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帰宅して早々泥のように眠りに落ち、翌朝侍女に起こされて慌てて飛び起きる。今日はチャルファン男爵家に向かう日だ。遅刻しようが表立って文句は言われないだろうが、内心で侮蔑されるだろうことは想像に難くない。こちらが何かを正当に叩き付けるには、彼らから叩かれる隙が一分もない状況を整えておかなければならない。普段からだらしのない者が生活態度を見直せと他人に説教したところで、お笑い種もいいところだろう。
着替えの前にシャワーを浴び、汗を流して身形を整えれば、まだ馬車で向かうには早い時間に支度が終わった。空いた時間で調書をまとめようとしたが、疲労が限界なのか頭が回らない。明日はもう決行日だというのに、ここ数日睡眠時間を削りいつもより走り回った体は、活動限界を訴えていた。そんな甘えたことは言っていられないと精神が叱咤するが、ここで無理したら男爵との話し合いの中でボロを出しかねないと冷静な脳が告げる。
仕方ないのでペンを置き、ぐっと伸びをする。今から仮眠を取るには時間が足りないので、書類を片付けて息抜きのためにと部屋を出た。
今日の挨拶と予定の確認のためにリザベルの部屋に寄ると、先程起きたばかりだと報告される。着替えもまだならと面会を遠慮しようとすれば、奥からもう1人の侍女の影に隠れたリザベルが現れた。髪と服の皺だけを整えた素のリザベルは、じっとこちらを見つめ様子を伺っているようだ。手を振れば、頬を緩めて小さく手を振り返してくれる。人見知りの子供が懐いてくれたような気分だ。それを見た侍女は、くすくすと笑いながら普段の様子を教えてくれた。
「昨夜は、殿下の言われた通り我々の慣れ親しんだ食を出したのですが、今までの少食が嘘みたいに食べてくださいました。こちらに来てから初めて、食事を楽しまれたようです」
「そうか。それは良かった」
やはり味を感じ取るには、貴族らしさを取っ払う必要があるらしい。侍女の喜びようを見るに、やはりリザベルの食事は見ていて不安になるほど淡々とした、役割の為だけの儀式となっていたのだろう。
「昨日は歩き回って疲れたのでしょう。早いうちからぐっすりと眠られ、睡眠時間も十分確保出来るようになりました」
「それなら安心だな」
日付が変わるまで教育という名の折檻を受けていたリザベルは、侍女より遅く眠り侍女より早く起きる生活習慣が身に付いている。体を壊しかねないそれは、昼間に適度な運動と、腹と心を満たす食事によって改善されていくだろう。油断すると後戻りしてしまうだろうが、それでも以前よりずっとマシだ。リザベルに関する報告に思わず表情を緩めると、寝巻き姿のリザベルがてこてことこちらに近付いて来た。そのまま俺の前に両手を差し出すと、無言でひっくり返して掌を見せて来る。大分薬が効いたのか、まだ傷の名残は残るもののぱっと見では分からないほど薄くなっていた。
「手は、触られてもあんまり、痛くない」
「本当か?良かった」
確認するように優しく包めば、リザベルは少しだけ頬を赤く染めて固まった。
「リザベル?」
「あ、あのっ、えぇとっ」
混乱した様子のリザベルに首を傾げて言葉を待っていると、ばちっと目が合った瞬間に声にならない声を上げて、バタバタと走り去ってしまった。また侍女の後ろに隠れ、こちらの様子を伺ってくる。
「…どうした??」
「…あの、えっと……そのっ…」
「うん?ゆっくりでいいぞ」
「……っ何も、思いつかないので、また今度にします」
「うん?」
「文句、早めに考えます」
昨日のデートの終わりにそんな約束をしたなと思い出し、ぱちぱちと目を瞬く。そしてリザベルの言動の理由が分かって、思わず吹き出してしまった。俺に文句を言う為に来てみたが、何の文句も思い浮かばなくて逃げてしまったということらしい。そんな可愛いことがあるだろうか。声を上げて笑えば、リザベルは疑問符を浮かべてこちらをじっと観察している。その様子も可愛らしくて、肩を震わせて笑う。笑い過ぎて涙が出て来た。
「うん、楽しみにしてるよ。ゆっくり考えてくれ」
リザベルと同様に侍女が疑問符を浮かべているが、これは俺が説明するものではないだろう。後で話を聞くなりして、是非アドバイスしてやってほしい。
「ふふっ。あ、もうこんな時間か。もう少し話をしていたかったが……今日は用事があるから外には出してやれないが、代わりに部屋の中で出来る遊びをたくさんするといい」
「は、はいっ」
侍女の後ろに隠れながら、慌てて返事をするリザベル。その様子も愛しくて手を振れば、律儀に手を振り返してくれるのだからまた可愛らしい。
「では頼む」
「行ってらっしゃいませ」
侍女2人が礼をして、その場を去る。見事な気分転換になった。リザベルの一挙手一投足に疲れも吹っ飛んで、そのまま馬車へ向かう。従者と御者が並んで待っている姿を見て、今から向かう先とそれがもたらす苦痛を嫌というほど理解した。
「婚約書類は」
「こちらに」
荘厳な装丁に包まれた紙を1度抜き取り、太陽に翳す。すると神が聖者に冠を授ける王家の紋様が───透けなかった。それを確認して頷き、左のページの右下に記された名前を確認する。筆記体で描かれたフィルマ・セクルグの文字は、目の前にいる従者が真似て書いたものだ。よく見れば俺の癖とは異なった字で記されている。完全なる偽造品。俺の実筆が入った透かし入りの婚約書類は、ここには存在しない。
けれどそんなこと、きっとチャルファン男爵達は思うことすらしないのだ。
「準備は整った。行くぞ、最後の仕上げだ」
実行犯をこの目で再度確かめる為。そして、計画の成功を確信させ油断させる為。俺は口の端を上げてにやりと笑い、馬車に乗り込んだ。
目的地は、リザベルに疑いの目を向けさせその後釜に座ろうとしたリリィの待つ、チャルファン男爵家だ。




