閑話その27〜留まる歩み、落ちる雷〜
アルフォード視点で、星見の宴計画から。
皆様お待ちかね(?)、特大のお説教回です!
ジュークが「側室たちと共に、彼女たちの献身に感謝し、労う催しをしたい。できればシーズンが終わる前に」とマグノム夫人に相談したことを、アルフォードはうっかりリタに迫ってしまった日の夜に聞かされた。
「何でまた突然」
「今の俺に、後宮と関わる資格はない。紅薔薇の忠言はもっともだ。……だがな、アルフォード」
ゆっくりと、考えながら、ジュークは話す。
「俺は、ほとんどの側室の、顔を知らない。シェイラと、紅薔薇と。後は『名付き』の四人。……他に数名、貴族として覚えている者がいる程度だ」
名前と家名、実家の業績ならば、記録を調べれば分かるが、と前置いて、彼は深く息を吐き出した。
「顔と、人となり。それだけは、直接会わねば覚えることも、判断することもできぬだろう」
「……だから、全員と会う機会が欲しい、と?」
「そうだ。……いや、それもある」
そう言って、ジュークはゆるゆると、首を横に振った。
「それ以上に、たぶん俺は、何かしたいのだと思う」
「それは……?」
「後宮に。側室たちに。……何をする資格もないと分かっていて、何かせずにはいられない」
絞り出す言葉は、苦渋に満ちていた。
「分かっているのだ。俺のしたことを思えば、むしろ俺などいない方が、側室たちに……紅薔薇たちにとってはうまくいく。本当に、心の底から、己の行動を悔いているのなら、何もせずに沈黙するべきだと」
「ジューク……」
「何かしようと、できると思うことこそが傲慢だ。本当に、彼女たちが『王』を必要としていたとき、彼女たちを救ったのは紅薔薇だった。今更、どの面下げてと、誰もが思うだろう」
ジュークが対面した『過去』は、あまりにも重い。もとを正せば、ディアナが後宮入りすることになった原因でもある。
頭は悪くないだけに、真っ当でありたいと願うだけに、愚かだった自分の所業を、それが生み出した悲劇を知ることは、想像を絶する苦しみだろう。
「何度も、何度も考えた。考えて、『何もしない』ことが最善だと、そう思った」
「それなら、どうして――?」
「……俺が、きっと。どうしようもなく、愚かだから」
ジュークが浮かべたのは、彼らしくもない、自嘲。
「最善だと分かっているのに、心の底から聞こえてくる声を、無視できない。――それでは、これまでと何一つ変わらない、と」
静かに、重く落ちた言葉に、アルフォードは息を呑んだ。
重臣たちに反発して、後宮に興味を持たず、側室たちを捨て置いた、『過去』と。
罪の意識から自縛状態になり、『何もしない』ことが最善だと結論づけて、沈黙する『未来』。
――確かに、外から見れば、『王が後宮と関わろうとしない』ことに、変わりはない。
「……俺はな、アルフォード。おそらく、変わりたいのだと思う。シェイラと出逢って、紅薔薇に叱られて、お前に怒鳴られて。自分で考えることを教えられて、考えたいと思うようになって。『答え』が決まっていた以前より、迷ってばかりの今の方が、ずっとずっと、充実している」
いつにない、静かなジュークの言葉に、アルフォードは返す言葉が思いつかない。
「考えることが楽しくて、考えた結果、過去の愚かな己と嫌でも対面する。……過去の自分も、今の自分も、殺したくなるほど後悔もする。――それでも、楽だった昔に戻りたいとは思わない。思えないのだ」
「どれほど、苦しくても、か……?」
「耳を塞いで、目を閉じて。愚かな自分を拒絶する。そうすれば確かに、こんな苦しさからは解放されるだろうな」
苦笑して、ジュークはアルフォードを真っ直ぐに見た。
「お前が言ったんだぞ、アルフォード」
「俺……?」
「園遊会の日。紅薔薇の言葉を、あの真っ当な諫言を拒絶しようとした俺に、お前が」
『諌言の相手を選ぶのが、国王の仕事か!? 嫌いな相手の言葉は無視して、痛い言葉には耳を塞いで、それで何になる。テメェはガキか!!』
そうだ。確かに、アルフォードは言った。子どもの癇癪を起こしたジュークに、何とか思いとどまってもらいたくて。
思えばあれが、素でジュークと付き合いだした、最初だった。
「俺は、愚かだ。紅薔薇を大切に思う者にとって、俺は最低最悪の人間だ。その現実から目を逸らしても、何も変わらない」
――そして。
「変わりたいと、思うからこそ。どれほど苦しくても、愚かな自分から目を逸らすことだけは、してはならないと思う」
そこに、いたのは。
弱々しくとも、大地に足をつけ、『生きる』ことを決めた、一人の『青年』だった。
自分が愚かだと分かったから、変わりたいのではない。
ただ、これまでの人生で禁じられていた『考える』という行為の楽しさを知り、自分で自分を動かす充足を知って。『回答』ありきの人生より、自分で考えて判断する、そんな毎日の方が苦しいながらも幸福だと心底思ったから。
もっともっと自分で考えられる人間になりたいと、『変わりたい』と願った。
楽しい、満ち足りる、幸福。
正の感情が根底にあるからこそ、ジュークの願いは強く、揺るぎがない。
考えた先に、愚かな自分がいても。最低最悪の自分がいても。
『考えて見つけた』結果だから、どれほど苦しくても、ジュークはその自分を否定せず、向き合おうとする。
――向き合ったその先に、新たな『変化』があると信じて。
ジュークの中に、これほどの強さが潜んでいたなんて。
今の彼は、必死に肩肘張って『王』になりきろうとしていた頃より、限りなく気弱に見えても、危うさも儚さも感じられない。
確実に、そこにあって、生きている。
「自分が愚かだからと、後宮から遠ざかることは、結局のところ目を逸らすのと同じことだ。……俺は、向き合いたい。後宮を、側室たちのことを知って、向き合って、これからどうするべきか、自分の頭できちんと考えたい。――紅薔薇任せにして、報告だけ受けて知った気になるのは、もう終わりにしたいのだ」
「だから……『王』として、関われる機会を作ろうと。そう考えたのか?」
「最初はおそらく、顔と名前を一致させるところから、始めなければならないのだろうな」
何をする資格もないと、愚かな自分を痛いほどに理解しながら、それでも向き合いたいと願う。
――『勝手だ』と思われることも、おそらく全て、飲み込んだ上で。
それほどまでに覚悟して、進もうとする『王』を、誰が否定できるだろう。
アルフォードは、ゆっくり、大きく、頷いた。
「ジュークの考えは分かった。俺は何をすれば良い?」
「……協力、してくれるのか?」
「正直、時機とか考えたら微妙だけどな」
現在、『紅薔薇過激派』絶賛暴走中である。
それらの裏に何があるのか掴み切れていない現状で、『王と側室全員集合!』な行事が突発的に起こるのは、方々にどんな影響を与えるか、想定が追いつかない。
ジュークもそれは分かっているのだろう。難しい顔で頷いた。
「それは、俺も考えた。ただ、あと一月もすれば社交シーズンは終わって、領地運営に積極的な者たちは王都から去るだろう。『名付き』の中だけでも、クレスター家とキール家は、普段は領地定住組だ」
「あぁ、そうだな」
キール家はともかく、クレスター家の面々がシーズンオフの期間に『定住』しているかと聞かれたら首を横に振るしかないが、少なくとも王都にいないことは確かだ。ディアナが後宮にいる現状で、これからクレスター家がどう動くのかはともかくとして。
アルフォードの内心には気付かず、ジュークは自分の考えを話す。
「どのような形の催しにするかは、これからマグノム夫人と考えていくつもりだが。王が後宮を尊重していると知らしめるきっかけにもなりそうなものを、シーズンが終わってから開くのも、貴族たちへの影響力という点で望ましくない」
「……なるほどな。だから、シーズンが終わる前に、か」
「もちろん、後宮の現状にも配慮するつもりだ。マグノム夫人と細かく連絡を取り、紅薔薇たちの調査進展に合わせて、催しの日程を調整する」
「ある程度、要注意人物たちの動きを掴み、可能なら騒ぎを解決させた上で、……ってことか?」
「マグノム夫人や、紅薔薇の意見も聞いて、反対されたらまた考えるが」
「そうだな、それが良い」
アルフォードの予感だが、このジュークの決意を知って、マグノム夫人はもちろんディアナも反対しないだろうと思う。というか、基本的にクレスター家の人間は、『王』の行動について『公』の立場からあれこれ言ったりしない。今のディアナがかなりの変則かつ、ギリギリの一線なのだ。
ジュークが考えなしに突っ走っての提案なら止めもしようが、これほど考えて考えて、覚悟の上で決めたことならば、彼女は静観の構えを取るだろう。それはそれで、怖ろしくもあるが。
それからのアルフォードは、ジュークの手足となり、外宮室と繋ぎを取ったり、マグノム夫人とのやり取りを任されるなどして、ジュークの考える催し――『星見の宴』の采配のため、駆け回った。後宮組の手伝いで忙しい外宮室も、可能な限りで助けてくれた。……王と側室が集まるだけの、しかも非公式な分手続きが簡略化される行事の采配がこれほど大変なら、秋に突然降って沸いた園遊会の準備はどんな戦争だったのかと、今更ながら感服しつつ。
さくさく明らかになっていく『紅薔薇過激派』暴走の裏についても、マグノム夫人から報告を受け、本当にしみじみと、現後宮の側室たちは下手な官吏よりよほど有能だと思った。
後は、関係者一同を張って、尻尾を掴むだけ。その、最終段階に入って。
――突如沈黙した『敵』に、言い様のない不気味さを覚えた。
アルフォードは剣を使う者として、無意識に相手との力量を測る癖がついている。平和なエルグランド王国で、普通に騎士をしているだけなら不要なそれが身についたのは、まず間違いなく身近に化け物級の実力を持ちつつ猫を被っていた見た目詐欺師がいたからだが。
その彼が感じたのは、数日前まで『狩られる』側だった敵が、突如こちらを『喰らう』存在へと化けたような、薄気味悪い変貌だった。
敢えて『狩られる』側を装っていたわけではない。ディアナが黒幕の黒幕、ノーマード・オルティアまで辿り着いた段階では、彼らは対抗策を持っていなかった。
それが、突然。おそらく、どこからか、何らかの助力があって。
彼らはこちらを『喰らう』存在に化けた。
『星見の宴』をどうするか。既に側室たちへ通達を出した後だっただけに、ジュークもマグノム夫人も苦しい決断を迫られた。これで中止にすれば、後宮内で問題が発生したと、内外に宣伝するも同じこと。下手な手を打てば、今明らかになっている『敵』だけでなく、他の問題も呼び起こすかもしれない。
最終的に、沈黙しているということは、少なくとも何か行動を起こす準備はしていないと賭けて、予定通り『宴』を開くことを決めた。後宮外で各々が何を企んでいようとも、内とのやり取りを徹底的に制限すれば、少なくとも実行犯であるベルは何もできない。そう、考えて。
――甘かった、と思い知らされたのは、『星見の宴』当日。既に側室の大半が『宴』のために中庭へと集まり、後は高位の側室たちと王を待つばかり、となったときだった。
シェイラの膳に、毒と思われる物質が混入された――。
マグノム夫人経由で知らされた衝撃的な知らせに、ジュークの顔が一瞬で、青を通り越して白く染まった。
シェイラを想うジュークにとって、彼女が死ぬ未来など、考えたくもないだろう。
しかし、同時に。側室たちを労うため開かれ、既に舞台も始まっている段階の『宴』を中止することも、『王』としてできない。今の彼には、それがよく分かっている。シェイラ一人のために、側室全体を『王』が蔑ろにすることが、後宮と国にどれほどの波紋を起こすか。分かるからこそ、できない。
せめて、ジュークにできたことは。シェイラの膳を破棄するよう、マグノム夫人に指示することだけだった。
王と側室の非公式な『宴』に、『公』の側近たる国王近衛騎士団の団長が同席することは望ましくない。それ故、悲愴な顔のジュークを見送った後のアルフォードは、中庭に近い場所で、中庭の様子を探りながら、ひたすら待機した。中庭にはディアナと、彼女の仲間たちがいる。誰よりも心優しく賢明な、クレスター家が誇る彼女は、何があろうとこの後宮で人死にを出したりしない。信じて待つことしかできない己を歯痒く思いながら、アルフォードはひたすら、中庭に意識を飛ばし続けた。
舞台が盛り上がり。予定していた演目が過ぎて。
そろそろ終わりか、と顔を上げたそのとき、不穏な気配を感じた。
悲鳴の後の、ざわざわした話し声。
そしてそれら全てをかき消すような、恐怖に満ちた尋常でない叫び。
まさか、何が、と思う間に。
――理屈でなく本能で、全身の血が落ちる恐怖を覚えた。
数度も感じたことがない『それ』が意味するものを、アルフォードは分かっている。
身近な、大切に思う者に訪れた、命の危機――。
「アル!」
取り繕うことも忘れたクリスが、瞳を凍らせて駆けてきた。
「ディアナが!」
「どうした!?」
「シェイラ嬢の、膳を。ディアナが食べた!」
簡潔に知らされた『最悪』に、絶望が襲ってくる。
もし、ディアナに万一のことがあれば。起こる『結末』は。
「どうしてなんだ。『彼ら』は、」
誰が聞いているかも分からない場で『闇』の名称を出すことはできないから、曖昧な質問になる。
さすがに未来のクレスター伯爵夫人には、一瞬で通じた。
「――『ご当主』の命で、『あるもの』を探していた。何人かは、中庭付近に控えていたようだけど」
「なら、何故!」
「知らないよ! 『彼ら』は動けなかった、ボクも……!」
――そうだ。ディアナを義妹として可愛がるクリスとて、己の立場など省みず、ディアナの無茶を止めようとした一人だろう。
なのに。誰も、彼女を止められなかった。
クリスが何度も、頭を振る。
「無謀にも程があるよ。いくら、有名どころの耐性つけてるからって。解析が得意だからって。全てを被ろうとするなんて!!」
「……どうして、そんなことになったんだ」
「――だいたい、想像つくと思うけど」
そうだ。シェイラの膳に毒が混入されたと聞いてから、起こり得る『最悪』は予想できていた。
おそらく、ディアナはシェイラを守るため、『紅薔薇』として膳をダメにしようとしたのだろう。
その行為が、怪しまれたか。あるいは破棄された後で、何かあったのか。
――少なくとも、『毒』の疑いが持ち上がったことは確かだ。そうでなければ、ディアナがわざわざシェイラの膳を食べる必要はない。多くの毒に耐性のあるディアナがシェイラの膳を食べ、『無事』を見せつけることで疑いを晴らす。彼女ならいかにもやりそうなこと。
推測できる『最悪』の一つが、現実となって。
その『最悪』がもたらす『未来』を、必死に追い払う。
「ディアナ嬢が、簡単に自殺を選択するはずがない。そもそもここでディアナ嬢が死ねば、いくら時間差でも疑いは晴らせない。それを分かっている彼女は、何が何でも死んだりしないさ、絶対に」
「分かってる、分かってるよそんなこと。……けど、ボクは怖いんだ。人間はしぶとくて、同時に儚い。どれほど祈っても、死神の鎌は容赦なんてしてくれないから」
「……クリス」
彼女の抱えるものを、アルフォードは断片的にしか知らない。
けれど、クリスがこの歳で、もう充分すぎるくらいに喪ってきたことは、エドワードからも漏れ聞いている。――亡くすことを飼い慣らし、もう何も無くさないために、ひたすら剣に固執してきたことも。
何度か呼吸を繰り返し、クリスは頭を上げた。
「ごめん。……取り乱した」
「いいや。怖いものを見せて、済まなかった」
「アルが謝ることじゃないよ。ボクが選んだ、ボクの仕事だ」
王の計らいで、ディアナは部屋に戻ったよ、と短く伝え。
背筋を伸ばしたクリスは、女性騎士団の団長に相応しい風格を纏って、アルフォードを見る。
「そろそろ、宴も終わる。中庭の入り口まで、陛下をお迎えに参ろう」
「――感謝する、グレイシー団長殿」
そう歩くこともなく、ジュークを送り出した場所へ戻れば。
わずかの待ち時間で、マグノム夫人を連れたジュークが、感情の抜け落ちた顔で戻ってきた。
口を開けようとするジュークを制し、アルフォードは一つ頷く。
「グレイシー団長から、簡単な事情は窺いました」
「僭越ながら、ご説明申し上げました」
「そう、か……」
「中庭は、信頼できる女官たちと、『名付き』の方々にお任せしました」
お互いに、短い報告を交わす。マグノム夫人の言う『名付き』は、リリアーヌを除いた三人だろう。事情も全て分かっている彼女たちに任せれば、この騒ぎの収拾も上手くつけてくれるはず。
マグノム夫人の目が、鋭く光る。
「女官たちには、『全て隠滅するよう』伝えてあります。……ディアナ様は確かに池の方へ膳を投げられましたが、シェイラ様の位置から池までは距離があった。現実的に考えて、膳上の食材が池に落ち、なおかつ魚が死に絶えるのは不自然です」
「それは……」
「ベルは私的侍女ですが、王宮侍女を立て、ともすれば傲慢な独善に走りがちなソフィア様と侍女たちの間を、よく取り持っていたそうです。……その分、人脈作りも上手だった。そう報告を受け、私はこの宴に『侍女』が関わる場面を最小限に抑えました。ベルの手の者が、入り込む隙を与えないように」
膳だけは間に合いませんでしたが、とわずかに悔しさを滲ませつつ、夫人の瞳の鋭さは変わらない。
「なのに、不思議なことに。――魚が死んでいると悲鳴を上げたのは、侍女だったのですよ。あんなところに控えさせた覚えはないのに」
ひんやりした、声音。厳格ながらも穏やかなマグノム夫人が、今。
――本気で、激怒している。
「陛下。しばし、お時間を頂戴したく思います。陛下のお心を無碍にし、罪なき者の死を願い、結果的に紅薔薇様を危険に曝した。その不届き者を、私は女官長として――いいえ」
凛とした声が、まだまだ未熟な若造である自分たちを、射抜く。
「この国に仕える『貴族』として、決して赦しは致しません」
それは、絶対的な、真の矜持。高貴なものの責務を知り、それを果たすため生きてきたと自負する故の、マグノム夫人の譲れない誇りだった。
ジュークの瞳に、光が戻る。強く、気高いマグノム夫人の姿は、呆然としていたジュークを現実に引き戻すだけの力があったのだ。
『王』の顔になり、ジュークは頷いた。
「夫人に、任せる。どう収拾をつけるにせよ、紅薔薇を追いつめた者を見つけ出し、口を割らせよ」
「はい、陛下」
深々と礼を取り、マグノム夫人は中庭へと戻っていく。クリスは夫人につき、その場にはジュークとアルフォードの二人が残された。
「陛下。王宮へと、戻られますか」
「あぁ……いや」
頷きかけたジュークは、ふと後宮を見上げる。
「……紅薔薇は」
「陛下?」
「紅薔薇の容態は、どうなのだ? あれほど大きなものを食べて……」
まずい、と思った。ここで王が『紅薔薇』のもとへ走れば。まだ、側室たちは中庭にいるとはいえ、解散するのは時間の問題。
「陛下!」
今にも動こうとするジュークを、強い声で呼び止める。
のろのろとアルフォードを見た彼に、首を横に振った。
「紅薔薇様は、大事ございません」
「何故、分かる!」
ここで『クレスター家事情』を説明することはできない。ディアナ含む一族の者が、幼い頃から毒に身体を馴らし、なおかつ彼女に関しては動植物の効能に関する熟練者だなんてことは。
言葉を探して一瞬沈黙したアルフォードを、ジュークは別の意味で捉えたようだった。
「アルフォード。私を慰めようと、気休めを言うのは止せ」
あぁ、もう前しか見えなくなっている。
考えることを始めたジュークだが、感情が煮えると直情のまま行動してしまう癖を、一朝一夕で何とかするのは難しい。二十年以上の積み重ねがあるのだ、仕方のないことではあるが。
後宮から王宮の執務室まで、首根っこひっつかんで行こうにも、その間誰にも見られないなんて奇跡は期待できない。いったん落ち着かせようにも、ディアナが危険でないと納得しない限り、ジュークの頭が冷えることはないだろう。
さんざんに、考えて。「怒られる」と覚悟した上で。
アルフォードは、妥協案を持ち出した。
「分かりました。ならば、せめて。誰にも見られぬよう、人通りの少ない場所を遠回りしながら、向かって頂けますか」
「――分かった」
「案内します」
ここのところジュークの名代として、後宮のマグノム夫人を訪れることが多かったアルフォードは、すっかり後宮内部に詳しくなっている。誰にも見られないよう注意して、かなりの時間をかけ、アルフォードはジュークを『紅薔薇の間』へ案内した。
外から王の訪れを告げると、ややあって、黒髪の侍女が扉を開いてくれる。
「……ようこそ、お越しくださいました」
王宮侍女は、貴人へのにこやかな対応の専門家だ。にもかかわらず、出迎えた侍女はあからさまに、「何で今来るんだよ空気読めよ」な気配を放っている。――主室で待機していたらしい、他の侍女、女官も同じく。
その気になれば内心なんて完璧に押し隠せる彼女たちからの、無言の主張。あきらかにわざとだろう。
王宮に勤める身でありながら、彼女たちは『主』を既に『ディアナ』と決めている。この先、もしもディアナが後宮を出ることがあれば、一切の迷いなくついていきそうだ。
「おいでなさいませ、陛下。ご用件をお伺いします」
この中でただ一人の女官、ミアが一歩踏み出した。侍女たちは『王』の許可なく発言できないが、『官』の身分があるミアは、その規制も緩い。
尋ねられ、ジュークは少し、目線を彷徨わせた。
「……紅薔薇は?」
「少し、お疲れが出たようです。寝室にてお休みに」
「……っ、やはり!」
無事ではなかったのだと、寝室の方を向くジュークの前に、素早くミアが立った。
「畏れながら。紅薔薇様に必要なものは、休息でございます。今宵はどうか、お控え頂きたく」
「違うだろう! 紅薔薇がシェイラの膳を、中の食物を食べたところを、そなたも見たはずだ!」
「……それが、何か?」
本気で、「王が何を言っているのか分からない」と思っているような表情を浮かべる、ミアの振る舞いは大したものだ。直接王に進言はできない、しかし態度で示そうとしている。
何のために、ディアナが『紅薔薇』として、平然と全てを行ったのか考えろ――と。
ジュークも、冷静な部分では理解しているはずだ。
しかし、それ以上に。『ディアナの無事』を確認したくて、それしか考えられなくなっている。
「『何か』だと? そなたは、紅薔薇が心配ではないのか。紅薔薇を死なせるわけにはいかぬ。様子を見て、必要ならば王宮医師を呼び、」
「――それで。ディアナ様が『どういう状態』かを、公に知らせるわけですか」
寝室に繋がる私室の扉が開き。
すっと背筋を伸ばしたリタが、主室へと入ってきた。
ジュークの目が、大きく開かれる。
「そ、なたは。紅薔薇の、私的侍女……」
「リタにございます。陛下におかれましては、ご機嫌麗しく」
この上ないほど、馬鹿でも分かるイヤミだ。――それだけ本気で怒っているとアルフォードには分かる。
頭に血が上っているジュークですら、一瞬ぽかんとなった。
その隙を突いて、リタはミアの前に出る。
「お優しいミアさんは申し上げ難いようですので、私からお話致します。――直答を、お許し頂いても?」
質問の体で、「はい」しか認めない、この迫力。
アルフォードですら気圧されるのだ、ジュークは頷くしかできない。
リタはにっこりと笑った。
「寛大なお心に感謝致します。では、さっそく。――どこまで馬鹿なんですか、あなたは」
分かって、いた。予想はついていたが……初手から、一切の手加減がない。
こうなったリタを止められるのはディアナだけで、そのディアナが人事不省に陥っている今、つまりリタにストッパーは存在しない。
アルフォードは潔く、仲裁という無駄な行為を諦めた。
「ディアナ様が、あれほど必死にソフィア様を止めようとなさったのは、何のためです。シェイラ様に嫌われることも覚悟の上で、膳を破棄したのは何故です。――騒ぎになったあのときに、自らの命を盾になさったのは、何を願ってですか!」
リタの怒りが、空気を灼く。
ジュークが、息を呑んだ。
「答えを逐一教えられなければ分からないのなら、いっそその頭、首から切り離しなさい。考えることもできず、己を律する理性もなく、方策を思案する機知もないなら、その頭には意味がない。本能のまま動くだけなら、頭を持たぬ原始生物にもできることです」
――今のジュークにとって、何よりも痛い言葉のはずだ。
リタは意図せず、彼の急所を抉った。
王が固まった部屋の中で、リタの言葉は止まらない。
「ディアナ様が心配ではないのか、と仰いましたね。心配に決まっています。いつもいつも無茶ばかりして、自分のことより他人のことばかり考えて、どんな苦労も『だってみんなの笑顔が見たいから』の一言で片づけるあの方を、ご家族、ご友人、後宮に入ってからはここにいる皆様――どれだけの人が心配して、案じて、誰よりも幸せになって頂きたいと思っているか。さんざん叱られて、怒鳴られて、懐の深さは底なしのディアナ様まで怒らせて、それでようやく『謝らないと』しか思えないあなたなんかに、言われる筋合いありません」
「そ、れは……」
「言い訳は、私の話が終わってから、伺います」
クレスター家が受けた屈辱は、当人たちが一通りの報復を終わらせ流しても、周囲の者が忘れない。
これまで幾度も実感してきたことだが、後宮に入ってからディアナの側にずっといたリタの恨みは、積もりに積もっているようだ。
しかも、その恨みは実に正当で。ジュークには、返す言葉がない。
「ここにいる皆様は、あなたなどよりよほど、ディアナ様のことを案じていらっしゃいます。それでも、表立って騒ぎ出さないのは何故か。医者を呼ぼうとしないのは、どうしてなのか。――ミアさんを責める前に、何故少しでも、疑問に思わないのです」
「わ、たし、は」
「心配して、騒いで、医者を手配することが、思いやりですか? それをしない私たちは、責められるべき不忠者ですか? そうして一方的にしか物事を見ようとしないから、ディアナ様の『真実』に気付くのにこれほどの時間を要したと、この期に及んで、まだ分からないのですか!!」
――渾身の、リタの叫び。
余韻が消えた室内には、ただ沈黙だけが残される。
静かに呼吸を整えてから、リタは、目の前の王を見据える。
「――陛下が今、するべきことは何ですか?」
「……王宮に、戻り。『何事もなく、『星見の宴』は恙無く終わった』ことにする、か」
そう。
そのために、ディアナは命を掛け。
ディアナを死ぬほど案じているはずのリタですら、部屋から出ない。
王宮侍女たちが、さりげなく、部屋に用意しているものも、『疲れた主を労う』ために集めたと言って不審に思われない、ギリギリの線だ。
――ただ、『後宮で、王が催した『星見の宴』で、毒殺騒ぎなんてなかった』ことにするために。
誰かの死がそのまま、乱世の引き金になりかねない。『毒』の疑いが残れば、保守派と革新派の争いの種になる。
そんな状況下で、今の、仮初めだとしても、『平和』を無くさないために――。
「……紅薔薇は、どこまで。どこまで、優しいのだろうな」
ぽつりと落ちた、ジュークの声に、幾人かが顔を上げる。
「分かっていた。紅薔薇が、『何も起こさない』ようにしようとしていたことは。――だが、」
「己の命まで犠牲にしようとするとは、思わなかった……ですか?」
リタが、緩やかに首を横に振る。
「それは違います。ディアナ様に死ぬつもりなんかありません」
「だが。毒を飲んで」
「ディアナ様は、陛下に告げられたはずです。――森を遊び場に育った、野生児だと」
ジュークの瞳が、極限まで見開かれる。「まさか」とその顔は雄弁に語っていた。
「毒も、解毒も、ディアナ様にとっては身近なものです。あの場で毒の疑いを晴らすには、シェイラ様の膳が『安全』だと、誰かが証明しなければならなかった。そして、それができるのは、ディアナ様しかいらっしゃいませんでした」
「では……紅薔薇は、今」
「最初から、ミアさんは陛下に申し上げていらしたはずですよ。『必要なのは、休息』だと」
――見事な、『嘘』だ。
リタを知るアルフォードには分かるが、ジュークに見抜けというのは酷だろう。
あらゆる毒に効く『万能解毒薬』など、アルフォードが知る限り、今の世には存在しない。
ほっとしたように、ジュークは肩の力を抜いた。
「紅薔薇は……無事なのか」
「はい。――朝までには、回復していらっしゃいますよ」
今のは……本当、か。
つまり。解毒薬は、おそらく今、クレスター家で調合中なのだろう。
(……よし。エドに、半殺しにされることは決定した)
半殺しで、済めば良いが。
クリスを半泣きにさせたことも含め、八割くらいは殺されるかもしれない。
「……アルフォード」
「はい、陛下。王宮に、戻りましょう」
「あぁ。案内を頼む」
侍女と女官、ディアナを除く『紅薔薇の間』全員に見送られ、二人は部屋を後にした。
同じように人目を避け、王宮に戻り、執務室へとようやく帰ってくる。
待機していた国王近衛の部下たちを下がらせて、ジュークは大きく息を吐き出した。
敢えて軽く、アルフォードは声を掛ける。
「疲れたろ。今日はもう休んだらどうだ?」
「そうしたい気持ちもあるが……」
苦笑したジュークは、窓の外に視線を移し。
ふと、何かを考える顔になった。
互いに無言のまま、しばらく時間が過ぎ――ジュークが、アルフォードを見る。
「アルフォード。頼みたいことがある」
「何だ?」
「誰にも邪魔をされない部屋を一つ、確保してくれ。そしてその部屋に、運んで欲しいものがある」
「おやすいご用だ。何を運ぶ?」
「後で、細かく指示を出す。……それから、これがいちばん、頼みたいことだが」
ジュークの瞳が、決意を帯びて閃いた。
「たとえ、何が起ころうと。俺が良いと言うまで、誰にもその部屋を知らせるな。用があるときは、お前が来てくれ」
「……って、おい。行方不明になる気か?」
「お前が居所を知ってるんだから、本当の意味で行方不明にはならない。ただ、邪魔をされたくないだけだ」
今、このとき。
行方不明になってまで、誰にも邪魔をされずに、ジュークがしたいこととは何なのか。
それは、アルフォードにも分からなかったが。
「承知いたしました、陛下――」
アルフォードに指示を出すジュークは、無意識にでも『王』だったから。
敬意を込めて、王の側近は頭を下げた。
「し、失礼いたします! あれ、団長、陛下は?」
「陛下にご用か? 俺が聞いておくが」
「何を呑気にお茶なんか淹れてるんです! 一大事ですよ!」
「――何があった?」
「ご側室、シェイラ・カレルド様が、何者かに連れ去られ。手引きをした侍女の口から『紅薔薇様』の名が出たため、王宮騎士団が、『紅薔薇様』捕縛に踏み切りました――!」
たった数時間で、王国の安寧が一気に崩壊する、最大の危機が訪れることを、そのときはまだ知らずに。
ここで、しばらく陛下はログアウト。王様の存在感何それ美味しいですか?
次回、満を持してシェイラさんの登場です。咲き誇れ百合の花!(約:もうどうにでもなーれ)




