眼球も外れて足元に転がっている。髪は抜け、皮膚は剥がれ、中からは白い骨が顔を覗かせていた。
グシャッという音がして、もう一人の癒月はその場に倒れ込む。身体を支えている足が、ついに限界を迎えたのだろう。
後に残されたのは、全身が醜く腐敗した見るも無残な腐乱死体。自分が腐り、朽ち果てて行く様を見せつけられ、癒月はたまらず悲鳴を上げた。
「い、いやぁぁぁぁっ!!」
布団を跳ね飛ばして飛び起きると、そこは自分の部屋だった。
「ゆ、夢……」
分かってはいても、つい口にしてしまう。試しに自分の指を見てみたが、当然のことながら腐ってなどいなかった。
それにしても、今日の悪夢はいつにも増して酷い。自分が人を殺すだけでも気が滅入りそうだというのに、今度は自分が腐って死ぬ夢とは。数日前には悪夢から解放されたと思ったのに、これでは地獄に逆戻りである。
「それにしても……今度は自分が死ぬなんてね……」
あまりに酷い夢の内容に、癒月はつい愚痴をこぼすかのようにして言った。が、次の瞬間、自分が今しがた口にした言葉を思い出し、胸元を抱えて震え上がった。
「死ぬ……。私が……死ぬ……?」
今まで、自分が見ていた悪夢が現実になったこと。それを思い出したのだ。顔の皮を剥がれた少女も、目玉をくり抜かれた女性も、最後は遺体となって発見されたことがテレビのニュースで報じられていた。
他人の空似、単なる偶然と言えばそれまでなのかもしれない。が、しかし、癒月には今までのことを全て偶然として割り切ることが、どうしてもできそうになかった。
正夢。今までの悪夢が全て現実で起こること、もしくは起こっていたことだとすれば、次に死ぬのは自分ということになる。夢のように、身体が腐って死んでしまうのか、それとも誰かに殺されてしまうのか。
わからない、わからない、わからない。ただ、ひたすらに恐ろしく、気持ちが悪かった。
「大丈夫、だよね……。あれは、ただの夢。そう、ただの夢よ……」
まだ起きるには早い時刻だったが、二度寝をする気にはなれなかった。東の空が白みかけている時分、癒月は自分のベッドの中で、震えながら時が過ぎるのを待ち続けていた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
S川河川敷。
火乃澤町を流れる一級河川の畔は、普段は人もまばらな場所であった。遊歩道が作られている場所は早朝のランニングコースとして利用されているが、中には草も生え放題で放置されている場所もある。田舎町の河原など、得てしてそのようなものだ。
そんなS川の河川敷であったが、今日に限って人で溢れ返っていた。もっとも、一般の通行人や何かを見物しに来た客などではなく、その場にいたのは全員が警察の関係者だったのだが。
河原を吹き抜ける冷たい風に顔をしかめながらも、岡田肇は鑑識の男の話を聞きながら、現場の様子を油断なく探っていた。その後ろからは、工藤が手帳を片手についてくる。
「岡田さん。また、死体が上がったんですか?」
「ああ、そうだ。今度は山の上じゃねえ。川の橋げたにひっかかっているやつを、早朝にやってきた釣人が見つけたんだ」
「平日の朝っぱらから釣りですか。呑気なもんですねぇ……」
「そんなことはどうでもいい。それよりも、問題なのは上がった死体だ」
的外れな工藤の返事を適当に流し、岡田は石の転がる河原を歩いて行く。少しばかり進むと、そこには青いシートにくるまれた二つの死体が置かれていた。
「一つ目のホトケさんは、例の如く女の物だ。舌が抜かれて、皮膚や内臓、それに指も持っていかれている。目ん玉は、今回は無事だったみたいだが……見るか、工藤?」
「うぇ……。いや、話だけで十分です……」
「まあ、そう言うだろうと思ってたぜ。もっとも、もう一つのホトケさんの方は、実際にその目で見る必要があるがな」
そう言って、岡田は死体がくるまれているであろう青いシートを剥ぎ取った。工藤の返事など聞く必要はないと言わんばかりに、手慣れた様子で覆いを外す。
シートの中から現れたのは、男の死体だった。それだけであれば、刑事事件としては普通である。今回の死体は、その死に方と死んだ人間の双方に問題があった。
「お、岡田さん……。なんですか、これ?」
目の前の現実を受け入れられないのか、工藤が困惑した表情を浮かべた。まあ、無理もないだろう。
彼の前に現れたのは、完全にミイラ化した男の死体。骸骨のように変貌した頭部からは、元の人間の顔を想像することなどできはしない。どうやらS川から引き揚げられたものらしく、右手と左足は川に流されている間に失ってしまったようだった。
「なあ、工藤。こいつ、いったい誰だと思う?」
岡田が男のミイラを指して言った。そんなことを聞かれても、工藤にはさっぱり見当がつかない。ミイラになった知り合いなど、当然のことながら工藤の記憶の中には存在しない。
「驚くんじゃねえぞ、工藤。このミイラは……あの榛原直人のものだ」
一瞬、工藤は自分の耳を疑いたくなった。
榛原直人。死体愛好家として悪名の高い、ハイエナのように事件の臭いを嗅ぎつけることで有名な写真家だ。工藤自身、既に榛原とは二回程の面識がある。もっとも、そのどちらも決して良い印象のある物ではなかったが。
「あの……岡田さん。このミイラが榛原って……どういうことですか?」
「そんなこたぁ、俺の方が聞きたいくらいだぜ。だが、ミイラの着ている服や、そのポケットから見つかった遺留品から、榛原本人だと見て間違いないそうだ」
「で、でも……先週に見た時、榛原は普通に歩いたり喋ったりしてましたよ。それがミイラになって発見されるなんて……そんな馬鹿なこと……」
「だから、俺にも理由は分かんねえって言ってるだろ。人間をミイラ化させる機械なんてのがありゃあ話は別なんだろうが、それこそ程度の低いSF映画の世界だな」
岡田が吐き捨てるようにして言った。それは榛原に対するものというよりも、事件があまりに不可解な方向に動いていることに対しての苛立ちに思えた。
しかも、岡田の苛立ちの理由はそれだけではない。彼自身、榛原直人が今回の事件に関係しているのではないかと睨み、密かに他の刑事に尾行をさせていた。その尾行がまかれたのが先週の水曜。調度、一週間と少し前のことである。
その後も警察では榛原の行方を追っていたが、その間にも一件の殺人が起きてしまった。そして、少女の遺体の発見現場を探っている最中、現場に程近い近い場所で榛原のミイラが見つかったのである。
榛原直人がミイラ化して発見されたことにより、事件は再び振り出しに戻った。相次ぐ女性を狙った猟奇殺人に加え、今度は容疑者の一人が変死体として発見される。
もう、何がなんだかわからない。ここ最近になって起きている事件は、あまりにも岡田の知る常識の範疇を越えていた。
犯人は、異常な嗜好を持った変質者か。はたまた、何か宗教的な妄執にとり憑かれた精神異常者か。それとも、岡田のまったく知らない、この世界の常識では測ることのできない存在なのか。
「おい、工藤。お前……あのガキの通っている高校を知っているか?」
岡田が工藤に背を向けたまま言った。
「あのガキって……もしかして、犬崎君のことですか?」
「そうだ。あの妙な術を使うガキだったら、今回の件について何かわかるかもしれねえ。お前、今から学校に行って、ちょっとあいつの話を聞いて来い」
「それだったら、既に先週の内に済ませてます。なんか、妙な術についての講釈を受けましたけど……それ以外は、特に役に立ちませんでしたよ」
「お前、いつの間に……。しっかし、そうなるとますます頭が痛いな。このミイラ、上にはどうやって報告すりゃいいんだ?」
岡田が再び榛原のミイラを見る。苦悶の表情のままに固まった骸骨のような顔は、その言葉に答えることはない。陥没し、ただの穴となった二つの目で、じっと岡田のことを睨み返していた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
夕刻の後者に響く予鈴が、学校の授業が終わったことを告げる。校門の前には早くも帰宅する生徒達の姿が見受けられ、校庭では野球部の面々が練習を始めていた。
通用口の前で、天倉癒月は靴を履き変えながら今朝のことを考えた。
自分が腐り、最後は元の姿さえも分からない程に朽ち果ててしまうという悪夢。今までの人殺しの夢も酷かったが、今日の悪夢はそれに輪をかけて気味が悪かった。
正直なところ、今日は学校の授業も頭に入らなかった。睡眠不足も相俟って何度も眠りそうになったのだが、明け方に見た悪夢を再び見るのではないかという恐怖から、眠ることも許されなかった。
靴を履き変え、癒月はとぼとぼと出口へ向かう。その後ろから自分の名を呼ぶ声に気がつき、彼女は静かに後ろを向いた。
「癒月じゃない。今、帰るところなの?」
声の主は照瑠だった。こちらの顔を見ると、心配そうにして近づいてくる。自分では分からなかったが、きっと、よほど酷い顔をしていたに違いない。
「ねえ、癒月。あなた、顔色が悪いみたいだけど、大丈夫? どこか、まだ具合が悪いとか……」
「私なら平気だよ。いつもみたいに、ちょっと眠りが浅いだけだから」
そういう自分の声に、明らかに力が入っていなかった。数日前は風邪からも完全に回復したと思っていたのに、今日はすこぶる体調が悪い。
ふと、自分の手元に目をやると、掌に青黒い痣ができていた。今日はどこかに手をぶつけた覚えもないのに、いつの間にこんな痣ができたのだろう。
気持ち悪い。そう思って痣を隠そうとした時、なにやら腹の奥から物凄い吐き気が込み上げて来た。生臭い、生ゴミと流しの下の臭いを混ぜたような息が口いっぱいに広がり、それだけで涙が出そうになってくる。
思わず口に手を宛てて、癒月は一目散にトイレへ駆け込んだ。後ろから照瑠が何やら叫んでいたが、癒月には聞こえない。洗面台に顔を向けると、我慢できずに腹の中から上がって来たものを吐き出した。
どろりとした、どこか生温かく鉄の味のする液体が、彼女の口から大量に吐き出された。目の前に溢れ返ったその液体を目にして、癒月の顔に瞬く間に恐怖の色が浮かんで行く。
「や、やだ……。これって……血……」
洗面台は、どす黒い血でいっぱいに汚されていた。未だ口の中に残る、腐臭のような匂いと鉄の味。口内に溢れる不快感が、目の前の物が幻覚でないということを物語る。
いったい、自分はどうなってしまったのか。何か悪い病気に感染し、取り返しのつかないところまで来てしまったのではないか。
考えても答えなど出ないことは分かっていた。癒月の父は医者だが、癒月自身に医学の知識があるわけではない。今、できることと言えば、目の前の洗面台で口の中の不快な物を洗い流すことくらいだ。
自分の口の中と、それから洗面台に溢れた血も洗い流し、癒月は肩で息をしながらその場にうずくまった。トイレの床に腰を下ろすなど普段では考えられなかったが、もう立っていることさえ辛く感じられた。
呼吸が落ち着いたところで、癒月は先ほどの手の痣を見る。痣は先ほどよりも膨らんでいるようで、今にもはち切れて鬱血した血液を吐き出しそうになっていた。
「痛っ!!」
突然、服の擦れた部分に痛みを感じ、癒月は制服の袖をまくりあげた。そこには手の甲にできていた物と同じ痣があり、やはり大きく膨らんで腫れていた。
「そんな……どうして……」
腕の痣を庇うようにして押さえながら、癒月はよろよろと立ち上がる。そういえば、先週もこんな痣が腕にできて、酷く痛んだ覚えがあった。あの時は痣が翌日になって消えていたが、それがどうして今になって再び姿を現したのだろうか。
わからない。自分の身体のことなのに、自分で自分がわからない。
否、それ以前に、自分は何かとても大切なことを忘れている気がする。決して忘れてはいけない、自分にとっては極めて重要なことであるにも関わらず、記憶の中に霞がかかったようになって思い出すことができない。
「あっ……」
失われた記憶の糸を手繰り寄せようとしたところで、癒月の頭を激しい頭痛が襲った。
まただ。この前も、何か大事なことを忘れていると思って考えていたら、酷い頭痛に襲われて邪魔をされた。そして今も、何かを忘れていることに気づいたところで、激しい頭痛が自分の頭を締め付ける。
あまりに酷い頭の痛みに、癒月は再びその場にへたり込んでしまった。髪の毛に指を絡ませるようにして頭を押さえるが、ふと妙な感触に気づいて指をどける。
「きゃっ……!!」
自分の指に絡まっている物を見て、癒月は頭の痛いのも忘れて悲鳴を上げた。
それは、癒月自身の髪の毛だった。一本、二本という程度のものではなく、数十本もの髪の毛がまとめてごっそりと抜け落ちていた。
(もう嫌……。どうして……どうして、私ばっかりこんな目に遭うの……)
未だ胃の中に残る激しい不快感。腕を始めとして、全身のあちこちに感じる痛み。更に、追い打ちをかけるようにして頭を締め上げる原因不明の頭痛と、なによりも自分の身体に起きている異変に対する恐怖。
もう、平静を保っているのは限界だった。身体の痛み、頭の痛み、それに恐怖と不快感がごちゃ混ぜになり、癒月はただ泣き叫ぶしかなかった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
癒月が意識を取り戻した時、そこには照瑠の顔があった。未だ霞んで見える視界の向こう側で、照瑠が心配そうにこちらを見ているのが分かる。
頭が痛い。なんとか起き上がってみたが、先ほどの頭痛はまだ残っているようだった。
「えっと……。ここは……?」
辺りの様子を見回しながら、癒月は照瑠に尋ねた。自分はトイレにいたはずだが、今は何やら柔らかい物の上に寝かされている。
「気が付いたんだね、癒月。よかった……」
「照瑠……? もしかして、あなたがここへ?」
「そうよ。もっとも、たまたま側にいた詩織にも手伝ってもらったけど。さすがに私一人で、あなたを保健室まで運ぶだけの力はないわよ」
そう言われてみると、この部屋には確かに見覚えがあった。先週、廊下で貧血を起こした際にも運ばれた、学校の保健室だった。
「それにしても、本当に大丈夫? 慌ててトイレに駆け込んだと思ったら、中から悲鳴が聞こえてきて……。それで、様子を見に行ったら倒れてるんだもの」
「うん、ごめんね……。心配ばっかりかけて……」
言えなかった。自分の身体に、何か妙な異変が起きていることなど。洗面台の前で吐血し、さらには髪がごっそりと抜けてしまったことなど。
友人に心配をかけたくない。その気持ちもあっただろう。しかし、それ以上に、今の癒月には恐怖の方が大きかった。
明け方近くに見た、あの奇妙な夢。自分の前で自分が腐り、朽ち果てて行くという悪夢。あれが正夢になってしまうことが、怖くてたまらない。
「ねえ、照瑠……」
身体を起こし、癒月は照瑠の服の袖を引くようにして彼女の手を取った。
「どうしたの、癒月?」
「私……怖いよ……」
言葉と一緒に、照瑠の手を握る癒月の手も震えていた。あの、洗面所での出来事を思い出しただけで、震えが止まらない。
「私ね……今朝、また夢を見たんだ……」
「夢? それって、あの人を殺しちゃうってやつ?」
「違うの。今度は私が人を殺すんじゃなくて……私が死んじゃうの。鏡の前に立ったみたいに、もう一人の自分が目の前にいて……それが、どんどん腐って行くの……」
次第に声まで震えてきた。自分の身体を覆う得体の知れない恐怖に、癒月はただ怯えることしかできなかった。
「ねえ、照瑠。私、このまま死んじゃうのかな……。それとも、他の女の人と同じで、誰かに殺されちゃうのかな……」
「なに言ってるのよ。そんなこと、あるわけないじゃない」
「でも……もし、私の見ている夢が、正夢だったらどうするの? 毎日毎日、変な夢にうなされて……それだけでも頭がおかしくなりそうなのに……」
「大丈夫よ。夢で死んだ人が現実で死ぬなんて……それこそ、ホラー映画の世界だけよ。心配しなくても、夢で死ぬことなんて絶対にないから」
「うん……。ありがとう……」
気がつくと、目には涙が溜まっていた。照瑠の言っていることは気休めかもしれなかったが、それでも癒月には照瑠の言葉が純粋に嬉しかった。
照瑠が「立てる?」と聞いて、手を差し出してきた。その手を握ったとき、なんだかとても温かいものが癒月の中に流れ込んできた。
(あれ……?)
ふと見ると、手にあったはずの痣が消えていた。つい先ほど、それこそ今の今まであったはずの大きな痣なのに、まるで魔法のように癒月の手からなくなっていた。
(やっぱり、考え過ぎなのかなぁ……)
照瑠に手を引かれ、癒月はそろそろとベッドから立ち上がった。気のせいか、さっきよりも身体が軽い気がする。洗面所で催した吐き気も、頭を締め付けるような頭痛も、今はまったく感じられない。
「それじゃあ、そろそろ帰ろっか。癒月、一人で歩ける?」
「うん。たぶん、平気だと思うけど……」
「なんだったら、私が一緒に帰ろうか? 途中の道端で倒れたりしたら、それこそ大変だしね」
「そうしてくれると嬉しいな。なんだか、今日は一人だと不安だし……」
照瑠の申し出を断る理由は見当たらなかった。迷惑をかけていることは分かっていたが、それでも今は、誰かと一緒にいないと不安に心が押しつぶされそうだった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
天倉癒月の家は、学校から三十分程歩いた場所にある病院だった。住宅街の中に紛れこむ様にしてあるその病院は、看板さえなければ普通の家と言われてもおかしくない。
癒月の勧めもあって、照瑠は少しだけ家にお邪魔させてもらうことになった。家まで送るだけのつもりだったが、癒月はお茶くらい出させて欲しいと言って聞かなかった。
「なんか、悪いわね。送るだけのつもりが、お茶まで出してもらっちゃって」
「いいわよ、そんなの。照瑠には、ここのところ迷惑かけっぱなしだったからね。このくらいさせてもらわなかったら、こっちの方が申し訳なくなっちゃうわ」
自分でも紅茶を口にしながら、癒月は照瑠にもそれを勧めた。紅茶は癒月の父が入れたもので、色も香りもティーパックとは比べ物にならないほどに良いものだった。
「ねえ、ところで……」
癒月に勧められるがままに、照瑠は紅茶を口にして言った。
「癒月のお父さんって、お医者さんだったの?」
「うん、そうだよ。本当は外科医なんだけど、内科医の代わりをすることもあるよ。こんな小さな病院じゃ、患者さんを選んだりできないしね」
「すごいわね、それ。外科も内科もって……大病院の先生顔負けの腕じゃない」
「そんな大したことじゃないよ。内科って言っても、近所のお年寄りに薬を飲ませるくらいだし。外科もやるけど、ほとんどが切り傷や骨折の治療ばっかりよ。たぶん、照瑠が思ってるような大手術は、お父さんにはできないんじゃないかなぁ……」
「でも、病院で患者さんを待っているだけじゃなくて、往診なんかもしているんでしょう? やっぱり、誰にでも真似できることじゃないと思うけど……」
「やだ、あんまり持ち上げないでよ。人前ではしっかりしている風に見えるけど、いつもは単なる中年親父なんだから。この前の朝なんて、寝ぼけて自分のパジャマの裾を踏んで転んでたしね」
「うっ……。それは、確かにちょっとダサいかも……」
リビングで盛大に転ぶ癒月の父親の姿を思い浮かべ、照瑠は必死で笑いを堪えた。もっとも、自分の父親も似たようなところがあるため、人事のように思えない部分もあるのだが。
「紅茶、なくなっちゃたわね。お代り持って来るから、ちょっと待ってて」
開いたティーカップを皿ごと持ち上げ、癒月は部屋の奥に戻って行った。独り残されてしまった照瑠は、白い壁を見つめながらぼんやりと考える。
学校で癒月が倒れた時は一大事だと思ったが、実はそれほど酷くはなかったのか。少なくとも、今の癒月の姿から具合の悪そうな様子は見受けられない。
(私の取り越し苦労だったのかなぁ……)
ふと、そんな考えが頭をよぎる。だが、照瑠が安心したのも束の間、いくら待っても癒月が部屋に戻って来ない。
お茶を入れ替えて来るだけにしては、さすがに時間が長すぎる。まさか、台所で倒れているのではあるまいか。心配になって席を立とうとした照瑠だったが、立ち上がった瞬間に目の前の景色がぐらりと歪んだ。
(な、なに……!?)
自分の意思に関係なく、照瑠の足が崩れ落ちた。頭が物凄く重い。なんとか意識を集中させようとするが、恐ろしいまでの眠気が急激に襲ってくる。
(ど、どうして……)
何かを言おうにも、言葉さえ出なかった。全身を痺れるような感覚に支配され、照瑠の意識は深い闇の底へと飲み込まれていった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
九条神社。
社務所に鳴り響く電話の音に、九条穂高は慌てて廊下を走った。秋も終わり、冬になろうとしている時分、裸足で廊下を走ると冷たさが直に伝わってくる。
「はい、九条です」
既に社務所も閉じ、来客なども見られない。時刻は七時にもなっていなかったが、冬の日没は思った以上に早かった。こんな時間に神社に電話をかけてくるなど、いったい誰だろう。
≪その声は、九条照瑠の父親だな≫
電話の向こうで、やけに無愛想な声がした。
「ああ、犬崎君ですか。うちの照瑠が、いつもお世話になっています」
≪俺の声を覚えていてくれたか。だったら話は早い≫
電話の相手は紅だった。なにやら急いでいる様子だが、また何か事件でもあったのだろうか。
≪あんたの娘に話がある。今、そっちにいるか?≫
「いや。照瑠からは夕方に連絡をもらってね。今日は、友達の家に寄って帰ると言われたよ。まだ、戻っていないみたいだけど……久しぶりに、羽目を外しているんじゃないかな」
≪友達だと……? そいつの名前、あんたは聞いているか?≫
「勿論さ。なんでも、最近できた新しい友達で、天倉さんとか言っていたな」
≪天倉……。まさか、天倉癒月か!?≫
電話の向こうで、紅の舌打ちする音が聞こえた。いつもは冷静な紅にしては珍しいことだ。何かあったのかと思い尋ねようとした穂高だったが、紅は無情にも電話を切ってしまった。
「九条は天倉癒月の家か……。厄介なことになったな、これは……」
旧式の携帯電話を握り締めたまま、紅は苦い顔をして呟いた。
あの日、図書室で癒月の姿を見てから、紅は癒月に対して警戒心を抱いていた。何しろ、相手は生きながらにして死者の魂を持つ存在。その正体も不明である以上、迂闊に手を出すわけにもいかない。
結局、実家からの連絡待ちになってしまい、祖母から電話があったのが今日のことである。笹団子の礼などを言っていたが、そんなものは紅の頭には入らなかった。
天倉癒月の正体と、その裏に潜む禁断の術。祖母の耳から術の詳細を聞いた時、さすがの紅も思わず体を震わせたほどだ。
(このままでは、九条の身に危険が及ぶな……)
迷っている暇などはなかった。紅はコートのポケットから一枚の名刺を取り出すと、そこに書かれた番号に電話をかける。名刺は、以前に甘味屋で工藤と話したときにもらった物だった。
数秒の後、電話の向こうから若い男の声が聞こえてくる。他人の力を借りることは本意ではなかったが、今の紅が頼れるのは工藤しかいない。
「刑事さんか……。悪いが、すぐにこっちに来てくれ。例の連続殺人事件の犯人……そいつの正体がわかったぞ」
刑事を釣るのには最高の餌だと紅は思った。もっとも、既に紅の方でも犯人の目星はついていたため、まったくの嘘ではないのだが。
宵の口の冷たい風が、紅の脇を駆け抜ける。焦る紅の心を煽るように、風は彼の白金色の髪を容赦なく揺らしていた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
照瑠が目を覚ましたとき、そこは見覚えのない場所だった。目の前に見えるのは天井のようだが、部屋全体が薄暗く、どこにいるのかわからない。
背中に伝わる冷たい感触に、照瑠は初めて自分が台のような物の上に寝かされているのに気がついた。慌てて起き上がろうとするものの、何かが体に食い込んでいて体を起こす事ができない。固い、ベルトのような拘束具によって、照瑠の体はしっかりと縛り付けられていた。
いったい、自分は何をされているのか。叫ぼうとしたが、くぐもった声が喉の奥から漏れただけだった。口にはきつく猿轡が咬まされ、声を上げることさえもできなかった。
「やあ、お目覚めかね」
部屋のどこからか男の声がした。首だけを声のする方に向けると、そこには白衣を着た男が一人立っていた。
それは、癒月の父親だった。天倉啓輔。癒月の家に上がった際、照瑠に紅茶を入れてくれた男だ。
もっとも、今の啓輔からは、照瑠を迎え入れた時に見せた優しい雰囲気は微塵も感じられなかった。眼鏡の奥から覗く目には狂気の光を宿し、手にしたビーカーのような物の中で、何やら青白く濁った液体をかき混ぜている。
「君がここに来てくれたことは、実に幸運だったよ。何しろ、癒月を助けるための獲物が、自分から飛び込んできてくれたんだからね」
癒月を助ける。獲物。いったい、啓輔は何を言っているのだろうか。
状況が飲み込めずに混乱する照瑠だったが、啓輔は構わずに話を続けた。
「君には話しておいてもいいだろう。もう、二カ月以上も前のことだ……」
薄暗い部屋の中で、啓輔がぼんやりと天井を仰ぐ。部屋の中に電灯の類はなく、代わりに壁際には所狭しと蝋燭が置かれていた。その数は、百は下らないだろう。黒布の上に置かれた燭台に刺さり、オレンジ色の明かりが薄暗い部屋を微かに照らしている。
「あの日、癒月は事故に遭った。夏休み、ボランティア活動の帰りに車に轢かれてね。私の病院に運ばれた時は、もう虫の息だったよ」
ビーカーの中の物をかき混ぜながら、啓輔は続ける。時折、カラカラというガラス棒がビーカーの壁を叩く音が部屋に響く。
「手術をしても助からない。目の前で娘が死にかけているというのに、私には手も足も出なかった。それに、なんでも相手の車は逃げてしまったらしく、未だに犯人も見つかっていない。どうして私が……私の癒月がこんな目に遭わねばならないのか……。そう思った時だったよ」
薬を混ぜ終えたのか、啓輔はそれを部屋の奥に置かれた祭壇のような場所に持って行った。そこには人間の頭蓋骨が置かれており、上にはやはり蝋燭が乗っていた。
「私のところに、救いの神が現れたんだ。その人は、私にある術を教えてくれた。癒月の身体を生き長らえさせ、その魂を現世に留めるための方法をね」
頭蓋骨の上の蝋燭を消し、啓輔は骸骨の頭の部分をつかんで持ち上げた。頭頂部だけを切り離してあったらしく、それはすっぽりと外れて皿のようになった。
骸骨で作られた皿の上に、啓輔は先ほどの薬を注ぎ込む。その上で、今度は何やら香のような粉末を取り出すと、それも皿に乗せて混ぜ合わせた。
「癒月の肉体は、医学的には当に死んでいた。しかし、魂だけは、まだ辛うじてこの世に留まっていたんだよ。だから、私は癒月に代わりの肉体を与えることにしたんだ。事故で失った部分を他の人間からもらい、それを癒月に与えてやることで、魂が抜け出てしまうのを防ごうとした……」
皿の上の薬を混ぜ合わせ、啓輔はそれを刷毛のような物につけた。薬は粘性の高い物に変わっており、タールのように皿の上で細い糸を引いていた。
「初めは出会い系サイトを使って獲物を集めたよ。だが、所詮は金次第で身体を売るような女どもだ。癒月の身体には完全に適合せず、徐々に拒絶反応が出始めた」
人の身体を癒月に与えるという行為。そして、啓輔の口から出た拒絶反応という言葉。まさか、それが癒月の見ていた悪夢や、彼女の体調不良の原因だったのか。あれこれと考えてみたが、照瑠には啓輔の言っている術の詳細まではわからなかった。
「癒月の身体は日に日に限界を迎えて行ってね……。その度に、私は新しい身体の部品を用意してやったのだが、崩壊は早まる一方だった。殺してから移植したのが悪かったのかとも思い、最後の生贄は完全に殴り殺さず気絶させただけだったが……。麻酔をかけた状態で目玉や舌を移植しても、やはり結果は同じだった……」
薬の調合を完全に終え、啓輔は刷毛で皿の上の物をかき混ぜながら照瑠に近づいてきた。その目には、やはり光はない。全てを飲み込む漆黒の闇のような瞳の中に、無数の蝋燭が揺れているのが映っているだけだ。
「だから、私は考えた。どこの馬の骨ともわからぬ女など、所詮は癒月の身体として相応しくない。ならば、癒月のことをより大切に思っている人間の身体を、新しく癒月に与えればよい。殺さず、余計な薬なども用いずに、生きたままの状態でね……」
啓輔の顔が、にやりと歪む。その言葉の意味を理解した照瑠はなんとか抗おうとしたが、身体を拘束するベルトが食い込むだけだった。
「見たまえ……」
啓輔が刷毛を動かす手を止めて指を刺した。そこには癒月が下着だけの姿で眠っており、照瑠と同じ手術台に寝かされている。
「癒月の身体は、今も崩壊を続けている。あの痣が、何よりの証拠だよ。事故で怪我をした部分が、再び傷つき始めているんだ……」
癒月の身体には、ところどころに青痣のようなものが見て取れた。その内のいくつかは大きく腫れ上がり、中には裂けてどす黒い血を吐き出している物もあった。
「この薬は、癒月の身体と君の身体を一つにするための物だ。なあに、心配は要らないよ。最初は少し痛いだろうが、すぐに楽になる。君は癒月の一部となって、永遠に彼女と共に生きるんだ。それこそ、頭の先から爪の先まで一つになってね……」
緑色に変色した液体のついた刷毛を持ち、啓輔が再び薄笑いを浮かべた。目だけを下に向けて動かすと、照瑠は自分も癒月と同じように、下着だけの姿で縛られていることに気が付いた。
恥ずかしさよりも恐怖の方が大きかった。これから自分は、あの得体の知れない薬を全身に塗られ、生きたまま解体されるのだ。それを思うと、自然に涙が溢れて来た。
(誰か……誰か、助けて……!!)
声にならない悲鳴を上げて、照瑠は台の上で泣き叫んだ。だが、彼女の叫びは言葉にさえならず、啓輔の非情な足音だけが近付いてきた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
犬崎紅が工藤健吾を呼び出したのは、彼の通う火乃澤高校の前だった。待ち合わせの場所としては悪くはないが、これが昼間だったら豪い騒ぎになっていたはずだ。既に日が落ちていたことが唯一の幸いか。
「遅いぜ、刑事さん。俺が待っている間に、次の犠牲者が出たらどうするつもりだ」
「そんなこと言ったって、パトカー一台走らせるのでも許可がいるんだよ。一応、警察の持ち物だからね。僕が刑事でも、勝手に使っていいわけじゃないんだ」
「下らん説明は不要だ。それよりも、早く俺を車に乗せろ。犯人の場所まで案内してやる」
今日の紅はいつになく強引だ。工藤がそう思った時には、紅は既にパトカーの後部座席に入り込んだ後だった。
「ちょ、ちょっと、犬崎君!?」
慌てて止めようとした工藤だったが、時既に遅し。紅は後部座席に腕を組んだまま腰を下ろし、バックミラー越しに助手席の岡田のことを睨みつけていた。
「おい、オカルト小僧。お前、今日は随分と態度がデカイじゃねえか」
岡田が紅に言ってきたが、紅は取り合わなかった。工藤が運転席に戻ったことを知るや否や、二人の刑事に向かって話し出す。
「今から俺が、例の連続殺人事件の犯人のところへ案内してやる。俺の感が正しければ……犯人は、恐らく九条の友達の家にいるはずだ」
「だったら、早くその場所を教えな。そっから先は、俺達の仕事だ」
「悪いが、俺も詳しい場所までは知らない。だが……こうすれば、問題はない」
紅の赤い瞳が一瞬だけ妖しい光を帯びた。彼の全身から放たれた冷たい気に、岡田と工藤の二人は思わずぞっとして黙り込む。何やら車全体を、異様な物が包んでいる。そんな感覚に襲われたのだ。
「これでいい。後は、俺の黒影が九条の匂いを探る」
そう、紅が言った途端、パトカーのエンジンが唐突にかかった。ギアにもエンジンキーにも触れていなかっただけに、工藤は運転席で狐につままれたような顔をしている。
「け、犬崎君。これは……?」
「九十九神の術だ。道具に霊魂を宿らせて、そいつの意思で道具を操る」
「道具を操る? ってことは、このパトカーに幽霊をとり憑かせたってことかい?」
「そうだ。黒影には、以前の事件で九条を見張らせたことがあるからな。その時の匂いを頼りに探らせれば、後は勝手に九条のいる場所まで案内してくれるはずだ」
「匂いを頼りにって……。そんなことができるなら、先に現場だけでも見つけさせることができたんじゃ……」
「残念だが、現場が歩いて行ける距離、行ける場所とは限らないんでな。一刻を争う可能性もあるならば、車を足に使った方がいい」
紅の言葉が終わりきらない内に、パトカーがけたたましいサイレンを鳴らして走り出した。急に動き出したため、岡田と工藤がシートに叩きつけられて軽く唸った。
回転灯を光らせながら、パトカーが夜の火乃澤町を走る。工藤はブレーキにもハンドルにも触れていなかったが、それでも実に正確に、パトカーは夜の町を走り抜けて行った。
「す、すごいな、これ……。全自動操縦みたいだ……」
工藤が感心した様子で言った。横で見ている岡田は、未だに信じられないといった感じで勝手に動くハンドルやギアを見つめている。
「感心するのは後だ、刑事さん。それよりも、今回の事件……その犯人の正体を知りたくはないか?」
「えっ!? あ、ああ、そうだね。できれば手短に頼みたいけど……」
「わかった。ならば、目的の場所に着くまでに話すぞ。もっとも、あんた達には理解できそうにない話かもしれないがな……」
先に念を押すようにして言う紅だったが、岡田も工藤も抗議するようなことはしなかった。紅が絡んだ時点で事件が常識で理解できる範疇を越えてしまったことは明白だったし、何よりも、九十九神の術などを目の前で見せつけられれば、否でも向こう側の世界の存在を信じざるを得ない。
「今回の事件は、禁術を使う何者かが動いている。以前、甘味屋で話した反魂の術の話、覚えているか?」
「ああ、勿論だよ。でも、あれは関係なかったんじゃないのかい?」
「そうだ。確かに、今回の事件に反魂の術は関係ない。だが、それとひじょうに良く似た……それも、もっと性質の悪い禁術が関わっていたとしたら、どうする?」
「性質の悪い禁術だって!? なんだい、それは……」
「死者を蘇らせる術……。否、正確には、死者の魂に生者の肉体を与えるための術と言った方がいいな。本来は死んであの世へ行くはずの魂を、強引にこの世に縛り付ける。死んでしまった肉体の、代わりを与えてやることでな……」
「肉体の代わり……。ってことは、まさか!?」
工藤の頭の中で、点と点が次々に繋がり始めた。
死者を蘇らせる術。そして、生者に代わりの肉体を与えるという言葉。そこから導き出される回答は、ただ一つ。
「今回の事件の犯人は、術のために新しい肉体を必要としていた。術が不完全だったのか、それとも定期的に肉体を交換する必要があったのかは知らないが……とにかく、術のためには他人の肉体を犠牲にする必要があった」
「なるほど。それじゃあ、殺された女性達は、そのための生贄に……」
「そう考えて間違いはない。恐らく犯人は、術によって強制的にこの世に縛り付けられた者の身内ってところだろう。自分の親族を失いたくないがために、他人の命を犠牲にすることも厭わないような人間だ」
最後の言葉を、紅は複雑な表情をして締めくくった。
人を殺すのは罪である。それは変わらない。だが、自分の愛する者のために他人を犠牲にすることは、果たして悪なのだろうか。
殺人は罪だ。そして、禁術に手を出すことも罪である。が、罪を犯した本人は、それを罪と自覚していないだろう。
罪と悪。二つの言葉は似ているようで、まったくの同義ではない。罪は犯した本人の自覚がない以上、完全な悪とはならないのだ。少なくとも、罪人となってしまった本人の主観からは。
だが、それでも紅は、今回の事件の犯人に同情するつもりなどなかった。
彼にとって大切なのは、九条照瑠を守ること。そのためであれば警察でさえも利用し、立ち塞がる者は全て闇薙ぎの太刀で斬り捨てる。相手の理由が何であれ、照瑠の命を危険に晒す存在であれば、それは紅にとっての敵だ。
黒影の乗り移ったパトカーが、急に速度を上げ始めた。目的の場所が近いのか、形振り構わずに他の車を追い越して行く。
「ちょ、ちょっと、犬崎君!? これ、飛ばし過ぎじゃ……」
「文句を言うな、刑事さん。別に、人を轢き殺したわけじゃない。今は黒影を信用しろ」
そう言った矢先、パトカーが大きく車体を揺らして急ブレーキをかけた。横薙ぎに倒されるような力を受け、工藤と岡田の身体も横に叩きつけられる。
「痛っ! おい、クソガキ! 曲がるなら曲がると、先に言ってからにしろ!!」
「無理だな。運転に集中している以上、黒影は喋れない。それ以前に、あんた達に黒影の言葉はわからないだろう?」
「ったく、屁理屈を……。って、おい! この道は車両進入禁止だぞ! どこ走ってやがんだ、この馬鹿野郎!!」
気がつくと、パトカーは住宅街の中にある細い道に入り込んでいた。左右の壁は、車が通れるか通れないかというぎりぎりの幅しかない。時折、せり出した郵便ポストなどにぶつかって、早くもサイドミラーがポストごと吹っ飛んでいた。
「やめねえか、この幽霊小僧! こんなところで事故ったら、マジで洒落になんねえぞ!!」
助手席で岡田が喚いたが、紅は気にも止めていなかった。ただ、「黒影は一番近い道を選んで走っているだけだ」と告げ、まるで取りあう様子はない。
そうこうしている間にも、横からはガリガリという嫌な音が響いてきた。恐らく、車体が外壁と擦れる音だろう。進めば進む程に傷だらけになってゆくパトカーの姿を想像すると、それだけで頭が痛い。
ゴミバケツをひっくり返し、道に置かれた小さな植木鉢を轢き潰し、さらには数件の家の郵便ポストを破壊して、パトカーはようやく車両進入禁止区域を抜けた。
目の前の道が開け、ボロボロになったパトカーが姿を現す。左のドア部分をブロック塀に擦りつけながら、パトカーは強引に左折して道に出た。
これで、ようやく暴走運転から解放されたか。そう思った岡田と工藤だったが、彼らの考えは甘かった。
パトカーが左折を終えたその時、どこからか一匹の黒猫が飛び出して来たのだ。これには黒影も反応できなかったのか、慌てて急ブレーキをかける。が、ハンドルを切り損ねたのか、タイヤが地面を擦る嫌な音を立てながら、パトカーは物の見事に目の前にある電柱に激突した。
「い、いてて……。だ、大丈夫ですか、岡田さん……」
「なんとかな……。だが、俺はもう、こんな化け物のとり憑いた車に乗るなんてのは、まっぴらごめんだぜ」
幸いにして、岡田も工藤も首を痛めずに済んだようだった。それでも頭や首の後ろをさすりながら、二人は恐る恐る車の扉を開けて外にでる。
そこにあったのは、満身創痍になって力尽きたパトカーだった。ここまで酷く壊してしまっては、始末書の一枚や二枚では済みそうにない。
「あのガキめ……。まったく、なんてことしやがる……」
岡田の拳が怒りに震えていた。まあ、ここまで酷くパトカーを壊されれば無理もない。
「やい、クソガキ! この始末、どうつけてくれるってんだ、おい!!」
岡田が紅を捕まえて怒鳴る。が、紅はやはり意に介さず、そのまま岡田の手を押さえて前に出た。
「ここだ。この建物の中に、九条と犯人がいる……」
閑静な住宅街の中に、ぽつんと佇むようにしてある診療所。その看板には緑色の字で≪天倉医院≫と書かれていた。