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【AI小説】虫様|2026  作者: 茉莉花イツカ


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第三話:禁忌の扉と、青き燐光

 足元も見えない暗黒の中を、転がるようにして突き進む。ターレンは、ただがむしゃらに夜の森を走っていた。


 脳裏にこびりついて離れないリオの引きつけを起こした呼吸の音と、自分の激しい喘ぎ声、吹き荒れる夜風の音。

 そのせいで、周囲の状況など何も耳に入っていなかった。


 だから、背後から急激に迫ってくる足音にも、彼女はまったく気づいていなかったのだ。


「待て! 待てって、ターレン!」


 不意に背後から伸びてきた力強い腕が、ターレンの肩を激しく掴んだ。


「放して! 放してよ、カイ!」


 ターレンは狂ったように腕を振り回し、掴まれた手を振り払おうとした。

 彼女の右手には、家の裏手から持ち出した薪割り用の斧が握られていた。


「どこ行くんだよ! その斧で何する気だ!」


「洞窟よ! 決まってるでしょ!」


 ターレンは叫び返した。

 振り返ったその顔は、恐怖と絶望で完全に血の気が引き、目は異様な光を宿して血走っている。


「リオが……リオが死んじゃう! もう時間がないの! 扉なんか叩き壊してでも入る!」


「落ち着けって! 壊せるわけねーだろ、あんな頑丈なもん手斧一本でどうにかできるかよ!」


「じゃあどうすればいいのよ!? 開けなきゃ……リオが……!」


 取り乱し、なおも森の奥へ走ろうとするターレンの前に、カイがその大きな体で立ちはだかった。


 ターレンは遮るカイを退けようと無我夢中で斧を振り上げたが、狂乱した彼女の腕は簡単に捌かれた。

 カイは間一髪で身をかわしながら、ターレンの手首を強く極めた。


 骨が軋むような衝撃に、ターレンの手から力が抜ける。

 どさりと、斧が湿った地面の上に落ちた。


「ひっ……う、あ……」


 カイはすかさずターレンの体を抱きすくめ、そのまま地面に組み伏せた。

 体を押さえつけられたターレンは、もがく気力さえ奪われたように、激しく胸を上下させてむせび泣いた。


「放して……お願いだから放して、カイ……。リオの命が消えちゃう……」


「分かってる! 分かってるから、少しは俺の言葉を聞け!」


 カイはターレンの肩を掴み、目の高さを合わせるようにして強く言い放った。


「無理に壊そうとしたら音が響く。大騒ぎになってすぐ捕まるぞ! 捕まったら、誰がリオの側にいてやるんだよ!」


「……でも、鍵がないと……!」


「鍵ならあるだろ」


 カイの言葉に、ターレンの涙に濡れた睫毛が跳ね上がった。


「……え?」


「トウヤが言ってただろ。村長の家にあんだよ、あの扉を開ける銀の鍵が」


「……ダメ、そんなのダメよ! トウヤを巻き込んだら、彼まで捕まっちゃう……!」


 村長の息子であり、自分たちの唯一の理解者でもあるトウヤ。

 彼の将来を台無しにすることへの罪悪感に、ターレンは激しく首を振った。


「その時は俺が全部泥を被ってやる。トウヤを説得するぞ。……やるならこれしかねえ」


 カイはそう言うと、地面に落ちていた薪割り斧を拾い上げた。


「トウヤの家に行くぞ。あいつ叩き起こして、本気だってこと分からせてやる」


 カイは立ち上がり、ターレンに手を差し伸べた。

 夜の闇の中、カイは斧を携えたまま、トウヤの家の方角へと力強く歩き出した。


    ◇◇◇


 深夜の静寂を切り裂くように、屋敷の裏口を叩く乾いた音が響いた。 扉が細く開かれ、その隙間からトウヤが怪訝な顔を覗かせる。


 カイに支えられたターレンの、涙と土に汚れた顔を見た瞬間、トウヤの目が鋭く見開かれる。

 彼の視線は、カイが右手に提げている薪割り用の手斧に一瞬だけ向いたが、すぐに目の前のターレンへと戻った。


「トウヤ……お願い……」


 ターレンはトウヤの衣服の袖を掴み、かすれた声でしがみついた。


「リオが、もう息が止まりそうなの……! 今夜を越えられないかもしれない……。お願い、村長の書斎から銀の鍵を持ち出してきて。何でもするから……お願い……!」


 トウヤは息を呑み、絶句した。

 その顔がみるみるうちに青ざめていく。


 彼は固く唇を噛みしめ、ターレンの必死な目から逃れるように視線を激しく彷徨わせた。

 拳を握る手が小刻みに震えている。


 重苦しい沈黙が、三人の間に流れた。


「トウヤ、お願い……! リオを助けて……!」


 耐えかねたターレンが、すがるようにトウヤの腕を揺さぶる。

 その横から、カイが低く、けれど鋭い声を重ねた。


「トウヤ。もう時間がねーんだ。……頼む」


 二人の声に弾かれたように、トウヤが小さく肩を揺らした。


「……待ってろ」


 トウヤは絞り出すようにそう言うと、踵を返し、暗い屋敷の奥へと消えていった。


 静まり返った夜の闇の中で、ターレンはカイの隣でただ祈るように待った。

 やがて、わずかな足音とともにトウヤが戻ってきた。

 その右手には、鈍い銀色に光る重々しい鍵が握られている。


 ターレンが思わず手を伸ばしかけたが、トウヤはそれを手の中に隠し、自分の懐へと深く仕舞い込んだ。


「トウヤ……?」


「この鍵は渡せない。……俺も行く」


 トウヤの言葉に、隣のカイが息を呑んだ。


「トウヤ、お前……いいのかよ。王都に行く夢は――」


「俺が一緒なら、万が一バレても親父に言い訳が立つ。『俺が勝手に持ち出した』って言えば、ターレンだけのせいにされずに済む。……それに、お前らだけで行かせるわけないだろ」


 トウヤは上着の留め金具をきつく締め直し、真っ直ぐにターレンを見つめた。


「行くぞ」


 トウヤが先頭に立って歩き出し、三人は禁忌の場所――あの聖域の洞窟へと向かった。



    ◇◇◇


 岩壁に埋め込まれた強固な木製の扉が、月光を浴びて黒々と光を放っている。


 トウヤが静かに前に進み出て、懐から銀の鍵を取り出す。その指先が微かに震えているのを、ターレンはすぐ傍で見つめていた。


 ――カチャリ。


 静謐な夜の森に、重苦しい金属音が響く。

 トウヤがゆっくりと扉を押し開けた。

 暗黒の奥へと、三人は一歩を踏み出した。


 洞窟の内部は、恐ろしいほどの静寂に包まれていた。

 トウヤが掲げる松明の微かな炎が、湿った岩肌を赤黒く浮かび上がらせる。少し進むと、灯りの先に、古びた石造りの祭壇が現れた。そこは不自然なほど綺麗に掃き清められ、かえって異様な不気味さを放っていた。


「探そう。どこかに、落ちてるかもしれない……!」


 ターレンは祈るように祭壇の周囲に這いつくばった。

 三人は泥に塗れながら石床を這い、祭壇の裏側の隙間や、乾いた供物の器の底まで指先を突っ込んで必死に弄った。


「おいトウヤ! 親父さんから、どの辺に落ちてることが多いとか聞いてねーのかよ!」


 焦燥に駆られたカイが、低く掠れた声でトウヤに詰め寄った。


「知るわけないだろ!」


 トウヤがランタンを持つ手を震わせながら、鋭く言い返した。


「父さんは一人で入るだけで、中で何を見てるかなんて一度も話したことない。俺だって、あってくれって思ってるんだよ!」


 どこにもない。どれだけ探しても、指先に触れるのは冷たい土と埃だけだった。


 絶望が広がりかけたその時、祭壇の正面に掛けられた古い飾り布が、地底の奥から吹いてくるかすかな冷風に揺れているのに気づいた。


「……待って。あそこ、風が吹いてる」


 飾り布を横へ払いのける。その先には、大人がようやく一人這い進めるほどの、暗く狭いトンネルが、ぽっかりと黒い口を開けていた。まるで、これ以上の侵入を拒む生き物の喉のようだった。


 その不気味な穴を前に、それまで激しく言い合っていたカイとトウヤの足が、目に見えてピタリと止まった。


 ここにないのなら、この奥をシラミ潰しに調べるしかない。村長の見落としがあるかもしれない。あるいは、新たな死骸が転がっているかもしれない。万に一つの可能性だとしても、今のターレンにとってはそれが唯一の希望だった。


「おい、まさか……ここ入るのかよ」


 カイが引きつった声で呟き、手斧を握る手を強張らせた。


「この先は本当に引き返せなくなる。父さんだって入ったことはないはずだ」


 トウヤもランタンを震わせ、青ざめた顔で穴を見つめている。村の掟を、触れてはならない山の禁忌を完全に踏み越えるという恐怖に、二人が激しく躊躇しているのが分かった。


「私、行くわ」


 二人の意見を待つこともなく、ターレンは迷わずその穴へと頭から滑り込んだ。


 ひんやりとした湿気と、濃厚な死の匂いが鼻を突く。湿った冷たい土が衣服を汚し、狭い岩肌が容赦なく肩や背中を擦り剥いた。身動きを少し止めるだけで、このまま岩に押し潰されて二度と出られなくなるのではないかという錯覚が襲ってくる。それでも、ただがむしゃらに前へ、前へと泥を掻き分けて這い進んだ。


 不意に、四方の壁が消えた。

 一気に広がった冷気に包まれながら、ターレンは狭いトンネルの外へと這い出た。


 ――そこは、天井が見えないほどに高い、広大な大広間だった。


 壁一面には見たこともない奇妙な苔が密生し、淡い青緑色の燐光を放っている。

 その幻想的で、同時に息が詰まるほど異形な世界の美しさに、ターレンはただ圧倒され、その場に立ち尽くすることしかできなかった。


「──おいトウヤ、押すなって。狭すぎて手斧が引っかかるんだよ」


「押してない。お前が勝手に立ち止まるからだろ。文句言うな、カイ」


 背後のトンネルの奥から、低く、互いに不満をぶつけ合うような二人の囁き声が響いてくる。


 息が詰まるような異界の光の中で、いつもと変わらない幼馴染たちの生々しい声を聞いた瞬間、ターレンの胸の奥の張り詰めていた糸が、ふっと解けた。一人ではないのだという事実だけが、彼女の震える足をもう一度支えてくれた。


 やがて二人がトンネルから這い出し、ターレンの隣に並び立つ。

 三人の視線の先、淡い燐光がゆらめく大広間の最奥には、天井の岩肌に届きそうなほどに聳え立つ、さらに巨大な鉄の大扉がそびえ立っていた。


 それは、自然の洞窟には不釣り合いなほど冷徹で、人間が立ち入ってはならない世界の境界線そのもののように、静かに三人を圧倒していた。

 見上げるほどに巨大な表面には、見たこともない複雑で奇怪な幾何学模様が、まるで生き物のようにびっしりと深く刻み込まれている。


 その圧倒的な存在感を前に、誰もが声を失って立ち尽くした。

 異様な静寂が場を支配する中、最も切実な思いを抱えるターレンが、耐えかねたように口火を切った。


「……あるはずよ。この近くに、虫様の死骸が……!」


 ターレンは大扉の周辺の影や、部屋の隅に転がる岩の隙間を、貪るように必死に探し始めた。

 カイもまた、ただならぬ気配を放つ大扉を油断なく見つめながら、預かった手斧の柄を、いつでも動けるように固く握りしめている。


 だが、いくら周囲を探しても、目ぼしいものは何も見つからなかった。

 やがて吸い寄せられるように、三人は大扉の真ん前へと集まった。


 間近で見上げる大扉の隙間からは、地中から漂う濃厚な死の匂いと、肌を刺すような冷気が溢れ出している。


「親父はこの場所を知っていて隠してたのか……? だとすればここは……絶対に触れちゃいけない場所だ」


 トウヤがかすれた声で呟いた。


 トウヤの言う通りだと、冷え切った理性が叫んでいた。

 けれど――耳の奥で、今もリオの途切れそうな呼吸が喘いでいる。


 よく見ると、大扉は完全に閉まっているわけではなかった。

 大人の身体が砂利を踏んで横向きになれば通れるほどの、わずかな隙間が空いている。

 向こう側は、光をすべて吸い込むような、完全な漆黒だった。


「……向こうにあるのかもしれない」


 気がつけば、ターレンの身体は隙間へと向かった。


「おい、ターレン! 待て、よせって!」


 カイとトウヤが焦ったように叫んだが、逸る気持ちを抑えきれず、ターレンは強引に身体を隙間へと押し込んだ。

 冷たい金属の感触が胸と背中を挟み込む。


 進もうとした、その瞬間だった。


 ガチリ、と厚手のマントを留めていた硬い角細工の留め具が、扉の歪な突起に引っかかり、身体が完全にロックされてしまった。


「しまっ……、動けない……!」


「この馬鹿!」


 カイがターレンの両脇を抱え、力任せに後ろへと引き抜こうとした。

 だが、びくともしない。


「トウヤ、手伝え! 扉の隙間を広げるんだ!」


「くそ、なんて重さだ……!」


 カイとトウヤが、大扉の淵にそれぞれ手をかけ、顔を真っ赤にして全身の力を込めた。


 ──その時、奇妙な現象が起きた。


 ズ、と微かな振動が響いた直後、それまで山のように頑強だった大扉から、突然すべての重みが消え去ったのだ。


 まるで三人の力を嘲笑うかのように、扉は摩擦音一つ立てず、滑らかに、そして一気に全開へと開け放たれた。


 唐突に解放された彼らは、その場に不格好にもつれ合い、激しく床へ転がった。ランタンが岩肌を転がり、狂ったように光と影を明滅させる。


「な……んだよ、これ……」


 カイが喘ぎながら、全開になった大扉を見つめた。

 だが、ターレンの目は、すでに扉の先に広がる未知の空間へと向けられていた。


「……探し出すわ」


 ターレンは立ち上がり、扉の先へと足を踏み出した。

 扉の向こうは、異様な空気に満ちていた。

 鼻を突くような苦い匂い――かつて母が言っていた、虫様の薬の匂いに似た何かが、濃密に漂っていた。


「ターレン、もうやめろ」


 トウヤが彼女の肩を強く掴んだ。


「ここにいちゃいけない気がする。空気が……おかしい」


 二人の切実な声に、ターレンを支配していた狂気のような焦燥が、ゆっくりと引いていく。そうだ。自分の無茶な我が儘に付き合い、こんな恐ろしい場所まで付いてきてくれた大切な仲間が隣にいる。


「……そうね。ごめん、二人とも。ありがとう」


 友情と感謝が湧き上がり、冷え切っていた心が温かくなるのを感じた。一度戻って、作戦を練り直そう。


「じゃあ、一緒にここを離れて――」


 言い終えるより先に、それは聞こえた。


 ――カサ、カサカサ。


 静寂を、衣服が擦れ合うような、けれど決定的に異なる乾いた硬質な音が切り裂いた。


 ガガガガ、と地底のさらに奥深くから響くような不気味な音が反響する。ゆっくりと、三人が音がした大扉のすぐ脇、岩の影へと振り返った。


 大扉の隙間から滑り出るように闇の中から這い出てきたのは、青く、鈍い光沢を放つ殻だった。

 それは、死骸などではなかった。


 全身からまばゆい青緑色の燐光を放ち、無数の触手や節くれ立った脚を不気味に震わせ、複眼を妖しく光らせる。

 まぎれもなく『生きた虫様』が、その隙間を通り抜け、じっと三人を見下ろしていた。


 その異形な姿と、網膜を灼くような光を前に、ターレンはただ息をすることさえ忘れて立ち尽くした。

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