閑話その20~寵姫は裏で奔走する~
『年迎えの夜会は、全員参加が原則ではありますが、決して強制ではありません。やむを得ない事情がある場合は、欠席も可能ですよ』
いつも通りの無表情で、しかし瞳にはシェイラを案じる色を乗せ、マグノム夫人がそう進言してくれたとき、シェイラは微笑んで首を横に振った。嫌がらせは毎日、手を変え品を変え続けられており、夜会で何かが起こる可能性は高い。――それでも、シェイラは夜会を欠席しようとは思わなかった。
『あらあら。泥々の襤褸を抱えて、みすぼらしい格好ですこと』
嫌がらせをしておきながらそう言って笑う、あんな心の貧しい人たちに負けたくなかった、という気持ちも、もちろんあった。
『顔色が悪いが、何かあったのか?』
王宮に戻ったその日の夜、忙しい仕事の合間を縫って訪ねてきてくれたジュークに、これ以上心配をかけたくない、そうも思った。
……けれど、一番は。
「――声が聞こえたから、もしかしてって思ったら。やっぱりシェイラだった」
「ディー!」
降臨祭前から忙しいらしくて、まるで会えていなかったこの友人に、どうしても、どうしても会いたかった、から。
ディーが何者なのか、本当の名前は何なのか、何一つとして知らないシェイラは、いざ自分から彼女に会いたいと思っても、どうすることもできない。特に今回は、ディーは本当に忙しかったらしく、わざわざ待ち合わせ場所に『しばらく会えない』という旨の置き手紙をしてくれたほどだった。
――次に会えるとしたら、年迎えの夜会かしら。
手紙に書かれたその一文が、シェイラに、夜会までの時間を乗り切る力を与えたと言っても、過言ではなかったのである。
久しぶりに大好きな友人と会えたことで、シェイラのテンションはぐぐっとあがる。が、逆にディーのテンションは低かった。……耳が早い彼女は、忙しくしながらも、後宮の現状把握を怠ってはいなかったらしい。
「私はまた、シェイラが大変なときに、何もできなかった……」
「そんな!」
この優しいひとは、いったい何を言い出すのだろう。ディーの存在そのものが、シェイラにとって、何よりの支えになっているのに。――むしろ、彼女の存在に甘えて、『後宮で生きている』ことから目を逸らし続けていた自分こそ、その心を恥じるべきだ。
これからは、自分の居場所は自分で掴む。そう宣言したシェイラに、聡明な友人は容赦がなかった。
「だから、『牡丹派』の所業を外宮に報告しないでほしいと、マグノム夫人に頼んだの?」
疑問形式のその言葉が、シェイラの対応を遠回しに批難していることは、さすがに分かった。……今回のあれこれは、一側室が自分で対応できる限度を超えている、そんなことはシェイラだって理解できる。
――けれど。
(『私』が外宮を、陛下を頼るのは、たぶん、いけない)
園遊会のとき、叔父から聞かされた。自分と、王の仲が、一時期噂になったこと。
一度でもそんな噂にのぼった側室が、後宮内の不和のもとになっていると、知られたら。その側室のために、王が動いたと公になったら。
……その事実をよく思わない人は、きっと、シェイラが考えている以上に、多いはずだ。
ジュークから向けられる一途な想いに、自分も真っ直ぐ返せるほど、シェイラは自分に自信を持つことができない。『紅薔薇様』ほど、身分と気品と誇りに溢れていれば迷うこともないだろうが、今の自分は、ただの下っ端側室。しかも、うっかり『牡丹派』に目をつけられて、後宮を騒がせている。……こんな女では、とてもではないが、ジュークに相応しいとは言えないだろう。
だから、せめて。想いを返せない代わりに、ではないけれどせめて、自分のできる精一杯で、ジュークを守れるように。
シェイラの覚悟を察してくれたらしいディーは、この件に関してこれ以上、踏み込んでくることはなかった。ただ一言労って、話をがらりと変えてくれる。
(……こんなに優しいひとが、どうして嫌われたりするのかしら)
お互いにプレゼントをドレスの下に忍ばせていた、という話になり、思わず笑みを溢しながら、心底そう思ってしまう。ディーの後ろ姿なら、何度か見たことはあるけれど、以前彼女が言っていたような恐ろしさは、特に感じなかったのだけれど。
「じゃあ、まずは私から、ね」
そんなことを考えていると、角の向こうから、綺麗にラッピングされた包みが出てきた。包みを持つ手は白くたおやかで、それなのにいきいきと輝いて見える。
ディーが、プレゼントを差し出してくれているのだと、理解するのに一拍かかった。
「えっと……近付いても、良いの?」
「むしろ、いつもこんな怪しげな密会させてごめんね」
速攻で返事をされる。
ディーが姿を見せられないと言っているのだから、それはちっとも構わない。会いたい気持ちを告げられないもどかしさはあるし、昨晩うっかりジュークにディーのことを話してしまったときは、自分は本当にディーのことを何も知らないのだと、ちょっと落ち込みはしたけれど。
「なんか最近は、こういうのも悪くないかな、って思えてきたわ。ディーが良いと思ったときに、姿を見せて」
「……そう遠くないうちに、見せられたら良いなぁ、とは思ってる」
「じゃあ、楽しみにしてるわね」
正直シェイラにとって、ディーの見た目や正体は、大した問題ではない。もしかしたら彼女は側室ではなく、侍女や女官なのかもしれないし、――あるいは。
(……だとしても、ディーはディー、だもの)
彼女が『誰』であろうとも。シェイラの、ディーへ向ける想いは変わらない。
――誰よりも大好きな、友だちなのだから。
ディーから渡された、白いもこもこの動物の置物を眺めながら、シェイラは改めて、そう実感した。
――ゴーン、ゴーン……。
遠くで、近くで、鐘が鳴る。毎年変わらぬ音色を、今年は大切なひとと共に聞くことができた。単純に嬉しくて、胸がいっぱいになる。
――けれどそれは、束の間の逢瀬の終わりを告げる、おとでもあって。
「――シェイラ」
「なぁに?」
名を呼ぶ声に返事をすると、そっと、角の向こう側から、手を握られる。
暖かく、力強い温もりに、安心しても良いはずなのに、どうしてか、泣きたくなった。
「よく、頑張ったわね」
「ディー……」
「辛いことは、ずっと続きはしないから。あなたは、一人じゃないからね。……それをどうか、忘れないで」
――このひとは、まさか。
胸を過る予感に、身体の芯がすっと冷える。引き留めようとしたその瞬間、彼女の温もりは離れ、足音が遠ざかっていった。
(待って……まって、ディー)
背負わせたい、わけじゃない。『私』のことで、『あなた』を苦しめる、わけにはいかない。
――止めないと。
ディーを追って、シェイラは、走り出した。
……追っていた、つもりだった。少なくともシェイラは、このまま隠れているつもりはなかったし、ディーが何か無茶をするつもりなら止めなければと……そういう心意気では、あった。
が、しかし。
(ここ、どこ……)
そもそも、角を曲がった先に目標の姿がなかった時点で、闇雲に走るのはよくなかったかもしれないと、迷子になってようやく気付くシェイラ。ひとまず夜会の本会場の方向を目指したので、おおまかには間違っていないはず、と、挫けそうになる心を慰める。……例え、灯りもなく、周囲は分厚い幕ばかり、人の気配何それ美味しいの? な場所に迷い込んでいたとしても。
(と、とりあえず、人がいそうな場所を探して……)
きょろきょろ、そろそろ、幕に躓かないよう注意深く、シェイラは前に進む。『ディーを探す』という明確な目標がある今の彼女に、『一度広い場所に戻って道を変える』という選択肢はない。
「〜〜で、――です……」
「でも……な……」
人がいるところを探し、最大限鋭くさせていたシェイラの耳が、前方で話す人の声を拾った。このままいけば会場に戻れるかもしれないと、明るい気持ちがシェイラを後押しする。
(もし分からなかったとしても、あそこで話している人に、道を聞けば良いわよね)
そうっと忍び足で、シェイラは話し声のする方に近付き……幕の隙間から、中を覗いてみる。
「――!!」
覗いた瞬間、固まった。
「嬉しいわ。あたくしの気持ちを分かってくださるなんて……」
「当然、ではありませんか。あなたはこの国で、誰よりも貴い女性なのですから……」
(な……!)
叫び声を上げなかったのは、奇跡に近い。まさか、こんな王宮のど真ん中で、『牡丹様』が――リリアーヌ・ランドローズが、男と密会しているなんて、誰が想像するだろう。
月明かりに照らされ、しどけなく男に身体を預けるリリアーヌは、ぞっとするほど妖しく見えた。大きな瞳は潤んで男を捕らえ、豊満な胸が男の腕に吸い付いている。ちょっとこれはどうなのと、男女のお付き合い初心者のシェイラですら、物申したくなるほどだ。
「不安なの。あたくしの立場は、クレスター伯爵令嬢が現れてから、弱くなるばかりですもの……」
「もう、何もご案じなさいますな。全て……全て私に、お任せください」
「ありがとう。でも、無理はなさらないで――」
わずかに隙間が見えていた二人分の影が、完全に重なる。微かなリップ音に、密かな水音、忙しない男女の息遣い――。
そんな現場をうっかりしっかり覗き見してしまったシェイラは、いくら対立している相手とはいえ、こんなプライベートを無許可で覗いて良いものか、いやしかしリリアーヌは側室で、つまりは陛下の非公式とはいえ妻なわけで、これはつまり浮気現場!? いやでも陛下は別に側室の恋愛とか特に咎めない気がするし……と、生まれて初めて目の当たりにしたラブシーンを前に、ひたすら動揺していた。
「あぁ……あたくし、もう行かなければ」
「リリアーヌ様……」
「男爵……しばしの、お別れですわ」
リリアーヌが、男から離れる。緩やかな衣擦れの音が響き、幕の向こうへ姿を消すリリアーヌと、そんな彼女を切ない目で追う男――。
(……って、お芝居見てる気分で見送ってる場合じゃなかった!)
シェイラのそもそもの目的は、ディーを止めること、すなわち、『牡丹派』相手に無茶をするかもしれない彼女を見つけることにある。リリアーヌの後を追えば、『牡丹派』が集まるところに行けるかもしれない。
(急がなきゃ!)
今度こそ、見失わないように。幕の間を縫って、はぐれないよう、でも見失わないように、リリアーヌのドレスを追いかける。幸いにしてリリアーヌのドレスはパステルカラー、月明かりによく浮かび上がるそのドレスは、先程まで迷っていたシェイラを、明るい場所まで導いてくれた。
(ここ……は、会場の近く? 牡丹様は……)
灯りはあれど、相変わらず人気はない、王宮の回廊。慣れない者が迷い込んだら不安になりそうなその道を、しかしリリアーヌは迷わず進み――何故か開いている扉に、するりと入った。どうやら彼女の目的地は、あの部屋のようだ。
(どうしよう……)
もしかしたらあの部屋が、『牡丹派』の集合場所、なのだろうか。だとしたら、このまま後をつけるのはまずい。
シェイラは少し考えて、リリアーヌが入った部屋の手前にある部屋の扉に手をかけた。王宮の部屋は、大抵、何らかの形で繋がっている。……隣の部屋からなら、何とかして様子を窺えるかもしれない。
鍵がかかっているかと思ったが、扉はすんなりと開いた。当たり前だが誰もいない部屋を見回すと、予想通り、壁の一部は幕で仕切られており、隣の部屋との行き来も可能な造りになっていた。
うっかり幕を揺らすとばれるかもしれないので、幕のぎりぎりまで近付き、耳を澄ませる、――と。
ざわざわと、大勢の人がいる気配が、しばらくしていた。かと思うと、すぐにその音は小さくなる。……少しの間の後。
「では、紅薔薇様……私どもは、これで」
「お務め、ご苦労様でした、グレイシー団長」
(え……えぇ!?)
聞こえてきたのは、リリアーヌの声ではなく、『紅薔薇様』……ディアナと、後宮近衛の団長の会話。ただし、その内容からするに、団長はこれからいなくなる、ようだ。
「……随分と、手の込んだやり方ね?」
「わたくしと、外野抜きでお話しするために、わざわざいらっしゃったのですか?」
よもやリリアーヌがこの部屋に入ったのは見間違いだったかと、シェイラが焦ったその瞬間、隣の部屋から『牡丹』と『紅薔薇』の会話は聞こえてきた。雰囲気を察するに、今、幕を挟んだ向こうには、後宮の頂点が二人きりなのだろう。
国を沈めたくなければ、シェイラの嫌がらせに荷担した令嬢から手を引けと迫るリリアーヌに、ディアナは一歩も引かない。後宮での身分はディアナの方が高くとも、貴族階級の上では、リリアーヌの方が高貴な身。それを充分に踏まえた態度で、それでもディアナは、引こうとしない。
――そんな彼女に、リリアーヌは。
「はっきり、申し上げる必要があるかしら。――ココット侯爵家は、戦の準備をしていると」
貴族として、切ってはならない最大の禁忌を、いとも簡単に掲げた。
リリアーヌの言動が、民を人質に『紅薔薇派』の動きを封じるものであることくらい、シェイラにも簡単に飲み込めた。動揺のあまりよろけそうになるのを、全力で耐える。
(この、人は……)
何を、するつもりなのだろうか。この平和な国を、戦火に沈める、なんて。
(人が、死ぬのは、かなしいのに)
父が死んだと聞かされたとき、シェイラは最初、その言葉の意味が分からなかった。海での事故で、遺体も上がらない。ただ……もう二度と、父に会えないのだと、その現実を飲み込むまでに、三日かかった。
あのときから、シェイラの胸には、ぽかりと穴が空いている。この感覚を『かなしい』と呼ぶのだとしたら、こんな想いをする人は、一人でも少ない方が、良いに決まっているのだ。
父親一人亡くしただけで、シェイラはこんなにかなしいのに。戦になって、家族を、友人を、恋人を喪った人は、どれだけのかなしみの中で、息をしなければならないのだろう。
目の前が、まっくらに染まりかけた、そのときだった。
「戦場で、実際に命のやり取りをするのは、侯が守るべき民です。そして民は、駒ではない」
一条の光と共に、迷いのない澄んだ声が、シェイラの心に飛び込んでくる。
「民は決して、貴族の好きに扱って良い、玩具ではないのですよ」
――このひとが、この凛とした誠実な声で、どこまでも『誰か』を守ろうとするこのひとが『悪人』だなんて、どうして皆、思えるの。
怖いと思った、その瞬間に。
戦なんて嫌だと思った、まさにそのときに。
『分かっているよ』と声なき声で。
『大丈夫だよ』とその存在で。
いつだってあなたは、私の、私たちの心を、救ってくれる。
真の矜持を持ちながら、どこまでも優しい――最高の貴婦人。
胸の奥に、熱い何かが込み上げる。意味もなく泣き叫びたいような心地に襲われて、気が付けば、幕から離れた場所で、座り込んでいた。
(……わたし、は)
ならなければいけないのだと、ようやく理解する。――本当の意味で、自分を取り巻く全てと、向き合いたいのなら。
庇われる立場ではなく、庇う立場に。
守られる存在ではなく、守る存在に。
怯えて震える場所から、凛と顔を上げ、戦う場所へ――。
(私は――!)
怖い、……怖い、こわい。
果てしない道程に、目の前が真っ赤に燃える。
その夜、シェイラは自分がどうやって夜を明かしたのか、ついに、思い出すことはできなかった。
そして――。
「きゃあっ!」
「あーら、ごめんなさい。いらっしゃるとは気付かなくて」
「っ、タンドール、伯爵令嬢、様……?」
シェイラのドレスを踏んで転ばせた、ソフィア・タンドール伯爵令嬢の冷徹な眼差しが、弱っているシェイラの心に突き刺さる。
年明け早々、急変した『紅薔薇派』の雰囲気が、後宮に、荒れ狂う冬の訪れを知らせていた――。
読者の皆様が、ブレーキさんを捨てたり逃がしたりしてくださったおかげで(え、最初からなかったって? き、聞こえない!)、悪役令嬢はフルスロットル!
次章より、最終章突入です!!




