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前史

 1699年、カルロヴィッツ条約によってオーストリアがトランシルバニアを併合した。トランシルバニアといえば、ドラキュラのブラン城があることを連想する。

 が、実際にはワラキア公国のヴラド公はトゥルゴヴィシュテ城を拠点としている。どちらもカルパチア山脈越えの要地で、税関の機能があった。一方の城はハンガリーの、もう一方はワラキアの。この要道では中世最強の穀倉地帯ハンガリー小平原の穀物がドイツ商人の手によって運ばれる。彼らドイツ商人は12世紀以降の移民によって登場し、ドイツ法に基づく特権により主に外国との貿易で支配的な役割を担っていた。ドナウ川を使えばもっと容易なのだろうが、この川の支配権は既にオスマン帝国に移っていたか、

或いは国境のために通商が滞っていたのだろう。

 そんなときに行われたブラド公の保護貿易政策は外国商人たちやワラキア貴族には不評で、彼の失政の代償は未来の汚名と彼自身の命によって贖われる。

 当時、多くのワラキア貴族を纏めていたのはオスマン帝国への脅威のほかになかった。つまり土豪集団の群れでしかない。オスマン帝国の支配は、彼ら貴族層のほぼ確実な没落を招くとされたために歓迎されなかったのだ。

 保護貿易は、その税制管理のために貴族たちが好き勝手に税を定めることを抑止する必要があり、それが中央集権化に繋がる。ブラド公としては戦費の調達を目的とした政策であり、ハンガリー王の傀儡になってからは重要でなくなった。

 ブラド公はオスマン帝国に対する戦いの中で死んだ。ワラキア公国は滅びこそしなかったが、オスマン帝国の属国として搾取されるようになる。


 十六世紀末のトランシルバニアには後世吸血鬼と看做されたエリザベート・バートリが居た。彼女はティサ地方の大貴族バートリ家出身で、トランシルバニア公イシュトヴァンの姪である。

 その二度目の結婚後の居城シャールバール城はカルパチアの深い森のすぐ傍にある。近世の絢爛な宮殿とは全く違う、要塞として建てられた無骨な城の薄暗い部屋で、エリザベートは彼女の娘の乳母であった魔女ドロッタヤ・センテシュの手ほどきを受け、黒魔術に耽るようになる。

 エリザベートの夫であるナーダシュディ家のチェイテ伯は──彼もエリザベートと同様に使用人たちへの暴行を好んでいたのだが──度々城を留守にしてハプスブルク帝国側国境に居た。1573年に両国の休戦協定が結ばれたにもかかわらず、両国の国境に平穏は無かった。ハンガリー地方の防衛は、まだハプスブルクの軍事評議会の影響(司令官区の設置)を受けておらず封建領主の下に敷かれており、国境に沿って配備された兵士たちは傭兵ではなく兵役に従事する農民が中心である。対してオスマン帝国側の国境兵士は、僅かな賃金で生計を賄うために国境を侵犯して掠奪せざるを得なかった。

 両国の本格的な戦争は1591年、ボスニア-クロアチア方面国境へとスルタン・ムラト3世の軍勢が攻め寄せたことに始まる。元は小競り合いだったのだが、1592年ハプスブルク側ビハチ砦の陥落を以って両国は本格的な戦争を開始した。そして愛国心というよりも家の興盛を求めてこの15年戦争の戦場へと出陣したチェイテ伯だが、1604年に病死してしまう。

 遠征の間長く放置されていたエリザベートは若さと美貌を保つために、そして夫の勝利祈願のために若い女の血液を使って魔術を行使する。つまりそれが吸血鬼たる所以である。そして1611年、エリザベートは50人あまり(或いは600人とも)の少女を殺した罪により、神聖ローマ皇帝とも親しいトゥルゾー家のジェルジュによる裁定で投獄された。

 1614年にエリザベートは死んだ。チェイテ伯領は息子のパールに引き継がれるが、孫の代になってマグナート陰謀に関わったために没収された。


 吸血鬼が西欧に現れるのは18世紀に入ってからである。最初の例は1700年、ギリシャを訪問したフランスの植物学者ジョゼフ・ピトン・ド・トゥルヌフォールが聞き知ったヴリュコラカスという魔物で、ポール・バーバーの著作に挙げられている。

 この時期のギリシャはオスマン帝国の領土だったが、ブルボン家は歴史的にハプスブルク家と対立していたからフランスとオスマン帝国はカピチュレーションの結ばれた16世紀以来必然的な互恵関係にあった。18世紀には大西洋貿易が拓かれたにも拘らずレヴァント貿易の規模も増大を続けていて、深い友好関係に基づいて両国の文化人が互いの国を往来するようになっていた。

 かつてギリシアで知られていた友好的な亡霊ヴリュコラカスは、スラヴ文化の影響で悪霊に変わったという。このオカルトに対する恐怖のために、民衆はオスマン帝国支配下でジズヤの要求や教区コミュニティ間の差別がありながらもミレット制によりその存続を容認されていたギリシャ正教会に頼っていた。

 しかし決定的に吸血鬼と違う点がある。血を吸わないのだ。


 ヴリュコラカスを含め、いずれもスラヴ民族の伝承とは異なる。

 ハンガリーは言わずもがな、ルーマニアはブルガリアで作られたキリル文字を使っていたために多くの借用語があるのだが、彼らの民族と文化はスラヴではなくダキアとラテンの混合である。

 正式な吸血鬼の来訪はもう少し遅れる。


 西欧の吸血鬼伝承は、1718年のパッサロヴィッツ条約でオーストリアがオスマン帝国よりセルビア北部を獲得した後が基点となる。

 17世紀末の反抗に対して行われた抑圧的な政策や、辺境に配されたイェニチェリによる収奪のためにセルビア人は国外脱出を志していた。彼らの受け入れ先として最も適当だろうスラヴ人国家ロシア帝国がオスマン帝国に敗北を喫していたために、第二次ウィーン包囲以来オスマン帝国に対して優位に立ちつつあるハプスブルク帝国への期待を抱かせた。

 ハプスブルクのルールは、オスマン帝国の宗教的寛容をそのまま導入する。新たに生まれた軍事国境線のために徴用された民兵が配され、徴税のためにセルビア人地域の調査が進められる。

 その最中の1721年、伝染病が東欧を襲った。それはスラヴ人にとっては何度目かの吸血鬼騒動の始まりに過ぎなかったのだが。

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