第六話 地下書庫の歪みと隠された過去
アシュトン伯爵邸の地下書庫は、ひんやりとした湿気と古い紙の匂いに満ちていた。
壁一面に敷き詰められた重厚な本棚。事件直後の立ち入り禁止を示す魔導のテープが張られているものの、そこは静まり返り、一見すると不審な点は見当たらない。
「ここが第四の被害者、アシュトン伯爵の書庫だ」
エルドリッヒが掲げる魔導ランプの明かりが、暗闇を橙色に照らし出す。彼の背後に従うのは、レイアただ一人だった。昨夜のミストの言葉を確かめるため、二人は早朝からこの現場へ足を踏み入れていた。
「伯爵は、この執務机の前で『笑顔』のまま息絶えていた。遺留品は例の『青いバラ』のみ。捜査隊はくまなく調べ尽くしたと言っているが……」
エルドリッヒの問いかけるような視線を受け、レイアはゆっくりと深く息を吸い込んだ。
(ミストは……『本当の鍵』が残されていると言っていた)
レイアは集中し、部屋全体に視線を走らせた。
人の嘘を見抜く洞察力は、人間だけでなく「人間が作り出した空間の不自然さ」にも作用する。作り手や隠した者の「後ろ暗い意図」が、微小な歪みとなって脳裏に引っかかるのだ。
本棚の並び、床のきしみ、机の傾き。
レイアの足が自然と止まったのは、部屋の最も奥、歴史書が並ぶ大きな本棚の前だった。
「……長官、こちらです」
「本棚か?」
「はい。この本棚だけ、わずかに埃の積もり方が違います。それに——」
レイアは指先で、二冊の古い年代記の背表紙を指し示した。
「この二冊だけ、背表紙の金箔の摩耗具合が不自然です。頻繁に手で触れられている……いえ、『押されている』痕跡があります」
エルドリッヒがすぐに歩み寄り、レイアが指し示した二冊の本を同時に奥へと押し込んだ。
カチリ、と小さな金属音が響く。
ずしりという重い音と共に、巨大な本棚が数センチほど手前に滑り出し、隠された隠し金庫の扉が現れた。
「……見事だ、レイア」
エルドリッヒの感嘆の声。しかし、レイアの心は晴れなかった。ミストの情報は完璧に正しかったのだ。なぜ彼は、捜査局すら見落とした隠し金庫の存在を知っていたのか。
エルドリッヒが万能鍵を差し込み、隠し金庫の扉を開ける。
中に収められていたのは、金品ではなく——一束の古い羊皮紙の手紙と、小さな黒い木箱だった。
「これは……」
エルドリッヒが手紙を広げ、目を通す。その瞬間、彼の完璧に整った顔立ちが、初めて微かに強張った。
彼の喉元から、見たこともない「変調」が起こる。
灰色の嘘の煙ではない。だが、深く、昏い「怒り」と「苦痛」のゆらめきが、氷のように澄んでいた彼の全身を包み込んだのだ。
「閣下……? 一体、何が書かれているのですか?」
「……十年前の、『ヴァルハイト事件』の記録だ」
エルドリッヒの声が、普段の倍ほども低く響いた。
「十年前、私の父である前公爵が、国家叛逆の罪を着せられて処刑された。……だが、この手紙には、アシュトン伯爵と内務大臣が裏で共謀し、父を陥れた罠の全貌が記されている」
「な……!?」
レイアは言葉を失った。
完璧で冷酷、隙のないスパダリとして君臨するエルドリッヒ。彼が背負っていたのは、父親を冤罪で失い、冤罪を着せた国の中で孤高に生き抜いてきたという、想像を絶する不遇の過去だったのだ。
「伯爵たちは、奪い取った私の父の権力を山分けした。そして……その陰謀を外部から助けた『裏の協力者』がいた」
エルドリッヒが黒い木箱を開ける。
そこに入っていたのは、古びた貴族の家紋が刻まれたペンダントだった。
その紋章を見た瞬間、レイアの頭の中に落雷が落ちたような衝撃が走った。
(この家紋……見たことがあるわ)
記憶の糸が手繰り寄せられる。
かつて、貧民街で傷つき、血を流していた幼いミスト。彼が胸元に大切そうに抱きしめていたペンダントの紋章と、全く同じものだった。
「この紋章は……十周年前(十年前)に断絶した、レスター子爵家のものだ」
エルドリッヒが忌々しそうに言い放つ。
「我が家を陥れた罪をなすりつけられ、一族郎党すべて処刑された哀れな蜥蜴の家門だ。一人だけ、生き残りの幼い子供が行方不明になったというが……」
息が止まる。
頭の中で、すべての点と線が嫌な音を立てて繋がっていく。
ミストの本名。彼がなぜ事件の裏側を知っているのか。なぜ彼が「仮面卿」として悪徳貴族を狙うのか。
彼は——復讐のために生きているのだ。
「レイア、どうした? 顔色が悪いぞ」
エルドリッヒが心配そうにレイアの肩を抱く。
彼の温かい手が触れるたび、レイアの胸は激しく引き裂かれそうになった。
正義のために真相を追うエルドリッヒと、復讐のために闇を駆けるミスト。
二人の男の哀しい因縁の狭間で、レイアの心は激しく揺れ動き始めていた。




