閑話その1 ~兄の憂鬱~
閑話=主人公以外の目線、です。
今回は、ディアナの兄、エドワード視点からお送りします。
現クレスター伯爵長男、エドワード・クレスター。
彼の社交界での二つ名は、『甘い香りで淑女を誘惑する美しき花』。
柔らかな笑みと穏やかな語り口調、優しい扱いにほだされ、心を許した瞬間、彼の捕食の罠にかかると、貴族間ではもっぱらの評判なのである。
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今年もまた、憂鬱な季節がやって来た。
貴族としての義務であり、貴重な情報収集の場であるからして、欠席するということはない。欠席することはないが、だからといって好き好んであの場にいるわけでは、決してない。
『社交シーズン』――クレスター家の人間にとっては、憂鬱極まりない季節であり、同時に重要な季節なのである。
特に、今年は。
(先ほど、『闇』の気配を感じたが……)
クレスター家長男、エドワードは、早足で廊下を歩いていた。目的地へ急ぐ彼の足取りには迷いがなく、たどり着いた瞬間ノックもせずに扉を開ける。
「父上」
「おぉ、来たかエド」
「はい。先ほどの『闇』は……?」
「ん、これを届けに来た」
書斎の椅子に座った父、現クレスター伯爵デュアリスがひらひら掲げて見せたのは、数枚の便箋。見覚えのあるそれに、エドワードの肩から力が抜けた。
「ディアナからの手紙を、届けに来ただけでしたか……」
「心配せんでも、ディアナにはリタも『闇』もついている。あの子自身、自衛の能力には長けておるしな」
しかし、とデュアリスは便箋に目を落とした。
「ディアナのこともあって早めに王都へ出て来たが、正解だったようだ。後宮の様子は、思った以上に切迫している」
「それは……そうでしょう。そもそも、後宮にこれだけの数の側室がいること自体、過去に例がないことです」
「うむ。人が大勢集まれば、それだけ揉め事も増える。それは自然の摂理なのだが……」
「何かそれ以上の問題でも?」
エドワードが尋ねると、デュアリスはほい、と便箋を渡してきた。
「読んでみなさい。そうすれば分かる」
「はい」
頷いて、エドワードは便箋に綴られた文字に目を走らせた。そこには紛れも無い妹の筆跡で、後宮に入ってからのあれこれが記されている。
一読して、彼は頭を抑えた。
「ランドローズの娘が『牡丹』に入りましたか……」
「あそこの当代はどうしようもないが、表面を取り繕うのだけは上手いからな。娘もそれに洩れんらしい」
「確かにこの状況を考えれば、ディアナが『紅薔薇』を与えられたことで、バランスは取れたと言えます。ストレシア侯爵とユーストル侯爵は、家格はそこそこですが野心はない。キール伯爵は、家格こそそこまで高くないが先見の明があり、彼の領地運営は高く評価されている。野心というよりは、上昇思考のあるお方と言えましょう。そしてランドローズ侯爵は……」
「アレは『伝統』と『血統』と『名門』が服着て歩いてるようなオッサンだからなぁ。言ってしまえばそれしかない」
「はい。しかしそれだけに厄介です。故に『牡丹』が与えられたのでしょう」
「その下に当たる『睡蓮』と『鈴蘭』には、家格はあれども過激派ではないストレシア家とユーストル家の姫君を置き、『名付き』の中では最も格下とはいえ、現後宮においては充分高い地位となる『菫』に、身分より好待遇となるキール家の姫君を入れた……ということだな」
デュアリスは頭を揉んだ。その仕草の意味するところは、『よくもまぁ細かいことまで考えるなぁ』だ。
父親に苦笑しながら、エドワードも頷いた。
「そうすることで、家柄重視の保守貴族も、実績重視の新興貴族も、お互い納得すると考えたのでしょう。実際納得したはずだ。……ランドローズの娘が、余計なことさえしなければ」
「全く、面倒なことになった」
ランドローズ侯爵家令嬢、リリアーヌが、保守貴族の派閥を作り、新興貴族の家から入った側室たちをあからさまに冷遇したことで、後宮内のバランスは大きく崩れた。このままでは、新興貴族の間から不満が出ることは、火を見るより明らかだ。
「ディアナが『紅薔薇』に入ることは、おかしいことではありませんからね。実際父上の取り巻きの方々から圧力もかかったでしょうし、何か黒いことをして娘を正妃候補にのし上げたのだろうと、ウチの噂にまた一つ、武勇伝が加わるだけだ」
「だが――それで、後宮のバランスが取れた」
ディアナが『紅薔薇』を与えられたことは、身分だけを見れば不相応甚だしい。よりによって伯爵家の娘が、侯爵家の上に立つ構図になる。
しかしそれが、保守貴族に傾きかけていた後宮内の勢力を、一気に盛り返したのだ。ランドローズの娘も、ディアナにはなかなか強く出られないらしい。
「ややこしいことになりましたね……」
「そうだな。更にややこしいことに、陛下が寵愛しているという側室のことがある」
「あぁ……シェイラ・カレルド男爵令嬢、でしたか?」
エドワードの頭に、カレルド家についての一通りの情報が浮かぶ。だが、肝心の令嬢のことは、ほとんど思い浮かばなかった。昨年社交デビューした、物静かな姫だったという印象がぼんやり残っている程度だ。
「カレルド男爵家自体、ほんの数十年前に興った新興貴族だ。最近のお家騒動で評判は下がっているから……後宮内では、居ないものとして扱われているのだろうな。保守派の側室たちにしても、わざわざ蹴落とすまでもない存在なのだろう。そんな姫君が陛下の寵姫だと知られたら……」
「怒り狂った保守派が、何をしでかすか分かりませんね」
「あぁ。特にランドローズの娘は、その辺のプライドが高いみたいだからな」
「革新派の側室たちの動きも気になるところです。ディアナに気に入られたいがために、予想外のことをするような者はいないでしょうか?」
「あー……、側室が50人もいると、調査するのも大概面倒だな」
だがしないわけにもいくまい、とデュアリスは天井を見た。
「側室一人一人、できるだけ事細かに情報を集めろ。できるか?」
『お任せを。ディアナ様とリタ殿のおかげで、後宮内での調査もやりやすくなりましたので』
「すまんな、シリウス。苦労をかけるが、よろしく頼む」
『ははっ』
その声を最後に、天井裏の気配は消えた。エドワードはため息をつき、デュアリスを見る。
「シリウスは、責任を感じているようですね」
「あいつが気に病むことではない。『闇』たちはよくやってくれている」
「今回の事前調査に、彼等はほとんど絡んでいませんから。事前に無理をしてでも潜入していれば……と思っているのでは?」
「ディアナが入宮していない時期にか? いくら『闇』たちが優秀でも、そんなことはさせられんよ」
デュアリスのきっぱりした返答に、エドワードは心からの笑みを浮かべた。
使用人を駒扱いし、無茶な仕事を命じ、都合が悪くなれば使い捨てる。そんな貴族が腐るほどいる中で、彼の父は――彼の家は、いつもそんな風潮に抗ってきた。
表の用事をこなす使用人たちも、影で暗躍し、情報収集、護衛、捕縛などを任される――クレスター家の隠密部隊、通称『闇』と呼ばれる者たちのことも、クレスター家の人間は等しく『人』として接する。彼等がいるからこそ、クレスター家が成り立っているのだと、いつも感謝の気持ちを忘れない。
そんな父の子どもに生まれ、後を継げることを、エドワードは心の底から誇りに思うのだった。