礼拝が終わって
リタとの口裏合わせが終わったディアナは、王宮の馬車が到着する少し前に、ミスト神殿へと足を運んで『少し、よろしいでしょうか?』と神官に声をかけた。『紅薔薇行方不明』の報は神殿まで届いていたらしく、名前を名乗ったその後は、上を下への大騒ぎ。
神殿横の『御祓の館』(やはり普通に城に見える)に案内されたかと思えば、到着した王宮馬車から降りてきた王に「無事だったのか、紅薔薇!」と何故か(本当に不思議なことに)喜ばれ、騎士たちが詳しい話を聞きたがるのを、ユーリ筆頭に王宮侍女と女官が総出で黙らせ、ディアナは即座に医者の診察を受けた。
昨夜は色々と危なかったが、カイにひたすら守られていたディアナは結局、傷一つついていない。朝も昼もきちんと食べたし、遠駆けでストレス発散できたディアナはいたって健康、元気溌剌だ。遠回しにそう診察され(ディアナを診た医者は気の毒なことに、馴れない環境に身を置いたご令嬢がどうしてこうも元気なのかと、しきりに首を捻っていた)、今度こそ話を聞こうとやって来た騎士たちはやっぱり追い払われて、ディアナは全身をくまなくマッサージされた後、ベッドに放り込まれた。
しばらく休み、夕食をとったところでようやく、侍女たちから許しをもらった騎士たちが、昨夜から今日にかけての行動を訊ねに来た。打ち合わせ通りの受け答えで彼らを満足させた後、案内されたのはなんと、広々とした湯槽がついた、豪華絢爛な大浴場。ここで湯に浸かって身を清めた上で、主日の礼拝に臨むことが、王家のしきたりなのだそうだ。
夕食前にマッサージされたにもかかわらず、ここでも再びぴかぴかに全身を磨き上げられ、ディアナはむしろこちらに疲労を感じつつ、眠りについた。
そして、一夜が明け――。
「アメノス神の御業により、この世界には光が溢れ、繁栄が約束されたのです。我々は偉大なる神に感謝を捧げ……」
こんな機会がなければまず拝めなかったであろう、アルメニア教の信者を束ねる頂点、神官長さまから、ありがたーいお言葉を賜っていた。
主神殿での礼拝ということで、普段とは違う礼儀作法などが求められるのではないかとやや構えていたディアナだが、逆にこれで本当に良いのかと首をかしげてしまうほど、内容そのものは普通だった。『王家が祝福を授かる』も何も、よく考えれば毎年の礼拝で、神官さまに「来年も、アメノス神があなたと共にありますように」と言ってもらうアレである。お言葉をもらうこちらは、ただ静かに祭壇の前まで進み出て、静かに頭を垂れていれば良い。難しいことなど何一つない、誰にでもできる簡単なお仕事であった。
最後に出席者全員で、アメノス神を讃える歌を歌い、礼拝は恙無く終了した。この為だけに馬車でちんたら五日もかけて、はるばる北上してきたことを思うと、もうちょっと派手な演出とかがあっても良いのではないかと考えてしまう。
「何もウチのトコみたいに、寸劇して欲しいとまでは言わないけどね」
「あの神殿は異例中の異例ですよ。他所からいらした神官さまが、例外なく唖然とされるそうですから」
礼拝が終わり、無事に与えられた部屋まで帰ってきたディアナは、着替えを手伝ってくれているリタと、他愛もない雑談を繰り広げていた。
クレスター地帯に神殿はいくつかあるが、領主一族お馴染みのそれは、カラフルで可愛らしい外観と、常時町の子どもたちが入り浸ってきゃっきゃ騒いでいる雰囲気とで、まず初見では神殿だと思ってもらえない。降臨祭が近づくと、入り浸り常連組が自発的にチームを組んで、「建国の神話」と呼ばれるおとぎ話を題材にした寸劇を練習して、主日の礼拝で披露する。いつからそんな愉快な習慣ができたのかは謎だが、デュアリスが子どもの頃には既に、ごく当たり前のこととして行われていたらしい。ちなみに、ディアナも年齢一桁の頃に、村娘役として寸劇に参加したことがある。
……と、一風変わった『礼拝』を当たり前に育ってきたディアナにしてみれば、主神殿の礼拝は普通すぎて面白味がない。一応貴族の娘として、過去に一度だけ王都の礼拝を体験していたから、居眠りせずに済んだけれど。
「ウチのアレは極端な例だとしてもよ? 年末の忙しい時期に、はるばる国王陛下が足を運ぶんだから、それなりに神々しい儀式でもあるのかと」
「あー、それは私も思いましたね。確かに建物自体は立派ですし、神官さま方の衣装もきらきらしていましたけれど、礼拝そのものは形式通りというか、ごく普通で。コレなら王都でやっても良いんじゃないかって」
「よね? 主神殿でやることに意味がある、ってみんな口を揃えていたけど、費用対効果を考えると、あまり堅実とは言えないしきたりだわ」
トコトン現実的な主従である。自分たちはあくまで部外者だと割りきっている分、たかが感想でも容赦がない。
朝から重かった正装のドレスを脱ぎ、簡素な略装に着替えてようやく、ディアナはほっと息を吐いた。居間に戻ると、できる侍女二人が、温かなお茶を淹れて待機してくれている。一番の大舞台が終わったことで、二人表情も晴れやかだ。
「ありがとう、ユーリ、ルリィ。……良かったら、二人も一緒にお茶を飲まない?」
この旅行の前半戦で、王宮侍女二人は、ディアナに対する認識を改めつつあった。彼女たちの『紅薔薇様』は、高貴なご令嬢の振る舞いが実に上手ではあるが、根っこのところは破天荒な非常識人だ。しかし彼女の中で、その二つは違和感なく共存しているらしい。
王宮にいるときのディアナなら、侍女をお茶に誘うなどしない。旅先にいることで、彼女の『貴族』が緩んでいるのだろう。そんな彼女が、不思議と心地よい。
ユーリとルリィは顔を見合わせ、少し笑って頷き合った。
「ディアナ様のお誘いなら、断れませんね」
「でも、王宮に帰ったらダメですよ?」
順応力の高い二人に、リタが笑った。
「頼もしいですねぇ、お二人とも。その調子でばんばん、ディアナ様を躾けてあげてください」
「ちょっとリタ、それどういう意味?」
「言葉通りの意味ですよ? 一昨日から昨日にかけて、私たちにどれ程の心労をかけたか、まさか自覚していらっしゃらないはずがありませんよね?」
しまった、藪蛇だ。
できれば避けたい話題に正面衝突し、逃げようと腰を浮かせかけたディアナだったが、正面でにこにこ(但し目は除く)笑うルリィと、その横で静かに人数分のお茶を淹れたユーリに阻まれた。ついでにリタが軽やかにディアナの横を塞ぎ、逃亡は断念せざるを得なくなる。
『闇』と常時連絡を取り合い、ある程度の情報を仕入れていたリタとは違い、王宮組は詳しい説明をまるっきりもらえないまま、昨夜の合流から今朝の礼拝までノンストップでお仕事だった。二人にしてみれば、心配で生きた心地もしないまま主不在の時間を過ごしたのに、肝心の本人がけろりとした顔で神殿に到着していたのだから、「ちょっとそこ座りなさい」の一言くらい言いたくもなろう。
「ディアナ様に常識が通じないことは、もう充分に理解しましたけどね。いい加減、本当のことを教えて頂けませんか?」
「昨夜、王宮騎士の方々にお話ししたことが真実だとは、我々は信じておりません」
突然見知らぬ者からの襲撃を受け、恐怖で混乱した『紅薔薇』は、咄嗟に森の奥へと逃げ込んだ。必死で逃げていたところを、たまたま森にいた親切な旅人に助けられ、無事にミスト神殿へとやって来ることができた。
……が、彼女を送り届けた旅人は、彼女がとてつもなく高い身分の女性だと勘付き、面倒ごとを嫌ったのか、名前も告げずに立ち去った。別れ際に旅人から教えられた道を進み、『紅薔薇』は無事、神殿へと辿り着くことができたのだった――。
これが、リタとシリウスに教えられた、口裏合わせのストーリーだ。大体の人間は騙されてくれるだろうが、さすがに……。
「あのときのディアナ様は、おそらく我々の中でもっとも冷静でした。馬車から降りられたのも、何かはっきりとした目的あってのことでしょう?」
「あの場からお逃げになったのだって、『怖かったから』なんて単純な理由ではありませんよね?」
馬車に同乗していたできる侍女たちの目は誤魔化せそうにない。
ディアナはちょっぴり笑うと、目を伏せた。
「既に確信していることを、あえて質問するってズルくない?」
「ずるいかもしれませんが、何の説明もなしに我々の度肝を抜くディアナ様よりは良心的であると考えています」
「……やっぱり、心配したわよね」
「当然です。リタには何か心当たりがあったようですが、我々にはさっぱり分からないのですから」
今の二人の怒りは、一昨日の夜からの心配の反動だ。それは痛いほどに理解できたから、ディアナはゆっくり、頭を下げた。
「二人に山ほど心配をかけたことを、まず謝るわ。あのときは、あれ以上の最善手が思いつかなかったの」
「……やはり、何か考えがあってのことだったのですね?」
「馬車の外に出たのは、ほとんど反射だったわ。森の中から誰かが、リタを狙っている気配を感じたの」
あの、背中がぞくりとする感じ。狙われたのは自分ではなかったが、あれだけの至近距離で、よく知っている人間に飛び道具の照準が合わさったら、本能に近い部分が勝手に反応する。
「間に合うかどうか、心底焦ったけど、なんとか矢がリタに刺さる前に防げてほっとしたわ。でも……」
外に出たディアナに一斉に向けられた、正真正銘の殺気。一人や二人ではなく、あの場で馬車を囲んでいた全員が、はっきりと自分の命を狙っていることを、ディアナはあのときはっきりと悟った。
「馬車を襲った者たちの目的は、『王家』でも、『金品』でもなかった。わたくしの命だったのよ。……その意味が分かる?」
「ディアナ様のお命を頂戴するまで……馬車を襲うことを止めないということでしょうか」
「少なくとも一昨日の男たちからは、それだけの覚悟が感じられた。だから――逃げたの、わたくしは」
「それは、まさか、」
「狙うべき相手がいなくなれば、彼らが馬車を襲う理由もなくなるでしょう?」
ディアナが逃げた動機を既に察していたリタはともかく、ユーリとルリィはこの告白に唖然となった。
「つまり、あのとき戦っていた後宮近衛を……いえ、関係者全員の命を守るために」
「敢えて逃げた……と仰るのですか? 私たちのために」
「それ以上の最善手が思いつかなかったのよ。彼ら、想像以上の使い手だったし、あのままじゃ遅かれ早かれ、わたくしたちの敗北は確定して、誰かが命を落とすことになっていたかもしれないもの」
「そういう問題ではありません!」
ユーリが、冷静な表情のまま、語気を荒げた。よく見れば、瞳の奥には激しい光がゆらゆら揺れている。
「よりによって、守られるべきお立場のディアナ様が、我々のためにもっとも危険な選択をなさるなど。言語道断です!」
「ユーリさんに賛成です。私たちの仕事は、いざというときはディアナ様の楯となってでも、そのお命をお守りすることなんですよ? あのような場合は、下の者の命を犠牲にしてでも己を守り抜くことを第一に考えることこそ、高貴な立場にいらっしゃる方のお覚悟というものでしょう」
「そんな覚悟、持ったことすらないわ」
叱られていることは百も承知で、しかしこれだけは譲れないディアナは、王宮侍女二人の目を見返した。
「誰かを楯にしてでも生き延びる覚悟が、高貴な者に必要なのだとしたら、わたくしは一生『高貴』にはなれない。自己犠牲なんて真っ平ごめんよ」
ディアナは半分以上、本気で言葉を紡いでいた。
「民を、国を守る覚悟こそあっても、『身分』を嵩に守られる覚悟なんて、わたくしは持たない。誰かを犠牲に生きる覚悟を持つくらいなら、自分を含めて全て守る覚悟と、守りきれなかった後悔を抱えて生きる覚悟の方を選ぶわ。命だけは、『生きる』ことだけは、喪ってしまえば取り戻せないんだから」
ここまで断言するディアナも珍しい。目を丸くして彼女を見つめる王宮侍女二人に、ディアナは少し、笑いかけた。
「生きてさえいれば、きっと、本当の意味で『喪う』ものなんてないのよ。それなら、多少自分の身が危険でも、誰も死なずに切り抜ける方法を考えるわ」
「……それで考えた結果が、お一人で逃亡、だったわけですか」
普通の令嬢なら、その時点で死亡は確定したようなものだ。ユーリとルリィが心配したのも当然すぎるくらい当然である。
が、肩を竦めた彼女たちの主は、むしろいたずらっ子のような微笑みを浮かべた。
「ちゃんと勝算はあったのよ? 森の奥に誘導さえできれば、彼らにわたくしを捕らえることはできないって」
「どうしてです?」
ルリィの問いには、ディアナの横でクッキーをもぐもぐ食べていたリタが答える。
「お二人とも、クレスター地帯にいらっしゃったことはありますか?」
「クレスター地帯……? いいえ。確か、クレスター伯爵家の領地の一つ、でしたね?」
「我が家に爵位が与えられたとき、同時に賜った、もっとも古いクレスター領よ。オフシーズンの拠点でもあるから、わたくしにとっては地元ね」
「そういえば、クレスター伯爵家はオフシーズン中、ほとんど領地から出られないのでしたね」
「それも単なる噂で、実際はあちこち頻繁に外出していらっしゃるのですけどね」
それはともかく、とリタはティースプーンをソーサーに戻し、ふぅ、と息を吐き出した。
「クレスター地帯って、森を切り開いてできたような地域なんです」
「へぇ、そうなんですか」
「領主館も森に囲まれるように建っていて、ついでにその囲んでいる森も館の一部だったりします。要するに、『庭』です」
「へ……ぇ、もしかしてそれって」
「えぇルリィ、たぶん大当たり。――ディアナ様は、物心つく前からクレスター地帯の森に入り込んで遊んでいらっしゃったそうで。森に入ったディアナ様を捕まえることができる猛者は、今となっては存在しません」
「そこまでですか!」
さっきから唖然となりっぱなしの侍女二人に、ディアナは困った笑いを浮かべた。
「そこまで驚かれることかしら……。木々と呼吸を合わせて、風の通り道を聞いて、人の目につきにくい場所を教えてもらいながら進むだけよ?」
「だから、それができるのはディアナ様だけなんです。いい加減自覚なさってください」
びしりと突っ込まれても、幼い頃から当たり前にしてきたことを『特別』だとは、ディアナにはどうしても思えない。ひたすら首を捻るだけだ。
そんな彼女の様子を見て、王宮侍女二人もどうやら、何かを理解したようだった。
「ディアナ様が『森』に逃げたから、リタはそこそこ落ち着いていたのですね」
「落ち着いてる、と言うほどでもありませんでしたけれど。最悪の事態にはならないだろう、と信じることはできました」
「それにしても……ディアナ様にもリタにも、今回は驚かされてばかりです。まさかあれほど、戦いに精通していたとは」
思わぬ話題の回され方をしたリタは、一瞬だけカップを揺らしはしたが、ごく普通にお茶を飲み干すと、ディアナに視線を移した。『パス』の合図だ。
ディアナも笑って、頭を左右に振った。
「精通している、ってほどじゃないわ。ただ、人間生きている以上はどこで何が起こるか分からないし、いざというとき自分で自分の身くらい守れるように、一通りの武術の心得がある、ってくらいよ」
「しかし、普通のお家では、ご令嬢に武術を教えようなんてなさらないでしょう?」
「まぁ我が家はそういう意味で、あまり一般的とは言えないかもしれないわね。子どもがやりたいと言い出したことは、基本的に止めたりしない両親だから」
あまり一般的ではないどころか、トコトン常識外れという言葉がしっくり来る一族だが、そこまで積極的に自分の家族が変だと言いふらすこともないだろう。ようやく針の筵から解放されたディアナはお茶を一口飲んで、正面の二人に微笑みかけた。
「心配をかけたことは悪かったと思うし、何度でも謝るわ。でも、きっとこれから先も、わたくしは誰かを犠牲に自分を守りたいとは思えない。だから、また心配をかけるかもしれないけれど……これだけは、約束する。自分の命を無駄にしたりはしないし、どれ程危険な目に遭っても、必ず生き延びて無事な姿で帰ってくるって」
そう言い切った蒼の瞳は、驚くほどに清らかだった。迷いなく、真っ直ぐに、ただ人の心の奥底まで届く。
ディアナが嘘を言っていないことも、この先何があっても『約束』を守ってくれるだろうことも、ユーリとルリィには痛いほど分かった。
「――必ず、ですよ」
「えぇ、もちろん」
滅多に表情を変えないユーリが、柔らかく笑う。穏やかな空気が室内に満ちて、侍女たちはやっと、ディアナが帰ってきたことを実感していた。
ディアナの手が、ユーリとルリィに延びて――。
「……あの、紅薔薇様。少し、よろしいでしょうか?」
触れそうになったその瞬間、扉の向こうから響いた声に、四人は顔を見合わせた。




