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悪役令嬢後宮物語  作者: 涼風
いちねんめ
97/237

星見の宴


さて、嵐です。

「シェイラ、お願い。私を信じて。――宴で出される食事には、絶対に、何があっても、手をつけないで」




 宴前の、慌ただしい時間帯。既に『紅薔薇』仕様となっていたディアナが、目立たず動ける場所はそう多くなく。

 友人たちと談笑するシェイラが、ほんの僅か一人になった隙を狙って、『ディー』の声で一方的な忠告の言葉を投げ掛けることしか、ディアナにできることは無かった。


 ベルは、監視の隙間をくぐり抜け、どこかでくすねたらしい厨房下女の制服を着て、厨房の人数が少なくなった隙を見計らい、さっとシェイラの膳に怪しげな小瓶の中身を振り掛けたらしい。宴の膳を運ぶ際、担当侍女が迷うことがないように、一つ一つの膳に名札を付けたマグノム夫人の気遣いが逆手に取られた形だ。

 ルリィに知らせてくれた侍女が、現場を目撃したのは偶然だ。彼女はシェイラの侍女、マリカと同じ時期に後宮に上がった新米で、道に迷ってたまたま厨房近くにたどり着いたそうだ。ベルの顔は「あれがシェイラ様に酷いことしたタンドール伯爵令嬢様の私的侍女よ!」と同期のマリカから教えられており、同時に組んでいる先輩からは、「万が一、ベルが怪しい行動をしているところを見かけたら、私か、黒髪黒目の侍女ルリィに知らせなさい」と言われていた。素直な少女はあからさまに怪しい現場を見て震え上がり、闇雲に後宮を走って、すれ違ったルリィに「廊下は歩きなさい」と注意され、目が合った途端、安堵と恐怖で泣き出したのだとか。


 泣き出した侍女から話を聞いたルリィは、取るものも取りあえず、ディアナに知らせ――それを受けたディアナは、すぐさまマグノム夫人と後宮近衛のクリス、『名付き』の三人に走り書きを送った。

 しかし、時既に遅し。下位の側室たちはもう庭園へと集まり、舞台では最初の余興が始まっている。『紅薔薇』の登場は最後、ディアナには時間が僅かに残されていたが、膳を作り替える時間も、……宴を中止にする時間も、もう存在しなかった。残された時間でディアナができたことは、それこそ、シェイラに近付き、忠告することだけで。


「紅薔薇様、お越しでございます」


 マグノム夫人の口上で、ミアに付き添われ、上座についたディアナは、これまでにない恐怖の中にいる己を自覚した。


(何だろう。ものすごく……気味が、悪い)


 ベルにも、ライノにも、オレグにも、ノーマードにも。それぞれ監視がついていた。『闇』だけでは手が足りないので、ベルは侍女たちが交代で、ライノやオレグは外宮室にも協力を頼み、いちばん危険なノーマードにはクレスター家の『闇』が中心に。

 当然、手紙や小包のやり取りなど、すればすぐにバレる状況だったはずなのだ。

 それ、なのに。どうして。……どうやって。


(監視の誰にも気付かれず、小瓶はベルの手に渡ったの? ここ一週間、誰もが沈黙して、手紙のやり取りすらしていなかったのに。いつから、ベルは小瓶を持っていたの?)


 得体の知れない『何か』が、じわじわと、ディアナを浸食していく。

 これまでに感じたことのない恐怖を、ディアナは必死に、追い払った。


(考えたって、分からないものは仕方ない。今、するべきことは)


 シェイラの、命を守ること――。


 ベルが振りかけていた小瓶の中身が、料理が美味しくなる万能調味料だなんておめでたい考えは、関係者一同誰一人として持っていない。十中八九――毒、だろう。

 ソフィアは――リリアーヌは遂に、邪魔者を最も簡単に排除できる禁じ手を、使おうとしているのだ。


(死なせない。何があろうと、誰も、私の目の前で、死なせたりはしない)


 ディアナが『紅薔薇』だからではない。単純にディアナが、誰も死なせたくないから。

 もう、自分の心に嘘はつかないと、ディアナは決めている。


「国王陛下、お越しでございます。皆様、ご起立を願います」


 マグノム夫人の言葉で、側室たちが一斉に立ち上がり、深々と礼を取る。

 ジュークの気配が目の前を通り、ディアナの隣で、止まった。


「皆、今日はよく集まってくれた。顔を上げ、座るが良い」


 ジュークの声で、再び側室たちが一斉に動く。全員が席に着いたのを確認して、ジュークが一つ頷いた。


「常日頃からの、そなたたちの献身に、私は深く感謝している。今宵は短い時間だが、皆が楽しめるよう、宴の席を用意した。――身分の上下に囚われず、側室同士も親しく語らってもらいたい」


 ジュークの挨拶が終わると同時に楽曲が流れ、舞台に灯りが点る。踊り子たちが跳ねるように登場し、優雅な舞が始まった。

 そして――それが、合図だったのだろう。王から順番に、膳が運ばれてくる。


 ちらりと横目で窺えば、膳を前にしたジュークの顔色は、夜だということを差し引いても悪い。穏やかに語らうライアとヨランダも、カトラリーを手に取ったレティシアも、笑顔なのはさすがだが、瞳の色は険しかった。


「紅薔薇――」


 楽曲の音に紛れるように、ジュークが呼び掛けてくる。聞いている、と示すため、さり気なく首肯した。


「マグノム夫人から、聞いた」

「何か、手は?」

「膳を、破棄するようにと……!」

「――残念ながら、通達は間に合わなかったようです」


 舞台を囲むように作られた席の端。観賞魚が泳ぐ池を背にする、その場所で。

 座るシェイラの前に、まさに今、膳が置かれた。

 遠目にも、シェイラの表情が強ばっていることが分かる。

 何故、という言葉が、隣から漏れた。


「膳を運んだ侍女は、おそらく、相手方の手の者なのでしょう」

「膳を、守ったと、いうことか」

「陛下のお考えについては、わたくしも考えたのです。けれど……」


 シェイラの膳を厨房でダメにしたところで、小瓶はベルが持っているのだ。

 是が非でもシェイラを亡き者にしたいなら。シェイラの膳がダメになることも見越して、小瓶をソフィアに預け、万一の時は直接毒を飲ませるよう、準備しているに違いない。

 ……それなら。シェイラに食事を食べるなと忠告し、その上で事が起こった、そのときに。


「――陛下」

「何だ」

「今から、宴の席で、どんなことが起ころうと。陛下は泰然と構え、振る舞ってくださいませ」

「……何を、するつもりだ?」

「誰も死なせず、後宮と国の平穏を守るため。わたくしにしかできぬ、最善手を取ります」


 最近、周囲が理解者ばかりになって、うっかり忘れがちだが。

 ディアナはクレスター伯爵令嬢。『咲き誇る氷炎の薔薇姫』の二つ名を持つ、悪名高き娘なのだ。

 守りたいものを、守りたいだけ守るために。――使えるものは、この際何だって使おう。


 ――決意を静かに胸に抱き、ディアナはそっと、瞑目した。



  **********



 始まってしばらくは、席の近い者同士で静かに語らう雰囲気だった宴も、時間が経つにつれ少しずつ、気持ちが緩んで賑やかになってくる。隣り合った相手だけではなく、少し席の離れた場所の友人と会話するため席を立ったり、お互いに話し合って席を交代する側室の姿も見える。――主に『紅薔薇派』の中で。


(こうして見ると、ずいぶんはっきり分かるわね)


 今日の宴は無礼講だとはっきり通達されていたため、最初に案内された席から離れることは、別段咎められる行為ではない。言うなれば、民の野外パーティのようなものだ。席を離れて歩くことも想定して、マグノム夫人は机や椅子を配置している。

 しかし、基本貴族の『宴』――机と椅子が設置され、その前に料理が運ばれてくる形式のものは『晩餐会』と呼ばれるもの。案内された席を食事中に立ったり、移動したり、ましてや席を交代するなんていうのは、非常識と無礼極まりないとされている。そんな貴族の『常識』しか知らない者から見れば、王宮内で開かれているにもかかわらず、招待客たちがあちこちで歩き回っているこの宴は、異様に感じられるかもしれない。

 その証拠に、比較的気楽にあちこち動き回っているのは、『紅薔薇派』の中でも民に近い感覚を持つ、新興貴族出身の側室たちだ。彼女たちは貴族だが、『宴』と聞いて思い浮かぶ馴染み深い習慣は、民の野外パーティなのだろう。仲間内で集まり、時折笑い声も上げて、楽しそうにしている。

 そして――王も臨席する場だからと、はっきりと態度には出していないが、そんな彼女たちを冷ややかな侮蔑と共に眺める、『牡丹派』の側室たち。民の『宴』を知らぬ彼女たちは、自らの『常識』だけをものさしに、新興貴族の側室たちを測っている。それが如実に分かる視線だった。


(まぁ……彼女たちの全てが間違いとは、私も思わないけれど)


 郷に入っては郷に従えという諺もある。貴族となるならば、貴族の常識を勉強して、相手の文化に合わせる努力も必要だろう。新興貴族が台頭して五十年以上、「知らなかったから許して」で済まされる時期は、さすがに過ぎている。

 が。相手に自分たちの『常識』を知ることを望むなら、同じように相手の『常識』を知る努力をすることも、また必要ではないだろうか。一方通行の人間関係は、健全とは言えない。

 相手を知らず、自分たちの『常識』だけを押し付けて、違うことを蔑む。そんなことを続けていては、両者の間に亀裂が生じることなど当たり前だ。


 今の後宮は、王国貴族の縮図でもある。

 どうしたものか――と考えて、隣の静かなため息を聞いた。


「根が深い……な」

「陛下?」

「保守と、革新。この二派の対立には、父上も心を痛めておられた。私が王となってからも、両者の間に溝があることは感じ取れていたが……少なくとも、重要な(まつりごと)の場で激しく諍うところは見たことがなかったから」

「二派の亀裂が、これほどまでに深刻なものだとは、お思いにならなかった……ですか?」

「しっかりと目を開けば、こんなに顕著なのに、な」


 自嘲と共に零された呟きに、ディアナはそっと頷く。


「陛下の教育には、主に内務省が関わっていたと、わたくしは父より聞き及んでおります。内務省は昔から保守の色が強く、それ故に陛下の思考も、気付かぬうちに保守寄りに誘導されていたのでしょう。……おそらく、それを知っていた革新派の方々は、今はまだ陛下の御前に立つときではないと判断し、目に見えて対立することがないよう、調整していらっしゃったのではないかと」

「そうして、保守派が増長したのだな。……争いは、ただ潜っただけ。この様子を見れば、それが嫌でもよく分かる」


『牡丹派』の令嬢たちの態度はあからさまではないが、ジュークは彼女たちから、そしてお互いに近付こうともしない『紅薔薇派』と『牡丹派』の様子から、現後宮の対立図を正しく読み取ってくれたようだ。

 逃げることを止め、目を逸らさずに真っ直ぐ向き合おうとするジュークの覚悟を肌で感じ取り、ディアナはふと、微笑んだ。


「わたくしも、同じことを考えましたわ。――夏に、入宮して」

「紅薔薇……」

「王宮の派閥争いなんて、興味も関心もありませんでしたから。後宮に入らなければ、この二派の対立がこれほどまでに激しく、根深いものだとは、知らないままで過ごしていたでしょう」

「それは……」


 苦いものが混じったジュークの相槌に被せるように、ディアナは真っ直ぐ前を向き、告げる。


「ですが――知らないままの方が良かったとは、思いません」

「……苦労ばかり、なのにか?」

「確かに、大変なことも多いですが……それ以上のものを、たくさん、もらっていますもの」


 手の中のものを喪いたくなくて、必死に抱えて逃げ続けるより。

 両手を広げて立ち向かうことで、最初に持っていた以上の宝物が、ディアナの懐に飛び込んできた。

 そしてそれは……ディアナが欲しくて欲しくてたまらなくて、けれど諦めてしまっていたもの。


 ――互いに信頼できる、『友』であり、『仲間』。


 今、自分の中にあるものを思い、ディアナの心に暖かい『何か』が湧いてくる。


「最初は、成り行きでした。状況から考えて、こう動くのが最良かなぁ……なんて、その程度の気持ちだったのです」

「そう、だったのか?」

「わたくし、別に聖人君子ではありませんよ? できることなら楽しく生きたい、どこにでもいる十七歳の小娘です」

「無理があると思うぞ」

「事実、そうなのです。――だって、『国』のためとか、『平和』がどうとか、そんな大義名分で動いていたときよりも、大切な人たちを守りたい『今』の方が、ずっとずっと頑張れる」


 戦争が起こって欲しくないのは本当だ。本来ならもっと生きられるはずだった命が、容赦なく目の前で消えていくあの『現実』は、できることなら二度と経験したくない。『あれ』があったから、入宮してからのディアナは、深く考えずに後宮の安定のためにと、動くことができた。

 けれど。『今』は、違う。似ているけれども、肝心の部分が変わっている。


 何の言葉もなく、ただありのままのディアナを見て、『ディアナ』を信じてくれた、『紅薔薇の間』の侍女たち。

 後宮の安定のために力を貸して欲しいと、祈るような思いで伸ばした手を、何の躊躇いもなく掴んでくれた、『名付きの間』の三人。

 悪に染まる覚悟で、悪に染まり切れず、その狭間で声なく慟哭し、最後に信じて心を預けてくれた、ミア。


 そして――『紅薔薇』の中に『ディアナ』を見つけ、最初から変わることなく好意を寄せてくれる、親友(シェイラ)


 ――願うのは、大切なひとたちが何の憂いもなく幸福に笑う、そんな未来だ。


 結局、自分は俗物なのだろうと、ディアナは思う。『国』なんて漠然とした概念よりも、目の前にある『現実』の方に比重が傾いてしまう。大好きなひとたち皆に幸せになって欲しいという、その願いの延長線上に、王国の安定とか平和があって。目指すものは変わらないはずなのに、『今』の方がずっと、気持ちにも行動にも、迷いがない。


「後宮に入らなければ、派閥争いに巻き込まれて苦労することがなければ、わたくしは今も、小さな自分の世界の中で、外の世界に勝手に絶望して過ごしていたことでしょう。他者を信じ、信じられて結ぶ絆の尊さと温かさを知らぬまま、傲慢に人を枠に嵌める悪癖から、抜け出せずにいたことでしょう。――ましてや、高い壁を前にして、信頼できる仲間と手を取り合い、共に越えていくことの大切さになど、生涯気付けぬまま」


 静かに、静かに、言葉を紡ぐ。宴もたけなわ、舞台も最高潮の盛り上がりを見せ、側室たち皆の目が舞台に釘付けになる中――タンドール伯爵令嬢、ソフィアと、その仲間たちが、そっと立ち上がるのが見えた。


(あぁ――……)


 できることなら、何も仕掛けて欲しくはなかった。

 マグノム夫人の心遣いに溢れた、この夢のような宴に心酔して、恐ろしい企てなど忘れてくれたら良かった。

 そうならないだろうと覚悟はしていて、それでもそう願わずにはいられないくらい――。


「欲しいもの全てが手に入ったこの後宮(ばしょ)を、今はもう、憎いとは思えないのです」


 ――たとえ何が起ころうとも、『何もなかった』ことにしようと、当たり前に思う程度には。


 決意を胸に、ディアナは音を立てずに立ち上がる。いくら無礼講とは言っても、上座の王と『名付き』が席を立つことは異常で、しかし『紅薔薇』の奇行に誰も気付かぬほど、舞台は華々しかった。

 彼女に気付いたのは、ただ一人。――言葉を交わしていた、王のみ。


「――紅薔薇?」

「陛下。お約束、ですよ」


 これから先、どんなことが起ころうと。

『王』として泰然と構え、振る舞え。


『約束』の意味は、すぐに分かる。気配を消して、ディアナが向かった、その先は。

 宴の開始と共に膳が置かれてから、その場から一歩も動かず、膳にも手を伸ばそうとしなかった、ただ一人の側室。――シェイラ・カレルドだった。

 舞台の騒がしさに紛れ、いつの間にか彼女は、ソフィアら『紅薔薇過激派』に囲まれている。宴が始まった当初は、用心のためか友人二人も一緒にいてくれたようだが、二人にもそれぞれ付き合いがあり、ずっとシェイラにつきっきりでいるわけにもいかなかったのだろう。

 茂みに紛れつつ、静かに近付くにつれ、シェイラとソフィアたちの会話が聞き取れるようになってきた。


「ずいぶんと、勿体ぶっていらっしゃるのね?」

「まさか、陛下がご用意くださったお食事を、食べられないとは言わせませんよ?」

「それは……とても、美味しそうには見えますが……」

「何か苦手な食材でもあった? それなら、食べられそうなものを選んで、お食べになればよろしいわ」


 予想は、していたが。やはり、シェイラに膳の上のものを食べさせようと、目論んでいるらしい。

 こっそり覗いて様子を窺うと、ソフィアたちは皆笑顔で、声さえ聞こえなければシェイラに友好的にすら見えそうな雰囲気だった。

 ソフィアが、膳の上のスープカップを持ち上げ、シェイラの目の前にずいと差し出す。


「ほら、シェイラ様。せっかくのスープが、これ以上放っておいては冷え切ってしまいますわ」

「私どもも頂戴しましたけれど、とても美味しくて、身体も暖まりますわよ」

「顔色もお悪いですし、食事はきちんとなさいませんと」


 目の前のスープカップを、シェイラは澄んだ空の瞳で見つめ――ゆっくり、はっきりと、首を横に振った。


「お気遣い、ありがとうございます。……ですが、ソフィア様。私には、皆様よりも、信じるひとがいるのです」

「な……?」

「ソフィア様。ソフィア様には、いらっしゃいますか? 姿は知らず、声だけで、けれど無条件に信じられる。信じて、その結果どうなろうとも、後悔なんてしない。――そうまで思えるほど、大切なひとが」


 真っ直ぐ、ただ静かに、見つめられ。ソフィアの手が震え、彼女の足が無意識に後ずさる。

 ――その瞬間、シェイラは確かに、ソフィアたちを圧倒した。


「ソフィア様。今ならまだ、間に合います。こうして話していても、ただの雑談で終わらせることができます。どうか、あなたが命を賭ける方を――ディアナ様を悲しませるようなことは、おやめください」


 静かに話しているだけなのに、シェイラの言葉は、その存在は、この場を支配して余りあった。

 覚悟を決めた人間は、決めた覚悟の分だけ、確実に強くなる。


「――っ、ディアナ様を悲しませているのは、あなたの方でしょう!」

「仮にそうであったとしても、こんなことをディアナ様が望んでいないことくらい、あのひとを見ていれば分かります!!」


 ――不確かな、第三者の妄言にも惑わされない。一本筋の通った、それは本物の強さ。


 逆上したソフィアがシェイラの髪を掴み、スープを無理矢理口に流し込もうとする前に、ディアナは飛び出していた。


「ソフィア様。それは何の遊びです?」

「べ、紅薔薇様……っ」

「せっかくの舞台も、背を向けていては半分も楽しめませんわよ? 皆様の席は、舞台が横からよく見える場所でしたでしょう? こんな端に、わざわざどんなご用なのかしら」


 近付きながらとつとつと言い募れば、ソフィアが力なく手を降ろし、スープカップを膳の上へ戻した。他の令嬢たちも、一歩一歩、シェイラから距離を取る。

 青ざめていたソフィアは、思い出したように、ディアナに向き直った。


「紅薔薇様! こちらの、シェイラ様は、畏れ多くも陛下から頂いた膳に、手をつけようとしないのです! それは不敬に当たると、私たちはお伝えしようとしただけで」


 その、ソフィアの声は。

 舞台上の催しが終わり、音楽の止んだばかりの庭に、ぞっとするほど響いた。

 これまで舞台に注目し、騒ぎに気付いてもいなかった側室たちの視線が、一斉に集中するのが分かる。


(……ここで、『食べなくていい』って言うのは、まずいわよね)


 ほぼ全員が注目しているだろうここで、ディアナがシェイラの肩を持って、『王』の膳を蔑ろにしては、『牡丹派』及び保守派の餌食になるだけだ。ディアナ一人が悪く言われるだけならどうということもないが、今の彼女は『紅薔薇』であり、後宮の革新派を束ねる存在。そんな彼女が『王』を軽んじるような振る舞いをすれば、それは革新派全体の疵になる。


(まったく……やってくれる)


 この状況で、ディアナが打てる手など、ひとつしかないではないか。

『雪の月』の簪を差して、取り繕わずにシェイラと会うと決めた今、『これ』しか方法がないなんて。


「あら……本当ね。シェイラ様、食欲がおありでないの?」


 大きい声を出したわけではないのに、ディアナの悪女声は、澄んだ夜空によく響く。

 笑うしかない現実に、彼女の唇は弧を描いて。

 ――満天の星空を背景に、そこにいたのは。


「わたくしの敬愛する、国王陛下からのお食事を、理由はどうあれ食べられないなんて」


 三日月よりも、美しく。

 うっすらと点る燭台よりも、妖しく。

 夜闇よりも、怖ろしい――。


「とても、かなしいわ」


 ――氷炎の、薔薇姫。


 全員が凍り付く中を、ディアナは優雅に進む。

 一切の躊躇いなくシェイラに近付きながら、ディアナは艶やかに笑ってみせた。

 シェイラに与えられた机の端を、指でつう……っとなぞって。自然な動きで、膳の土台にたどり着く。

 シェイラの背後に、人が居ないことを確認して。


(ごめんね、シェイラ――)


 心の中で謝り、身体のバランスを崩すと同時に、土台の裏に潜り込ませた指先に力を入れ、思い切り跳ね上げた――!


「きゃあっ!」

「紅薔薇様!」


 無音が痛かった空間から一転、中庭に幾人もの悲鳴が上がる。


 周囲から見れば、シェイラの無礼な態度を怒った『紅薔薇』が、彼女に何かしようと近付いて、何かに躓いて転んだ拍子にシェイラの膳をひっくり返してしまったように見えただろう。――膳の上の料理が、シェイラや近くにいた者たちに一切かからず、誰もいない空間へ飛んでいったなんてことは、『紅薔薇』が下位の側室にキレた『見せ物』の前には些細なことだ。

 膝をつくディアナに、ミアが駆け寄ってくる。演技ではなく、彼女の顔は青ざめていた。


「紅薔薇様! 大事ございませんか?」

「ふふ。わたくしとしたことが、うっかりしてしまったわね」


 ミアに手を貸してもらい、立ち上がって、シェイラの膳が完全にダメになったことを確認する。

 これで、シェイラが膳を食べることはない――。


 ほっとして、思わず、笑みが零れた。

 大きく目を見開いたシェイラに、言うべきことを探す。


「申し訳ありません、シェイラ様。あなた様のお料理を、台無しにしてしまいましたわ」

「い、え。あの、ディアナ、さま――」

「ですけれど、構いませんわよね? もともと、食べるつもりのなかったお膳なのですから」


 これで、良かったのだ。ディアナはそう、自分に言い聞かせる。


 シェイラの膳に、何かが混入されたと聞かされたときから、ディアナは決めていた。

 宴の中止が、間に合わず。

 膳の破棄も、間に合わず。

 忠告虚しく、シェイラが食事を口にするような、最悪の事態が訪れた、そのときは。

 シェイラの命が脅かされるその前に、『紅薔薇』として、シェイラの膳をひっくり返そう――と。


 王によって催された『星見の宴』で、王より与えられた他の側室の食事を台無しにするなんて暴挙は、普通なら考えられない。身分の上下に関係なく、非難の的になる。

 しかし、ディアナだけは。側室筆頭であり、対外的には『王の寵姫』とされている『紅薔薇』だけは、表立っての非難を受けることはない。「うっかり躓いて」の一言で終わらせることができる。

 さらに、膳をひっくり返す前に、シェイラに対し王への非礼を咎めたことで、『紅薔薇』が王の側の人間だということを、知らしめることができただろう。『紅薔薇派』及び革新派への、不敬であるという保守派からの攻撃材料は、これで封じることができるはず。

 王の膳をダメにして『うっかり』で終わらせる厚顔無恥さも、自らの快楽が優先、逆らう者には容赦のない『咲き誇る氷炎の薔薇姫』ならば、さもありなん。むしろ、「自分は王に愛されているから許されるのだ」と恥知らずこの上ない態度に、勝手に変換してもらえる。


 派閥間に、無意味な波風を立てず。最悪の良識外れをしても、不思議には思われない。

 いざというとき、シェイラと国、その両方を守れる最善手が取れるのは、『紅薔薇』であり『クレスター伯爵令嬢』でもある自分しかいないと、分かっていたから。これで、シェイラからの好意を失ったとしても、ディアナには一つの後悔もない。


 ……どうしようもない現実に、胸は痛むけれど。


「さ、皆様。無いものを食べさせることはできませんわ。もうすぐ宴も終わりますし、席に戻りましょう?」


 とどめとばかりに、ソフィアたちへ笑顔を向ける。企てた張本人たちは、さすがにディアナの真意に気が付いているのだろう。驚きと困惑が隠せないようだ。


(今度こそ、伝わって――)


 誰かが死ぬことなど、ディアナは、望んでいないのだと。


 ディアナの視線を受けて、よろよろと、力なく、ソフィアたちは与えられた席へ戻るため動き出す。


 何とか、なった――。ほっと、肩の力が抜けた、ところで。


「きゃあああぁ!!」


 尋常ではない悲鳴が、少し離れた場所、シェイラの膳が落ちた付近から響き渡った。

「どうしたのです」とマグノム夫人が近付いてくる。


「さ、魚が。池の、魚が!」


 ぞ、っと背筋が寒くなった。シェイラの背後、誰もいない空間。

 ――膳を飛ばした先には、何があったか。


「浮かんでいます。死んでいるのです。さっきまで、普通に泳いでいたのに!」


 ざわり。

 中庭に、どよめきが走った。

 どういうことなの。魚が死んでるって。さっきまで元気だったのに。そんな、どうして。

 ざわめきは言葉の形を取り、徐々に、徐々に大きくなる。


「まさか――シェイラ様のお膳に、毒が?」


 ……そう言ったのは、果たして誰だったのか。


 不吉な言葉ほど、不安を煽る言葉ほど、人間の耳は鋭く拾う。「そんなわけないわ」と否定してくれた『名付き』三人の言葉より先に、毒、という単語は側室たちの間を走り抜け、事実として浸透していくのが分かった。


 お膳に毒? でも、いったい誰が。

 そういえば、ソフィア様たちは、やけにしつこく、シェイラ様にお膳を勧めていらしたわね。

 ひょっとして、ソフィア様たちが。

 陛下と紅薔薇様の仲を邪魔する、末端の側室を排除しようと――?


 迫ってくる。推測が確信となり、確かな『事実』となって。

 王の御前で、これほどの騒ぎになれば。真相を究明せよと、叫ばれるのは必至。

 死んだ池の魚から、毒素を検出するのは難しいだろうが。今地面に散らばっている、シェイラの膳の残骸を調べれば、毒物反応が出る可能性は高い。

 毒が、見つかって。企てた者たちが、暴かれたら。

 何が、起こる? 余波は、どこまで、及ぶ?

 ――少なくとも、後宮は、今のままではいられない。


(ダメ……)


 決めたのだ。

 誰も、死なせはしないと。

 それは、シェイラだけではない。利用されている、ソフィアだって同じこと。

 裁かれるなら、この件を操っている『黒幕』こそが、真に裁かれるべきなのだ。


 その、ためには――。


「……あら、あら」


 張り上げることなくよく通る、ディアナの生まれ持った声で。その場を一斉に、静まらせる。たかだか百人弱の喧噪を負かすことができないで、何が『悪人声』だ。

 上座で、今にも何か叫びそうだったジュークが、口を閉ざしたのが見える。


 そう。それでいい。『王』の出番は、この後だ。


「なかなか、面白いお話ですわね。池の魚が偶然死んで、その原因がシェイラ様のお膳?」


 ゆっくり、ゆっくり。足音を立てて、進む。並ぶ机をすり抜け、シェイラの膳が散らばった、池の畔で立ち止まった。

 素早く地面に視線を走らせ、草の上に落ちていた、比較的大きくてよく見える、肉の塊を拾い上げた。

 こちらを向いている、全ての眼差しを、ぐるりと見回して。


 笑う。――鮮やかに。


 手にした肉を、ディアナは一気に、口へ放り込んだ。

 声にならない絶叫が、中庭を埋め尽くす。


 騒然とした空間で、ディアナは一人、冷静だった。


(この、匂い。使われている香辛料とは違う、このちくちくした刺激。肉本来のものとは別の、不自然な甘さ――)


 口の中でしっかりと味わい尽くし、分析して。

 走り寄ってきたミアとマグノム夫人に止められる前に、その全てを飲み込んだ。

 顔色の変わった二人に、目線だけで(大丈夫)と告げる。

 そして堂々と――王も含めた、この場にいる全ての者へと、宣言した。


「それならば、今、お肉を食べたわたくしも、この池の魚と同じ場所へ、召されなければおかしいのですが……妙ですわね? 何も変化はありませんわ」


 さぁ。――今だ。

 ディアナの強い視線は、確実に、送ったひとへと届いた。

 上座の王が、立ち上がる。


「何事もないのか、紅薔薇」

「はい、陛下」

「そうか。しかし、ならば何故魚が……」

「さぁ……魚には魚の弱点がございますから。もし仮に、池に落ちた膳が原因だとしても、少なくとも毒ではなさそうですわね。まぁ、人間にとっては栄養でも、他の生き物にとって毒になる食材なんて、山ほどございますもの」

「なるほどな。ひやりとしたが、問題が無いなら良い。――それより、膳が落ちるとき、身体が傾いだように見えたが」

「お恥ずかしいことですわ……。実は今朝から、少し貧血気味で。仲の良い方々がお集まりでしたので、ご挨拶しようと近付いたのですが、慣れないことは、するものではありませんね」


 徐々に、呼吸が苦しくなってくる。深呼吸は避け、浅い呼吸を繰り返して、症状の緩和に努めた。

 倒れる、わけには、いかない。――まだ、ここでは。


 霞む視界の先で、ジュークの声がする。


「そうだったのか。気付かず無理をさせた。……もうそろそろ宴も終わりだ。一足早く、部屋に戻って休むが良い」

「お気遣い、感謝いたします。お言葉に甘えて、下がらせて頂きます」


 膝を落とし、ドレスを摘まんで深々と頭を下げる、王族への最高礼。

 通常時でもバランスを取るのが地味に難しいそれを、薄れゆく意識の中、根性で行う。


「あぁ。――下がれ」


 ぼんやりと見えていた中庭の様子が、黒く染まっていく。

 視覚に頼らず、感覚だけを頼りに庭を抜け、階段を上がって。


 がちゃりと、『紅薔薇の間』の扉が開く音が聞こえた。


「ディアナ様!!」

「なんて、ことを――!」


 侍女たちの、悲鳴の先。

 肩に触れる温もりに、物心付いたときから一緒の、姉妹にも等しい存在を感じる。

 彼女が、部屋で待っていると、分かっていたから。この、危険極まりない賭にも、踏み出せた。


「リ、タ」

「――はい、ディアナ様」


 使われた、毒は。主に、呼吸器に作用する。

 解毒薬も、分析が正しければ、作れるはずだ。


「ダン……の、根と、ペッ、の、つぼ、み。はる、つ、げ、蜂、の……はり、」

「ディアナ様? しっかり、気をしっかり持って!」


 材料は、全て、王都のクレスター邸にあるから。

 解毒薬を作って持ってきてくれるよう、『闇』に伝えて――。


 願いを託し、ディアナの意識は、混沌の底へと沈んでいった。






どんどん転がって参りますよ〜!


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