目覚めたら六年後【3】
「では、貴方を取り込むためにエルフリーデ様は眠りについていた、と?」
フリートヘルムとエルフリーデはソファーに座りなおして向き合う。
黒猫はエルフリーデの膝の上にちょこんと座って、灰色の瞳をきらりと光らせた。
「いかにも」
「あなたは”写身”ということでしたが、大元の妖精はどういった存在なのですか?」
「それは答えられない。私のことは好きに呼べばいいが、今、名を教えることは女王の意志に背くからな」
夢の中でも名前を教えてもらえなかったことを思い出して、エルフリーデは苦い顔をする。
どういう妖精なのかちっとも分からないので、自分が今どういう状態なのか、想像もできない。
「あなたが入ってきて、私はどう変わったんでしょう? 自分では見た目以外のことがさっぱりです」
尤もだな、と、黒猫は頷いて、するりとエルフリーデの影に潜む。
驚いて瞬きしているうちに、エルフリーデの影はひとりでに跳ね──それにつられてエルフリーデの身体も跳んだ。
「ひゃぁ──ッ」
『口を開けていると舌を噛むぞ』
黒猫の声が耳元で響き、エルフリーデは言うことに従って口を閉じ、ぐっと歯を食いしばった。
エルフリーデの体はくるりと空中で一回転し、天井の木組みの上に飛び乗る。
驚きのあまり固まっているフリートヘルムに狙いをつけると、音も立てずに彼の前のテーブルに着地する。
ぐっと屈み込んだかと思うと、目にも留まらぬ動きで彼の眼前に足刀が迫り──ぴたりと寸前で止まった。
『感想は?』
「は……はしたない、ですよ」
辛うじてそれだけ口から絞り出したが、それどころの話でないことは、フリートヘルム自身わかっていた。
エルフリーデの動きは、並の兵士以上のものだった。それどころか、俊敏さだけで言うならば、騎士にも匹敵するだろう。
どう考えても武術の"ぶ"の字も知らないような少女にできる立ち回りではない。
黒猫がするりと影から抜け出ると、エルフリーデは慌てて足を下ろし、捲れていたドレスを整え、真っ赤な顔で黒猫を睨んだ。
「こ、こういうことは、ズボンを履いている時にしてください!」
「手っ取り早く分からせてやっただけだというのに、何が不満なのだ」
「ドレスの中身が見えてしまったら問題なんです!」
「では侍女に下に履くものを作ってもらうのだな。私は服装を選んだりはしない。動くべき時に動くぞ」
全く取り合わない様子の黒猫に困り果てたエルフリーデは、しかたなく、ドレスの下に履くスボンを手配するよう、シーラにお願いした。
「手間を増やしてしまってごめんなさい……」
「い、いえ、そんな……驚きましたが、たしかにあのような動きには必要ですもの。靴も、動きやすいものを手配いたしますね」
シーラの言葉に下女たちは我に返って、慌てて追加の品物を手配すべく執務室から出ていった。
パタパタと足音が遠ざかるのを聞きながら、エルフリーデは身体中の筋がじわじわと痛み始めているのに気づいて首を傾げた。
「なんだか……妙に身体が痛いのですが」
「筋肉痛だな」
「え、筋肉痛になるんですか?」
「当たり前だ。眠っている間も、お前の身体には、運動機能に支障がない程度に筋肉をつけてはいたが、あくまでも女にとっての平均量だ。急に運動すれば筋肉痛にもなる。私に甘えず、定期的に鍛錬するように」
悪びれない言い草に呆れつつも、言っていることは尤もなことなので、エルフリーデは頷いた。
「しかし、先ほどの動きはエルフリーデ様の身体には不釣り合いに思えましたが」
フリートヘルムが訝しげに尋ねると、黒猫は軽く鼻を鳴らす。
「無論、足りぬところは私の大元にある妖精の力を貸している。妖精の加護なくしてこの娘があれほど高く跳べるものか」
「割に合わない代償ではありませんか?」
たかが石一つに、と呟き、フリートヘルムは黒猫を見つめる。
訝しむような眼差しを受けても、黒猫は動じない。
「この娘が強くなりたいと願い、私はそれを叶えてやりたかった──いや、叶えざるを得なかった。強くなりたいというエルフリーデの願いはとても強く、切実だった。私が拾わなければ、おそらく他の妖精が引き寄せられていたことだろう。……まったく悪運の強い娘だ」
呆れたような物言いに、エルフリーデはムッと唇を尖らせる。
「六年も眠らされたのに……」
「ましな方だ。いいように解釈した妖精に、好きなように代償を持って行かれていてもおかしくはなかったのだぞ、このたわけ者めが。もっと慎重にならんか」
「そ、そんなの……どう気をつけろっていうんですか。お兄様が大変な目にあって、私、風の妖精の力を借りなければ、何もできなかった。私一人のちっぽけな力じゃ、きっとあのままお兄様が壊されていくのを見ていることしかできなかった。私がもっと大きくて、強い大人だったら……無力な小さな子供じゃなかったらいいのにって、もっと強くなりたいって、願わずにいられなかったんです」
エルフリーデは両手の掌を強く握って、ビィ玉のような黒猫の目を睨んだ。
「私は後悔してません。六年も眠ったのはびっくりしましたし、その間にお兄様を一人にしてしまったのは悔しいですけど……でも、強くなれたならいいんです。もし、あなたに拾われなかったとしても、何を失っていたとしても、強くなれたなら……きっと同じように後悔だけはしません」
「お前がそこまであの人間の小僧に入れ込む理由は何だ。優しくしてくれたからか? お前を庇って傷ついた事に責任を感じてか?」
理由、と少し考えるようにエルフリーデは呟いて、睫毛まで白く変わった瞼をそっと伏せた。
「そんな難しく考えてないです」
「何?」
「お兄様は、ほっとけないんですよ」
黒猫が首をかしげる。声は低いバリトンのくせして仕草だけ可愛らしいのがなんだか可笑しくて、エルフリーデはくすりと笑う。
「私が寂しい思いをしていないか心配しているくせに、いつもなんだか寂しそうで。私が笑ったら、その寂しさを少しの間忘れてくれる。見てて分かりやすいんです。あ、今、ちゃんと笑ってる、とか。なんだか悲しいこと考えてるな、とか」
「アレス殿下は素直な子供でしたから」
フリートヘルムは懐かしそうに目を細める。
そういえば、六年後ならもう子供と呼べる年齢ではなくなっているのだな、とエルフリーデはふと思って、胸がきゅっと縮まったような気がした。
話せば話すほど、会いたい気持ちがふつふつと心の底から湧いてくるのが不思議だった。
「お兄様には、私がよく知らない悲しい事がいろいろあって、それゆえに私を守ろうとしてて。それはお兄様の勝手な都合なんですけど、それなら私も、お兄様が私を守ろうとしてくれる分、あの人を守ってあげなきゃ、って思うんです」
「血が繋がっているわけでもなく、人の掟で定められただけの兄妹だというのにか?」
「私も不思議なんですが、なんだか王子様が一人ぼっちでいるように見えてしまったんです。それなら、仕方ない。私が妹になるしかない、と」
「耳が痛い話です。本当なら我々大人たちが、悲惨な経験をした子供として彼を慮ってしかるべきなのに、彼は表面上、王太子として毅然とした態度を取っていましたから」
「みんな、お兄様を王太子としてしか見ていませんでした。お父様も……心の中はわかりませんけど、敢えてそう接していたように思います。間違ってるとは言いませんけど、それってすごく寂しいなって。私がお兄様の家族になってあげられるなら、そうなりたいって思ったんです」
「あの小僧の望みはお前を守る事だろう。おとなしく籠に入っていれば、いつかあやつの心も慰められるのではないか?」
「そうかもしれませんけど、それは”お兄様の”望みですから。私はお兄様のためならなんだってしますけど、お兄様に従順でいたいわけではありません。それはきっと、家族とは違うと思うんです。私は私で、勝手にお兄様を守ります」
きっとこう考えるような人間になったのは、メルヴィの影響だとエルフリーデは思う。
家族のために強くなりたいと必死に願う姿が眩しく、尊いものに思えたから、励まされるように思えたから、同じ気持ちを兄にあげたいと、そう思った。
「苦しんでいる家族がいるのは、寝覚めが悪いですから」
黒猫は呆れてため息をつくが、エルフリーデは気にしなかった。
もう決めたことだったから、誰がどう思おうと関係ない。
黒猫はこれ以上問答することに嫌気がさしたのか、するりとエルフリーデの影に溶け込むと、沈黙した。
彼女の影は今や、もともと何もいなかったかのように静かで、ひとりでに動いたことが嘘のようだった。
「あなたは眩しいですね」
フリートヘルムが呟いた声が聞こえて、エルフリーデは影から目を上げる。
青年は憧憬にも嫉妬にも似た複雑な表情を浮かべて、少女をじっと見つめていた。




