転換点
「……」
「……」
…………えぇと、この沈黙をどうしよう。
侍女三人とのんびりお茶を飲んでいた同じ場所で、ディアナは今、最高に座り心地の悪い感覚を味わっていた。
誰も――リタすらもいない室内で、ただ一人ディアナの前に座り、無言でお茶を飲んでいる相手が。
「……それで、だな。紅薔薇」
国王陛下、その人だからである。
――廊下の外にいた取り次ぎ役の侍女から突然、「陛下がおいでになっています」と聞いたときは、正直どうしようかと思った。何を考えての訪問なのかと、訝しみもした。
が、まさか、すぐそこまで来ている国王陛下を閉め出すわけにもいかない。とりあえず招き入れ、おもてなしの用意を侍女三人に頼み、机の上がきれいに整ったところで、王が突然言ったのだ。――「紅薔薇と二人きりで、話がしたい」と。
リタを筆頭に、紅薔薇付きの侍女三名は難色を示したが、王様の希望に「だが断る」とは返せない。最終的にはディアナが「大丈夫だから」と三人を外へ送り、こうして王とタイマンする状況になった、というわけだ。
とはいえ、それで何かが起こったわけでもなく。さっきまで王は、ただひたすら無言でお茶を飲み、お茶菓子をつまみ、何か話そうとしては口ごもる、を繰り返していた。先ほどようやく文章らしい言葉が出てきたが、その後もなかなか続かない。
何しに来たのか分からないので、ひとまず様子見も兼ねて黙っていたディアナだが、このままでは無駄に時間を浪費する。少し肩の力を抜いて、ディアナはソーサーにカップを戻した。
「この度は、陛下ならびに近衛騎士の皆さま方に、大変なご迷惑をお掛け致しました」
「む? あぁ、一昨日の襲撃の件か。あれはそなたが気に病むことではない。襲ってきた者たちの罪だ」
「ですが、わたくしが逃げ出してしまったことで、結果として事態はややこしくなったのでは?」
「後宮近衛たちの話によると、あそこで紅薔薇が敵の目を引き付けてくれたからこそ時間稼ぎができ、態勢を立て直すことができたそうだ。あのままではおそらく、自分たちの中の誰かが命を失っていただろうと。そなたに救われたと、彼女たちは口を揃えていた」
……さすがに、あの場にいた後宮近衛の彼女たちは、状況を痛いほど理解していたらしい。ディアナの狙いは分からなくても、結果が好転したことは感じ取れる。下手に深読みして、余計なことまでバレてなければ良いのだが。
「偶然とはいえ、陛下にお仕えする大切な近衛兵の命を救うことができて、光栄にございます」
「偶然、か。……本当に、『偶然』なのか?」
上手く転がり出したと思った会話は、王のその一言で、再びがこんと急停車した。ディアナは彼の真意が読み取れず、王もまた、言いたいことを探している様子で視線を落ち着きなくさ迷わせている。
まずは、相手のカードを全部開いてもらうところからだ。ディアナは密かに、気持ちを切り替えた。
「失礼ながら陛下、ご質問の意味がわかりませんわ。一昨日のわたくしは、『紅薔薇』にはあるまじきことながら、恐怖に混乱し、あの場から逃げ出してしまいました。結果としてそれが後宮近衛の皆を救ったのでしたら、それは単なる偶然でしょう」
「そうだな。そなたが本当に、混乱のあまり逃げ出したのだとしたら、確かに後宮近衛の件は偶然だ。……だが、そなたは本当に、怖かったから逃げたのか?」
以前とは違い、あくまでも真実を探そうと問いかけてくる彼の瞳は、凪いだ水面のように清らかだった。ディアナを責めるでもなく、問い詰めるでもなく、ただ本当のことを知りたいと願い、問い掛けてくる。
人は、変わることができる――その嬉しい事実に、ディアナは自然と、笑顔を浮かべていた。
「陛下は、違うとお考えなのですか?」
「……と言うと?」
「わたくしが逃げたのは、『怖かったから』ではないと。何かもっと別の理由があったのではないかと、そう思っていらっしゃるのでしょうか」
その問いかけに、彼は少し視線を外した後、そう長くは躊躇わずに頷いた。
「あぁ。昨夜、近衛たちがそなたから聞いた話を、私も彼らから聞いたが。どうも少し、違和感があった」
「その理由を、お伺いしても構いませんか?」
「……私が話せば、そなたも真実を聞かせてくれるのか?」
質問に質問で返すのは卑怯だと思いつつ、ここで譲歩すべきは自分だと分かっていたから、ディアナは軽く首を傾け、肯定の意を示した。
「陛下のお考えが納得のいくものであるならば、わたくしもわたくしの『真実』をお話しいたしましょう。もとより、隠すほどのものではございませんけれど」
「ならば話そう。――聞いた話では、そなたは森に逃げ込んだところ道に迷い、たまたま通りかかった親切な旅人に連れられて、神殿までやって来たとのことだったな?」
「はい、左様にございます」
「しかし……それは少々、おかしいのでは?」
「と、仰いますと?」
「そなたはその少し前に、素性の知らぬ、怪しい者たちに襲われ、恐怖のあまり混乱して逃げ出したとのことだった。それが本当なら……どれ程親切そうな者であったとしても、見知らぬ誰かを信用しようという気になれるだろうか?」
なるほど、王の推論には、一応の筋が通っている。普通の令嬢なら、確かにその通りだ。
――しかし。
「――陛下。随分と、わたくしに対する警戒を緩められたのですね?」
「……何?」
「わたくしは、『クレスター伯爵令嬢』ですよ? 少し前までの陛下なら……馬車の襲撃の件ですら、裏でわたくしが糸を引いていたと、それ故に逃げたのもわざとなのではないかと、お疑いになったと思うのです」
「それ、は……!」
出発のときでさえ、ディアナが『正妃代理』であることに対して、必要以上に傲慢になっていないか、確かめに来た彼である。少なくともあの時点で、彼の中でまだ、『紅薔薇』イコール『クレスター伯爵令嬢』イコール『悪の権化』の公式は根深かったはず。
それが、今日ここに来て突然、ディアナをごく普通の貴族令嬢のように扱っている。これで違和感を覚えないほど、ディアナは残念ながらおめでたくない。
「敢えて、申し上げましょうか? わたくしは『クレスター伯爵家の娘』であり、故にごく当たり前の神経は持ち合わせていないのですと」
「……ならば、なおさら不自然であろう。当たり前の神経ではないそなたが、馬車が襲われた程度で取り乱し、逃げ出すなど」
「仮に、わたくしが何らかの意図をもって、馬車を離れたとして。陛下はその理由をどうお考えなのです?」
「そなたが本当の『悪女』なら。わざと馬車を襲わせ、行列から離れて皆に心配をかけることで、私の心をも得ようとしたと。そう、推論するべきなのだろうな」
言いながら、彼の表情は冷静だ。言葉にもまるっきり熱がこもらず、彼がこの『推論』を信じていないのは明らかだった。
「わたくしを『悪女』と断定なさらないのですか?」
「ただの噂と、そなたの外見だけでそのように判断して、私は色々と間違えてきた。……そう、最初から全部、間違えていたのかもしれぬ」
……どうにも、話の雲行きが怪しい。侍女を全て閉め出して、よく考えたらアルフォードすらも連れずに、王は一体何を話そうと、ここまでやって来たのだろう。
彼の真意が分からず、黙ったディアナに、切り込んだのはジューク本人だった。
「そうだな。最初から、こう尋ねるべきだった。――紅薔薇。そなたは本当に、世間で噂されているような、悪い女なのか?」
――心臓が、よく分からない音を立てて、明後日の方向に跳ねた。
夏に入宮し、さんざん嫌われ目の敵にされ続けて。一度は良好な人間関係を築くことすら放棄した相手が、『ディアナ』を見ようと必死の眼差しを向けている。損得勘定も何もかもを抜きにして、ただ真実を知ろうとして。
それは、きっと。すっぱり諦めたつもりで、心のどこかで期待していた、瞳だった。
「わたくしが『悪女』か否か。それを見定めるのは、わたくしと関わった方々であって、わたくし自身ではありません。……陛下はもしや、わたくしを『悪女』ではない、とお思いになられたのですか?」
「そう……なるのだろうな」
「理由を、お伺いしても?」
ジュークの純真な眼差しに、ディアナもまた、誠実な瞳で応える。もとより己を偽っていたつもりはないが、今の彼を中途半端な誤魔化しで煙に巻こうとは、ディアナは決して思わない。
「理由、か。思い返せば、色々あるが……一番は、やはり『アレ』だろうな」
「あれ、とは?」
「……そなた、今回の旅の最中、夜になると必ずお忍びで町に降りて、民の祭りに加わっていただろう」
思いもかけない内容がいきなり飛び出してきて、ディアナはしばし、何と答えるべきか逡巡した。町にいる間、ディアナはほとんど素に戻り、自慢ではないが心の底から祭りを楽しんでいた自信がある。多少視線を感じても、あのときの衣装は『お忍びで町の祭りを楽しむお嬢様』だったから、物珍しさで見られているのだろうと、気にも止めなかったのだ。
……その視線の一つに、もしかして。
「俺も、民の祭りとはどういうものか、気になってな。旅で泊まる町の祭りはできるだけ見て回れるように、アルフォードに頼んでいた」
「……それで、同じようにお忍びしていたわたくしを発見なさっていた、というわけですか」
「そういうことになるな」
迂闊だった。彼は真面目な王だから、神事のための旅行で羽目を外したりはしないだろうと踏んでいたのに。アルフォードもアルフォードだ、王様お忍び計画なんて、早めに教えておいてくれないと困る。
自由に動けない昼間の鬱憤を晴らすかのように、夜のディアナはワガママおてんばし放題だった。……アレを見られていたとしたら。
「……まぁ、あのときのわたくしをご覧になって、『咲き誇る氷炎の薔薇姫』とはちょっと思えませんよね」
「白状すると、最初は顔がよく似た別人かと思ったからな。……盛り放題の氷菓子をひたすら積み上げて、案の定根本から折れて落ち込むなんて、そもそも貴族の令嬢ですらない」
「でっ、ですけど、あそこまで積んだらどこまで積めるのか試してみたくなるでしょう?」
「氷菓子の主題は、あくまでも食べることだと思うぞ?」
初日の派手な弾けっぷりから、そもそも見られていたらしい。ディアナはちょっと拗ねたくなった。
「陛下もお人が悪いですわね。ご覧になっていらしたのなら、声をかけてくださればよろしかったのに」
「少し迷ったのだがな。そなたがあまりに楽しそうだったから、水を差すのもどうかと思ったのだ」
「後宮で『紅薔薇』をしているときのわたくししか知らない方に、知らないうちに素顔をさらけ出しているとか、何の罰ゲームですか。わたくしこれでも、ワガママは時と場合を選んでいるのですよ?」
「そうらしいな。だから、思った。――こんな娘が本当に、世間で言われているような『悪女』なのだろうかと。少なくとも俺の目から見て、あのときのそなたは悪人とは思えなかった」
「……それは、どうもありがとうございます」
誉められているのかもしれないが、まるで誉められている気がしない。氷菓子だだ崩れ事件を目撃されていたのなら、ひょっとして射的屋台なぎ倒し事件や、投げパイ合戦で大暴れ事件も見られていたのだろうか。……生きた心地がしないとはこのことである。
半ば冷や冷やし、半ばふて腐れているディアナに、ジュークはようやく笑った。
「そなたが、もしかしたら噂とは違う人間なのではないかとは、本当のことを言えばかなり前から思っていた」
「そう、なのですか?」
意外な言葉だった。前女官長更迭事件のときは、むやみにディアナを犯人にすることなく賢明な解決路を見つけ出していたが、少なくともそれ以前の彼は、ディアナを悪女と信じて疑っていない風情だった。園遊会前の衝突など、その最たるものだ。
「俺にとって、『答え』は最初から用意されているもので、それに疑いを差し挟むことがそもそもなかったからな。『クレスター伯爵令嬢は悪人』、その答えがまずありきで、答えと現実がそぐわないと思ったら、現実の方をねじ曲げる。……楽に逃げているだけだなんて気づかずに、ずっと、そなた自身をきちんと見ようとしていなかった」
「それは、人間なら誰もが当たり前に持つ弱さですわ。必要以上に、ご自分を卑下なさることはありません」
「だが、『王』としては許されない失敗だったろう」
ジュークの笑みに、自嘲が混じる。こんな彼と相対したことはなくて、ディアナはどう対応すべきか真面目に悩んだ。
「思い返せば、違和感は最初からあったのだ。初めての夜、穿った見方をせずに、そなたの言葉をきちんと聞いていれば良かった。シーズン開始の夜会の時、そなたが俺に何を言いたかったのか、もっとしっかり考えていれば。……園遊会の前、あれだけ道理の通らない八つ当たりを受けたそなたが、それでも全てを飲み込んで、己の職分を果たしている姿を直視していれば。――この結論に達するのは、もっとずっと、早かった」
「詮無いことですわ、陛下。過去を振り返り、反省なさるのは大切なことですが、後悔は何も生み出しません」
「だが――やはり俺は、間違っていたのだろう?」
ディアナを悪女と信じ込み、彼女の言葉に一切耳を貸さなかったこれまでの言動を、間違いと言えば間違いなのかもしれない。
……けれど。
「間違うことは、誰にでもございます。特にわたくしの人柄云々に関しては、この国の特権階級にいらっしゃる方々ほぼ全員が間違い、というより勘違いしていらっしゃるわけですから」
「……町で、そなたを見かけて。心の底から楽しそうに笑うそなたを、悪人とはどうしても思えなかった。もしも『答え』の方が間違いで、俺はずっと、間違った正義を貫いていたのだとしたら……初めて、その可能性に正面から向き合って、」
過去の自分を、絞め殺したくなった。
圧し殺した声で、そんな恐ろしい告白をされ、ディアナはついに悩むことを放棄した。
「あのですね、何度言えば分かって頂けるのですか? 過去を後悔したって、何の得にもなりません」
「だが、俺がそなたに言ったことを考えると、」
「済んだことです、全部」
きっぱりすっぱりあっさり、言い切った。ジュークは幻聴でも聞いたかのような顔で、ディアナの目を見返してくる。……当たり前のことを言って、何故ここまで驚かれねばならないのか。
「わたくしと陛下の出会いも、シーズン開始の夜会も、それから園遊会も。全部全部、もう終わったことなのです。後悔したって過去には戻れないし、やり直すこともできません」
「それは……確かにそう、だが」
「反省は、必要ですよ? 正直反省なら、わたくしにも山とございます。特に後宮に参ってからこっち、初めてのことばかりで戸惑いっぱなしで、わたくしも沢山間違いましたから」
「……そなたも?」
「はい」
『紅薔薇』としてもシェイラの守り方にしても、もっと上手な立ち回り方があったはずだ。下手に面倒がらず、大切なものを守りたい自分の気持ちを素直に受け止めていたら、きっと今とは違う立ち方があった。
けれどそれは、もう過ぎ去った時間。過去の『もしも』を想像したところで、今の状況は変わらない。――ならば。
「間違いに気づいたのなら、そこからを新しい始まりにするしかないでしょう。過去の反省を次に活かして、今度は同じ間違いを繰り返さないように。そうすれば、その『間違い』だって、より良い未来のために必要だった『過去』にできる」
「俺が間違ったことで、悪くなったものも多いだろう」
「否定はしません。それが、陛下の『スタート』であるだけの話です」
そもそも『後宮』の存在そのものが、臣下を御しきれなかったジュークの過ちであるとも言える。リリアーヌ筆頭に、保守派の令嬢の暴走と、それが表の政治にまで波及しかけていたことと、その状況を良くも悪くも大きく変える奇貨として、ディアナが後宮に送り込まれた事実。それも未だ、ジュークは知らないままだ。――そして、それこそが彼のスタートライン。
「全部受け入れて、そこから始めることしか、わたくしたちにはできないのです。……きっと、とても怖いことだと思いますけれど」
「あぁ……怖いな。これから俺は、過去の愚かな俺と、否が応でもぶつかるわけか」
「そこはホラ、陛下お一人でというわけではありませんし」
アル様がピョンピョン手を挙げて立候補してるよきっと、と思いつつの励ましだったのだが、そういった瞬間、何故かジュークはディアナをものすごい速さで見返してきた。
「手伝って、くれるのか?」
「……は?」
「あれだけ、そなたには酷いことをした。正直、許してはもらえないと思っていた」
「いえ、許すも許さないも、そこまで気にしてませんから」
そもそもジュークの言動にいちいち心を動かされるほど、個人的に何らかの感情を抱いたことがない。王としては成長してくれないと困るから、その言動を注視してはいたけれど。
「そなたは先程、間違いに気付いたところからが始まりだと、そう言った。……俺とそなたも、今からをもう一度、始まりにさせてくれないか?」
「念のためお伺いしておきますけれど、それはあくまで友人関係のお話ですよね?」
「当然だろう。他に何がある」
「……心の底から忠告させて頂きますけれど、今の陛下のお言葉は、時と場合によっては恋の告白にも聞こえますからね?」
この天然バカップルめ、と内心突っ込む。シェイラもよく、「ちょ、それ女の子同士じゃなかったら限りなくアウト!」な発言をぶっぱなしてくれる子だが、そのお相手もコレとは。先が思いやられる二人である。
その突っ込まれた方はと言えば、「いや、俺はそんなつもりじゃなく、」と顔を赤くしつつどもっていた。これも、恋する女の子目線で見ると図星を突かれて焦る男の図に見えるから注意が必要、なんて追い討ちをかけたら、可哀想な国王陛下はしばらく立ち直れないかもしれない。
「そんなに慌てられる必要はございませんよ。陛下がシェイラ様一筋でいらっしゃることは、わたくしもよく存じ上げておりますから」
「そ……うか。そうだな。……ところで紅薔薇、一つ尋ねたいのだが」
「何でしょう?」
「そなたは、俺の……『王』の寵愛を望んでいるか?」
「いえ、わたくしは出来れば、さっさとこんなばか騒ぎは終わらせて、然るべき方に『紅薔薇』の座について頂き、後宮から去りたいと考えています」
ジュークが再び唖然となった。……今度はまぁ、分からないでもない。
そもそも入宮初日から、ディアナは後宮からいかにして脱出すべきか作戦を立てていた訳だが、予想以上に後宮含む王宮の情勢がややこしくて、ちょっとやそっとじゃ抜け出せないことを知らされてしまった。そのうち、シェイラと仲良くなったりライアたちと心を通わせたりで、彼女たちの幸せを見届けないことには去りづらくなった。
が、それはあくまで脱出困難レベルが上がっただけで、『後宮から穏便に逃げる』目標そのものは、今も変わらないのだ。……実は、最近少し諦めかけていたけれど、一昨日の夜カイと、『ショウジがついた家が並ぶ町を見に行こう』と約束した。あの約束を果たすためには是が非でも、後宮から脱出して『紅薔薇』からただの『ディアナ』に戻らなければならない。
「その点でも、わたくしは陛下と共同戦線を張れると思うのですよ? 陛下は、可能ならばシェイラ様に、『紅薔薇』となってもらいたいとお考えでしょう?」
「そ、れは、そうだが。……それではあまりに、俺にとって都合が良すぎないか? そなた、本当にそれで良いのか?」
「そこで、最初のご質問に戻るわけですが」
ディアナは初めて、素顔の微笑みをジュークの前で覗かせた。
「一昨日、わたくしが馬車から離れたのは、確かに怖かったからではありません。彼らの狙いは……『紅薔薇』かわたくし自身かは存じませんが、とにかく、わたくしの命でした」
「――! ……やはり、そうか」
「お気付きでいらっしゃったのですか?」
「王の馬車を襲った者たちが、あまりにやる気がなかったからな。こちらが陽動の可能性は高いと、アルフォードとも話していた」
国王陛下とその側近は、襲撃直後から、賊の不自然さに気づいていたのだ。
「えぇ、真の狙いはわたくしだったのです。そう気付き……わたくしは咄嗟に、森へと逃げました」
「あの場にいた、後宮近衛たちを守るために?」
「戦況は明らかに、こちらが不利でしたから。わたくしが逃げることで、ほんの僅かでも、時間稼ぎができればと」
「狙いは見事に嵌まったな。……しかし、危険すぎる」
「ところが、わたくしにとっては、馬車の中より余程安全だったのです」
クスリと笑い、ディアナはとっておきの種明かしをする。
「わたくし、生まれ育ちはクレスター領の領主館です。あそこは敷地の八割が森で埋まっているような場所でして、物心つく前から、わたくしは森を遊び場に育ちました」
「貴族令嬢、なのにか?」
「父も母も、そういうところでわたくしに常識を求めませんでしたから。――だから森は、わたくしにとって、何よりも安心できる場所なのです」
木々を脈打つ水の音、獣たちの息遣い、森を渡る風の声。落ち葉の囁きに、虫たちの道案内。
子どもの頃から馴染んだそれらは、いつもディアナを、危ないところで守ってくれた。
「根本のところでは、野生児なのですよ、わたくし。後宮なんて狭い場所にいることが、そもそも場違いなのです。『紅薔薇』を陛下の愛する方にお渡しして、後宮から出るのは、むしろ願ったり叶ったりといいますか」
「そなたが、そういう娘なら。確かにそういう考え方もできる……か」
「まぁ、肝心のシェイラ様のご意志もありますし、何より今は正妃様を決めるどころの状態じゃありませんからね。問題を一つずつ片付けて、それから先の話ですけれど」
「『紅薔薇』のそなたが味方でいてくれることは、この上なく心強い。……これまで、本当に済まなかった」
言葉と共に、頭を深々と下げられた。……もしかして今日、彼はこれがしたかったのだろうか。トコトン不器用な性格をしている。
「先程も申し上げましたが、わたくしは気にしていませんから。わたくしも、陛下にご理解いただけて、とても心強く思いますわ」
もしかして、ここから好転できるだろうか。
――微かな期待に、ディアナの胸はざわめいた。




