ヴァイデ村の四人家族【3】
村長が家を訪ねてきたのは、姉妹が木の枝でいっぱいの子供用のソリをギィギィと軋ませながら引いて森から戻った、ちょうどその頃だった。
村長は白髪混じりのゴワゴワとしていそうな波打つ髪を肩のあたりで一つに束ね、頑固そうな髭を長く伸ばし、首のあたりで小さな三つ編みにしていた。
全体的にずんぐりとした印象で、エルフリーデはうっかり「このお爺さんは熊の妖精ですか?」とメルヴィに尋ねそうになったけれど、その前に彼女が「村長」と呼びかけたので事なきを得た。
「おお、メルヴィ! フリーダは風邪をひいたと聞いておったが……もう治ったのかの?」
一瞬”フリーダ”という名が誰の事か分からなかったが、そういえば記憶を失う前の自分がそう呼ばれていた事を思い出す。
しかし、風邪とは一体?
何の事ですか?と首を傾げそうになって、メルヴィに肘で突かれる。
玄関で村長を出迎えていたマイラとスヴェンも、慌てた様に身振り手振りで何かを合図している。
どうやら話を合わせた方が良いようだった。
「え、えっと……大分良くなったと思います? え? あ、思う、よ!」
どうやら今の自分と前の自分は話し方が違うようで、エルフリーデはメルヴィの肘によるツッコミを頼りにどうにか言葉を捻り出す。
もうこれは、喉を痛めたとか何かそんな感じの言い訳で話さないようにした方がいいような気がして、エルフリーデは大袈裟に咳き込んで見せた。
「あ、あー! やっぱりおねえちゃんたらまだ具合悪かったのねー!」
「外に出るのはまだ早かったのよ、さ、中に入りなさい」
おやおやと目を丸くする村長から隠すように間に入って、マイラとスヴェンがエルフリーデの全身にこびりついた雪を払って落とす。
エルフリーデのコートにくっついていた雪が粗方綺麗になったら、スヴェンは木の枝を材木置き場に放り込んでいるメルヴィに声をかけた。
「メルヴィ、早くソリを小屋に閉まってきなさい。パパ達は村長と話があるから、おねえちゃんについててくれるか?」
メルヴィは黙って頷いて小屋に駆けていく。
それを見送りながら、エルフリーデは仕舞い込まれるように家に入れられ、マイラは後ろ手に手早く扉を閉めた。
茶の一杯も出せずに申し訳ない、と、眉尻を下げてスヴェンは村長に頭を下げるが、老爺は軽く笑って手を振った。
「いやいや、病気の子供がおるというのに長居するわけにはいかんよ。二、三、確認させてもらったら、わしはすぐに退散するでな、シェルツさん」
シェルツというのはスヴェン達一家の名字だ。
ヴァイデ村に古くから住む一族で、スヴェンもまた、この村に生まれた時からずっとこの地に根を下ろしている。
村長は、彼が生まれる少し前にヴァイデ村の村長になったのだと、スヴェンは昔、父から聞いた事があった。
若い頃には王都で働いていたそうだが、元々はこの村出身の人物で、スヴェンの亡き父──エルフリーデの祖父は、村長の幼馴染みだったとも言っていた。
それもあって、スヴェンは幼い頃から、何かと村長には良くしてもらっている。
聡明で心優しい好好爺を、スヴェンはずっと慕っていた。
世話になっている人を家にあげられない事が申し訳なくて、スヴェンはもう一度、深く頭を下げる。
「気を遣わせてしまって……すみません」
「なんのなんの。それより、フリーダの七つの誕生日、おめでとう! ……花祝いはいつにするかの? 今月も来月も七つになる子供はおらんし、村としてはいつでも良いんじゃが……国のお役人がそろそろ徴税と戸籍の確認に来おるし、それまでにはせねばなるまいよ」
村のみんなが楽しみにしておるぞ、と村長は髭を震わせてわらうが、マイラ達はどうにか硬い笑顔を浮かべて見せるので精一杯だった。
愛想笑いを浮かべる二人を見ると、村長は何かを察したのか、すっと目を糸のように細くして、小さくため息をついた。
「……一週間ほど前からかのぉ。村の廟にある精霊石がどうにも騒いでならん」
村長の住む館は精霊の加護を受けるための廟に接するように建てられている。
その廟を中心として村が作られており、その廟の中心には精霊の力が宿る石が安置され、人々が精霊の力を借りるのは勿論のこと、村そのものを守る役目も担っている。
そして花祝いでは、その精霊石によって花の蜜を判別すると伝えられている。
精霊石のざわめきがなにを意味するのか、村長はエルフリーデ達の家に来るまでは確証が無かったが──シェルツ一家の不自然な振る舞いには、まさか、と思わざるを得ない。
「気持ちはわかるが……いや、分りようはないか。ともかく、早めに腹を決めることじゃよ」
曖昧に濁して、村長は呟く。
深い深いため息をついて、彼は悲しげに目を伏せた。
「罪を負う覚悟があるなら、思うままにするとよかろう……あの御方との約束もある。わしは何も言わんよ」
「村長……!」
ハッと目を見開いて、マイラは手で口を覆う。
スヴェンはただ、村長から目を逸らし、マイラの肩を抱くしかできなかった。
花の蜜の存在は詳らかにしなければならない。
精霊に愛され、妖精王の寵愛を受けて育った子供は、精霊の力をよく引き出し、国に繁栄をもたらすという。
隠し立てすることが重罪に値することは、この夫婦もよく承知していた。
それでも、二人は自分の娘を手放す決意ができずにいる。
娘の中に家族の思い出が何も残っていないのだとしても、大事な子供であることに変わりはない。
それにマイラには──どうしても、娘を王城に渡したくない理由がある。
その理由を村長は知っていたので、マイラの苦悩を察し、彼は痛ましい表情をした彼女を直視できなかった。
「なんとも数奇な運命じゃ」
村長はぽそりと呟くと、すぅ、と深く息を吸って呼吸を整え、気を取り直したようにニコリと笑った。
「今日は昼ごろから急に日が出て暖かくなってきおったからのぉ。気温の差にはくれぐれも気をつけるんじゃよ」
また風邪をひいてはいかんからの、と言い残して、村長は一家に背を向けた。
夕陽に照らされ、雪道をゆっくりと歩いていく曲がった背中を見送りながら、夫婦は支え合って、じっと佇んでいた。
◆ ◆ ◆
──同じ日の、夜更け。
まるで星が降ってくるような、雲一つない、美しい夜だった。
ヴァイデ村から遠く離れた王都の王城、白亜の城の、幾多もある細く伸びる塔の一つ、その一室で、一人の青年が月に一度の観察記録を取っていた。
室内の壁中に棚が張り付けられており、そこには一つ一つ精霊石が安置され、石達はビロウドのクッションの上で静かに眠っている。
月毎に精霊石の状態を観察し、記録することは、青年の大事な仕事の一つだ。
とは言え、彼は今のところ、報告書に『異常なし』の文字以外を書いた事がない。
今月も変わらず、淡い色をした宝石の結晶は閑寂として、代わり映えのない姿をしている──はずだった。
「……これは」
ふと、一つの精霊石に目を奪われた。
「……ヴァイデ村、ですか」
青年は切りそろえられた濡羽色の髪を揺らし、棚を覗き込む。
モノクル越しの目線の先には蛍色に輝く精霊石があり、彼の髪と同じ夜の色の瞳に薄い緑が反射していた。
「伝達を」
彼が人差し指を空中に差し出すと、どこからともなく青白い炎に燃えるカナリアがとまった。
小首をかしげるカナリアに、男は静かな声で吹き込む。
「こちら精霊塔、フリートヘルム・ドレヴァンツ。ヴァイデ村の徴税へ出立の際は、精霊塔の塔主、フリートヘルムが同行する。出立の日時を報告せよ」
カナリアは彼──フリートヘルムと同じ声色でその言葉を繰り返した後、燃え上がるように消えた。
そして半刻の後、色を変えたカナリアが彼の前で羽ばたき、男は躊躇うことなく緑の炎を纏う小鳥を指に乗せた。
小さな嘴が開くと、可憐な見た目とは真逆の野太い声で鳥は囀る。
『こちら財務塔。了解いたしました。出立の予定は明朝、七の時です。馬車はこちらで用意いたします』
思ったよりも出発が迫っていた事を知り、驚くと同時にフリートヘルムは安堵する。
なるべく早くヴァイデ村に着かねばならないのだ。財務塔の連中には悪いが、同行させてもらうのがいちばんの近道に違いない。
フリートヘルムはちらりと輝きを増す精霊石を見遣ると、返事を待つカナリアに口を開いた。
「邪魔をして申し訳ないが、急務である。……宜しく頼みます」
短く返事を終わらせて、彼は踵を返し、入り口近くの机に放り投げていた外套をひっ掴んで羽織る。
今夜は旅支度で忙しくなりそうだ。寝るのは馬車の中で寝ればいい。
これから待ち受ける稀有な存在に思いを馳せ、それを思う存分研究できるということを考えると、面倒な準備作業にすら心が躍った。
彼に取っては、研究こそ人生の全てなのである。
「死ぬ前に"花の蜜"にお目にかかることができるとは……!」
──ああ、何という幸運だろう!
恍惚とした表情を浮かべて、青年は頬を上気させ、うっとりと唇で弧を描いた。