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【AI小説】虫様|2026  作者: 茉莉花イツカ


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第四話:背徳の代償と、託された運命

 ぬらぬらと燐光を放つその質感に、心臓が握りつぶされるような錯覚を覚えた。 大扉の隙間から滑り出てきたのは、探し求めていた抜け殻などではなく、禍々しい生命そのものだった。


 全身からまばゆい青緑色の燐光を放ち、無数の触手や脚を不気味に震わせる、生きた虫様。複眼を妖しく光らせ、じっとこちらを見下ろすその異形な姿。

 網膜を灼くような光を前に、ターレンたちは息をすることさえ忘れて立ち尽くした。


 だが、その虫は人間の気配を嫌うように、素早く大扉の隙間へと引き返そうとする。


(逃がしたら、リオが死ぬ)


 その瞬間、ターレンの頭からすべての思考が消え去った。

 恐怖も、道理も、村への忠誠も。


「……これしか、ない」


「え……? ターレン、お前、何言って……」


 驚愕に目を見開くカイの腰から、ターレンは半ば強引に手斧を奪い取った。ずしりと、使い慣れた実用的な重みが両手に戻ってくる。


「待て、ターレン! 狂ったか! それは虫様だぞ!」


「やめろ、ターレン! 死骸を探しに来たんだろう! 虫様に直接刃を向けるなんて……そんなこと、赦されるはずがない!」


 トウヤとカイが同時に叫び、ターレンの身体を組み伏せようと飛びかかってきた。トウヤの手が肩を掴み、カイの腕が腰を抱え込む。男二人の重みが一気にのしかかり、冷たい地面に押し潰されそうになった。


「放して! 放しなさいよ! リオが死んじゃうの! 今ここでこれを殺さなきゃ、リオは明日にはいないのよ!」


 ターレンは狂ったように叫び、二人を振り払おうと身体をよじった。

 泥にまみれ、衣服が擦れる音と怒号が、狭い石の大広間に激しく反響する。


 二人がかりの制止を、ターレンはリオの命というたった一つの執念だけで撥ね退けた。限界を超えた馬鹿力が、彼女の細い身体から湧き出ていた。


「っ、この……放せぇ!」


 トウヤの腕を肘で突き上げ、カイの拘束を強引に引きちぎる。

 自由になった両手で斧の柄を握り直し、ターレンは逃げようと触角を揺らす光へと向かって、思いきり刃を振り下ろした。


 ――ギチィッ!


 嫌な硬質の破砕音が広間に響き渡った。

 斧の刃の下で、畏怖の対象であった虫様の外殻が無残に砕け、中から青黒く粘り気のある体液が激しく噴き出す。


 ターレンの顔と衣服を容赦なく汚しながら、虫様は悲鳴のような金属音を響かせ、やがてズシンと地響きを立てて絶命した。


 ターレンは荒い息を吐きながら、飛び散った肉片と外殻の破片を、震える手でがむしゃらに袋へと詰め込んだ。その横で、カイとトウヤはあまりの光景に言葉を失い、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。


 だが、ターレンが夢中で破片をかき集めていた、その時だった。


 大扉のさらに奥、光をすべて吸い込む暗黒の深淵から、不穏な地鳴りが響き始めた。


 カサカサカサカサカサカサカサカサカサッ!!!


 乾いた硬質な音が、無数に重なって迫ってくる。それは一匹や二匹ではない。数千、数万という、地底に蠢く虫たちが這い出してくる恐怖の音だった。


 さらにその遥か奥の闇から、今しがた息絶えた虫様など比較にならないほど巨大な、山の如き「真の巨形」が、禍々しく蠢き始めるのが見えた。


 人間が足を踏み入れてはならなかった世界の崩壊が、今、底知れぬ濁流となって彼らに襲いかかろうとしていた。

 押し寄せる這行音さいこうおんと地鳴りが、ターレンの理性を強引に引き戻した。


「閉めるぞ! 早く手を貸せ!」


 トウヤの悲鳴のような叫びに、カイとターレンは大扉の淵に飛びついた。

 全身の体重をかけ、顔を真っ赤にして重厚な扉を押し戻そうとする。


 だが、先ほどあれほど滑らかに開いた扉は、まるで地底の岩盤と一体化してしまったかのように、びくともしない。

 数秒の悪あがきの末、彼らは悟った。もう、手遅れなのだと。


「駄目だ、逃げるぞ!」


 カイがターレンの腕を掴み、大広間の隅にある狭いトンネルへと引っ張った。三人は、岩の隙間へと滑り込んだ。


 背後からは、岩を引っ掻く不気味な音が肉薄していた。暗く狭いトンネルを狂ったように這い進み、命からがら洞窟の入口へと転がり出た。


 カイが扉を閉め、トウヤが銀の鍵を力任せに回した。

 そのとき、ターレンは自分の両手が泥と青い体液で汚れていることに気づき、慌てて胸元を確かめた。


(あった……!)


 そこには、命懸けで手に入れた虫様の肉片が入った袋が、しっかりと抱えられていた。これさえあれば、リオを救える。


「……あ。斧が、ない」


 ターレンの掠れた声に、二人がハッとした。


 虫様を叩き潰したあの手斧は、地底の血溜まりの中に捨て置かれたままだ。


「……俺もだ。ランタンを、あそこに置いてきた」


 トウヤが、煤で汚れた自分の空の手を見つめて呆然と呟いた。

 あの深淵に自分たちの痕跡と「正気」を置き去りにしてきたような、得体の知れない喪失感が彼らを襲う。


 ──カサ……カサカサッ……。


 閉ざされた扉の向こう、長い喉のようなトンネルの奥から、確実にこちらを目指して這い寄る足音が響いている。


「……道具のことなんてどうでもいい! 扉の向こうに、あいつらが入り込んだ。……来るぞ」


 カイが扉に耳を当て、顔を引きつらせて吐き捨てた。到達までのわずかな空白こそが、彼らに残された最後の猶予だった。


「村長のところへ行こう。正直に話して、避難を……!」


 ターレンの提案を、トウヤは強く遮った。


「いや、ターレン。お前はすぐにリオのところへ行け。あいつは今夜が山なんだろう?」


「父さんへの報告は俺がやる。……俺は、村長の息子だからな」


 トウヤは銀の鍵をじっと見つめた。その横顔には、敬ってきた父親を欺き、その信頼を自ら木端微塵に砕くことへの、血の滲むような覚悟が滲んでいた。


「お前一人に全部の泥を被せるなんてできるわけねーだろ!」


 カイが声を荒らげると、トウヤは小さく頷いた。


「……そうだな。じゃあカイ、お前は俺と一緒に来てくれ。父さんを説得するには、お前の言葉も必要だ」


「その代わりターレン、お前は一刻も早くリオのところへ行け。薬を飲ませたら、村の裏手で合流だ」


 二人の深い友情と決意に、ターレンは目頭が熱くなるのを禁じ得なかった。


「わかった。二人に、任せるわ……。ありがとう」


  ターレンは袋を握りしめ、リオの命を繋ぎ止めるためだけに、一目散に夜の闇を駆け下りていった。


    ◇◇◇


 蹴り開けられた扉が壁にぶつかり、乾いた音を立てて跳ね返る。ターレンは休む間もなく、リオの枕元へと這い寄った。その瞳には、もはや常人の光は宿っていない。


 奥の寝室からは、か細い笛のような「ひゅう、ひゅう」という音が頼りなく響いている。

 寝台へ飛び込むと、紫に変色したリオの唇が目に入り、戦慄が走った。猶予はなかった。


「リオ、待たせてごめんね……! すぐにお薬を作るから!」


 ターレンは台所へ駆け込み、竈の火に鉄鍋をかけると、震える手で虫様の亡骸を取り出した。青い体液がこびりついたその殻を、手近な石で粉砕する。


 かつて母が囁いた、誰にも聞かれぬよう耳元に遺した言葉が、鮮明な指針として蘇る。


《いい、ターレン。虫様の命はあまりに密度が濃すぎるの。そのまま飲ませれば、人の血管は内側から焼き切れてしまう。水の鳴き声を聴きなさい。沸騰の泡が細かくなり、水面が鏡のように静まり返ったその瞬間。神の荒ぶる熱が水に溶け込み、柔らかな生の形に変わるの。その機を逃せば、ただの毒水に成り果てるわ》


 砕いた肉片を煮立つ湯の中へ放り込んだ。

 鼻を突くような強烈な苦みと、不気味な漆黒の湯気が立ち込める。


 ターレンは立ち上る黒い渦を凝視し、薪の配置を微調整した。それは母から盗み見た、火と水との調和の作業だった。


 やがて、荒かった泡が急に静まり、黒かった湯気が鮮烈な青緑色の光を帯びた。


「今……!」


 ターレンは迷わず鍋を下ろした。漆黒だったはずの薬液は、器に注ぐと透き通った瑠璃色へと変化していた。


「お願い、飲んで、リオ……!」


 ターレンはリオの頭を抱き起こし、その唇の隙間から、熱い液体を少しずつ流し込んでいった。


 喉がゴクリと鳴り、液体が吸い込まれていく。


 しかし、その直後。リオの身体が不自然に硬直した。


「ガハッ……、あ、う、あ……っ!」


 リオは目を血走らせ、寝台の上で弓なりに跳ね上がった。

 皮膚が赤紫に変色し、熱がさらに膨れ上がる。


(間違えたの……? まだ、彼には強すぎたの!?)


「リオ……嫌、嫌よリオ! 負けないで……っ!」


 細い身体を強く抱きしめ、ターレンは声を上げて泣いた。


 ──だが、その時だった。


 ピタリと、リオの激しい震えが止まった。耳を劈いていた喘鳴が、静かな呼吸の音へと変わっていく。

 高熱が潮のように引き、皮膚には瑞々しい血色が戻り始めていた。


「……あ、」


 リオの睫毛が微かに揺れ、ゆっくりとその瞳が開かれた。そこには、濁りのない生の光が宿っていた。


「……姉さん」


 掠れた、けれど現実を繋ぎ止める確かな声。

 弟の掌に宿り始めた微かな体温が、彼女の涙を熱くさせた。 ターレンは祈るようにその細い手を握りしめ、自分が犯した罪の重さに耐えながら、声を殺して泣き続けた。


    ◇◇◇


 ドンドンドンドンドンドン!


 静寂を切り裂き、扉を狂ったように叩く音が響いた。


「ターレン! 早くしろ、手遅れになる!」


 飛び込んできたのは、ズタズタに裂けた衣服で、恐怖に目を血走らせたカイだった。


「カイ……っ!? 一体何があったの!?」


「洞窟が壊れたんだ! あの大扉から、無数の虫たちが溢れ出してやがる……!」


 カイの指先は激しく震えていた。


 トウヤたちが村中に触れ回って、動ける奴から順に「星降る丘」へ避難させているという。


 その時、壁に手をつきながらも、自分の足でしっかりと立っているリオが現れた。


「行けるよ、姉さん。行こう」


    ◇◇◇


 目指す場所は、あの懐かしい星空の下だけだった。 燃え盛る村の悲鳴を背に、三人はもつれる足を引きずるようにして、星降る丘へと遮二無二駆け登った


 三ヶ月前、四人で無邪気に夢を語り合ったその場所は、今や松明の火に怯える村人たちの悲鳴で埋め尽くされていた。


 焚き火の赤黒い光に照らされて、村長が冷徹な佇まいで立っていた。その傍らには、すべてを諦めたような目でトウヤがいる。既にトウヤから事情を聞き、自ら洞窟の惨状を見てきた村長の裾はひどく泥にまみれ、その冷酷な眼差しは、最初からターレンだけをじっと見据えていた。


「……トウヤ。銀の鍵を持ち出したのは、お前か」


 村長の声は、底知れない暗闇を沈殿させていた。


 ターレンはトウヤを庇うように、村長の足元へ崩れ落ちるように跪いた。


「私が頼んだの。トウヤは、私を止めたわ」


 村長は、足元で震えるターレンを、そして背後のカイに背負われたリオを、射抜くような眼差しで見下ろした。


「神聖なる『虫様』を殺し、山の禁忌を解き放った。……その報いが、あの惨状だ。

 ターレン、お前が選んだ一人の命と引き換えに、私たちは帰るべき場所を失ったのだ」


 村長が指差す先、無数の赤い眼が家々を蹂躙し、村の歴史を食い破っていた。


「どうして……どうしてなの、ターレン!」


 猟師の妻ミラの絶叫が響く。

 絶望に満ちた視線が一斉に突き刺さった。彼らにとって、ターレンこそが災いを招き、村の善意を泥の中に沈めた大罪人だった。


 ターレンは何も言い返さなかった。ただ、カイの背中で静かな寝息を立てるリオの、その確かな生命の気配だけを耳に沈める。


(……ごめんなさい。でも、私は後悔しない)


 たとえこの先、一生誰にも許されず、泥を啜るような日々が待っていようとも。

 ターレンは、トウヤとカイに視線を交わした。


 二人の瞳の中にも、自分と同じ消えない罪の刻印があった。けれどその奥に、絶望を焼き切るような光が宿っているのを、確かに見た気がした。


 かつてこの丘で語った夢は、もうどこにもない。無邪気な笑い声も、すべては自分が殺した。

 この地に溢れ出した異形を、いつか必ずその手で葬り去り、開けてしまった地獄の扉を、人生のすべてを懸けて閉ざしに行くこと。


 この呪いのような宿命だけが、今、彼女たちの生きるための夢に変わった。

ターレンは逃げることなく、赤く染まっていく村を瞳に焼き付けた。


 助かった弟と、壊滅した村。そして、ここから始まる血塗られた贖罪の旅路。

 満月が、その過酷な未来を墓標のように等しく照らし出していた。


 掌の中に残ったのは、砕けた世界の冷たい破片だけだった。 ターレンはそれを壊れそうなほど強く握りしめ、迷いを断ち切るように、一歩、前へ踏み出した。




──THE END──

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