虹の女神の名をもつ薬師
どーん、とそろそろ寝ようかと思っていたイリスの前で、めずらしく寄宿舎ではなく自宅に帰宅した父が立ちふさがる。
「赤と青の次が黒というのが気に入らんが、まあいいだろう。三日後な」
夜の闇のように黒い髪を後ろで束ね、無表情でそんなことを勝手に言う。黒の騎士団というのは、父の髪から名づけた訳じゃないはず。…たぶん。
「それは…演習場に花を持って来いってこと?」
「それ以外になにがある」
どーん、と立ちふさがる父は胸を張り、無表情なまま娘を見下ろす。
「…わかった」
無言の圧力に屈して、仕方なくイリスは頷く。
「よし!」
ふん、と鼻息も荒く、ようやく父ドーソンは寝室へと立ち去ってくれた。
…ルットの花、群生させておいて、よかった。
「今日もゆくのか?」
紫の小花と、埋もれるように1輪の白い花の蕾を籠に入れていると、メイジが面白くなさそうに聞いてきた。
「はい。父に頼まれたので。お花がもったいないので、これきりにしたいと思っています」
「そうじゃそうじゃ。花もそうじゃが、嬢が目立つのは面白くないぞい。ワシの他に目をつけられたら面倒じゃ。はよ薬師の試験を受けるんじゃ」
ワシがちょちょいと合格させちゃるからのー。
いつもの台詞に、笑って応えながら礼をして退室した。
駆け足で大演習場へと行くと、以前より人垣が厚みを増したように感じる。皆そわそわと辺りを見回し、イリスに気づくと視線が止まった。
「きたわ!」
「あの子でしょう?」
「まあ、子供なのね」
「ええ幼いわ」
「だから平気なのよ」
「そうよね」
「わたくしなんて恐くて目も向けられないわ」
「恐ろしい傷ですものね」
「夢にみてしまったわ」
「悪夢ですわね」
「恐いわ」
ひそひそひそひそ、と上品に扇で口元を隠すご令嬢達やお仕着せの侍女達が囁きあう。
―――子供でよかった。
もし彼女達と同じ年頃であったなら、視線や囁きにもっと悪意を篭められていただろう。
だだん、と太鼓が高らかに鳴り響き、振られていた黒騎士団の旗がぴたりと止まる。
演習が終了したのだろう。
きゃああ、と歓声が上がり、リボンを手にした侍女達が目当ての近衛兵に駆けて行くのはいつものこと。けれど、今日は人垣が割れ、イリスが通りやすいように場を開けてくれた。
それは好意だけではなく、好奇心が起こさせたものだったが、助かるのは事実なので、イリスは微笑み幼く見えるようにちょこんと礼をして演習場へと駆け込む。
黒騎士団の向こうで仁王立ちする父に気づいたが、無視して金髪の近衛兵のもとへといく。
「こんにちわ」
控え室へ去ろうとしていたクロックは、振り返り、小柄な少女を目におさめ、小首をかしげる。
少女は手になにも持っていない。持っていたとしても、もう受け取りたくはなかったが。
「これ、傷の治りをほんの少し早めてくれるんです。こまかくちぎって、お茶にでも浮かべて飲んでください」
籠から1輪の白い花を取り出す。
「…ありがとう」
受け取ると、媚や企みのない笑顔を返される。
「じゃ、お大事に」
ちょこん、と幼いしぐさで礼をして、黒騎士団のほうへと駆けて行く。
また彼女は花を撒くのだろうか、とぼんやりと見ている先で、黒騎士団員達が印を結び始めた。
彼らの得意とする水の魔法らしい。そして、風の魔法も混ざっている。
―――わずかな雨と…風?
のっしのっし、と獰猛な熊のような黒騎士団長が巨体を揺らして少女へと歩み寄る。少女はおびえることも無く彼を見上げる。
騎士団長は両手を差し出し、少女を抱き上げ肩に乗せる。少女の笑い声を合図に、魔法が発動した。
籠から紫の小花が舞い上がり、少女を囲むようにいくつもの虹が浮かぶ。
小雨が陽の光りに照り煌く。光と、虹と、小花を連れ、王城からあがる歓声を背に、黒騎士団は撤退を始めた。
―――イリス…虹の女神の名前か。
手の中の白い花を見下ろし、クロックは笑う。慣れぬ恐れと蔑みに疲れた心が癒された。
「なあクロック」
腕に白いリボンをいくつも結んだセイが纏わりつく侍女達を置いて歩み寄ってきた。その向こうからも、フレイが冷たく侍女達をあしらい、結ばれた腕のリボンを外しつつやってくる。
「気は変わらないか」
問いに、セイの灰色の瞳から目を反らして白い花を見下ろす。
「…ああ。済まん」
「くそっ」
あの女、ムカツク。
セイの呟きに、クロックは咎めることはしない。
いつもなら堅苦しく小言を言われるのに。
セイはため息をついて、派手な金の髪の幼馴染を見つめる。
「ちょっとは世の中がわかったか?お前の石頭がちっとはヤワくなったんなら、その傷も無駄じゃねえな」
「オレはいいと思う」
ぼそり、と赤毛で目元を隠したフレイが呟く。
「どれがだよ」
「どれもだ。転属も、傷も、その花も」
香水臭いリボンより、もらうなら綺麗な花のほうがいい。
年中どこかナナメな幼馴染の言動に、セイはため息をつく。
「仕方ねえ。オンナ遊びは近衛じゃなくても出来るしな」
「オレは別にどこでもいい」
むしりとったリボンを放り、フレイは遠ざかる虹を見上げる。
「綺麗だ」
ぺし、とのんきなことを言うフレイの頭を軽く叩き、セイはクロックを睨む。
「済まんとか言うな。お前がいないとつまんねえんだよ」
共に転属することを悟り、クロックは複雑な面持ちで手の中の花を見る。
すまない、と言うほかに、なんと言えばいいのだろう。
「それいいな。くれ」
言うなり手を伸ばしてくるフレイを避けるように、クロックは花を口へと運ぶ。
もっしゃもっしゃ、と食べるクロックを呆然とセイは見やり、フレイは不機嫌に見つめる。
「あー」
いいなぁ、と呟くフレイは、やはりナナメな思考の持ち主だ。
「薬らしい」
ごくりと飲み込み、言い訳のように呟く。
―――甘いな。
その演習をきっかけに、騎士団に花を贈る侍女が増えたとか。
ストックが切れました。とりあえず完にします。
エピソードは温めているので、神が降りてきたら書きますね~