金花寮【3】
「静粛に」
静かな、けれど朗々とした声が大講堂に響いた。
それぞれの席に座って思い思いに話をしていた生徒たちが、途端に口を閉ざし、波が引いていくように大講堂は静まり返った。
声の主──クラウスは、コツコツと硬い靴音を響かせながら壇上に上がると、横一列に並んだ教師の席の中央、学長の席に着席した。
天鵞絨のクッションがあしらわれた背もたれに百合の彫刻が施されたアームチェアは、この学問塔で最も権威ある者の席だ。
学問塔という閉ざされた世界で生きる生徒たちにとっては、その椅子は玉座にも等しい。
皆の注目が集まるのを待って、クラウスは口を開いた。
「夏季休暇が終わり、また新たな一年が始まる。在学生の諸君は、休暇で緩んだ気を引き締め、各々励むように。学問塔は努力を忘れた者に寛容ではない。今年も昨年同様、一人の落第者も産まないことを期待している」
クラウスの言葉に、学生たちにぴりりとした緊張が走る。
バルコニー席に座るエルフリーデまでもが、その背筋をピンと伸ばした。
「さて、諸君らも待ちかねていることだろうが──今年も優秀な同胞を迎えることが叶った。これより色染めの儀を執り行う。新入生をこちらへ」
大講堂の正面の扉、人の背丈の倍はあるような巨大で分厚い両開きの扉が、重い音を立ててひとりでに開かれる。
純白の上着を羽織った子供達が、扉の前で一様に目を丸くして講堂の光景に目を奪われていた。
引率の先生が促すと、子供達は緊張した面持ちで小さな足を踏み出し、長椅子の並ぶ広間の中央に敷かれた濃紺のカーペット上を壇上に向かって歩く。
「一年生の諸君、入学おめでとう。心から、歓迎する」
クラウスは立ち上がり、壇上の前で整列している子供達を見下ろした。
相変わらずクラウスはにこりともしないので、新入生たちは自分が本当に歓迎されているのか不安になってしまっているようだった。
学長の威圧感に怯えたのか、中には涙を浮かべる子もいる。
毎年の事なので、在校生は苦笑しながらその様子を見守った。
「これより君たちの家となる──寮へ振り分けする。名を呼ばれたものから壇上に上がりなさい」
引率の先生が壇上へ上がる。その手には鳥籠が抱えられ、中には金の鸚鵡が堂々とした体躯を納めていた。
壇上に呼ばれた生徒がその前に立ち、ドーム型の鳥籠の天辺に飾られた透明な精霊石に触れると、その石の色はたちまちエメラルド色に変わり、籠の中の鸚鵡が華やかな女の声で明朗に鳴いた。
『個性を重んじる子よ、君はフリューリンクに相応しい!』
──声と同時に、その子供の制服の上着の刺繍も色を変えた。
深い緑に襟元や袖口の刺繍が変じるのを見てとると、クラウスは声を上げた。
「緑春寮!」
賑やかな歓声が緑に色分けされた長椅子が並ぶ列から上がり、緑春寮に振り分けられた生徒は目を爛々と輝かせて自分の寮の席に駆けていく。
次の子供が壇上に立つ。
前の子に倣って鳥籠の精霊石に触れると、サファイアの色に石が変わり、今度は低く凛々しい女の声で、鸚鵡は凄むように鳴く。
『実力を重んじる子よ、そなたはゾンマーに相応しい!』
「蒼夏寮!」
わっと大きな歓声が上がり、熱量のある拍手でもって、新入生が迎えられる。
堂々とした様子で青い席に向かう子供をバルコニー席から見下ろして、エルフリーデは少し、拗ねたように唇を尖らせていた。
「なんだか羨ましいです」
妹の呟く声に、自分も入学の際に同じように考えたことを思い出して、アレスは苦笑する。
「王族は入学と同時に寮が決まるからな。刺繍も最初から金糸で縫い付けられているし」
「刺繍の色が変わるなんて不思議な光景ですけど……あれはどういう仕組みなのでしょう?」
「あれはティターニア様の四人の子、四季を統べる妖精の力が込められた精霊具だ。触れた者の気質を判別してそれぞれの名を冠する寮に振り分け、制服の色を染めるのだが、仕組みは少しも解明していない。木漏れ日の向こう側の女王陛下より、学問塔設立の際に下賜されたものだと伝えられているから、相当に古い精霊具であることは確かだが……」
「道具、なのですか? 生きているように見えますが」
「生きているともそうでないとも言われているな」
その不思議な鸚鵡は、時折その嘴で羽を繕ったり首を振って踊ったりしてしばしば儀式を中断させていた。
こんなに気まま鸚鵡が作り物とは。
なんとも信じがたく、エルフリーデはまじまじと教師が抱える鳥籠と鸚鵡を見つめる。
『調和を重んじる子よ、あなたはヘルブストに相応しい!』
精霊石が真紅に染まり、はんなりとした柔らかな女の声で、鸚鵡が鳴いた。
「緋秋寮!」
暖かな声と拍手が湧いて、嬉しそうにはにかんだ女子生徒が赤い席へと迎えられる。
エルフリーデは大講堂を見渡して、そういえばメルヴィはどこの寮なのだろう、と妹の姿を探そうとした。
薔薇色の髪を目印にすれば、きっと見つかる。
六年も経っていれば顔立ちも変わっているだろうけれど、あの花の色をした髪は、そう何人もいないはずだ。
そうして目を凝らすと──青い長椅子の列の一つに、薔薇の色が見えた。
クルクルと巻かれた二つ結びの髪が、彼女の仕草に合わせて揺れる。
遠くてはっきりと見えずとも、きっとあの子だ、とエルフリーデは確信して、胸が震えた。
呼び掛けたくてたまらなかったが、エルフリーデは目を閉じ、両手を握り合わせてぐっと堪える。
「どうした、エルフリーデ?」
硬く握り合わせた手に、彼女より一回り大きく育ったその手を重ねて、アレスはエルフリーデを覗き込む。
泣き笑いのような、切々とした喜びに震える顔に彼はハッと息を飲んで、重ねた手をそっと離す。
エルフリーデのこんな顔を見たのは、初めてだった。
メルヴィを見つけたのだろう、と彼は察して、しかしエルフリーデに確かめることはしなかった。できなかった。
そうしてしまったら、きっとエルフリーデは、あれはメルヴィに間違いないかアレスに尋ね、彼が頷けば──花のように笑うに違いない。
それはとても喜ばしいことのはずなのに、幸せなことのはずなのに。
体の内にカランカランと氷を放り込まれているような、じんわりと内側から冷えるような心地がして、アレスはたまらず目を逸らし、椅子に深々と座り直した。
「お兄様……?」
今度はエルフリーデがアレスを覗き込んだ。
心配そうに眉を寄せた彼女に、アレスはどこかほっとして、それが余計に──
『規律を重んじる子よ、お前はヴィンターに相応しい!』
その声を耳にした瞬間、エルフリーデは目を見開いた。
一瞬、頭が真っ白になって、彼女はゆっくりと壇上に目を戻す。
鳥籠の精霊石が銀鼠色に変じ、男子生徒の制服の刺繍が灰色に変わっていく。
「灰冬寮!」
クラウスの声が少年の行き先を告げると、大きな拍手が捧げられた。
「エルフリーデ、どうした?」
「今の、声は……」
兄の訝しげな声も耳に入らず、エルフリーデは胸が詰まったような苦しさを覚えて、自分の胸を抑えた。
──低い、腹に響くようなバリトンの声だった。
その声は、自分の影に潜む猫の声に──そして、六年前に出会った妖精の男によく似ている。
それならば、あの妖精の名は──
『余計なことは、考えなくてよろしい』
黒猫の言葉が頭の中に響くと、不思議と胸の詰まりが取れて──その代わりに、エルフリーデは自分が今何を考えていたのかも、掌から取り落としてしまったかのようにするんと忘れてしまった。
「エルフリーデ?」
アレスが肩を掴むと、エルフリーデは不思議そうに兄を見て、こてりと首を傾げた。
「どうかしましたか? お兄様」
「……いや、どうかって……其方の様子が急に……」
ぱちくりとしているエルフリーデを見て、アレスは脱力したように肩の力を抜いた。
「まぁ、いい。其方がなんともないなら」
その後、灰冬寮の名前が再び鳴かれても心に過ぎるものは何もなく、エルフリーデはすっかり、何か気づいたことすら忘れ去ってしまった。
エルフリーデの影からひっそりと溢れた溜息は、新入生を歓迎する拍手や歓声にかき消され、彼女の耳には届かなかった。




