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悪役令嬢後宮物語  作者: 涼風
いちねんめ
84/237

年明け、第一陣


今回の『年迎えの夜会』に当たりディアナは、マグノム夫人に頼み、王宮の部屋を二つ、側室専用の休憩室として確保してもらっていた。


一つ目は、シェイラとその友人たち含む、『年迎えの夜会に慣れていない側室のための避難所』だ。主に新興貴族、それも立場の弱い側室には、「新年を迎えた後の夜会は、若い未婚の令嬢にとって危険だから、()()()部屋から出ないように」との通達を出した。真面目な話、本当のことだ。

そして、二つ目は――。


「まぁ、夜はこれからだというのに、随分と大勢、こちらに集まっていらっしゃるのね?」


ダークピンクのドレスを艶やかに光らせ、ルージュの笑みも鮮やかに、背後に万年氷土(ツンドラ)の空気を纏って、ディアナはその場に降り立った。

ほとんど明かりも点っていない暗い部屋の隅で、ひそひそ話をしていた令嬢たちは、自分の耳が信じられない様子で振り返る。


「あらあら、ココット侯爵令嬢様に、メルセス侯爵令嬢様、ハーライ侯爵令嬢様まで。他の方々も……社交界にその名を知られた、『夜の蝶』の皆様ばかりではありませんか。このようなところで、何をなさっているのです?」


あくまで微笑みは絶やさず、一歩一歩、彼女たちに近付く。ある程度まで距離を縮めたところで足を止めると、同時に部屋中の明かりが点り、一瞬で部屋の全貌を照らし出した。


(あーあ、王宮の備品どろどろにしちゃって……後宮の名前で借りてるんだから、下手なコトしたら自分たちの待遇にも跳ね返るのに)


側室たちの居心地が良いようにと、昨日急遽借りたにもかかわらず、王宮の女官、侍女、侍従たちの手によって、部屋は綺麗に設えられていた。テーブルに椅子、ソファに机がバランスよく並べられ、部屋の隅に置いてある飾りワゴンには、アルコール度数の低いお酒やお茶セットが並べられ、お菓子なども用意されている。……食べ物系はほとんど全て、床やソファーにぶちまけられ、悲惨な様相に面変わりしていたが。


「食べ物を大切にしなさいって、あなた方はご両親から教わらなかったの? 今あなた方が駄目にした全ては、民が汗水垂らして働き納めてくれた、命の結晶なのよ。民の努力を無駄にする者に、貴族を名乗る資格はないわ」


幼い頃から事ある毎に言い聞かせられた、ある意味クレスター家の家訓を、まずはぐさっと刺した。

驚きに固まっていた令嬢たち――『牡丹派』の側室、その中でもリリアーヌの手足となって動くことが多い彼女たちは、ようやく目の前の出来事が現実と認識したらしく、のろのろと動き出す。


「あ……あたくしたちは、何もしていませんわ。こちらのお部屋に入ってみたら、既にこうなっていて……」

「新年を迎えたばかり、これからが夜会の本番というような、こんな時間に? 『夜の蝶』と名高い、あなた方が?」

「もっとも名高いあなたには言われたくないわ!」


先程からディアナが敢えて口にしている『夜の蝶』とは、様々な夜会で浮き名を流す令嬢を示す隠語である。蝶が美味しい蜜を垂らす花を求めて飛び回るように、彼女たちは男性を求めて夜会を渡る。常に美しく夜会に君臨する姿への称賛と、ほんの少しの非難を込めた、貴族らしい言葉遊び。

――ディアナ自身も『蝶』と揶揄される身ではあるが、彼女の場合は周囲の勝手な思い込み。対して、今部屋の隅で固まっている彼女たちは、本物の『蝶』だ。エドワードが調査した結果なので、ほぼ間違いない。


「わたくしのことは、好きに仰ればよろしいわ。それより、質問に答えて頂けません? 夜会もこれからというこんな時間に、こんな場所で明かりも点けず、何をしていらっしゃるの?」


何度同じ質問をさせるつもりか、と言外に恫喝すれば、顔を見合わせた彼女たちは、小狡い光を瞳に乗せた。


「物音が、聞こえたのですわ」

「……物音?」

「えぇ。何かしらと思ってお部屋を覗いてみたら、この有り様だったのです」

「あたくしたちより先に、この部屋を使った者たちが、愚かにも部屋を散らかしたに違いありませんわ」

「ここは、『夜会に疲れた者たちが休めるように』マグノム夫人がご用意くださったお部屋でしょう? 散らかしたのはきっと、夜会での振る舞いも覚束無い、愚か者たちでしょうね。賤しい身は、どう足掻いても隠しきれないという、よい証拠ですわ」


言外に、『紅薔薇派』に属する下位の側室たちを貶め、この件を『紅薔薇』の責任にしようとしている。数は力という言葉があるが、この状態のディアナを相手に、ここまでぺらぺら話せるとは大したものだ。侍女も女官もいない、周囲に味方もいない今なら畳めると――。


「用意していた言い訳は、それでおしまい?」


思っていたなら、それは大きな間違いである。


「あなたたち、今、誰を相手にしているか、ちゃんと理解している? 『氷炎の薔薇姫』の異名が名前だけだなんて、そんな愚かな勘違いは、まさかしていないわよね?」


言葉と同時に、ディアナの背後に文字通り、氷のように冷たい怒りが炎の如く激しく燃え上がった。


クレスター伯爵令嬢、ディアナ――又の名を、『咲き誇る氷炎の薔薇姫』。

氷も炎も、そして薔薇も。ただ眺めているだけならば、美しいだけのもの。

しかしその本質は、いとも容易く、容赦なく、触れるものを破滅へ導く。


綺麗なだけの時間は終わりだ。こいつらは――幾重にも、禁忌を侵した。

許すことは、もう、できない。


壮絶に笑ったディアナを真正面から見てしまい、側室たちは先程までの強気は何処へやら、一斉に震えて後ずさった。


「夜会に疲れた者たちが休めるように、マグノム夫人が用意した部屋、と言ったわね? その通りよ。ここは、あなたたちのように『夜会慣れした者たちが』疲れたときのために、マグノム夫人が確保してくれた部屋」

「え……、え?」

「夜会に慣れていない方々には、そもそも年迎えの夜会は危険すぎるもの。ただ歩いているだけで、変態を引き寄せかねない。マグノム夫人の――ついでにわたくしの責務でもあるけれど、不慣れな側室たちを確実に守るためには、『疲れたら休んでください』なんてぼんやりした通達じゃ不十分よ」


微笑みを消したディアナは、足音も高く一歩、進み出た。


「あなたたちの言う、『夜会での振る舞いも覚束無い』ほど不慣れな方々は、そもそもこの部屋の存在を知らない。ここから離れた別の部屋に、新年を告げる鐘が鳴った後は集まって、外の安全が確認できるまで休むようにと、指示が出ているわ。――従って、この部屋の惨状が、彼女たちのせいであるわけがない」

「う……うそ!」

「疑うなら、マグノム夫人に確認することね」

「そんなはずないわ! だって、夫人が言ったのだもの! 側室の中には、長時間の夜会を乗り切るには厳しい者もいる、そのために休憩室を用意した、って!」

「あたくしも、そう、聞いたわ! 夜会中に休む場所など、あたくしには必要ないだろうけれど、念のため伝えておくと!」

「そう。――そこまで念を押されていた『必要ない』場所に、あなたたちが何故わざわざいたのか、その理由をお聞かせ頂いても良いかしら?」


問う声はぞっとするような冷気を纏い、なのに海を映したような瞳には灼熱の炎が踊る。

――侍女も、女官も、側室仲間もいない、状況だけなら孤立無援のはずなのに、ディアナの迫力はその場を支配してあまりあった。


側室たちは、恐怖のあまり、声の出し方を忘れたらしい。ただ固まって、紙のような顔色で、ぶるぶるぶるぶる震えている。

たっぷり二十拍沈黙を数えて、ディアナはゆっくり、ゆっくりと、微笑みを唇に乗せた。


「……王宮に用意された、側室のための休憩所に、私的侍女をあらかじめ潜り込ませることはできないものね。嫌がらせも、自分たちの手を使うしかなかったわけだ」

「! ……ち、ちが、」

「随分と派手に暴れたみたいね。調べれば、あなたたちのドレスや靴から、お酒のシミが見つかるのは間違いない」


ひっ、と喉に呼吸が詰まったような音が、塊の中から響いた。それくらいのことも思いつかずに、言い逃れるつもりでいたのだろうか。……考えが浅いにもほどがある。


「今日のことは、これだけで、充分にあなたたちの『側室不適格』を問うに充分過ぎるけれど。……あなたたちの罪は、これだけではないわね?」


びく、びく、と何人かが肩を震わせる。

その中心にいた、ココット侯爵令嬢、マーシアに、ディアナは視線を固定した。


「あなたが家から連れてきた、ココット家の私的侍女。三人いるそうね?」

「そ……それが、どうしたというの」

「先程会場にいるときに、後宮から、『ココット家の侍女が、王宮まで側室様方のための料理を運びたい、と申し出たため、許可した』と連絡があったわ。……後宮で『この部屋』のために食事が用意されているなんて、一部の侍女と女官しか知らないのにね?」


嫌な予感に、マーシアの表情ががくんと強張る。それを見計らったかのように、扉の向こうから『仕事モード』のクリスの声が響いた。


「失礼致します。――どなたかいらっしゃいますか?」

「グレイシー団長? どうぞ、お入りください」


扉が開き、クリスが一礼し、中に入ってくる。


「紅薔薇様。こちらにおいででしたか」

「わたくしを探していらっしゃったのですか?」

「いえ、お知らせすべき案件が持ち上がりましたゆえ、これからお探しする予定でした。――私がこちらに参ったのは、マーシア・ココット侯爵令嬢様に、お話を伺いたく」

「マーシア様に? どうぞ、奥にいらっしゃいます」


騎士服をびしっと着こなし、真剣な表情をしているクリスは、いつもの三割増しで格好よく見える。常ならば浮かべている親しみやすい笑みを消した今の彼女は、見る人によっては冷たい印象すら受けるだろう。

事実、彼女の身内であるディアナには、クリスのそれはそれは冷ややかに怒っている気配が、つぶさに感じ取れたのである。


「会場にいらっしゃらないと報告を受けまして、こちらまで押し掛けました無礼をお許しください。急遽、あなたに確認を取らなければならない点ができまして」

「……本当に無礼だわ。女の身でありながら剣を振り回すようなはしたない者が、あたくしに何のご用?」

「我らを後宮に遣わされたのは陛下です。今のお言葉は、陛下への叛意と受け取りますが?」

「誰もそんなことは言っていないわ! 下らないことを話していないで、早く確認とやらを済ませなさいよ!」


自分より下の者と見れば、途端に態度が居丈高になる。マーシアの、恐らくは生まれたときからその身に染み付いた習慣を、ディアナはいっそ感心しながら眺めていた。……今のクリスにそんな口を利く勇気は、ディアナにはもちろんエドワードにもないだろう。

案の定、マーシアの高圧的な姿勢に、クリスの瞳がすうぅ、と細められた。奥で瞬く冷徹な光は、クリスがそれだけ怒っていることの証。――ディアナの未来の義姉(あね)は、怒れば怒るほど冷静になり、鋭利な刃物の気配を強くする。


「では、遠慮なく。――マーシア様、あなたがご実家から連れてきた侍女、エメラを、先程後宮近衛の手により、捕縛いたしました」

「なっ……!」

「既に取り調べは進んでおりますが、エメラの口からあなた様の関与が語られましたので、こうして確認に参った次第です。恐れ入りますが、同行頂けますでしょうか」

「ふざけないで! あたくしを誰だと思っているの!!」


どうでもいいことだが、連行されそうになった貴族には、「私を誰だと思っている!」と叫ばなければならない決まりでもあるのだろうか。連行する側は大抵の場合、相手が誰かなんてことは承知の上なので、この台詞は無意味この上ない。

――なんてことを考えていたのが伝わったのか、マーシアの血走った目が突然、ディアナの方をぎょろりと向いた。


「紅薔薇様、近衛の無礼をお諌めくださいませ! あろうことかこの者は、側室を守る身でありながら、側室に無体を働こうとしているのですよ!」

「そ、そうですわ!」

「紅薔薇様、団長に退室するようご命令を!」


つい先程まで、数を武器にディアナを陥れようとしていたとは到底思えない、見事な手のひら返しである。ここまで小物だと、いっそ突き抜けて清々しい。

もちろん、彼女たちの言うことに従ってやる義理など欠片もないディアナは、一人緊張感のない仕草で、おっとり首を傾げてやった。


「参考までにお伺いしておきたいのだけれど、マーシア様の私的侍女とやらの罪状は?」

「大勢のご側室に危害を及ぼさんと企んだ、極めて重大な罪です」

「では、反逆罪の適用も視野に入りますね」

「その通りです。ことがことですので、徹底的な調査が必要と判断いたしました」

「紅薔薇様! このような、たかが男爵家の娘でありながら、少し剣が使えるというだけで図々しく後宮に居座る者の言葉を信じるのですか!」


未来の義姉を、どこまでも、徹底的に、貶める言葉に。

自制より早く噴出した怒りが、氷の眼差しとなってマーシアを刺した。


「あなたの頭に『学習』の文字はないのかしら? クリステル・グレイシー男爵令嬢様は、陛下に実力を求められ、後宮の秩序安定のために設けられた近衛騎士団の団長職を任されたお方。無駄飯ぐらいのわたくしたちより余程、陛下と王国に貢献していらっしゃるの。彼女を侮辱するは、彼女に団長職を与えた陛下を侮辱すると同じことよ。――今のお言葉は、わたくしから陛下に、一言一句違わず、お伝えさせてもらうわね」

「そ、そんな! あたくしはそんなつもりでは!」

「あなたがどんなつもりだろうと関係ないわ。今の言葉は、そういう意味よ」


マーシアの顔色が、赤から青へと変わっていく。クリスが一歩、進み出た。


「私のことは、ともかく。マーシア・ココット様には、私的侍女を使った反逆の疑いがございます。後宮近衛の詰め所まで、ご同行ください」

「あ、あたくしは何も知らないわ! エメラが何を言ったとしても、それはあたくしには関係ない。あの子が勝手にやったのよ!」

「お話は詰め所でお伺いします」

「黙りなさい! しょ、証拠はあるの!? エメラの言葉の他に、あたくしが関わったという確かな証拠が!」


小物だけに、実に諦めが悪い。既に詰んでいることにも気付かず、無様に足掻く様は、見ていて痛々しい程だ。……足掻けば足掻くほど、逃げ場がなくなることも知らず。

修羅場の様相が濃くなってきた休憩室。クリスが入ってきた後は後宮近衛によって守られ、実は閉じられていなかった扉から、一瞬静かになった隙をつくように、新たな登場人物が入ってきた。


「失礼いたします。お食事を届けに参りました」


カラカラとカートを押して入ってきたのは、真っ白な料理人の衣装に身を包んだ、背の高い壮年の男性。服の上からでも分かるほど、鍛えられた身体をしている。優しげな顔立ちだが、今は表情が険しいこともあってか、凛々しい印象の方が強い。

軽食や菓子、酒やお茶がひっくり返ってぐちゃぐちゃになっている室内。その有り様を、彼はどこか悲しげな目で眺めつつ、しかし手は止めずに流れるような動きで、奥の――側室たちが団子になっているすぐ傍のテーブルの上に、食事の皿を並べた。


緊迫した場面に似合わぬ、優雅かつ洗練された動きに、知らず知らず側室たちの視線が集中する。静まり返った部屋の中、注目を浴びていることを知ってか知らずか、絶妙の間合いで、彼は皿の上の覆いを取った。


――その、瞬間。


「き、きゃあああ!」

「き、気持ち悪い!」


静かだった室内に、側室たちの悲鳴が響く。皿の上をまともに見てしまったある者は失神し、またある者は腰を抜かしてへたり込み――。

いつの間にか集団の先頭にいたマーシアは、紛れもない怒りの眼差しで、食事を運んできた男性を睨み付けた。


「どういうつもり、厨房長! こんなモノを『料理』と称して出すなんて……あたくしへの仕返しのつもりなの!?」


――ここだ。


「仕返し、とはどういう意味かしら、マーシア様?」


カツン、と床を踏み鳴らし。

ディアナはテーブルを挟んだ真向かいに立った。


「『これ』を見て、即座に『仕返し』という言葉が出てくるとは……どういうわけでしょう?」


す、と抜き出した扇でテーブルを指す。その上に乗っているのは――。


「こ、こんな、虫だらけの皿を、よりにもよって後宮厨房の責任者が、『料理』と偽って出すなんて、嫌がらせでしかないでしょう!」


白色で、親指くらいの大きさの、楕円形の何かがくるりと丸まったもの。それが山と盛られた皿は確かに、虫の幼虫がまとまって冬眠しているようにも見える。その隣の皿には、茶色の、長い胴体をゆったり休ませているような、超特大の長虫っぽい何かが三体、並べられていた。

生粋のお嬢様には、刺激の強いシロモノだろう。だからディアナも、見るなり倒れた彼女たちを責めるつもりはない、し。


「えぇ、お世辞にも、出されて気持ちの良いものではないわね。だからわたくしも、『嫌がらせ』と言われたら、その通りだと思うのよ。けれど、あなたは『仕返し』と言った。……それは、あなたが以前に、同じような嫌がらせを行ったからではなくて?」

「た、たったそれだけで!」

「もちろん、他にも理由はあるわ。――あなた、こちらの方が後宮厨房の責任者だと、何故知っているの?」


一拍の間を置いて、マーシアの顔が理解と驚愕、そして絶望に染まる。……決して言い逃れのできない、決定的な失敗を侵したと、この瞬間、彼女は悟ったのだ。


「彼は、わたくしたち側室の前には、決して姿を現さない。普通なら、彼を『後宮』厨房の責任者だなんて、一目見て言い切れるはずがないのよ。――後宮は、男子禁制の花園なのだから」

「あ……」

「あなたが彼を知っている、それはつまり、あなたが何かの折りに、後宮の厨房を詳しく知る機会があったから。……例えば、私的侍女からの報告、とかね」


後宮の厨房を任されている人物が男だというのは、取り立てて秘されている情報ではないが、同時に万人に知られているわけでもない。彼と直接接する機会のある下女や侍女、料理人たち、一部の女官のみが知る事実といっても良いだろう。彼が働き始めた頃からの慣習で、聞かれない限り彼のことは口にしないようになっているのだという。私的侍女は基本的に厨房まで足を伸ばさないので(彼女たちの主な仕事は、主の傍近くに控えることだからだ)、側室たちが厨房の事情を知ることもない。


「彼を厨房長だと知っていた、このお皿を見て『仕返し』と口走った、そして何より、あなたの私的侍女が捕らえられた……。これでもまだ、無関係を主張なさいます?」

「わ、罠でしょう、これは! エメラが虫を持っていたのを見て、こんな薄汚い策略を!」

「……本当、見事にずぼずぼはまってくださいますね。あなたの侍女が虫を持っていたなんて、誰が言いました?」


マーシアが思わずといった風情で、口を手で押さえたが……もう、遅い。

ディアナはクリスを目で促した。頷いて、クリスが進み出る。


「――マーシア・ココット侯爵令嬢。ご同行願います」

「う……うるさい! こんな、汚い手を、使うなんて! あたくしより、側室にこんなモノを出したこの男を捕まえるべきでしょう!」

「はて、彼が何か罪を犯しましたか?」

「な……! こ、こんな、虫を、皿に盛って」


ガクガクと震えるマーシアの前で、ディアナは皿に盛られた幼虫擬きを一つ摘まみ、ぽいと口に放り込んだ。


「――うん、甘くて美味しい。お茶請けにちょうど良さそうね」

「恐れ入ります、紅薔薇様」

「こちらの皿は、何で作ったの?」

「パイ生地とチョコレートで、乾いた質感を表現いたしました」

「あぁ、なるほど」


この厨房長はまごうことなく、超一流の料理人だ。ふむふむ頷き、ディアナは長虫の頭をぽきっと折って口に運ぶ。サクッと軽い歯応えのあとに、チョコのほどよい甘さが口の中に広がった。


――マーシアはもちろん、周囲で見ていた少女たちも、目の前の光景が信じられないようで、ひたすらディアナと皿を見比べている。そんな彼女たちに、ディアナは呆れを含んだ蒼色の瞳を向けた。


「きちんと見れば、これが虫などではあり得ないことくらい、すぐに分かるはずですのに。この皿を見て『虫』だと思い、『仕返し』を連想した――シェイラ様の料理に虫を仕込んだのは自分だと、白状なさったも同じことよ」

「あたくしじゃないわ!」

「えぇ、実行犯はあなたの侍女、エメラなのでしょう? 今夜、この部屋に後宮から差し入れがあると聞いて、懲りずに同じ手を使い、気に食わないと思っている人を苦しめようとした」

「な……何を根拠に!」

「エメラは、この皿に盛られている菓子とよく似た虫を、懐に沢山忍ばせていましたよ。このパイそっくりの長虫もハンカチに包まれていましたし……ついでに、トカゲもいましたね」


往生際の悪いマーシアに、クリスが畳み掛ける。


「懐の中の虫を皿に移そうと覆いを外したところ、既に中は虫の山で、驚いて腰を抜かしたところを捕らえたのです。あれだけ決定的な現場を押さえられて、今更根拠が必要ですか?」

「エメラが勝手にやったことよ!」

「それだと、あなたが厨房長のことを知っていた理由が説明できないわね。『仕返し』を連想した、そのわけも」


マーシアが、燃えるような目をディアナに向けた。一瞬の沈黙の後、飛びかかろうとする彼女を、クリスが手際よく押さえつける。

両手の自由を封じられ、マーシアは喚いた。


「卑怯よ、紅薔薇! こんな、騙し討ちみたいなやり方で……」

「なぁに、今更気付いたの?」


くす、と笑い、ディアナは姿勢を正すと、まるでダンスをするかのように、くるりと優雅なターンを披露した。――ダークピンクの煌めきが、照明を反射する。


「身分を振りかざし、罪を罪とも思わぬ振る舞いをするだけでは飽き足らず、諫言には暴言を返し、いざ己の所業を突き付けられれば下の者に罪を擦り付ける。――そんな卑怯な人間相手に、どうしてわたくしが、真っ当な手段を使ってあげる必要があるの?」


ディアナは、笑う。心の底から湧き上がる、感情に身を任せ。

――それは、『氷炎の薔薇姫』が、荊を剥き出しにした瞬間だった。捕食者の笑みに捕らえられたマーシアは、その瞬間、己の思い違いを知る。


彼女の本性は、氷でも、炎でもなかった。氷も炎も恐れぬと、命知らずに踏み込んだ愚か者をぐさりと刺す、鋭い荊を剥き出しにした『薔薇』こそ、ディアナ・クレスターの真の姿――。

男を惑わせる美貌など、彼女を形成する一端に過ぎなかったのだと。


「シェイラ様を散々苦しめてくださった報いは、しっかり受けて頂きますわ。……そちらにいらっしゃる方々も、高みの見物で済ませられると、思わないことね」


後宮近衛に囲まれ、もう戦意は喪失している側室たちにも、ディアナは容赦しない。寄ってたかってシェイラを追い詰めた、そんな女たちだ。慈悲を与える理由がどこにある。


ディアナの気持ちを代弁するかのように、クリスが口を開いた。


「こちらにいらっしゃる側室方にも、順番にお話をお伺いします。夜会中ではありますが、今後は後宮近衛に従ってください」

「そんな……!」


青ざめた側室たちが壁際に追い込まれ、そんな彼女たちを後宮近衛がじわじわと包囲していく。


「捕縛しろ――」


たった一言のクリスの命令。

――だが、その言葉が効力を発揮する、その前に。


「――……あら。あたくしのお友だちに、何をなさるの?」


柔らかなのに、決して素通りを許さない、人に命じることに慣れた者の声が響き、いとも容易くクリスの命令を打ち消してしまった。

部屋の空気が、ざわりと動く。クリスが、後宮近衛が、厨房長が、側室たちが、一斉に声の方を向いた。


「嫌ですわ、皆、そのように驚いた顔をして。ここは、側室のための休憩所なのでしょう? ――あたくしが使用しても、問題はありませんわよね?」


にっこりと、貴族らしい裏の読めない笑みを浮かべ。

リリアーヌ・ランドローズが、ゆったりと余裕の足取りで、休憩室に入ってきた――。




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