初夜
エルグランド王国国王、ジューク・ド・レイル・エルグランド。
御歳22歳、さらさらとなびく銀の髪にアイスブルーの瞳、剣を握らせれば勇猛果敢、情に厚く不正を赦さないと評判の、若き国主。
同時に子どものようなところもあり、「本当に愛する女性が見つかるまでは」と正式に妻を決めることを拒み続け、遂に業を煮やした重臣たちが後宮解禁を決行する原因となった人物でもある。
ディアナにとっては、間違っても関わり合いになりたくない人物、ナンバーワンなのだ――。
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香油を練り込まれ、つやつやと輝く髪。身体中磨き上げられ、入念にマッサージもされた。純白の夜着に身を包めば、いよいよ準備万端だ。
「まぁ……何とお美しいのでしょう」
「陛下もきっと、お心を動かされますわ」
「ありがとう……。皆、ご苦労さまでした。リタの他は下がって頂戴」
さすがの『氷炎の薔薇姫』も緊張しているようだと、王宮の女官と侍女は深く追及せずに一礼して退室した。二人だけになった瞬間、ディアナは根性で貼り付けていた笑顔を消し去り、リタにしがみつく。
「どうしましょうリタ……どうすれば良いの。『クレスター伯の娘』は評判悪いはずなのに、どうして初日にこんなことになってるの? 陛下は意外とつまみ食い好きなの?」
「落ち着いてくださいませ、ディアナ様。おそらくは、ディアナ様の後宮入りを強引に推し進めた一派が、何らかの圧力をかけているのでしょう」
「本当に、あの方々は、余計なことばかり……!」
傍から見れば、父親の威光を背に堂々と後宮に乗り込み、見事正妃候補に納まったかのように見える『クレスター伯爵令嬢』だが、その内実は世間の風に抗い切れず嫌々来ました、である。国王の寵愛など、最初から望んですらいない。
そもそもクレスター家は先祖代々、恋愛結婚推奨派である。当代当主夫妻デュアリスとエリザベスも例に漏れず、二人の仲は至って良好。そんな両親を間近に見て育ったディアナが、本人の意志を無視した婚姻を望むはずがない。ましてや、貴族の間では当たり前らしい、『一夜の火遊び』などもっての他。本当に好きになった相手と身も心も結ばれることにこそ意味があるのだと固く信じる、今時珍しい貞操観念の持ち主なのである。そんなディアナが、後宮の娘に与えられた、最も重大な役目を果たせるわけもない。
『国王と同衾し、世継ぎを孕む』――それが、後宮における女たちの存在意義。そのためだけに娘たちは集められ、後宮という檻の中で、いわば飼われているのだ。そこには娘の意志も――国王の意志すらも、ない。
『仮令国王陛下であろうとも、好きになった殿方以外と、わたくしは閨を共にしたくはありません』
後宮入りが避けられない現実となったとき、家族の前で、ディアナはそう宣言した。後宮などという非人道的な場所に赴くディアナが真に纏ったものは、華やかなドレスではなく、人としての誇り。『ディアナ・クレスター』を守る、後宮では不要な、けれども何より尊い鎧を纏い、覚悟を胸にやって来たのだ。
しかし、現実は。
そんな彼女を、嘲笑うかのように。
リタは世の無常を噛み締めた。周囲が何を勝手に勘違いしているかは知らないが、彼女の主は後宮で華やぐことなど望んでいない。圧力などかけずに放っておいてくれれば良いのに。
しかし、今更そんなことを言っても仕方がない。リタは頭を切り替え、主人を励ますことにした。
「ディアナ様、気を強くお持ちください。事前の調査から考えましても、陛下が好き好んで後宮に渡っているとは思えません。上手く事を運べば、同衾せずともやり過ごせます」
「そうか、陛下に嫌われれば良いのね!? 流石だわ、リタ。任せて、正義感の強い方々から嫌われることにかけては、自信があるもの」
「……ダメな方向の自信ですけどね、それ」
どうやらディアナは、混乱のあまり突き抜けた思考回路にはまったようだ。突っ込みつつも、自信の内容そのものは悲しいことに否定できないので、リタはどうフォローすべきか悩む。確かにここはクレスター家の血に期待するのが一番の打開策かもしれないと、うっかり考えてしまった自分が憎い。
リタが修正を入れなかったおかげで、ディアナが無事『陛下に嫌われよう大作戦』を大筋で組み立て終わった頃、扉の向こうが騒がしくなった。はっ、と二人で顔を見合わせ、次いで頷く。
「ディアナ様、ご武運をお祈りしております」
「えぇ。作戦は立てたわ。後は実行するだけよ」
「……あまり突飛なことはなさいませんように」
混乱すると突き抜けた言動を取る主に、一応釘を刺すだけ刺しておく。いざとなれば大丈夫だとは思うが。
寝台の前にひざまづいたディアナを確認し、扉の横に待機した。程なく向こう側から、声が響く。
「陛下がお渡りになりました」
「リタ、扉を開けて」
「はい、姫様」
内側から扉を開ける。その向こうに立っていたのは、事前調査にあったとおりの容貌の、若い男だった。その男の一歩後ろに立っていた赤茶色の髪の青年が、リタを見て口を開く。
「そなたは……?」
「はい。ディアナ様付きの侍女、リタと申します」
「左様か。今宵、陛下はこちらで一夜を過ごされる。そなたは我らと下がりなさい」
「仰せのままに」
深く一礼したリタの前を、白銀の髪の男が通り過ぎた。彼を見送り、内心の不安を表に出さぬよう細心の注意を払いながら、リタは『紅薔薇の間』を後にしたのだった。
一方。
部屋に残されたディアナは、当たり前だが無言のまま、陛下からのアクションを待っていた。『嫌われよう大作戦』を目下決行中の彼女だがそれはそれ、礼儀知らずなマネをしては、育ててくれた両親の恥になる。
「……随分と大仰な入城であったな。既に王妃気取りか?」
礼儀を守り、面を伏せていたディアナに開口一番降って来たのは、そんなお世辞にも好意的とは言えない台詞。内容を吟味するまでもなく、ディアナは返した。
「おっしゃる意味が解りかねます。そこまで大仰でしたでしょうか?」
「春に通達を出してから、既にどれだけ日が過ぎた? 専らの評判だぞ、クレスター嬢は嫁入り道具に時間をかけ、鳴り物入りで後宮入りした、とな」
「……そのような噂になっていたとは」
相変わらず、やること為すことナナメ上解釈されるクレスター家である。実際には、ギリギリまで後宮入り回避の道を探ったせいで時間がなく、急ごしらえで最低限の『嫁入り道具』しか、持って来てはいないのだが。
「――立つが良い、ディアナ・クレスター」
第一声からここまで、相手の声は冷え切っている。『嫌われよう大作戦』も何も最初から嫌われているらしいと賢く察していたディアナは、内心小躍りしながら立ち上がった。
「そなたの父親の取り巻きに押され、私はそなたをこの『紅薔薇の間』に入れた」
「……存じております」
正確には、『父親を取り巻いていると勘違いしている面々』だが。デュアリスが意図して作り上げた勢力では、決してない。
「――だが、勘違いするな」
飛んで来たのは、矢のように鋭く、氷のように冷たい言葉。憎しみすら感じられる『それ』に、ディアナは思わず、伏せていた目を上げた。――そして。
「そなたはあくまで、一側室。そして、世界が終わろうとも、私がそなたを愛することはない」
想像に違わず、怒りと憎しみを宿したアイスブルーの瞳と、ご対面した。
目の前にいるのがおそらくは、このエルグランド王国の若き国王、ジューク・ド・レイル・エルグランドだろう。白銀の髪とアイスブルーの瞳を持ち、全身から嫌悪感を発してディアナを見据えている。
最初から嫌われているなら、結構なことだ。ディアナは喜びを抑え切れず、微笑んだ。
「……どうぞ、御随意に。陛下の心は、陛下のものですわ。誰を愛するかなど、それこそ周囲に決められるものではありません」
「――ふん、賢しいな。男を手玉に取る腕だけは、なるほど一流といったところか」
えええぇ……今の台詞でどうしてその結論……。
嫌われるのは願ったり叶ったりなのだが、素で発した言葉をナナメ解釈されて嫌われると、分かってはいてもなんだか物寂しい。だからわたくしの言葉に裏などないのですよと、小一時間ほど説明したい衝動に駆られる。
――それはそうと。
(陛下、顔色大分悪いわね……)
おそらく疲れが溜まっているのだろう、ろくに寝もせず政務にあたっていると報告書にはあったが、間近で見ればそれが嘘でも誇張でもないと分かる。
ぶっちゃけ後宮に来る暇があるなら寝てろレベルの顔色の悪さだ。若いから無茶して突っ走っているのだろうが、若いからといって過労死しないとは限らない。
(……強制的に落とそうかしら。一番建設的よね、それが)
国に仕える貴族の娘としては、国王の健康を守ることは最優先事項だ。嫌われていようが何だろうが、彼が国王である以上は元気でいてくれなくては困る。
「……陛下、わたくし今から就寝前のハーブティーを飲みますが、ご一緒にいかがですか?」
「馬鹿な。私がそなたの入れた茶を飲むとでも?」
「そうおっしゃるとは思いましたわ」
飲まないなら飲まないで構わない。疲れの溜まった人間を落とすやり方など、いくらでもある。
警戒して立ちっぱなしの国王――ジュークの傍らにカートを引っ張ってきて、数種類のハーブとポット、熱いお湯を用意する。ハーブを入れたポットに高い位置からお湯を注ぐと、湯気と一緒にハーブの香りが立ち上った。
「こ、これは……?」
「就寝前の安眠茶と申し上げましたわ。香りも良いでしょう?」
「あ、あぁ…」
言っている間に効いてきたようだ。足元がふらついた彼に、ディアナはもう一度、軽く扇いで湯気を纏わせた。
「こ、れは、なん、だ…」
「どうぞ陛下、あちらの寝台をお使いくださいませ。……お疲れなのですわ、ゆっくりお休みにならなくては」
ディアナの声に導かれるように、ジュークはふらふら歩き、寝台に倒れ伏した。すぐに微かな寝息が聞こえ、一瞬で彼が寝オチしたことを知らせてくる。
(やれやれ、世話の焼ける)
ディアナの使ったハーブの香りには、睡眠導入作用がある。普通の人間に使えば緩やかに眠りを誘うだけだが、疲れが極限まで高まっている人間に嗅がせると、香りだけで高い睡眠効果を発揮するのだ。
眠りに落ちた国王陛下に布団を被せながら、ディアナは彼について、考えを巡らせていた。
正義感は強そうだ。執務に対して、やる気もある。
しかし反面、物事の捉え方が素直過ぎるようだ。クレスター家の噂も額面どおりに受け取って、それが『真実』だと疑いもしない。一方的な見方だけで、全て見通せた気になっている。
ちょっと、危ういかしらね……? それが、ディアナが国王に抱いた印象だ。もう少し成長して、多面的な視野と常に『真相』を探る思慮深さを身につけなければ、表面取り繕うのがお得意な貴族たちの良いカモになってしまうだろう。
とりあえず、お父様とお兄様に相談しますか。
ありきたりな結論を出し、ディアナはソファに身体を沈めた。