閑話その26〜危機的状況における侍女魂〜
大まかにはリタ視点ですが、何故か糖度がとんでもないことになっている気がします。
甘いの苦手な方は、ブラックコーヒーなどご用意の上、お進みくださいませ。
「ディアナ様――!!」
いついかなるときも冷静なユーリの、悲壮な悲鳴が聞こえる。
真っ白な顔で崩れ落ちたディアナを前に、リタは耳の奥に鼓動を感じた。
(ディアナ様。ディアナ様!)
大切な、命より大切な主は、何と言った?
聞いたはずだ。――おそらくは、仲間たちに伝えるべき、重要なことを。
分かっているのに……頭も、足も、動かない。
(どうして――!)
いつも、いつも、自分は。
ディアナの危機に、力になれない。
降臨祭で、馬車が襲われたときも。
園遊会で、ディアナが無茶をしていたときも。
後宮に入る、そのときも。
もっと昔、ディアナの目の前で全てが流された、『あのとき』も――。
自分は、大切なひとに、何もできなかった。
絶望に染まる世界。
そこに、不意に――何の前触れもなく、漆黒が降りてくる。
「落ち着いて、リタさん」
「あ、なた、は」
「ディアナが、託したもの。リタさんは、ちゃんと受け取ったはずだよ」
宵闇の紫紺が、リタの魂ごと、深く刺す。
突如――文字通り降ってきた漆黒の装束の少年に、事情を知らない侍女たちは唖然となった。
委細構わず、カイは倒れたディアナに近付くと、その身体を仰向けにする。
最初に我に返ったらしい、ミアが叫んだ。
「あ、あなたは誰です。ディアナ様、紅薔薇様に何を――」
「はいはい。そーいうの、今はいいから。悠長に自己紹介してる場合でも無いでしょ」
軽い口調で重々しく話すという、矛盾に満ちた離れ業をさらっとやってのける男を前に、侍女たちは困惑を隠せない。
それでもディアナに何かあってはと、勇敢にも一歩踏み出そうとしたユーリを、そっとルリィが止めた。
「ルリィ?」
「大丈夫。お味方ですよ、この人は」
「知り合いなの!?」
「違いますが……ディアナ様には、このような方々が、味方についていらっしゃるのですよね、リタ?」
名前を呼ばれて、意識が返ってくる。ぼんやりと、ルリィを見返した。
「話したこと、ありましたか?」
「直接は、ないですけど。シーズン開始の夜会の翌日、私がうっかり、ディアナ様とリタの話を盗み聞きしてしまったときに、仰っていたでしょう? 『普通のご令嬢は、隠密に馴染みなんてない』って」
……ずいぶんと懐かしい話を持ち出された。そういえばあのとき、『名付き』の三人に協力を要請したいがどう繋ぎを取るべきかと話す中で、『闇』のことも話題に上がったかもしれない。
「そもそも、ディアナ様、明らかに正規のルートじゃ弾かれてしまう内容のお手紙を、気楽に手になさっていますし。そこから考えても、後宮に侵入できる腕の運び屋さんがいるのだろうとは分かりますよね?」
後半の質問は、仲間たちに向けてだ。ルリィの言葉を聞いた面々は、「言われてみれば」という顔になっている。
ディアナの容態を慎重に見ながら、喉の奥でカイが笑った。
「さっすが、頭良いね。後宮での情報戦も、見事なものだったし」
「私のことはどうでもいいです。ディアナ様は、」
「――もちろん、死なせないよ」
言うが早いか、カイはディアナの顎を上げて額を押さえ、鼻を摘まむと。
――唇を、唇で塞いだ。
悲鳴が起こらなかったのは、侍女たちの理解があったからではない。
単純に、声も出ないほど、彼女たちが驚いただけだ。
驚愕の静寂が訪れた室内で、ディアナの胸が、静かに上下する。
息を二回吹き込んで、カイはいったん唇を離した。
「ここだと、誰かに訪ねて来られたら、一目でディアナが倒れてることがバレるよね。寝室に移動させたいけど、良いかな?」
「はい! ……っていうか、え、今のは」
ミアが面白いくらいに混乱している。ディアナを抱え、私室を突っ切って寝室に入りながら、カイはついてくる侍女たちにさらっと説明した。
「今の? 人工呼吸。確認した感じ、ディアナ、心臓はちゃんと動いてるから。ただ、毒の影響で自発呼吸ができないのと、神経が軽く麻痺してる。意識を失ったのも、それが原因だろうね」
ベッドに横たわらせたディアナに、カイは再び人工呼吸を施す。いつもながらの飄々とした態度で、しかしどちらかの手が確実にディアナの脈を感じ取れる位置にあることに、カイの緊張が窺えた。
『紅薔薇の間』の侍女と女官が勢揃いする中に、黒装束の隠密がいる、異様な空間で。
しかしこの瞬間、もっとも頼りになるのが彼だということも、全員が感じ取っていた。
何度めかの人工呼吸の後、カイは僅かに首を傾げる。
「にしても、中毒症状が中途半端だね」
「どういうことですか?」
「神経麻痺系の毒を呷ったら、普通は呼吸困難と全身麻痺で身体が震えて、かなり苦しそうな様相になるんだけど。ディアナの場合、手足の末端が痺れているのと、自発呼吸を遮られているだけで、人工呼吸も効果あるみたいだし」
「――クレスター家の方々は、伝統的に、毒物への耐性をつけることを習わしとされています。ディアナ様も幼い頃より、有名な毒を微量ずつ接種し、馴らすことを繰り返されてきました」
リタの語った『クレスター家事情』は、王宮組には衝撃の内容だったようだが、幼い頃より数え切れない修羅場をくぐり抜けてきた隠密には、大したことではなかったらしい。「だからか」の一言で納得された。
そっとディアナの髪を撫でて、彼は苦笑する。
「ホント、何と戦ってるんだか……」
「ディアナ様の症状がある程度抑えられているのは、そのおかげなのでしょう?」
「ていうか、そういう前提があったからこそ、明らかに毒まみれの肉を食べるなんて暴挙に出たんだろ。リタさんに言っても仕方ないけどさ、あんまり危ないことさせないでほしいよ。耐性のある毒だったからこの程度で済んでるけど、そうじゃなかったらあの場でアウトだ」
彼らしくない乱暴な口調が、彼のイラつきを表している。
ルリィが目を見開いた。
「見ていたのですか?」
「見てたし、止めようとしたよ。距離があった上、誰か知らないけど邪魔された」
「誰に!?」
「さぁね。今はそれより、ディアナの解毒だ。――リタさん、ディアナ、何か言ってなかった?」
倒れる直前、大切な主が言っていたこと。
思い出せ――。大丈夫だ、今なら、分かる。
気持ちを落ち着かせるため、一度目を閉じて。
次に目を開いたとき、リタの瞳には、ただ主を救う、決意だけがあった。
「ディアナ様の症状は、呼吸困難と身体麻痺、なのですよね?」
「だね。経口摂取で、耐性のある人間をこんなに早く昏倒させる呼吸器系の毒は限られる。有名どころで、俺もいくつか思い浮かぶけど……実際に食べたディアナの判断が、いちばん信頼できるから」
「毒の種類については、私はディアナ様ほど詳しくありません。ですが、毒の効果と、ディアナ様の症状から考えて……」
『ダン……の、根と、ペッ、の、つぼ、み。はる、つ、げ、蜂、の……はり、』
さぁ、考えろ。
あの、神秘に満ちたクレスターの森で。幼いディアナがままごとのように、一つ一つ確かめていた、植物と動物たちの、薬効を。
それぞれの部位に秘められた力。それを最も効果的に引き出せる、加工の仕方。
大丈夫だ。全部、リタの中にある――!
「土から掘り起こしたばかりのダンドロの根を細かくすり下ろして、そのエキスを抽出。花が開く前のペッラの蕾を、形がなくなるまで煎じます。煎じたペッラを外気温程度に冷まして、ダンドロのエキスと、粉にした春告げ蜂の針を加えれば」
「解毒薬に、なるの?」
「ディアナ様が、倒れる直前、そう仰っていました」
ダンドロは一般的に、強力な毒草として知られている。ペッラは葉を煎じることで喘息の薬になるが、花の蕾に効果があるとは聞かない。春告げ蜂の針に至っては、死ぬほどではないが普通に毒だ。
幼いディアナの『遊び』に付き合わなければ、リタも、誰一人として、知らなかったこと。
『薬も、毒も、一緒なの。どっちも命を左右する。使い方と、使うときを間違えなければ、毒だって人の役に立つ薬になれるわ』
『ダンドロは、ちょっとひねくれてるよね。植物の毒は、大抵熱を加えれば消えるのに、ダンドロを熱すると薬効の方が消えちゃうの。きっとダンドロにとっては、薬効の方が『毒』なんだろうね』
『ペッラって面白い! 葉っぱを煎じれば喉を助ける薬になって、花の蜜は眠くなる。開いた花びらは他と混ぜて使うことでその効果を促進して――蕾のまま煎じたものは、正反対に合わせるものの効果を半減させる。花びらと蕾は、合わせるものによっても変わるから、いろいろ試してみたいわ』
『ねぇリタ、見て! 春告げ蜂の針毒、液体のまま体内に入ると危険だけど、針ごと乾燥させて砕いたものを薬にしたら、神経異常に効果があることが分かったの。図鑑にも載ってなかったわ、新発見よ!』
森の中をテリトリーに、飽きることなく遊び回っていた幼い少女の声が、リタの脳内で鮮やかに再生された。
あのデュアリスとシリウスの主従をも唸らせた、ディアナの『遊び』だ。――信じる価値は、十二分にある。
「ダンドロの根は、そのままでは毒ですが、冷やしたペッラの蕾の煎じ薬を加えることで、人体に有害な毒素を抑えて薬効を引き出すことができます。世間一般に使われている呼吸薬よりも数段効果が強く、同時にペッラの蕾そのものに他の毒効を半減させる力があるので、解毒薬として有効です」
「春告げ蜂の針は?」
「針の中の毒がそのまま体内に入ると炎症や麻痺を引き起こしますが、毒ごと針を乾かして粉にしたものは、神経異常に作用する薬になります。人によっては強毒反応に注意が必要ですが、ディアナ様は持っていません」
「……念のため確認するけど、それ」
「ディアナ様が『趣味』で見つけられた、動植物の薬効です」
「やっぱりか!」
叫びつつ、カイは天井を仰ぐ。――そこにシリウスがいることは、リタも分かっていた。
念のため、補足する。
「ダンドロとペッラは、ディアナ様の花壇に植えてあります。ペッラの花は朝日を浴びたら開きますので、夜のうちに蕚ごと摘み取るのがよろしいかと。春告げ蜂の針を粉にしたものは、ディアナ様の薬箱に入っています。比率は、ダンドロ一に対してペッラ三、春告げ蜂の針一匙です」
了解の言葉の代わりに、シリウスの気配が掻き消える。
カイが、薄く笑った。
「とんでもないお嬢様だってことは十二分に分かってたつもりだったけど、想像以上にとんでもなかったね。躊躇なく毒を飲んだのも、自分で毒を分析して、解毒薬まで調合できる自信があったからってことか」
「実際は、帰るなり倒れてしまいましたけど」
「まぁね。けど、倒れたの、ちゃんとリタさんに指示出してからだったし」
「ですが……」
「リタさんが部屋で待ってて、途切れ途切れの言葉もちゃんと解読してくれるって確信してたから、危険を承知で賭に出たんだよ。俺はディアナがいちばん大事だから、覚悟と心意気は受け取った上で止めようとしたけど。あの騒ぎを収めるのに、あれ以上の手は打てなかっただろうから」
自己犠牲の精神ではない。自分を信じて、仲間を信じて、いちばん危険な部分を引き受けただけ。
『毒』の疑いさえ晴らせば、後の収拾は中庭に残った仲間たちがつけてくれると信じて。
例え『毒』によって己の命が脅かされても、解毒薬のヒントさえ掴んで、誰よりも近くで共に育ったリタに伝えれば、必ず繋げてくれると信頼して。
独りではないと、理屈ではなく魂の部分で感じられてるからこそ打てた、ディアナの最善手だ。
それを、当たり前のように理解できている、目の前の男が憎くて……羨ましい。
いつの間にか、寝室に残っていたのは、カイとリタだけだった。気を利かせてくれたのか、王宮組の気配は遠い。主室に控えているようだ。
ディアナの様子を見ながら、人工呼吸を繰り返すカイに、意識しないまま言葉が落ちる。
「どうして……分かるの」
「何が?」
「ディアナ様の、心を。そんな風に手に取るように」
「んー……。たぶん、俺にとってのディアナが、主とか雇い主じゃなくて、ただの女の子だからじゃないかな」
――唐突に、理解する。この男にとって、ディアナは全て『ディアナ』なのだと。
側室筆頭『紅薔薇』も、社交界での『咲き誇る氷炎の薔薇姫』も。
貴族令嬢然とした『クレスター伯爵令嬢』も。それら全部から離れた、『ディアナ』も。
どんなディアナも受け止めて、丸ごと全部肯定する。多面鏡のような人間の難しさを、角度を変えて受け容れるのではなく、全て包み込んで抱き締めるように。
カイの懐が、それができるほど深いということもあるだろう。けれど、それ以上に。
きっとカイにとって、ディアナはそうするだけの価値がある、存在なのだ。
「……何故?」
「ん?」
「それほどまでに、どうして想えるの? ……報われるかどうかも、分からないのに」
カイに投げ掛けているようで、その実、自分自身への問い。
ずば抜けて勘の良い男は、慈しむように女の頬を撫でて、ぞっとするほど美しく笑った。
「報われたいから、ひとを好きになるの?」
「……ちがう、わね」
「でしょ? 俺のことを聞いているなら、答えは簡単だよ。――それがディアナだから、だ」
低く、艶めかしい声。想いの籠もったそれに、リタは実感する。
おそらく、カイにとって。『恋』なんて段階は、とうの昔に過ぎ去った。
愛しているのだ、ディアナのことを。ひたすらに、ひたむきに。深く、激しく。
毒を呷り、死に足を掛けた彼女を、誰にも触れさせようとしないほどに。
どんなディアナも、『ただの女の子』とあっさり言い切る、この男なら。
愛する理由が『ディアナだから』と迷わず断言できる、この男なら。
「幸せに、してくれる……?」
他人の幸せばかり追いかけて、自分のことには無頓着なこのひとを。
――本当の意味で、救い出してくれるだろうか。
祈るような問い掛けに、カイは、躊躇いなく頷いた。
「ディーが、ディアナが幸せになれない世界なんて、俺にとっては砂粒ほどの価値もないよ」
それは。
ディアナの幸福のためなら、世界すらも変えてみせるという、頼もしすぎる肯定だった。
泣きそうになりながら、リタは笑う。
「あなたって、意外と過激なのね」
「なんか、似たようなこと、シリウスさんにも言われたなー。そこまで物騒なこと言ってる?」
「物騒というよりは、あなたの想いが激しいのよ」
「俺、ディアナ以外にこんな気持ちになったことないから、比較のしようがないんだけど。この手の感情って、一般的に穏やかなもん?」
……なんと。ディアナが初恋か。見る目があると褒めるべきか、自分から苦労に突っ込んでいったなと憐れむべきか、判断に迷う。
まぁ、とりあえず。
「私もそこまで詳しいわけじゃないけれど、基本的に穏やかではないわね」
「そうだよねー」
「けど、世界が引き合いに出てくる時点で、あなたの想いは平均よりは激しいと思うわ」
「……そうなの?」
「ディアナ様は鈍いから、それくらいがんがん攻めて正解だとも思うけど」
「うん、なら良いや」
ここまでディアナのことしか考えていないと、いっそ突き抜けて清々しい。
ディアナの首筋に触れて脈拍を見ていたカイが、ふと顔を上げた。
数拍遅れて、リタも気付く。
「この、気配は」
「あー、王様が来たっぽいね。まぁ、あの流れならそうなるか」
立ち上がろうとした彼を、手を上げて押し留めた。
きょとんとした紫紺の瞳がリタを見る。
「リタさん?」
「あなたは、ディアナ様についていてください」
「いや、さすがにそれはマズいでしょ。人工呼吸ならリタさんもできるんじゃないの?」
「できますが、あなたの方が明らかに場慣れしていますから。万が一のことを考えれば、あなたが側にいてくださった方が安心です」
「信じてくれたのは嬉しいけど。たぶん王様、ディアナの顔見に来たんだと思うし」
図々しい割に、変なところで慎み深い。何のために侍女がいると思っているのか。
リタはにっこりと、物騒に笑った。
「ディアナ様が命を掛けて、『何』を守ったのか。それが分かっていれば、そもそもこのタイミングで、王自らこの部屋に足を運ぶなんて愚は犯さないはずです。そんなことも分からないお馬鹿さんに、ディアナ様の顔を見る資格があると思う?」
「……うわぁ」
「絶対に、この部屋に、陛下を通したりしないから。安心して、ディアナ様についていて」
「――分かった」
「ディアナ様を、よろしくお願いします。――カイ」
誰よりも大切な主を託せる、ただ一人の男に。
一度だけと決めて『侍女』の礼を取り、リタは意識を切り換えた。
――目指すべきは、主室だ。
というわけで、次回、最強のお説教の巻!
……それから、もちろん読者様はよくご存知とは思いますが、念のために。
〈注〉このお話はフィクションです。よく知らない野草を直接口にする行為は、命を脅かす可能性もある大変危険なものですので、くれぐれも真似なさらないようお願いいたします。
エルグランド王国と違い、現代日本は図鑑の類も充実しておりますので!
自生している植物を食べる際は、くれぐれも、くれぐれも、よくよく調べて確信を得た上で。疑わしいもの、「たぶんコレ」なものは絶対に食べないを鉄則にして頂きたく存じます。




