§342 奥様
夕食ができ上るまでの間、久しぶりに理科室セットを机に広げた。
コック付きビーカーはカモーツを抽出する際にも使用したが、
他は全て木箱の中に納まっている。
その中でひと際に場所を占有しているのが冷温桶だ。
蓋を開けて中に入っているガラスシャーレを取り出し、
培養中のカビの様子を窺った。
今回も青カビのコロニーは大きく形成されている。
あれから何日だっけ?
確か、最後にイシャルメダとエミーに薬を注入した日より前だから、
小分けにしたのはシャーレを追加発注した直後ではなかっただろうか。
日数を置いた事で以前と比べてかなりの大きさのカビのコロニーが、
狭いシャーレ内に広がっていた。
今回の2皿分で前回の3皿分位はありそうだ。
従って抽出できる量も単純に以前より多くが期待できる。
そして掛ける苦労も倍。
トホホホホ・・・。
幾ら作業に慣れようが、効率が良くなろうが、コツを掴もうが、
全てが手動であるので苦労は変わらない。
それも原始的な手段に頼る訳で、結局は肉体労働なのである。
今回はクルアチがいるので、彼女の体力作りも兼ねてやらせよう。
アナに2回目をお願いした際、彼女からは怪訝を示された。
そもそも既に奴隷では無いし、奥様にやらせるような事でも無い。
「イルマー?クルアチー?」
「・・・はい!只今お伺い致しますっ!」
廊下に出て1階へ向けて大きな声で2人を呼ぶ。
直ぐに返事が聞こえ、失礼しますと礼儀正しく入って来た。
「お呼びでしょうか?」
「2人にはこれから自分の作業を手伝って欲しい。
結構大変な作業なので、2人で交代しながらお願いしたい」
「「かしこまりました」」
もう3度目になるのだ。
自分が行う手順は良いとして、問題なのはイルマとクルアチである。
自作した遠心分離機はギア比の問題で高速回転を維持しようと思うと辛い。
滑りだって決して良くは無い。
一応オリーブオイルを数滴注して噛み合わせを滑らかにはしているが、
だからと言って均等に素早く回すのは難しいのだ。
2人がどの位早くコツを掴み、根気が続くかに掛かっている。
手順を説明し、シリンダーをセットして回転作業をお任せした。
イルマが先にやるようだ。
彼女がハンドルを回し始めると、
遠心分離機は綺麗な水平を維持しながらキィキィと音を立てる。
「良いぞ、その位のスピードで横になる状態を維持しながら、
暫く回し続けてくれ。ちょっと他の材料を買って来るので、
疲れたらクルアチと交代して欲しい。
手を止める際には先程言ったように少しずつ速度を落とし、
ゆっくりと元の状態に戻るように注意して欲しい」
「か、かしこまりました」
「行ってらっしゃいませ」
既に顔が引き攣っているイルマを余所に、
自分は空になったシャーレを再び粥で埋めるために追加の米を買う。
オレズ?オーレズ?どっちだったかナ?
イシャルメダはオレズと言っていたが、
サンドラッドの商人はオーレズと言っていた。
イシャルメダの発音は信用できないので、多分オーレズなのだろう。
1階の作業部屋に顔を出すと、
アナの指導の元ラティが新たに取った地図を清書し、
ジャーブは別の地図の木彫りを進めていた。
パニは1人でダイダリの迷宮地図を印刷しているようだ。
ヴィーが余分なインクを拭う係りだったのだろう。
そしてこの場にいないナズとエミーは厨房だ。
印刷組の中では最も暇そうにしていたヴィーを呼んで、
一緒に買い物へ付き合って貰った。
自宅からサンドラッドの冒険者ギルドまで、
フィールドウォークと言えども一息で運べる人数は限られる。
それに他の者の作業を中断しては申し訳無い。
従ってヴィー1人を連れて来たのだが、
人選を間違ったような気がする。
食糧品店でオーレズ2杯分を注文し、
相変わらず入れ物を持って来るのを忘れて絹袋を購入させられた。
・・・ま、まあ後は誰かの薬袋にすれば良いか。
「ご主人サマ、これ前いも姉ちゃんが食べてたマルい食べ物?」
「うん?ああ、まあそうだな」
「今度食べさせてくれるって言った!今日はアタイ食べれる?」
「えっ、いや、そ、そうだな。あっ、明日食べよう」
すっかり忘れていた。
そういえばそんな約束をだな。
明らかに全員で食べるには足りない量しか買っていない。
そもそもカビの培養の苗床にするための量だったので、
どう考えても1人か2人分だ。
折角来たし全員分纏めて買うか。
今度は米粉など作らずにそのまま焚くべきだろう。
みたらし団子も水団の雑煮も、
洋食っぽい味付けが中心のうちの子らには不評であった。
今度はご飯として焼き魚と一緒に食べたい。
そして魚醤でハフハフだ。
それにしても、以前はかなり米食を渇望していた気がするが、
最近はそうでも無かった気がする。
それもそのはず。
自宅に帰ってナズとエミーが用意する優しい感じの食事に、
胃が落ち着きを取り戻してしまっていた。
魚定食を食べたくなったのはサンドラッドの高級旅亭に泊まった際、
重たい食事を立て続けに食べさせられたからだ。
そして米が無くとも違和感無くこの世界へ溶け込んでいた自分に気が付く。
・・・いや、元々日本での生活に於いても、
米なんてそう滅多に食べていなかった。
朝はパン。
それもスーパーで買って来た袋入りで売っているバターロールだ。
それに野菜ジュースを飲んだり飲まなかったり。
昼はコンビニ弁当だがパスタや麺類が中心だ。
夜はカップ麺か袋麺。
大して運動も無かったのでそれ程腹が減らなかった。
少なくとも大学生後半の2年間はそんな食生活だった。
稀に恋しくなって米を買ったが、それもコンビニおにぎり程度。
醤油はラーメンや何やらで取り入れていたが、
米自体はそれ程食べて来なかったと言う生活に改めて気付いた。
米を食えとか言って置きながらこの体たらく。
以前の自分を叱ってやりたい。
食生活の改善は体の改善でもある。
自分に体力が無いのは、しっかり食べて来なかったせいでもあるのだ。
今はこうして目の前に米がある。
しかも安いのだ。
高かったり無かったりするならともかく、
折角手頃に買える訳なのだし食べられるなら食べよう。
追加で50食分のオレズを購入し、
そのまま木箱で渡されてヴィーが持った。
連れて来たのがヴィーで正解だった。
エーット1合150gだと言うのだから、50合で7500g。
約8kgだ。
スーパーで売っている小売りの袋が大体10kgなので、
大体その位の量を買った事になる。
木枠を含めて10kgなのか?これは。
だが米袋と違って木箱は持ち難い。
帰りのゲートを潜る際には慎重に移動したヴィーだったが、
廊下へ出るなり床にドカッと置いてしまった。
コラッ、食いモンだぞ。
「ヴィー、せめてそっと降ろしてくれ。
床が傷むし、そもそも食べ物は台所まで持って行け」
「はぁい」
ヴィーがもう一度持ち上げたので扉を開けてやると、
そのまま中に入って行きナズから置き場所を聞いていた。
さて、イルマ達はどうなったか。
自室に戻ると2人は悪戦苦闘の真っ最中であった。
不器用を醸し出すイルマに、基本的に体力の続かないクルアチ。
狩猟民族が聞いて呆れるぞ。
長い事お屋敷メイドに添えられていたのだし、運動不足だったのだろう。
盗賊退治の際には震えていたし、魔物相手の戦闘も素人の動きであった。
良いよ良いよ。
無理せずクルアチはオーバーホエルミングで楽して戦ってくれれば。
***
何とか1回目の分離を終えて抽出液を取り出した所で、
ナズから呼び出しが掛かって夕食に呼ばれてしまった。
続きは食後か?
次はアナにレクチャーして貰いながら残業である。
道具を並べてシャーレ2つ分のカビを取り出してしまった以上、
最低限この分だけはやりきって置かないと。
「それじゃ続きは食事後だ。イルマもクルアチも頼んだぞ」
「か、かしこまりました・・・」
「大変な作業なのですね・・・」
「頑張って下さいね・・・」
へばっている2人をナズは労ったが、
現状で一番余裕そうに遣って退けたのがナズである。
器用さとある程度の力が有るのは彼女しかいない。
適材適所にしてやりたいが、ナズもアナも奥様になってしまった。
お願いしたらやってはくれるだろうが、そういう風に頼ってはいけない。
そもそもクルアチは命令されたのでやっているだけだが、
イルマに関しては本人と妹のための薬である訳で、
どうにか頑張って完遂して頂きたい物である。
器具を簡単に片付けて、3人で食卓に向かった。
今日も食卓は優しい感じに味付けられたスープに、
白身の蒸し焼き、そして彩に生野菜のサラダが添えられた。
生ハムも個人の皿に2枚ずつ乗っている。
そしてパンにはガーリックオイルが塗られており、
恐らくこれはエミーが手を加えたのだと思われる。
焦げたニンニクとバターの香りが食を唆る。
惜しい。
もうひと手間進んだブルスケッタはお屋敷料理にもまだ無いようだ。
以前作った時は・・・エミーはいたっけ?いなかったっけ?
一度食べさせてやればこれらが纏まった料理になるんだろうナァ。
魚の焼き料理であるにも関わらず、
オリーブオイルとペッパーがベースの味付けでは魚醤の出る幕が無かった。
あれは素焼きで無ければ意味が無い。
そういう料理は・・・多分言わないと出て来ないと思う。
ちゃんと味付けを然るべき、そうナズやエミーは教わったのだから。
今日もまた肉や魚に目が無いヴィーが騒ぎ、
やはり奥のテーブルでは戦場だ。
魚の焼き料理自体は1人1皿配られているのだが、
サラダに掛けられた特製のソースは、
その焼き汁を利用して香ばしい感じに味付けられており、
ヴィーの側からみるみる減ってゆく。
ジャーブがヴィーのナイフをけん制して払い退け、
反対の手で強襲を掛けるがそれをラティが止める。
今日もまた大皿の上では模擬戦が繰り広げられている。
荒波に揉まれた結果、徐々にラティも逞しくなって来たようだ。
相変わらずイシャルメダは目をパチパチさせて呆気に取られているし、
クルアチは争いを避け、隙を突いて自分の皿へサラダを掻き込んだ。
ヴィーが「ずるーい」と連呼をする。
賑やかになったなあと感心しながら、白身を解して口に運んだ。
勿論ハンダールの分も1匹分使用されていたので、
彼もこの待遇には文句も無いはずだ。
商館に売却された後の粗末な食事に絶望しないように、
余り贅沢はさせない方が良いかも知れないが。
夕食後、アナとイルマとクルアチを自室に呼んだ。
製薬作業を進めるために、本日の風呂はスキップである。
食後の腹ごなしにはいい運動となるだろう。
もしかしたらアナが自発的に手伝ってくれないかと期待はしたが、
「こうです」とレクチャーをして数回回したっきり、
後は2人にやらせていた。
やはり本心としてはやりたくないのだろう。
アナは元々不器用だし、以前も疲れて音を上げていた。
慎重にやろうとした結果神経を擦り減らすのかもしれない。
扱う器具がガラス製なのだし仕方無いのか。
ナズは・・・一応声を掛けたのだが、
「お片付けがありますので」と言われて台所から帰って来ない。
多分逃げた。
エミーにやらせれば良いはずなのに。
仕方あるまい。
2人は奥様なのだから。
***
「お疲れさん、もう回すのは良いぞ」
「これで、終わりっ・・・ですか・・・ふぅ・・・ふぅ・・・」
「大変なのですね・・・お薬を作ると言う事は」
「もっと良い方法があればそうしてやりたいが、これしか無いのでな。
道具が使い辛いのが1番の隘路だな」
「この道具はどこでお求めになられたのでしょう?」
「そ、そうです。もう少し回し易く大きな物があれば良いと思うのですが」
「あー・・・。うん、自分が作らせた。
シュメールの技師に頼んだのだ、こう作ってくれと」
「ええっ!?そっ、そうなのですかっ、大変失礼を致しました!」
「もしや、ご主人様がお考えになられたのですか!?これを?」
シュメール=ガラスだと思っているのだろう。
この2人の知識量ならば遠い異国の産業がどうであるかなど知る由も無い。
このような道具が一般の道具屋に売っているかどうかも含めて、だ。
ナズもアナも、それが判っているので文句の1つも言わなかった。
イルマやクルアチは元々お屋敷の奴隷、
金持ちならば金を積めば欲しい物が買えると思っている節がある。
「まあそういう訳なのでな、現状これしか用意ができなかったのだ。
次を作らせる機会が在ればもっと使い易くしてみたいが、
生憎自分は細工師でも技師でも無いのでな。
余り変な物を作り過ぎても身持ちが危うくなるので、
今はこれで勘弁して欲しい」
「い、いえ、その、申し訳ありませんでした」
「あの・・・はい。頑張って回させて頂きます・・・」
「それじゃクルアチは戻って良いぞ。イルマはどうする?
このまま寝ても良いし、喉が渇いたならばハーブティーでも飲んで来い」
「そ、それでは行って参ります。
あの、奥様もお飲み物は如何でしょうか?」
「はい?私ですか?では頂きましょうか」
イルマとクルアチが出て行き、自分は残りの工程に入る。
分離した中澄みの液体を集めて三角フラスコに注がれた液体を、
結晶が出て来るまで煮詰めるのだ。
自分の座っている椅子の横にアナも腰を降ろす。
「何度見ても、これらの道具には慣れません。
旦那様はこれらの道具を知った知識だと仰られましたが、
ここだけ見ると異国のお部屋のようです。
サンドラッドやシュメールでも無い・・・」
「うん・・・そう、そうだな。
確かにこの部屋の一廓だけは異様だ。
それは自分でもそう思う」
「そうなのですか?旦那様のお国ではこのような物が普通にある物だと」
「普通・・・には無いな。
自分の国であっても、こういった物を実際に使っている者は極僅かだ。
自分にはたまたまそういった事を知る機会が有った」
持ち込んだ本を頼りに、学校の授業で扱った機材の知識を生かしただけだ。
元々道具も含めて科学に精通している訳では無い。
だが、アナから見れば全てを知る者のように見える訳だ。
器具の形も、この世界で一般的に用いられる器の形では無い。
明確にこの為だけに作らせた物だと言う認識でいるはずだ。
本来はただの理科実験セットであって、
製薬会社に置いてあるような本格的な機材では無いのだが。
・・・多分。
見た事なんて無いから知らないけどさ。
「アナは自分を神だと言っていたが、実を言うとな」
「はい」
ゴクッっとアナが喉を鳴らす。
──トントン。
「イルマです、戻りました」
「あ、ああ、良いぞ。入っても大丈夫だ」
「はい、失礼します・・・。
ご主人様と奥様のハーブティ、そして体を拭くお湯になります」
お風呂を入れなかったために、
ナズが気を利かせて湯を沸かしてしまったようだ。
と言う事は全員配ったら水が足りなくなる?
自分達の分だけ?
「う・・・、そうか。ありがとう」
「間もなく奥様もお戻りになられますので、お体を綺麗にさせて頂きます」
「済みませんね、イルマ」
ではナズが戻って来るまでの間に、使用した器具を片付けようか。
汚染されたビーカーなどを洗うのは明日かな?
今日の方が良いかな?
結局ナズが戻って来るまでは時間が掛かりそうだったので、
アナとイルマにもお願いして、風呂場までガラス器具を移動させる。
そこでウォーターウォールやファイヤウォールを出して洗浄した。
お風呂・・・入れてやれば面倒が無かったよ。
済まないね。
結局話そうと思った内容は、
途中でイルマが来たため中断のまま有耶無耶になってしまった。
イルマとクルアチが手伝い2時間程掛けて作り上げた薬液は、
前回同様2人で使用すれば1回分と、もうちょっとになった。
イシャルメダの病状が若干の改善を見せているので、
次回彼女が陰性判定であるならば、次はエミーとイルマの番となる。
流石にもう夜も更けてしまったので、
明日食事の前後に検査すればいいだろう。
その後、風呂場で湯を出している最中にナズもやって来て、
揉みくちゃにされてしまった。
拭くと言うか、擦ると言うか、絞ると言うか。
その後は猛烈な眠気に襲われて、
ベッドに倒れるように寝てしまったのであった。
何故、男は満足すると賢者タイムとなって眠たくなるのか・・・zZZ。
∽今日のステータス(2022/07/18)
・繰越金額 (白金貨29枚)
金貨 46枚 銀貨 71枚 銅貨 23枚
食糧店
オーレズ × 2 12
絹袋 20
オーレズ ×50 300
木箱 30
銀貨- 4枚 銅貨+38枚
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計 金貨 46枚 銀貨 67枚 銅貨 61枚
・異世界99日目(17時頃)
ナズ・アナ94日目、ジャ88日目、ヴィ81日目、エミ74日目
パニ67日目、ラテ46日目、イル・クル43日目、イシャ17日目




