園遊会~側室筆頭の場合~
……始まる前から、どっと疲れた。
寝耳に水だった、後宮専属の女性近衛騎士団騒ぎ。協力してくれた人々のおかげで、何とか後宮の女性たちにその存在を知らせ、さも予定通りのような顔をして紹介することができた。クリスの人柄もあり、大部分の側室、女官に、彼女たちは好意的に受け止められたようだ。とりあえずは一安心である。
そして、今。招待客が東の庭園へと案内され、女官たちがティーカップを配り、最後に国王陛下が姿を現して。
――いよいよ、園遊会が始まろうとしていた。
「皆、よく来てくれた。春に後宮が設けられて以来、側室たちもその家族も、お互いゆっくりと話す時間は取れなかっただろう。今日は存分に、家族との時間を楽しんで欲しい」
国王の言葉に皆が頭を下げて謝意を表す。これを以って園遊会の始まりと相成った。
「――お父様、お母様、お兄様。よくいらして下さいました」
「ディアナ。久しぶりだな」
園遊会、最初の半時から一時間ほどは、側室が各々の家族と挨拶を交わし、親しく語り合う時間となっている。あくまでもぼんやりした予定ではあるが、側室たちはまず実家に挨拶することが、この園遊会では定められているのだ。
「お元気そうで何よりですわ。家の者も皆、変わりありません?」
「えぇ、皆元気よ。貴女は……少し、痩せた?」
確かにここ数日、サンドウィッチを用事の間につまめたら良い方だった。体型は少し変わったかもしれない。
「少し、忙しかったものですから」
「全く、ディアナは。何かと食事を後回しにするのは、お前の悪い癖だぞ」
「申し訳ありません、気をつけます。……叔母様はどちらに?」
兄の説教をさらりとかわして、ディアナは問い掛けた。
今回の園遊会、ディアナは社交界で『クレスター家』と呼ばれる全員を招待していた。具体的には、父デュアリス、母エリザベス、兄エドワードと、もう一人。
『最後の独身貴族』として名高い叔母、フィオネである。
「叔母様なら、一足先に会場を巡ってくださっている」
「今はどこかしら……あぁ、あそこだわ」
エリザベスが示したその先にあったのは、ある意味見慣れた光景だった。
「フィオネ様、今日は一段とお美しい」
「おや、飲み物を切らしているようですね」
「お疲れではありませんか? 椅子までご案内致しましょう」
招待客の男性たちを侍らせ、まるで女王のような堂々たる態度で庭園を歩く、迫力美人。
彼女こそ、デュアリスの妹でエドワードとディアナの叔母、同時にディアナにとっては『クレスター流宮廷の泳ぎ方』を伝授してくれた師匠、フィオネであった。
なるほど、クレスター家の人間が大勢に囲まれるのは、今に始まったことではない。むしろこれが普通、通常営業だ。
が、国王陛下が招待してくださった後宮で、側室の身内しかいない園遊会という場で、即座に周囲の男性を虜にしてしまう彼女の魅力は、いつもながら並外れていると言わざるを得ない。
「おーおー、飛ばしてるなぁ、フィオネ」
「今回は叔母様の独壇場ですわね。わたくしにもあの手が使えたら…」
「さすがに『紅薔薇様』が後宮で男籠絡するのはまずいだろう」
「えぇ、分かっています」
だから、フィオネに応援を頼んだ。納得はしていても、申し訳ない気持ちは拭えない。彼女は本来なら、こんなところにいるべきひとではないのだ。
「できるなら、叔母様のお力を借りずに、ことを運びたかったのですけれど」
「そいつは無茶っていうんだぞ、ディアナ。そもそも今回はだ、招待状が届く前から『私の分も勿論あるわよね?』って、わざわざ念押しに来たんだ。本人が来たがっていたのに、お前が気に病む筋合いがどこにある」
「そうよ、ディアナ。貴女だって久しぶりにフィオネに会いたかったでしょう? 側室が『家族』に会うのがこの園遊会の趣旨なのだから、問題ないわ」
「その叔母様から『家族』の時間を奪ってしまっていることが、申し訳ないのです」
フィオネ・クレスターと、社交界で呼ばれている彼女の本名を知るものは少ない。貴族社会では、彼女は未だに独身で通しているからだ。
『男の生き血を啜る独身魔女』――それが、フィオネの二つ名である。
デュアリス世代の貴族で、未だに独身の者は少ない。女性ともなれば尚更だ。王宮に仕官もせず、結婚もせず、独身主義を貫きながら遊び歩いている四十代など、もうフィオネ・クレスターくらいしかいない、というのが社交界での一般論であった。
その派手な美貌で男を虜にし、精も財も残らず搾り取った後、高笑いと共に消えていく。それがフィオネについて回る風評だ。普段は領地に引きこもっているくせに、社交シーズンには欠かさず現れ場を魅了する、たちの悪い魔女――。
これほど本人とかけ離れた噂もあるまいと、ディアナは思う。
「叔母様には叔母様の生活がおありですのに」
「何度も言うが、気にするな。フィオネが社交を手伝うことは、ジンも納得していることだ」
「……落ち着いたら、ご挨拶に伺わねばなりませんわね」
ため息をついてディアナが言ったところで、周囲の空気が変化した。話題の主が、ぞろぞろと即席逆ハーレムを引き連れて、こちらへ向かって来たからだ。
ディアナはひとまず、頭を切り替えた。
「はぁい、ごきげんよう『紅薔薇様』。お会いするのは久しぶりね。噂は色々、耳にしていてよ」
「ようこそ叔母様。お元気そうで安心致しましたわ」
「素敵な庭ね。今日の園遊会、采配は全て貴女に任されたのですって?」
出会い頭に、いきなりの爆弾である。人が大勢いる――特に『牡丹派』が固まっている辺りがピリリと震えた。……相変わらず、攻めるときはとことん容赦がない。
「えぇ、陛下からのご命令で。皆様に楽しんで頂けるような会になっているとよろしいのですけれど」
「華やかさに欠ける秋の花を使いながら、慎ましくも美しい、魅力的な庭園を演出できていてよ。趣向も見事ね」
「ありがとうございます。王国史上、例のない催しですから、少し変わった趣を試みましたの。色々教えてくださったことが、とても役立ちましたわ」
「あら、わたくしなど」
フィオネとの会話が進むにつれ、庭園のあちこちから敵意や殺気が巻き起こり、和やかなお茶会の風情はあっという間に消え去った。皆表情はにこやかだが、ビリビリした緊張感がそこかしこで漂い出す。少し離れた場所で、ジュークが息を呑んだのが分かった。
(お見事です、叔母様)
確実に意図してこの空気を作り出した女傑に、ディアナは心の中で感服した。
今回の園遊会における隠された目的は、ジュークに外宮と後宮の繋がりを意識させ、後宮の勢力争いに目を向けさせることだ。そのためには、誰が見ても『和やかな園遊会』とは言えない空気を作り出さなければいけない。だが、クレスター家の人間が下手に動けば、ディアナの立場が危うくなる。
そこでフィオネは、叔母でありながら図々しく『家族』として後宮に乗り込み、側室の親族男性たちを虜にしたのである。最初にディアナと挨拶しなかったのも、真っ先に男を片っ端から落としたのも、『紅薔薇』の叔母という立場を利用して好き勝手しに来た、『フィオネ・クレスター』を印象付けるため。彼女はここまで、全て計算して動いたのだ。
師匠にここまでお膳立てしてもらって、活用出来なくては弟子の名が廃る。
ディアナはにっこり、微笑みかけた。
「ところで、叔母様?」
「なぁに、ディアナ?」
「あちらへ参りませんこと? 珍しい果物がありますのよ」
「まぁあ、それは楽しみね」
皆様もいかが? と背後の人だかりに呼び掛けるフィオネ。どちらがホストだか分からない。
デュアリスが、フィオネに誘われ笑み崩れている即席逆ハーレムの人々を可哀想なものを見る目で眺め、聞こえないように「騙されてるなぁ」と呟いた。
大勢を引き連れて歩き出したディアナとフィオネは、当然ながら人目を引いた。彼女たちに注意が集中したその瞬間――残りのクレスター三人の姿が消える。正しくは、人混みに紛れたのだ。
――クレスター流社交術、『囮作戦』である。
人が集まる場で(大抵悪い意味で)注目されるクレスター家が目立たず動こうと思ったら、普通に気配を消すだけでは足らない。周囲の注意を自分達から引きはがす、何らかの細工が必要なのだ。長い間こんな顔と付き合って来た先達たちは、いくつか使えるワザを伝えてくれている。その中で最も単純かつ有効なものがこの、『囮作戦』。派手な方が囮を引き受け、フィオネとディアナは大概囮要員だ。
微笑みを浮かべて周囲の男性客に話しかけ、逆ハーレムを肥大させていくフィオネは、どこからどう見ても、夜の歓楽街で男を誘い、散々いい思いをさせた後で法外な値段を請求する、阿漕な商売をしている店の女主人だ。しかも男に、騙されていると最後まで気付かせない。
もともとそういう見た目をしているからこそ『男の生き血を啜る独身魔女』と呼ばれているわけだが、フィオネのたちの悪いところは、そんな自分の外見を有効活用する手腕に長けていることだ。ついこの間社交界に飛び込んだ若者たちとは年季が違う。
中味のない、微妙に保守派を苛つかせそうな会話を交わしながら、囮二人は一番目立つ、大テーブル前に陣取った。それを見計らったかのように、何組もの貴族が近付いてくる。『紅薔薇派』、その中でも過激な主張を繰り返す娘の家族たちだ。
「紅薔薇様には、ご機嫌麗しく」
「ようこそ、タンドール伯爵。楽しんでいらっしゃいますかしら?」
「えぇ、それはもう。娘とも久しぶりに会うことができ、ありがたい限りです」
「お礼ならば陛下へお願い致しますわ。この会は陛下の御心によって成ったものですから」
「そうですな」
それを皮切りに、『紅薔薇派』に名を連ねる令嬢たちの家族が、次々と挨拶にやって来た。通常の夜会や茶会であれば、絶対にディアナに近付かないような良識ある家の人々も、次から次へと顔を見せる。娘から後宮でのディアナの動きを聞いて、『紅薔薇』の真意はともかく無視はできないとでも思っているのだろう。
ディアナはその一人一人に丁寧に応え、特に娘を後宮に入れることを渋っていた家族には、さりげなく後宮での生活を話すなどして、安心できるよう労った。――その反応は様々だ。
「そうですか、娘がそんなことを」
と笑って話を続けてくれる人もいれば。
「お気遣いありがとうございます」
と固い表情で会話をぶった切る人もいたりと。
いくらディアナが後宮で、貴族の勢力均衡に一役買っているからといって、それで『クレスター家』の評判が良くなるかと問われれば、答えは否だ。『紅薔薇派』の側室の中でも、『ディアナ・クレスター』を根本的に信用していない者は少なくない。ディアナが後宮内で勢力を強め、その権勢で実家を盛り立てようと企んでいる。そんな考えは何も、 『牡丹派』の専売特許ではないのだ。
貴族たちと挨拶を交わしながらしみじみ思うのは、この数ヶ月で出会った、ディアナの本性を見抜いた人々の規格外さだ。 ライア、ヨランダ、レティシアの『名付き』側室三人と、『紅薔薇』付侍女陣。最近ではミア。当たり前のように側にいて、当たり前のように力を貸してくれる彼女たちは、実は一生かけても得難い、『特別』な存在である。そんな彼女たちと出会えたことは、しみじみ幸運に――。
「いやぁ、さすが紅薔薇様は見識豊かでいらっしゃる!」
「この采配もお見事ですわ」
……上辺だけの笑顔と、心の篭らない賛辞を浴び続けると、殊更思う。
庭のど真ん中で挨拶を受けているだけで、時間はあっという間に過ぎ去っていた。気付けば園遊会も中盤。そろそろ王宮公認の吟遊詩人や音楽家たちが登場する頃合いか。 挨拶の人も途切れがちになり、今なら少し抜けられるかもしれないと周囲を見渡したディアナは、
「おっと、」
後ろから突然、明らかな悪意を持って、突き飛ばされた。
いくら不意を突かれたとはいえ、ディアナは並の武人たちよりよほど鍛えられた身体能力の持ち主。その場で衝撃を綺麗に受け流し、自然な動作でくるりと振り返ってみせる。
そこにいたのは――。
「おや、これはこれは紅薔薇様。そのようなところに立っていては、危ないですぞ」
お腹がぽっこり飛び出た、食べ過ぎと運動不足による病を心配したくなるような、中年男性だった。髪型を整えるために油をふんだんに塗りたくったのか、頭がギトギト光っている。着ている服も、斬新と言えば聞こえは良いが、金に任せて悪趣味な改造をしたと一目で分かるもの。王宮に着てくる代物ではない。
眉を潜めかけたディアナだったが、その人物が誰かを認識した瞬間、今度は逆に軽く目を見開いた。かろうじて平静を保ち、すっと背筋を伸ばす。
「お心遣い、痛み入りますわ。……カレルド、男爵」
人混みが割れた。招待客を楽しませるはずの大テーブルから人々が離れ、ディアナと彼――ゲイル・カレルド男爵を中心に、見事な空白空間ができる。とても分かりやすい、身の程知らずに『紅薔薇様』にケンカ売ったバカ貴族と、言い値で買った『紅薔薇様』との、対決の図が完成した。
――但し、ケンカを売った張本人に、その危機感があるかどうかは甚だ怪しい。
「おや、紅薔薇様は我輩のことをご存知でしたかな」
「ご招待した皆様のことは、一通り存じ上げておりますわ。カレルド男爵は、シェイラ様の叔父様でいらっしゃるのですわよね?」
「血縁上は確かに、シェイラは兄の子ですが。兄が死に、我輩がやむを得ず家を継いだときに、もちろんシェイラは養女に迎え入れておりますぞ。つまり我輩は、シェイラの養父でもあるわけですな」
太った腹を揺すらせてわっはっは、と笑う彼には、顔色を悪くしながら様子を窺う周囲の様子など、まるで目に入っていないらしい。……聞きしに勝るアホさ加減だ。
「そうですか、やむを得ずお家を。……その割には、爵位を継がれてすぐ、代々営んでいらっしゃったご事業を売り払われ、手に入ったお金で豪遊なさったと伺っておりますけれど。それも『やむを得ず』でいらしたのですか?」
軽薄な笑い顔が、そのまま固まった。形の良い指を顎に伸ばし、ディアナは軽く小首を傾げる。
「それに、貴方が爵位をお継ぎになってからでしたよね。シェイラ様が社交の場に、姿を見せてくださらなくなったのは」
ぎぎぎ、と音がしそうなほどぎこちなく、彼の首がこちらを向く。その表情が語っているのは、分かりやすい驚愕だった。……大方、古参の上流貴族、しかも悪評高い『クレスター家』が、末端の新興貴族の内実なんざ知っているわけがないと、タカを括っていたのだろう。浅はかというより、考えが足りない。
「すっかりご無沙汰していらしたシェイラ様のお顔を、後宮で拝見して驚きましたわ。……お家でどのように過ごしていらっしゃったのか、今度お伺いしてみようかしら」
男爵はぶるぶる震え出す。追い詰められた小者の、よくある光景だ。
これで男爵が逃げ出せば、身の程知らずに『紅薔薇様』にケンカ売って見事に惨敗した、よくある小者貴族の図が出来上がる。ディアナにこれ以上追撃する気はなく、後は男爵がどう出るかだ。
「あらあなた、こんなところにいらしたのー?」
……訂正、男爵がどう出るか、だった。
空気を読めず場に割り込んで来たのは、ゴテゴテに飾り立てたドレスを着てギラギラした宝飾品をこれでもかとつけまくり、更にけばけばしい化粧をした、夜会にいてすら一歩引くご婦人。健康的な日の光が降り注ぐ昼間に見ては、最早目の毒にしかならない。典型的な、『庶民が貴族に馴染もうとして間違ったまま突っ走った図』だ。
「あなた、こちらの方は?」
「お……おぉ。『紅薔薇の間』の側室、ディアナ・クレスター伯爵令嬢だ。――あぁ紅薔薇様、こっちは妻です」
場に一気に緊張感が走る。ディアナに好意的でなかった者でさえ、あからさまに眉をひそめたほどだ。カレルド男爵の振る舞いは今までもレッドゾーンぎりぎりだったが……これは、完璧アウトである。
エルグランド王国は絶対王政。そして、厳然たる身分制度を敷いている国だ。クレスター家のような爵位と実際身分が伴わない家はあくまでも例外、男爵よりは子爵、子爵よりは伯爵、伯爵よりは侯爵が当然偉い。そして、初対面の者同士の間を仲介する場合、身分の高い方へ低い者を先に紹介することが、暗黙にして絶対のマナーなのである。
今、カレルド男爵は先に妻へ、敬称も付けないままディアナを紹介した。これは社交の場において、ディアナを最大限侮辱しているに等しい行為だ。ディアナは伯爵令嬢であり、『紅薔薇の間』を与えられている、非公式ではあるものの現在の後宮で最も地位の高い女性。そんな相手を公の場で侮辱するなど、有り得ない愚行でしかない。
「無礼な!」
ディアナより誰より先に、大テーブルを任されていた女官がキレた。
「先ほどから聞いておれば、紅薔薇様に無礼極まりないことを……それだけでは飽き足らず、侮辱するなど!」
「何……? たかが女官が、我輩を愚弄するか!」
「紅薔薇様を侮辱した貴方を、敬う道理などありません!」
怒鳴られた女官は引き下がらなかった。彼女は職務に誠実な、女官の中では数少ない、不正に手を染めていなかった存在だ。真面目さを買ってこの場を任せたが、どうやらそれが裏目に出たらしい。かなり本気で怒っている。
これはまずい。ディアナはすっ、と手を上げた。
「控えなさい」
「しかし紅薔薇様、」
「どのような方であれ、招待した以上はもてなすことがわたくしたちの役目です。……男爵への糾弾ならば、後からでもできるでしょう?」
……ん?
何とか落ち着かせようと微笑んでつけ足した言葉が響いた瞬間、場が一斉に凍ったのが分かった。さりげなく周りを見ると、皆が一様に怖いものを見る目でこちらを見ている。……何か、変なことを言っただろうか。
ディアナが内心首を傾けたのと、取り囲む人の輪から若草色のドレスが飛び出して来たのは、ほぼ同時だった。
「――申し訳ございません、『紅薔薇様』!」
出て来た勢いのまま、若草色ドレスはがばりと平伏する。シンプルだが品よく結い上げられた金色の頭が、地につけた細い指先が、――ドレスを纏った細い身体が、可哀相なくらいに震えていた。
「養父が、養母が無礼を働きましたこと、誠に申し訳ございません。お怒りはごもっともにございますが、どうか――」
……あぁ、私の前に出るのはさぞかし怖かっただろうし、嫌だっただろうに。それなのに貴女は、馬鹿な親戚の暴走を、見て見ぬ振りしない。それは一体、どれほどの勇気か。
必死で『紅薔薇』に頭を下げるシェイラを見て、ディアナの張り詰めた糸が切れそうになる。
こんな嫌な場面で、出て来なくても良かったのに。ディアナは心の底から思う。『クレスター家』の人間は、この程度の侮蔑には慣れている。わざわざシェイラ本人が泥を被りに来なくても、こんな状況どうにだってできる。
せめて――せめて、守らせて欲しかった。傷付けてしまった分。これから後宮で、傷付けるであろう分まで、何があってもシェイラを、守りたかったのに。
隠れて逃げて守られる自分を、彼女はどこまでも、良しとしない――。
「――何をしている! 立て、シェイラ!」
――限界まで高まった緊張は、見栄と欲に塗れた声が押し潰した。
ひたすらに平伏し謝罪を繰り返すシェイラを、カレルド男爵は叱責して強引に腕を引く。無理矢理立たせたシェイラに、自重を知らない馬鹿は怒鳴った。
「お前は陛下の寵姫なのだぞ! こんな名前だけの側室にペコペコする必要などない!」
その瞬間――。
『牡丹派』が固まっている辺りから殺気が起こり。
騒ぎを野次馬している『紅薔薇過激派』の表情が歪み。
普段は穏健な、他の『紅薔薇派』の側室たちからすら、呆れと蔑みの混じった眼差しが飛んだ。
シェイラを密かに支援し、守るために動いている『隠れ中立派』たちは、さすがにシェイラ本人のことは憐れに思うものの、その叔父への嫌悪は隠せないらしい。大テーブルを中心に、ありとあらゆる悪感情が飛び交っている。知らぬは叔父叔母ばかりなり、だ。
シェイラは青ざめ、震えている。叔父の叱責にではなく、彼が落とした爆弾の威力に畏れ慄いているのだろう。まともな人間ならば普通はそうなる。
――話には聞いていたし、こうなるかもしれない予想もあった。しかし、それでもこの二人を招待すると、決めたのはディアナだ。側室の家族を招待せよというのは陛下の命令、それに従えば、シェイラの『家族』はこいつらしかいない。家族との折り合いが良くない側室は他にもいる、シェイラだけ特別扱いはできなかった。
……だけど、それでも。私がただのディアナだったら。『紅薔薇』なんかじゃなかったら。
――シェイラをこんなに傷付け、苦境に立たせるようなことは、絶対しなかったのに。
後で悔やむと書いて、後悔。既に起こってしまったことを悔やんでも仕方がない、それでも悔やまずにはいられない、だから人は後悔する。――けれど。
……予想していた後悔をするのは、想像以上に、苦しい。
胸の内は、さながら外海の大嵐。雨降り、風吹き、雷落ちる。
それでも、彼女は――『紅薔薇』は、冷静でいなければならない。彼女は、この会の責任者なのだ。
「……仮に、シェイラ様が寵姫でいらっしゃったとして」
自分でも信じられないほど、冷静で冷酷な声が出た。自分の声を、ここまで恐ろしく感じたのは初めてかもしれない。
「それで貴方の、傲岸不遜な振る舞いが赦されるわけではありませんわね」
ぴくりと反応し、こちらを見て口を開ける男爵。彼の後ろで、がたがた震え出す男爵夫人。
聴衆たちの、ざわめく声。
総てが遠い遠い、どこか別世界の出来事のようだ。
「側室の実家ならば何もかもが赦されるなど、愚かな勘違いはくれぐれもなさいませんように。わたくしが仮に名ばかりの側室であったとしても、後宮内で最も高位であることに違いはありませんのよ。――現『紅薔薇』を度々侮辱した罰、その身に受ける覚悟はおありなのですか?」
男爵と夫人が、揃って尻餅をついた。……今となっては、遅すぎる。
「『紅薔薇様』――!」
シェイラが泣きながら倒れ伏し、申し訳ございません、と壊れた機械のように繰り返す。…… シェイラ本人には何一つ非などない、なのに周囲が非難の目を向けるのは、叔父叔母よりもシェイラだ。
――どこまでも理不尽。どこまでも残酷。
そんな現実を食い止められない自分自身を、何より一番赦せない。
「……王国史上初の後宮園遊会を、不名誉な歴史とするわけには参りません。幸いにしてカレルド男爵が不遜を働いたのは、陛下ではなくわたくしに対してです。――今回だけは、不問に付すことと致しましょう」
どこか遠くで、意識の向こう側で、自分ではなく『紅薔薇』が話しているような感覚。ここまで心中ぐっちゃぐちゃでも人間冷静でいられるらしいと、どうでも良いことを発見する。
――もう、話すことはない。くるりと後ろを向き、一歩踏み出したそのとき 、人垣の向こう側で声がした。
「そろそろ……吟遊詩人の演奏が始まるようですね」
「あら、今回は特別な演目もあると聞いたわよ ?」
「お、あちらの方ですな」
野次馬たちの興味が動く。ここぞとばかりに、ディアナは笑んだ。
「あら、もうそんな時間なのね。皆様もどうぞ、よく見える場所へいらして。今回は特別な演目もございますのよ」
ディアナの巧みな誘導で人垣は崩れ、めいめいがステージへ動き出す。その隙をついて女官たちがシェイラを助け出し、護衛に当たっていた近衛騎士たちが男爵夫妻を連れ出した。
……助かった。
芯からほっとした、その瞬間。
ディアナは人混みへと、引きずり込まれた。




