序話 座礁
廊下の柱の影に、その獣人の少年は佇んでいた。
柔らかそうな焦げ茶の毛に覆われた丸みのある三角の耳が頭の上に突き出し、腰のあたりからは、ふさふさとした立派な狸の尻尾が垂れている。
その耳と尾以外は、通常の人間と変わらない姿だ。
春先の真夜中という、雪は降らずとも芯まで冷えるような夜だったので、ここに来るまでの間に、彼の頬は寒さのせいでほんのり赤く染まっていた。
とはいえ、この廊下に入ってからはぐんと暖かくなったので、凍えずに済んでいる。
アーチ状の廊下の柱には等間隔に壁に篝火が取り付けられており、その炎のおかげで、その回廊の中は昼間のように暖かだった。
橙色の玉石が嵌め込まれた籠状の台座の上で、黄金の炎が笑うように揺らめいている。
──否、実際に笑っているのだ。
炎の精霊が好む樫の木の薪を精霊具の台座の上に組み上げておけば、薪に引き寄せられた精霊によって篝火は絶え間なく燃え続ける。
質の良い、よく乾いた薪が使われているので、炎は上機嫌に笑い、影を踊らせる。
「まるで、魔物だな」
獣人の少年は、精霊のいない国── 白峰の国で育ったので、暁の王国の精霊具に多少の恐れを抱いていた。
白峰の国は、天を貫くように聳える山々の洞穴の中を、長い時をかけて力の強い獣人の力でくり抜いて作った、坑道によって形成される地下の国だ。
山の表面は雪で覆われており、とても人が暮らせる場所ではないため、地中に安息の地を求めたのだと言われている。
日の光が届かない地中は、木漏れ日の向こう側との繋がりが薄いため、精霊や妖精達が住みつくことがない。
それ故に、精霊や妖精のような高次元の存在に力を借りることを、どこか恐ろしいものだと感じる白峰の民は少なくない。
この少年も、そのうちの一人だった。
炎が笑う廊下など、精霊に縁のない白峰の獣人にとっては不気味で仕方ない。
暁の王国の学問塔へ来て二年半が経ち、精霊についてある程度学んだ事で恐怖心は薄れたが、警戒心は増していた。
「待たせたな」
足音も立てずに、その男は現れた。
黒いローブを纏った男は、すっぽりと顔をフードで覆っていて、顔を見ることはできない。
しかしその低く、よく通る声は、間違いなく少年の待ち人だった。
「遅い。こっちは寮を抜け出して来ているんだぞ」
「分かっている。しかし、今日の王城は、城の中をひっくり返したような大騒ぎでな。私も対応に追われていたんだ」
少年は訝しげに狸の耳をピクリと震わせた。
「何があった?」
「眠り姫が目を覚ました」
短く答えた男に、少年は愕然として詰め寄る。
「今頃!? 花の蜜が眠りについているというから、貴様の話に乗ってやったんだぞ!」
「起きてしまったものは仕方ない」
「たった一人の非力な娘など、殺してしまえばいい!」
「愚かな。妖精の女王に、直接喧嘩を売るような自殺行為だ。白峰の国もただでは済まんぞ」
鼻で笑う男に、獣人の少年はカッとなって掴みかかろうとするが、するりと避けられ、男は影のように捕まらない。
「そう怒るな。花の蜜がいることで、"人主義"はより身を潜めねばならなくなるが、希望が潰えたわけではない」
「今は、待つのみ、と?」
「来るか分からぬ機を待つのは辛いが、それほどまでに妖精の力というものは強大だ。……だからこそ、人は妖精から独立すべきだ」
少年は今更ながら迷っていた。本当にこの男の側に付いていて良いものか、と。
祖国から離れ、留学先で妖精の力を目の当たりにして慄いていた時に、この男が語る理想をこっそりと打ち明けられた。
それは少年にとって都合が良い理想だった。
彼には何を犠牲にしても護りたいものがあり、その為には、この男の話に乗るべきだと思えたのだ。
──だが。
この男が言うように、花の蜜という存在が妖精達の動向を左右するのなら。
もしかして自分は、虎の尾を踏むような愚行を起こしているのではと、尻尾が竦むような恐怖感が込み上げてくる。
「怖気付いたか」
「……いや」
少年は辛うじて首を振った。
いくら考えたとして、後戻りできるはずがない。
彼には護りたいものがある。
ならば、後悔など、しているだけ時間の無駄だ。
「祖国を脅かす存在は、潰す。ボクの狙いは最初からそれだけだ。──だが、そもそもお前の崇高な理想に賛同した訳じゃない事を、忘れてもらっては困る」
「忘れてはおらぬとも」
フードの男は、喉の奥で押し殺したように笑った。
この男が油断ならない男だということは、少年も分かっている。
"人主義"と言うならば、人よりも強い腕力を持つ獣人のことも、この男はいずれ、邪魔に思うのだろう。
──しかし、敵の敵は味方という。
だからこそ今は、そちら側に付いていてやる。
「私を利用し尽くしてやる、とでも言いたげな顔だな」
「分かっているなら良い」
獣人の少年はゆらりとその尾を揺らした。
「ボクはお前の手先でもなんでもない。協力者だ。ボクの主人が誰なのかは、ずっと昔に決めている。お前の側についているのは主のためだ。忘れるなよ?」
「だからこそ、お前は、私にとっても都合が良い」
男は喉を鳴らして笑うと、現れた時のように、足音一つ立てずに去っていった。
「──くそっ!」
残された少年は、苛立ちを抑えきれずに廊下の柱を拳で殴った。
どんなに拳に力を入れても、暗礁に乗り上げたような不安が、どうしても拭いきれない。
花の蜜などという、六年も眠りについていた姫君が目を覚ましたせいで、彼の未来は、予想のつかないものへと変わってしまったのだ。
三章は学問塔編になります!




