招かれざる訪問者
カイの予想は、結果としてずばり当たった。
「どういうことなのですか紅薔薇様ッ!!」
昨晩少し夜更かしした分朝寝坊して、遅めの朝食を取っているその最中に、『嵐』は飛び込んで来たのである。
「女官長様! 取り次ぎもお待ちにならず、ご無礼ではありませんか!」
「黙れ、身の程を弁えよ! お前たちは下がりなさい!」
「控えなさい、女官長」
既に食後のお茶を楽しんでいる段階だったから良かったものの、食べ始めの頃に突撃されていたら、問答無用で叩き出していたところだ。
ティーカップをソーサーに戻し、椅子に座ったまま、ディアナは静かに女官長を見据えた。
「貴女の職務は侍女、女官の監督であって、支配ではないわ。それは、陛下含む王室の方々の領分です。身の程を弁えるのは、貴女の方よ」
「……っ、正妃気取りというわけですか。陛下の寵愛も得られぬ方が」
「そもそも望んでいないもの。――で? わたくしの朝食を邪魔してまで、何の用?」
「白々しいことを仰らないでくださいませ! お約束が違うではありませんか!」
王宮侍女たちの氷のような視線も何のその、ディアナに喰ってかかるその根性は大したものだ。
直談判に来たその面の皮に免じて、話を聞いてやることにする。
「約束? 何の話かしら?」
「わたくしが従順である限り、告発はしないというお話です!」
「あら、それがどうしたのよ?」
「まだ惚けられるおつもりですか!」
女官長は我を忘れたあまり、『紅薔薇様』への恐怖心を、どこかにぽいと置いてきたようだ。くわっと目を見開いて、叫んだ。
「――今、陛下が! 近衛騎士と共に、宝物庫を調べていらっしゃるというではありませんか!」
彼女の渾身の叫びにディアナは、大袈裟でもなければわざとらしくもなく、ごくごく自然に驚いてみせた。
「――それは本当?」
「……ご存知では、」
「外宮の動きを、わたくしが? 知っているわけがないでしょう。後宮の内部でさえ、掌握できていないのに」
「いいえ……! そんなはずはない。今回の件が、貴女の意思でないはずはないのです!」
「それは誤解よ。わたくしは何もしていないわ。……それに、」
軽く小首を傾げ、立ち尽くしている女官長を見上げる。笑顔にさえ見える表情だが、獲物を見定めた獣の瞳が、可愛らしい仕草を完全に裏切っていた。
「そもそも、貴女が何をそんなに問題視しているのかも分からないの。陛下と近衛騎士が宝物庫を調査することに、何か不都合でもある?」
これほど見事な手のひら返しもあるまいと思えるほど、堂々とした台詞である。
ディアナの傍で一連の流れを静観していたリタはこっそりため息をつき、朝食というある意味非常に間の悪い時間帯、たまたま全員集合していた王宮侍女たちは、揃って内心、同じ言葉を呟いていた。
――このひとだけは、怒らせてはならない、と。
さすがにこれだけ仕えていれば、主の機嫌の良し悪しくらい分かる。今のディアナは、表面上はとっても穏やかだが、終始激昂して怒鳴り散らしている女官長より百倍怖い。社交界での彼女の呼び名、『氷炎の薔薇姫』――燃え上がる絶対零度の炎を纏った、鋭い棘を持った美しき花、そのものだ。
職務に忠実なことには定評のある『紅薔薇の間』専属の王宮侍女たちでさえ、現実逃避気味にそんなことをつらつら考えたくらいだ。真正面からの直撃をくらった女官長の衝撃は、彼女たちの比ではないだろう。ふらりよろめいたのが何よりの証拠だ。
「な、な……な」
「分かったらお帰りなさいな。こんなところで油を売っている暇は、貴女にはないはずでしょう?」
「あんまりでございます、紅薔薇様! ……そうです、わたくしが捕らえられてしまえば、黙っていた罪で貴女様とて無事ではいられぬはず!」
「心配要らないわ。わたくしはあくまでも側室、女官を裁く権限などないもの。『紅薔薇の間』を与えられた者として、改心を促しただけ。その結果がどうなろうと、わたくしに傷はつかないわ」
珍しく邪気のない笑顔で笑ってみせる、が、はっきり言って、裏の無さそうなクレスター家の微笑みほど、信用できないものもない。
この顔をしたディアナが一番怖いことを知っているリタは、こっそり心の中で女官長に向かって手を合わせておいた。
「むしろ今貴女が気遣うべきは、これまで『とっても』仲良くしていた『牡丹様』なのではない? どこまで悪いことをしていたのか知らないけれど、貴女と仲良くしていたという理由だけで疑われてしまうなんて、リリアーヌ様もお気の毒ね」
やめたげてよぉ! という叫び声の一つや二つ、聞こえてきそうな追撃ぶりだ。こうなった以上、リリアーヌ……というよりランドローズ家が女官長を切り捨てにかかることは確実で、ディアナが手のひらを返しきった今度こそ、女官長の逃げ場は消えたことになる。
「全て――全て、貴女様の筋書きどおり、というわけですか」
「人聞きの悪いことを言わないでちょうだいな。まるでわたくしが、計算高い悪女みたいだわ」
この場合は、女官長の見解が正しい。リタ含む侍女全員の心は、再び一つになった。
ディアナは確かに、何一つとして嘘をついていない。女官長と取引したあの夜より前に、実家を通じて外宮室との連携を完了させていたからである。クレスター家が非公式に集めた証拠を外宮室に引き渡し、『毎日様々な書類に目を通している外宮室が、内宮の金の流れの不自然さに気付いて調査した』体裁を整えた。クレスター家が気付くより先に、外宮室に勤務するミアの弟が気付いていたのだから、あながち全てが方便というわけでもない。
こうして外宮側から女官長の悪事が明るみに出るよう準備した後に、『言うことを聞けばお前の悪事を『私自身が』暴くことはしない』と持ち掛けたのだから、ディアナは約束をきっちり守っているのだ。女官長と取引してからは、彼女のしてきたことについて、ディアナはちゃんと沈黙している。
――とまぁ、詭弁、屁理屈、卑怯のオンパレードを駆使した計画であったが、上手く転んで何よりである。外宮室が提出した『報告書』に陛下が食いついてくれるかどうかだけが不安であったが、園遊会を越えて、彼も意識が変わってきたようだ。
「わたくしにこのような振る舞いをして……このままでは済ませませんよ。わたくしは今でこそ伯爵夫人ですが、実家は侯爵位にあるのです」
「だから何? 勘違いしているようだから教えてあげる。――『貴族』という身分はね、そこに付随する義務を誠実に果たして、初めて貴いものになるのよ。貴族である意味をはき違えている者の爵位など、麦粒ほどの値打ちもないわ」
クレスター家は、身分で人を測らない。行いが則ち、その者の価値だ。だからディアナには、女官長――サーラ・マリスを、貴ぶ理由はない。
「貴女は、改心しなかった。だからこうなった。ただ、それだけのことよ」
「全てを仕組んでおきながら……! こんなものは濡れ衣だ、誰もわたくしを捕らえることなどできぬ!」
「――随分な自信ですね」
突如響いた第三者の、しかも明らかに男性の声に、全員が弾かれるように扉の方を向いた。メインルームの、半分だけ開いた扉の陰に、文官服を着た眼鏡の青年が佇んでいる。
侍女たちが血相を変えて駆け寄る前に、青年は無表情のまま言った。
「失礼しました。『紅薔薇の間』へお伺いするのに取り次ぎを待たないことが無礼であることが重々承知ですが、何度扉を叩いても返答がなかったもので」
「……貴方は?」
「外宮室室長補佐官、キース・ハイゼットと申します」
如才なく一礼した彼を、ディアナは目線だけで招き入れた。
「ハイゼット補佐官。後宮は原則として、陛下と近衛騎士以外の男性が入って良い場所ではありません。貴方が身分を明かして入っていらしたということは、その『原則』を破らねばならない事態が起こったと判断してよろしいですか」
「はい、『紅薔薇様』。今回私は、外宮室代表として、女官長殿をご案内する役目を仰せつかりました。行き先を聞いたところ、女官長殿は『紅薔薇の間』においでだと」
「外宮室が女官長を? 何のためにです」
「詳しくは申し上げられませんが。――これは、陛下のご意向でもあります」
伝家の宝刀をあっさり抜いたキースは、そのまま女官長に向き直った。
「というわけで女官長殿。恐れ入りますが、ご足労願います」
「何を言う。たかが外宮室に、わたくしを拘束する権利などない!」
「もちろん拘束は致しません。我々はただ、陛下のご命令に従い、動いているのみですので」
遂に顔色を青から白に変えた女官長は、がたがた震えながらもキースを睨むことは忘れなかった。
「わたくしは罠に嵌められたのです。わたくしに掛けられた疑いの全ては、クレスター家が仕組んだこと。あの家がどれ程の悪事を働いてきたか、陛下ならばご存知のはず!」
「お話がおありなら、陛下の御前でどうぞ。仮にも女官長の職にある貴女が『紅薔薇様』のご実家を侮辱なさって、陛下が快く思われるかどうかは疑問ですが」
無表情の奥で、キースの瞳に怒りがちらついた。クレスター家にぶつけられる中傷にはいつも、本人たちより周囲が怒る。よく見れば、侍女も皆、女官長に怒りと軽蔑の眼差しを向けていた。
ディアナは苦笑し、立ち上がった。
「お役目、ご苦労様です。後宮のことはこちらに任せて、陛下のご命令に従ってください」
「――承知致しました。さぁ、女官長殿。参りましょう」
キースに促され、女官長は、ディアナに正真正銘、殺意の籠った視線を放った。
「――終わりませんよ、わたくしは」
踵を返し、キースと共に、女官長は扉の向こうへ消えていく。完全な静寂が訪れて、三拍。
「お、わった、んですか…?」
侍女の一人がへなへな崩れ落ちた。それを合図に、部屋の空気が動き出す。
「ディアナ様……。これで、女官長様は、免職されるのですね?」
「そうなると思う。外宮がどう動くかは分からないけれど、先程の補佐官殿は陛下のご意向を受けておられるみたいだったから」
「でも、まだ油断は禁物ですよ。窮鼠猫を噛むと言いますから」
「まさしくね。あり得そうな展開としては、女官長が全ての悪事をわたくしの差し金と言い出すとか?」
「無理がありませんか? ディアナ様が後宮にいらっしゃったのは、夏からですよ」
呆れたようなルリィの言葉にくすくす笑い、ディアナは腰を抜かした侍女を立ち上がらせ、ぱん、と手を鳴らした。
「さぁ、忙しくなってきたわよ! ライア様たちに連絡して、後宮の様子を探らないと。早速行ってもらえる?」
「切り替え早いですねぇ、ディアナ様」
笑いながらも、侍女たちは頷き合う。阿吽の呼吸で食卓を片付け、一人、また一人と部屋を出ていった。
「リタ、貴女も行って。情報は、少しでも多く集めなきゃ」
「分かりました」
一人残ってくれたリタも居なくなって――、
ディアナはプライベートルームを駆け抜け寝室の奥にある衣装部屋へ滑り込んだ。
「――誰か、いる?」
『ディアナ様?』
驚いたような声が、すぐさま上から聞こえてきた。運良く、『闇』が控えてくれていたらしい。
「ねぇ、カイはどこ?」
『は、カイ、ですか? あの小僧は最近、昼間は外宮まで出入りしているようですが…』
「多分陛下の動きを探ってくれているのよ。陛下、今は宝物庫よね? じゃあ宝物庫の近くにいるかしら」
『かもしれませんが……ディアナ様? 一体何をなさるおつもりですか?』
「至急、カイと話をする必要があるのよ」
『闇』と話しながら部屋着を脱ぎ捨て変装用の侍女服に着替え、いつもの鬘を被って金髪を隠す。大きめの帽子を頭に乗せれば、ちょっぴり背の高い侍女の完成である。
『ディアナ様!? カイと話があるのでしたら、我々が呼んで参りますので』
「待てない。ここからなら、わたくしが出向いた方が早いわ。それより貴方たちは、『紅薔薇の間』の侍女たちとミア、シェイラ様をきちんと守って」
女官長と話しているときから感じていた違和感は、彼女が囚われの身となったときに確信に変わった。
ディアナはてっきり、昨夜の侵入者は女官長の手の者だと思っていた。クリスが鍵をくすねたことに気付けるのは女官長しかいない。ディアナに弱味を握られている女官長があの段階で『牡丹』に頼るとも考えづらく、必然的に彼女自身が、後宮近衛に紛れ込んだ『仲間』に、ディアナを殺して騒ぎを起こすよう命じたのではないかと。
――だが、だとしたら。先程の女官長の態度はおかしい。あれはどう見ても、今の今まで宝物庫に調査が入ることを知らなかった者の慌て方だ。最初は演技を疑っていたが、キースに引っ立てられるとき、彼女は本気でディアナに騙されたと怨み、破滅の足音に怯えていた。
女官長は、宝物庫に調査が入ることを知らなかった。そう考えるのが自然である。……ならば。
(昨夜の侵入者は、一体何者……?)
『牡丹』、ランドローズではあり得ない。彼女たちが新たな仲間を引き入れたのなら、カイが気付かないはずがないからだ。消去法で女官長と結論付けていたが、それも違うとなると。
(私たちの知らない、もしかしたらお父様も知らない、敵がいるかもしれないってこと……?)
あくまでも可能性だ。こんな不確かな情報を、いきなり実家に送るわけにもいかない。まずは昨夜の侵入者について、カイからもっと詳しい話を聞かなければ。
身支度を整え、ディアナは部屋を飛び出した。




