俺、パチンコ台になった?
動かない。
指一本どころか、腕も脚も、首すら動かせない。
いや、「動かせない」という表現が正しいのかどうかも分からなかった。動かそうとしているつもりなのに、そもそもそこに腕や脚があるという感覚自体がないのだ。
目を開けようとしても開かない。瞼に力を入れる感覚すらなく、鼻から息を吸おうとしても何も起こらない。それなのに、不思議と苦しくはなかった。息をしていないはずなのに、窒息する気配がない。
声を出そうとして、そこで初めて気づいた。
口もない。
目も鼻も口もない。手足どころか、自分の身体がどんな形をしているのかさえ分からない。
ただ意識だけが残されて、何も見えない暗闇の中に放り込まれている。
――なんだ、これ。
夢……なのか?
いや、夢にしたってもう少し何かあるだろう。夢の中で身体が動かないことなら経験したことがあるが、自分の身体そのものが存在しているのか分からないなんて初めてだ。
しばらく混乱したあと、一つの可能性に思い至った。
俺、死んだのか?
そう考えてみると、妙に納得できた。むしろ、どうして今まで思いつかなかったのかというくらいだった。
だったら、ここは――地獄か。
笑えない話だが、俺の場合は地獄行きでも文句は言えない。
最初からろくでもない人間だったわけじゃない。
大学を出て、それなりの会社に入り、給料だって悪くなかった。結婚もした。妻と二人で少し古いマンションを借りて、いつか頭金が貯まったら家でも買おうか、なんて話をしていた時期もある。
休日には一緒に買い物へ行き、たまには旅行もした。
大成功なんてしなくていい。普通に働いて、普通に年を取って、普通に死ぬ。
それで十分だと思っていた。
――あいつに誘われるまでは。
「一回くらい行ってみようぜ。面白いからさ」
友人のその一言が始まりだった。
パチンコ。
初めて店に入ったときは、何が面白いのかさっぱり分からなかった。
うるさいし、眩しいし、煙草臭い。隣では知らないおっさんが死んだ魚みたいな目でハンドルを握っている。
金を払って銀色の玉を飛ばし、それが盤面を転がっていくのを延々と眺める。
こんなものに何時間も座っていられる奴の気が知れない。
――そう思っていた。
当たるまでは。
けたたましい音。目が痛くなるほどの光。揃った数字。そして、ジャラジャラと吐き出される大量の玉。
店を出たとき、財布の中には朝より多い金が入っていた。
あの感覚を、俺は忘れられなかった。
一回だけ。
あと一回だけ。
今日負けた分を取り返したらやめる。
今月はもう行かない。
次に勝ったら、本当に最後にする。
何度そう思っただろう。
妻に隠れて行くようになり、やがて貯金にも手を出した。当然、いつまでも隠し通せるはずがない。
「もうやめてよ」
何度も言われた。
「お願いだから。前みたいに戻ってよ」
泣かれたこともあった。
それでも俺はやめなかった。
離婚届を置いて妻が出ていった日ですら、その日の夕方には店にいた。
今思えばどうかしていた――なんて言えば、少しは聞こえがいいのかもしれない。
違う。
あの頃の俺だって分かっていた。
分かっていて、それでも座ったのだ。
そのうち、普通の店だけでは満足できなくなった。
もっと勝てる。一度当てれば全部取り戻せる。
そんな甘い言葉に釣られて、表では営業できないような高倍率の違法店にまで出入りするようになった。
結果は、考えるまでもない。
全部なくなった。
貯金も、妻も、信用も。
最後に残っていた仕事すら、店に行くために何度も会社をサボっていたことがバレて失った。
それでも、やめなかった。
財布の中身が空になっても、冷蔵庫の中身が空になっても、手元に少し金が入れば食べ物より先にパチンコへ使った。
最後は、誰も訪ねてこない安アパートの一室だった。
腹が減っていた。
何日まともに食べていなかったのかも覚えていない。起き上がる力さえなく、薄汚れた天井を眺めながら――。
…………ああ。
そうだった。
俺、死んだんだ。
自分でも呆れるような人生だった。
だったら、やっぱりここは地獄なのかもしれない。
目も見えず、声も出せず、身体も動かせず、永遠にこの暗闇に放置される。
俺みたいな奴には、お似合いだ。
……それでも。
もし、もう一度だけやり直せるなら――。
《システムアップデートが完了しました》
突然、頭の中に声が響いた。
……は?
《初期機能を取得します》
女とも男ともつかない、感情のない声だった。
《聴覚を取得》
なんだ?
《視覚を取得》
待て。
《念話を取得》
念話?
《異世界言語を取得》
今、異世界って言ったか?
《収納袋を取得》
収納袋ってなんだよ。
《取扱説明書を取得》
説明書?
俺に?
《初期機能の取得が完了しました》
それきり、声は消えた。
いや、待て待て。
地獄じゃないのか?
システムアップデート? 異世界言語? そもそも俺の何をアップデートしたんだ。
混乱していると、不意に音が聞こえた。
サァァァ……。
風が木の葉を揺らす音。
どこかで鳥のようなものが鳴いている。
さっきまで完全な無音だった世界に、急に音が満ちていた。
これが……聴覚?
そう思った瞬間、それまで真っ暗だった世界にも光が差した。
眩しい。
長い間暗闇にいたような感覚のせいで、一瞬何も見えなかったが、やがてぼやけた色が輪郭を持ち始める。
最初に見えたのは、緑だった。
巨大な木々がどこまでも続いている。枝の隙間から柔らかな光が差し込み、地面には背の低い草が生い茂っていた。
どうやら森の中らしい。
俺のすぐ前には、ひときわ大きな一本の木が立っている。その根元だけ木々が途切れ、人が何人か座れそうな小さな空き地になっていた。
「……なに、これ?」
声がした。
空き地の向こうに、一人の女の子が立っていた。
十代後半くらいだろうか。茶色がかった髪に、簡素な布の服。腰には小さな袋を提げている。
どう見ても現代日本の格好ではない。
そして何より――頭の上に、耳があった。
三角形の、ふさふさした猫のような耳。
……コスプレ?
そう思った直後、その耳がぴくりと動いた。
「昨日はなかったよね……? なんでこんなのがあるの?」
女の子は俺の周りをぐるりと回った。
どうやら「こんなの」というのは俺のことらしい。
「誰かが置いていったのかな。でも、こんな大きいの、どうやって運んだんだろ……」
知らない言葉のはずだった。
それなのに、意味が自然と頭へ入ってくる。
――異世界言語。
さっきの声は、本当だったのか?
「お、おい」
「にゃあっ!?」
女の子が飛び退いた。
俺自身も驚いた。
声が出た。
いや、口を動かした感覚はない。頭の中で喋ろうとした瞬間、そのまま相手に言葉が届いたような、不思議な感覚だった。
これが念話か。
「い、今、誰かしゃべった!?」
「俺だよ」
「どこ!?」
「だから、目の前!」
女の子がきょろきょろと辺りを見回したあと、恐る恐る俺のほうを見る。
「……これ?」
「たぶん」
「たぶんって何!?」
「俺だって、さっきから何がなんだか分からないんだよ」
「じゃ、じゃあ……魔物?」
「違う……と思う」
「思う?」
「自分でも分からないんだって!」
女の子の猫耳がぺたんと伏せた。
「やっぱり怪しい……」
「待て待て! 逃げるな! 頼むから!」
踵を返しかけた彼女を必死に呼び止める。
「何もしない。というか、したくても動けないんだ。見れば分かるだろ?」
「……本当に?」
「本当だ。さっきから指一本動かせない」
「指?」
「あ……いや。今の俺に指があるかどうかも分からないけど」
「やっぱり変なの」
「俺が一番そう思ってるよ」
しばらく警戒されながら話を続け、ようやく彼女も俺がいきなり襲いかかるような存在ではないと理解してくれたらしい。
彼女の名前はミナ。
ミルスト族という獣人の一族の娘で、この森はオルラン大森林と呼ばれているという。ミルスト族は、この巨大な森で暮らすいくつもの部族の一つらしい。
「それで、ミナはなんでここに?」
「……散歩」
「散歩?」
「うん。散歩」
目が泳いでいる。
「本当に?」
「……ここ、大きな木があるから涼しいの。昼になると誰も来ないし」
「つまり?」
「ちょっと休みに来ただけ」
「仕事を抜け出して?」
「……ちょっとだけ」
「サボりじゃねえか」
「うるさいにゃ!」
どうやら俺が現れたこの空き地は、ミナが仕事を抜け出して昼寝をするために使っている場所らしい。
よりにもよって、獣人の女の子のサボり場所に落ちてきたのか、俺は。
「それより、あんたは結局なんなの?」
「だから、それを調べたいんだよ。俺、自分の姿が見えないんだ」
「自分なのに?」
「俺から見えるのは正面だけなんだよ。首も動かせないし」
「ふーん……」
「悪いけど、俺がどんな形してるか教えてくれないか?」
ミナが俺を改めて眺める。
「大きな箱」
「もう少し詳しく」
「硬そう」
「見たまんまじゃねえか」
「変な絵がいっぱいついてる。あと、ここ透明になってて……中に銀色の丸いのがいっぱいある」
「…………」
嫌な予感がした。
いや。
嫌というより、あまりにも馴染み深い予感だった。
「ちょっと触ってみてもいい?」
「ああ。頼む」
ミナがおそるおそる手を伸ばし、俺の側面らしき場所に触れた。
「うおっ」
「にゃっ!?」
思わず声が出た。
痛いわけじゃない。ただ、今まで何も感じなかった場所に突然「触られている」という感覚が生まれたせいで、びっくりしただけだ。
「なに今の声」
「仕方ないだろ。自分でもどこを触られてるのか分からないんだから」
「変なの」
「好きでこうなったわけじゃねえよ」
ミナは少し面白くなってきたのか、今度は俺の正面を軽く叩いた。
「おい、遊ぶな」
「ここも分かる?」
「分かる。だから叩くな」
「面白い」
「こいつ……」
さっきまで怯えていたくせに、慣れるのが早い。
「ミナ。俺の正面に、小さい穴みたいなのはないか?」
「穴?」
「ああ。硬貨……じゃ分からないか。何か小さいものを入れられそうなところだ」
「ちょっと待って」
ミナが覗き込む。
「あ。あるよ」
やっぱり。
嫌な予感が、確信に近づいていく。
「そこに、この辺で使ってる金を入れてみてくれないか?」
「お金を?」
「ああ」
「なんで?」
「……たぶん、俺の使い方が分かる」
「自分なのに使い方知らないの?」
「俺にも事情があるんだよ!」
ミナが疑わしそうに俺を見つめる。
「お金、返ってくる?」
「それは……」
言葉に詰まった。
もし俺の予想が正しいなら。
「増えるかもしれない」
「増える?」
ぴん、と猫耳が立った。
分かりやすい。
「ただし、なくなるかもしれない」
「どれくらい増えるの?」
「知らん」
「二倍?」
「だから知らないって」
「十倍?」
「人の話聞けよ」
ミナはしばらく悩んだあと、腰の袋を開いた。
中から取り出したのは硬貨ではなく、親指の先ほどの大きさをした平たい石だった。
表面は滑らかに磨かれ、中央には獣の爪を思わせる三本の刻みが彫られている。
「これが金なのか?」
「そうだけど?」
「石じゃないか」
「お金だよ。ミルスト族はずっとこれを使ってるもん」
まあ、円が通用するはずもないか。
問題は、こんな石が俺の身体に入るのかどうかだ。
「一個だけなら……」
「大事な金ならやめとけよ」
「でも、増えるかもしれないんでしょ?」
「なくなるかもしれないとも言ったぞ」
「でも増えるかもしれない」
「…………」
その顔を見て、俺は言葉を失った。
知っている。
嫌というほど知っている顔だ。
もしかしたら。
次こそ。
今度こそ。
そうやって金を入れる。
昔の俺と同じ顔だった。
「……本当に一個だけにしとけよ」
「うん」
「なくなっても俺のせいにするなよ」
「分かった」
「本当に分かってるか?」
「早くやってみたい」
「絶対分かってないな……」
ミナは磨かれた石を穴に当てた。
「これ、入らないよ?」
「だろうな」
やっぱりサイズが違う。
そう思った瞬間だった。
《対応通貨を確認しました》
「え?」
《貨幣規格を登録――ミルスト族爪印石》
俺の身体の一部が、ガコン、と音を立てた。
さっきまで石より明らかに小さかった穴が、わずかに形を変える。
「動いた!」
「俺も今のは知らん!」
「入れていい?」
「……やってみろ」
ミナが爪印石を差し込む。
今度は抵抗なく、するりと吸い込まれた。
ガコン。
その瞬間。
ブゥン――。
身体の奥で、何かが目を覚ました。
「わっ!?」
赤、青、黄、緑。
色とりどりの光が一斉に点灯し、静かな森を場違いなほど鮮やかに照らし出す。
そして。
カンッ!
一発の銀色の玉が弾き出された。
カラカラ、カン、カンッ!
次々と玉が盤面を走り、びっしり並んだ釘にぶつかっては右へ左へ跳ねていく。
静かだった森に電子音が響き、光が激しく明滅する。
「なにこれ……!」
ミナが目を輝かせて盤面に顔を近づける。
「すごい! 中で銀色の玉がいっぱい動いてる!」
「…………」
知っている。
俺は、これを知っている。
この玉も。
この釘も。
この耳障りな電子音も。
目が痛くなるような光も。
人生を壊すほど見続けてきた俺が、見間違えるはずがない。
嘘だろ。
まさか、俺――。
キュインッ!
甲高い音が森中に響いた。
「にゃっ!?」
盤面の数字が止まる。
7。
7。
そして――7。
「……マジかよ」
次の瞬間。
ジャラジャラジャラジャラジャラ――!!
「うわああっ!」
俺の下部から大量の爪印石が吐き出された。
ミナが慌ててしゃがみ込み、両手で石を拾い集める。
「お金! お金がいっぱい出てきた!」
「本当に払い出すのかよ……」
「一個しか入れてないのに! こんなに!」
ミナの尻尾まで興奮したように揺れている。
俺はそんな彼女を見ながら、ようやく認めざるを得なかった。
銀色の玉。
釘。
液晶。
大当たり。
そして払い出し。
間違いない。
俺は――。
パチンコ台になっている。
「なんでよりによってパチンコなんだよ……」
「パチンコ?」
「俺のことだよ……たぶん」
「パチンコっていうの? 変な名前」
「お前にだけは言われたくない」
「なんで?」
「なんでもない」
それより、大当たりした。
もしこれが何らかの条件なら、俺にも変化が起きたかもしれない。
「ミナ、ちょっと待ってくれ。もしかしたら今ので俺も――」
「みんなに教えてくる!」
「は?」
ミナは爪印石を抱えたまま立ち上がった。
「こんなに増えたんだよ! みんなにも見せてくる!」
「いや、待て。先に俺が動けるようになったか確認を――」
「すぐ戻るにゃ!」
「おい!」
最後まで聞かず、ミナは四つん這いになった。
「……え?」
次の瞬間、地面を蹴った。
速い。
めちゃくちゃ速い。
「おい、ミナ!」
四本の手足で森の中を駆け抜け、どんどん小さくなっていく。
「待て! 俺を置いていくな!」
そして消えた。
あとには、木々のざわめきと鳥の声だけが残った。
さっきまでミナが昼寝をしていたという大木の前。
その小さな空き地に、一台のパチンコ台だけがぽつんと残されている。
「…………」
身体を動かそうとする。
動かない。
もう一度試す。
やっぱり動かない。
「なんだよ……」
当たったのに。
「結局、動けねえじゃねえか!」
返事はない。
「おーい! ミナ!」
森は静かなままだ。
「せめて俺も連れていけよ!」
どうやって運ぶのかは知らないが。
「ミナ! 戻ってこい! こんな森のど真ん中にパチンコ台を一台だけ置いていくなああああ!」
そのときだった。
ピロン。
妙に軽い音が頭の中に響いた。
《初回遊技が完了しました》
「……は?」
《経験値を獲得しました》
目の前に、何かが現れた。
さっきまで木々しかなかった空間に、半透明の青白い板が浮かんでいる。
まるでゲームの画面だ。
《規定条件を達成しました》
《LEVEL UP》
「…………」
俺はしばらく、その文字を眺めていた。
死んだ。
異世界に来た。
パチンコ台になった。
猫耳の女の子に金を入れられ、一発で大当たりして、そのまま森に置き去りにされた。
そして今度は、レベルアップ。
「……パチンコ台に、レベルってなんだよ」
どうやら俺の二度目の人生は、一度目よりずっと訳の分からないものになりそうだった。




