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絵画がお好きなようで

 ソフィアはエライザを部屋まで送っていくと、療養中との張り紙を用意し扉に貼った。

 それから自分に喝を入れるために、何度か呼吸を繰り返し、使用人専用の通路から表の屋敷へと向かった。


「……心を殺しなさい、ソフィア。あなたなら得意でしょう」


 呪文のように唱える。

 表と裏の境界線には、ビリヤード台に用いられるベーズという名の布が使われていた。使用人の生活音を聞こえなくするためだと、いつの日かエライザに教わった。

 どうか彼女の涙が止まりますように。

 それだけを祈り、屋敷へと出た。



「ハンナ! おい、ハンナ!」


 廊下では気が立ったアニョロがエラのことを呼んでいた。それでも同じくハンナであるソフィアは、使用人モードの声音で「はい」と答えた。


「いかがされましたか、旦那様」

「お前じゃない! 黒髪のハンナだ」


 アニョロはソフィアを一瞥すると、手で追い払うような仕草を見せた。

 黒髪のハンナ。そして私は赤髪のハンナ、とでも呼ばれているのだろうか。

 名前を聞かれることもなく、もちろん覚えてもらうこともない生活。ハンナ、そう呼ばれる度に、自分の名前を忘れてしまいそうになる。


「……エライザさんでしたら、只今療養中です」

「なに?」

「き、気分が悪いとのことで、部屋で休んでいただいております」

「俺の許可なしにか?」

「申し訳ございません。急を要する事態でしたので」


 どこから手が伸びてくるだろうか予想する。頭か、顔か、腹部か。どこに一撃が飛んでくるかを考えながら、それでも避けることは許されないことを自覚する。避けてしまえばとめどない怒りが溢れてしまう。だから一発で済むのならそれがいい。


「チッ……あいつ、お前に何か言ったか」

「……具合が悪いと」


 なんとかするとは言ったものの、なんとかする方法はどう見つければいいのか。療養中の効果が使えるのも今日だけかもしれない。


「ただ……」

「ただ、なんだ?」


 呼吸を整える。何度整えているのか分からない。それでも奴隷らしく、人間以下らしく。


「エライザさんが、旦那様に仕事を頼まれたと仰っておりましたので……そちらが気になりまして」


 どこまで切り込めばいいのか。エラのためにできること。やれることを考えなければ。

 アニョロの瞳に鋭さが孕む。


「私にもできることでしたら、……どうぞ私にお与えください」

「お前に?」

「はい」


 この七年、奴隷として生きてきた。

 けれど一度だって女として扱われたことがない。大丈夫だろうか、自分で。務まるだろうか。私でいいと思っていただけるのか。

 怖くてたまらない。そんなソフィアとは対照的に、アニョロは目を細めてはじっくりと舐め回すようにソフィアを見る。今まで考えなかったわけではない。

 顔もいいし、身なりさえ整えさせればそれなりに化けただろう。商売にも使えたはずだ。しかし、そうできなかった。なぜ? アニョロは考える。この女をここに連れてきたときから、この女を性的に見ることも、また商品として見ることもできなかった。ほかの力が働いていたとしか思えないような不思議な現象だった。


「私に可能でしたら──」

「まあお父様、もうここにいたのね!」


 カルメンのねちょねちょとした声音が廊下に響き渡るとアニョロの顔には父親らしい表情が浮かぶ。


「カルメン、どこか行っていたのか?」

「お茶会よ。それにしたってお父様、ずいぶんと探しましたのよ」

「探していた?」

「ええ、お母様、今夜のパーティー中止になったんですって。予定変更でミネルバ夫人の元でお食事会をすることになったそうで」

「そ、そうか。それはまた。楽しんできなさい」

「いやですわ、お父様も行くんです。準備なさってちょうだい」


 ひらひらと、可愛らしいドレスに身を包んだ後ろ姿が遠ざかっていく。ソフィアは内心、初めてカルメンに助けられた、と思っていたが──。


「では、三日後、私の部屋に来なさい」


 耳元で囁かれた誘いに、ソフィアは身体を硬直させる。


「……はい、旦那様」

 

* * *


「これはこれは、フィレンツェ男爵」


 エライザが部屋に閉じこもってから三日が経った。

 その間、ソフィアは何度もエライザの元を訪れ、何もなかったこと、そして休みを三日もらっているから、それまでは仕事を休んでほしい、とのことを伝えた。

 正直、その三日後どうなるのか、自分でも分からなかったが、エライザを安心させることだけを一番に考えた。

 今日の夜、奥様がいない。カルメンもいない。部屋に行かなければならないことがソフィアの動きを鈍くさせていた。


「紅茶を準備しないと……」


 それでも仕事は待ってはくれない。フィレンツェ男爵に見つからないように厨房へと入る。

 使用人は決してゲストに姿を見られてはならない。このチャップマン家では、お客様にお茶を出すときも、部屋の外にワゴンを設置し、すぐさま離れるようにと命じられている。用意されたカップを奥様、もしくはアニョロが直々にもてなした。

 ソフィアは紅茶を準備し、応接間の前にワゴンを設置すると、すぐに使用人通路へと入り、いつものように部屋の中を観察した。


「ほう、紅茶ですか」


 フィレンツェ男爵はカップの中身を見るとそう呟いた。

 その後ろには、前回見た女性の付き人が見える。


「前回は珈琲を用意していただきましたね」

「そ、そうでしたでしょうか。珈琲がお好みでしたらすぐにでも──」


 アニョロが慌てたのを見て、フィレンツェ男爵は手で制した。


「いいえ、おそらく私が珈琲に口をつけなかったことを見てくれてのことでしょう。とても優秀な使用人の方ですね」


 そう言うと、フィレンツェ男爵はソフィアの方をちらりと見た。

 目が合ったのではないかと錯覚し、ソフィアは慌てる。


「どうして……私がここにいるのを……いや、分かるはずない」


 壁で隔たれているのだから、自分の姿など見えるはずもない。


「余程、この絵画がお好きなのかしら……」


 どんな絵が飾られていただろうかと思い巡らせていると「決めましたよ」というフィレンツェ男爵の声が聞こえた。

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