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時間が進む。刻一刻とその時は迫っている。
緩慢な動作で腰掛けていた椅子から立ち上がると、俺は深く息を吐いてゆっくりと目を開いた。紺碧の瞳が、愛しい若草を想って強く燃える。
「行くぞ」
コツコツと靴音が鳴る。磨き抜かれた城の中で、俺はリザベルの部屋へ本日2度目の訪問をする。貴族の子女なら出るギリギリまで自分を磨くことに費やすのだろうが、リザベルは朝に支度を終えてほとんどそのまま過ごしていたらしいその姿でも、充分に美しかった。柔らかな黄のドレスを身に纏った姿は、2度目でも飽きることなく可愛らしい。半分結い上げられた髪は冬の銀世界のような色でありながら、春の陽光のように優しい光を湛えていた。
「迎えに来たよ、リザベル」
「───はい」
手を差し出せば、リザベルは慣れた手付きでその手を取る。そしてその瞬間、リザベルの表情が強張ったのが分かった。ここ1週間の彼女を見ていなければいつも通りに見えるであろうその些細な変化は、すぐに違和感として俺の目に映り込んだ。
やはり"貴族"が関わる事柄は、リザベルの心に深く重い影を残しているらしい。
「すまない、リザベル」
「…はい? 何か、仰いましたか?」
最近は気を付けていた口調が、前と同じ敬語に戻る。ポツリと呟いた言葉はリザベルに届かなかったようで、俺はハッと我に返って首を横に振った。
「何でもないよ。それより、入場だ」
「はい」
言わないと察すれば、リザベルはそれ以上問うことはない。問われることを許されていなかったからだ。そんなつもりはなかったけれど、一方的に罪悪感を募らせ謝って済まそうだなんて、許されようだなんて、してはならない。だから俺はまだ、リザベルに謝罪の言葉を伝えてはならない。伝えたら、きっとリザベルは何も分からないまま許してしまうだろうから。俺の心が軽くなるだけの行動をするだけの意味は、今ここにない。1週間前の謝罪と、これは意味が違うのだから。
ギィ、と重苦しい扉が開く。
全ての貴族が会場内に揃っている。そのほとんどが学園の生徒であり、その親であり、親戚だ。そのどれもに関わりがない人物など、数名しかいない。本来なら入れない筈だが、今日は特別だ。俺が招待をしたのだから、彼らは何の猜疑もせずここにいる。
扱いやすくて仕方ない。俺を侮っていればいるほど、自身の立つ場所が強風の吹く一本橋の上だと気付くことが出来ないのだ。
俺とリザベルの入場に、会場が騒ついた。1週間前に家ごと捜査が入り、そのほとんどが捕縛されたカービネナ家の令嬢が、変わらず王太子の手を取って入場する。その身に婚約者の色ではない黄のドレスを纏っている。変わりないことと変わったこと、その全てが民衆の動揺を煽る。
もしかしたら、リザベルではなくリリィ・チャルファンの手を取って入場していた未来もあったかもしれない。
もしかしたら、リザベルはこの会場に足を踏み入れず、世界の何処にもいない未来もあったかもしれない。
もしかしたら、
もしかしたら。
もしかしたら!
たくさんの可能性がある。それらの全てをへし折って今がある。今がその中で最良なのかは分からないけれど、最良だと思える結果にしなければならないと強く思った。
騒がしい声。不躾な視線。煌びやかなシャンデリア。優美な音楽。全て、全てが憎い。全てを焼き尽くしたい。全てを引き摺り下ろし、この俺と共に堕ちてもらいたい。
いつまでも高みの見物では、退屈だろうから。
俺達の入場と共に音楽が止まる。王の挨拶だ。祝いの言葉だ。神への祈りだ。卒業式を兼ねたこのパーティでは、いずれ国の中枢を担う我々に多くの言葉が掛けられる。そしてそれが終われば、最後の顔繋ぎだ。ダンスや談笑などを交えて、自分と家に利を生む関係を確固たるものにする。それが大人になる俺たちの、最初の仕事だ。
俺はリザベルを置いて、リリィにダンスを申し込んだ。その瞬間、また会場が騒めく。知っている。お前達が望んでいるのはフィルマとリリィの婚約だと、2人で治めるこの国の姿だと、知っているから。
腰を抱き、滑らかにステップを踏み、穏やかに微笑んでみせる。まるでリザベルになど興味がないかのように。リリィを愛しているかのように。
安心しただろうか。上手くいったとほくそ笑んでいるだろうか。
幾らでも思ってくれて構わない。そうして笑い、油断している敵ほど転がり落ちていることに気付かない。自分の計画が全て俺に筒抜けなことも、その上で台無しにされることも、気付けない。
「フィルマ様…」
うっとりと紅潮した頬で笑うリリィを、目を細めて見つめた。まるで慈しんでいるかのように、優しい眼差しを気を付けて浮かべる。ざわざわと遠くに聞こえる声が、俺たちを祝福しているのが聞こえた。
期待が高まっていく。俺とリザベルの破局が、俺とリリィの婚約が望まれている。
期待が最高潮に高まっていく。俺はリリィの腰を抱いて、王の前に進み出た。音楽も止まり、会場はしんと静まり返る。その中で玉座の前に跪き、頭を垂れた。
「両陛下、この場を借りて1つ、お話ししたいことが御座います」
とうとう婚約破棄かとわくわくする貴族たちの姿。王がちらりと王妃や宰相に視線を移し、その上で鷹揚に頷いた。俺はそれを了承と受け取り、リリィは困惑したふりをした。聞いていないと、何が起こるか分からないと、そんな演技をする。けれどきっと理解している筈だ。これから何が起こるのかを、俺が何を言うのかを。
キラキラした視線を背に受けながら、俺は心の中で笑った。
「私、フィルマ・セクルグは、先日取り潰しとなったカービネナ家の娘であるリザベル・カービネナ嬢への───」
婚約解消を、宣言します。
そう告げる筈だった続きを飲み込んで、
「───許し難き加害の数々を、この場で須く断罪したき所存で御座います」
全ての怒りを、言霊に乗せた。




