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悪役令嬢後宮物語  作者: 涼風
にねんめ
249/250

〝世界〟は愛で照らされる

〝決着〟編、最終話です。

ラスト、久々の甘々警報発令中!!


 雲ひとつない晴天の夜空は、どこまでもどこまでも澄み渡り、冴え冴えとした月の光を、星々の煌めきを、地上へと届けている。

 その光を、哀しいほど穏やかに見上げながら紡がれるマリアンヌの告解は、どこか神聖な空気すら纏う、厳かなものだった。


「デボラは、何度も、あの夜の出来事に私の過ちは何一つなかったと、あれ以上の手を打つことは不可能だったと、言ってくれるけれど……そんなことは、ないの。あの子を〝死なせて〟しまったのは、全て、私が弱かったから。弱くて……望まなかった〝現実〟に全力で立ち向かおうとしなかったから、起こったことだもの」

「……弱かった、から?」

「えぇ、そうよ。王宮という、自ら選んだ〝居場所〟を強引に奪われて、きっと、私はどこかで、己の人生を捨ててしまった。王宮侍女でなくなった私のことなんて、どうでも良かった。だから、シュラザードで、あの男の横暴に唯々諾々と従って、領主代行業務も反発することなく受け入れたの」

「そう、なんだ」

「……あのとき、もっと私自身に誇りと自信を持っていれば、あの男に形だけでも従うような真似はしなかった。仲間を集め、力を蓄えて、あの男からシュラザードの実権を完全に取り上げることだってできたはず。子を宿してからはなおさら、一年近くも時間があったのだから、その間に子を守る万全の体制を整えることはいくらでもできたわ」


 マリアンヌの言は確かに理想的な〝たられば〟だが、当時の彼女がそのように行動したとして、確実に上手くいくとは断言できない。シュラザード侯爵は間違いなく醜悪で頭の足りない男だが、あの手の連中は己の地位を脅かす者の気配を本能で察知する。若い頃のマリアンヌが形だけでも従順だったから、侯爵はマリアンヌを脅威とは思わず、自己都合で邪魔になるまで排除しようとは考えなかった。

 汚い手を使ってまで手に入れた妻も、要らなくなればあっさり毒を盛って殺害しようとする男である。若いマリアンヌが分かり易く叛旗を翻していたら、その時点で致死性の毒を与えられていた可能性は、決して低くないだろう。マリアンヌは己の弱さを嘆くが、結果だけを見れば、その〝弱さ〟こそが彼女を、デボラたち忠臣を、……そして。


「……いずれにせよ、あの子を〝死なせて〟しまった私は、もう、母親ですらないけれど」


 紛れもない〝親〟の顔をしながら「死なせた」と語る〝子〟を、守ったといえる。


(……なんて俺が言っても、たぶん、なんの慰めにもならないんだけどね)


 そもそも、マリアンヌは慰めを求めていない。――彼女の言葉は全て、もう二度と会わない相手へ贈る、別れの挨拶だろうから。


(俺、は……?)


 果たして、マリアンヌと縁を切りたくて……己を〝棄てた〟存在と道を分かちたくて、今、この場に立っているのだろうか。ディアナが背を押してくれたから、マリアンヌと向き合えているのは確かだけれど、〝母親〟に対し思うところがカイの中に一つもなければ、あの聡明な『賢者』の末裔は、そもそも押そうとしないだろう。

 カイがずっと、自分の中に抱えていたもの。抱えているのに見えなくて、未だ、言葉にできていない思いの片鱗を、ディアナは鋭敏に感じ取って。感じ取っていたからこそ、マリアンヌとしっかり向き合うべきだと――向き合って、見つけて、分かち合うべきだと、願ってくれたのではないだろうか。


 そう、思った瞬間。

 胸の内に、まるで緑の風が吹いたかのような心地がして。

 ずっと、カイの中を覆っていた霧が、晴れていく。


 霧が晴れた視界の先で、ゆっくりと立ち上がったマリアンヌは――。


「……たとえば。どこか遠い、別の世界で、あの子が今も生きているのなら。どうか幸福であってと――望むひととともに、望んだ未来を得て、幸福な生涯を全うしてほしいと、そう祈り続けることだけは、許してもらえるかしら?」


(あぁ――……そうか)


 疑いを挟む、余地もない。

 彼女は、カイを宿して、育んで。

 己の命を賭け、この世へ送り出して。

 カイに迫る魔の手を払い除け、己のできる精一杯を尽くし、守り抜こうとしてくれた――、


(俺の、母さん)


 ソラと、同じく。

 カイにとって、敬愛すべき、もう一人の〝親〟なのだ。


 カイを見る、マリアンヌの瞳は。この奥庭で最初に対峙したときから、一度も決してブレることなく、我が子を愛する母のものだった。どうにもならない運命に翻弄され、清濁入り混じった感情の渦の中で、それでも彼女は必死にカイを愛し、母親として向き合ってくれた……否。


 今も、こうして、向き合ってくれている。


(そう、だったんだ。だから……俺は)


 あれほど見えなかった自分の心が、マリアンヌへと告げたい言葉が、今のカイにはくっきりと見える。

 一度、気づけば。〝答え〟はずっと、同じところにあった。


「……許すも、許さないも、ないよ」


 肩の力を、すとんと抜いて。

 カイは、ゆっくりと一歩、マリアンヌへ近づく。


「俺の女神なら……たぶん、こう言うと思う。『心の中の真摯な祈りを、咎められる人なんていない。あなたが思うように祈り続けることは、神にだって止められない』って」

「……そう。そう、よね。――ありがとう」


 凪いだ瞳で、静かに頷いて。

 マリアンヌは視線をマグノム夫人へと向け、この場を立ち去る意思を、知らせてくる。

 視線を受けたマグノム夫人は、物言いたげな眼差しをマリアンヌとカイへ向けたが、結局口を開くことはなく、その手を取って歩みを支えた。

 そのまま、カイの横を通り過ぎ、回廊へ向かおうとするマリアンヌ。

 ゆっくりと遠ざかるその背を、しばらく、無言で見守って――。


「……感謝、してるよ。俺は」


 十歩ほど離れたところから、カイは静かに、言葉をかけた。

 ぴたりと、マリアンヌの足が止まる。


「追手がつかないよう、誤魔化してくれたこと。旅人の目につきやすい、森の道近くに置いてくれたこと。拾った誰かが育て易くなるよう、〝養育費〟を用意してくれたこと。――極限の状態で、バレれば自分の命も危ういのに、それでも守ろうと、死力を尽くしてくれたこと。全部、全部、感謝してる」


 ……そう。マグノム夫人の話を聞いたときから、カイの中にあって。

 あったけれど、見えなかったもの。


「……正直、思ってた。俺の存在は、俺を産んだ人にとって、重荷でしかなかったんだろう、って。事情を知ってますます、好きでもない男との間に義務感だけで授かった子なんて、本心では煩わしいばかりだったんじゃないか、って」

「そ――」

「――でも、違った。あなたはちゃんと、望んでいなかったはずの俺を受け入れて、慈しんで、この世に送り出してくれたんだよね」


 気付いては、いなかった。拾って、育ててくれたソラが、実の親でもくれないような愛情を、カイに注ぎ続けてくれていたから。

〝自分は実の親から疎まれて、棄てられるような存在なのだ〟という自己否定概念が、薄ぼんやりと己の中にあったことなど、本当に知らなかった。きっと、その概念が形になるより先に、ソラが溢れんばかりの愛で散らしてくれていたのだろう。

 それが見えてしまったのは、図らずも、マグノム夫人を通して、マリアンヌがカイを宿すまでを知ったから。絶望の中で宿った赤子である自分が、彼女をさらに追い詰めたであろうことは、想像に難くなくて。いくらマリアンヌが我が子を慈しんでいたと聞かされても、「どうして」という疑問が先に立った。


 彼女がいかに、カイを愛してくれていたのか。守ろうとしてくれていたのか。

 マリアンヌを知る人から聞かされる度、カイが感じていた奇妙な居心地の悪さと、らしくもない罪悪感の源は、物心つく前からカイの中にうっすら漂っていた、自己否定感情だったのだろう。


(……ディーは、気付いてた)


 たぶん……もしかしたら出逢って間もない頃から、ディアナはカイの〝弱さ〟を見つけて、その〝弱さ〟ごと、受け入れていたのだ。


(そう、だよね。こんなの、俺が自分で見つけて、向き合わないと、意味がない)


 向き合って、晴らさなければ……その先にある〝本当〟の心は、見えてこなかった。


「……俺があなたの中に宿ってから、あなたがどんな思いでこの命を育て、守ってくれたのか。どれだけ詳細に聞かされても、想像することしか俺にはできない。母になれば子を無条件に愛せるなんて幻想で、憎い男の血が流れる子のことを、心底憎んだ日だってあったはず。それでも……憎悪も確執も乗り越えて、あなたは我が子を愛する路を選び、母になることを、決断してくれた」

「――……っ」

「あなたは自分を弱いと、弱さゆえに我が子を〝死なせた〟と、罪の意識をずっと抱いているけれど。憎しみも、怒りも、絶望すらも受け入れて、飲み込んで、新たな命を愛情で迎え入れたその心根は、とても強いと俺は思う。強いと思うし――尊敬、してる」


 マリアンヌの肩が、大きく震えた。

 返ってくる言葉はないけれど、伝えるべき言葉(もの)を見つけた今、カイの口は滑らかに動く。


「シュラザードの嫡子は死んだ。でも、殺したのはあなたじゃない。シュラザード侯爵だ。望んで得たはずの嫡子を、あいつは己の身勝手で殺した。その報いが今になって巡ったからって、それはあいつの自業自得でしかない」

「っ、」

「そして……あなたが命をかけて守った〝カイルジーク〟は、あなたが望んだ通り、その翼を大海原へと拡げ、自由に、遠大な世界を飛んでいる。大変なことは多かったと思うけど、願ったとおり、幸せに生きてるよ」

「っ、……っ」

「……大海原?」


 嗚咽が漏れるマリアンヌの肩を抱きしめていたマグノム夫人が、ふと疑問を音に乗せた。

 思わず笑顔になり、カイは頷く。


「俺の、名前ね。旺眞語で、〝海〟って意味なんだって」

「うみ……」

「異国語が元になった名前と、実の母親がつけてくれた名前が同じ響きなの、すごい奇跡だよね」


 ――あなたがずっと愛されていた、その証明みたいな話。


 優しい言葉が、カイの耳元で甦る。

 ……そう。ディアナは、言ってくれていた。「あなたは、ずっと愛されていた」と。

 彼女の思いが、願いが、風となり。カイの中にしつこく漂っていた、自己否定という名の霧を晴らしてくれた。

 生まれる前から……あなたはきちんと、愛されていた。存在を、肯定されていたと。


 ――だからこそ、見える。言える。

 マリアンヌを知って、その心に触れてから、ずっと彼女に言いたかったこと。


「ありがとう、俺を産んでくれて。――母さん」


 心からの……混じり気のない、感謝を。


 マリアンヌの膝がついに折れ、地面に頽れた彼女を、マグノム夫人が優しく支え、その背を撫ぜる。

 激しい嗚咽を漏らす彼女に、カイは、ゆっくり、歩み寄って。


「俺も、母さんに、同じことを言うよ。これまで苦しんだ分、どうかこれからは、望む人と、望む場所で、幸せに生きて。……母さんが幸せに生きられるよう、俺にできることがあったら、必ず力になるから」

「!!」

「マグノム女官長さんだって、知らない人じゃないんだし。母さんが幸せじゃなきゃ、女官長さんもたぶん、幸せにはなれない。で、女官長さんが幸せじゃないと、ディーは間違いなく気に病む」

「……間違いありませんね」

「でしょ? 俺の女神は、そういうところ、めちゃくちゃ欲張りだから」


 空を、見上げる。煌々と輝く月は、どこか冷たいようで、実は形を変えながら太陽が照らす昼の空にも居座るほど、世界を遍く慈しんでいるのだ。


「……カイルジークが、姫神の絶対的な守護者であるように。俺も、俺の女神の〝総て〟を守る存在でありたいって、いつも思ってる。〝総て〟の中にはもう、母さんも含まれてるよ」

「――……カ、イ」

「一度、完全に切れたからって、縁がなくなるわけじゃない。望み合えば……また、新しい縁が結ばれる未来だって、あると思う」

「――っ!」

「だから、まずは元気になってよね。クレスター家に頼り切らない姿勢には共感できるから、マグノム女官長さん頼みでも良いと思うけど、不測の事態があったら都度相談はしてくれる感じで」

「心得ました」


 マリアンヌより先に、マグノム夫人が頷いて。滅多に見せない満面の笑みを浮かべた。


「感謝します、カイ。ですが、ディアナ様の幸福のためには、何よりあなたの幸せが必要であること、どうかゆめゆめお忘れなく」

「俺は、ディーがいてくれたら、基本はずっと幸せだけど」

「えぇ。迷いなくそう返せる方であるからこそ――己の心に嘘をつかず、誠実に向き合い、得た〝答え〟のまま動ける方だからこそ、ディアナ様のお心を得られたのだと、私もようやく腑に落ちました」

「……女官長さん?」


 首を傾げたカイの前で、マグノム夫人はマリアンヌを立ち上がらせる。


「あなたは、リアの息子。リアの愛する子なら、私にとっても我が子同然に慈しむ対象です」

「えぇと……そうなんだ?」

「はい。僭越ながら」

「僭越ってこともないと思うけど……俺別に、身分ある人間じゃないし」

「身分など、関係ありませんよ。リアが愛し、ソラ様が愛し――誰より、ディアナ様が深い想いを寄せられているあなたは、それだけ〝世界〟にとって、重んじられる存在なのでしょう。そこに加わるのは、私如き只人の身で、僭越というものです」

「……」


 そういえば、父曰く、マグノム夫人もまた、エルグランド王国あるあるな『特殊核』の持ち主であるらしい。霊術(スピリエ)が使えるほどの〝大きさ〟ではないので霊力者(スピルシア)とは呼べないが、その『特殊核』が彼女に何かを感じ取らせていても、不思議はない。


(ディーのこともよく、〝祝福された魂〟って呼んでるし……マグノム女官長さんには、人間の本質みたいなのを感じ取れる、第六感(シックスセンス)があるのかも)


 ……だとしても、カイが〝世界〟にとって〝重要〟だなんて、大袈裟すぎる言い回しだが。


「そんな大層な存在には、これまでもこれからも、なるつもりないよ。――でも、マグノム女官長さんに認めてもらえたのは、素直に嬉しい」

「私の力など微々たるものですが、何かお困りごとなどあれば、遠慮なく仰ってください」

「うん。今後ともよろしく」


 敢えて軽く頷き、カイは少し距離を取った。……そろそろ、マリアンヌはきちんと休むべきだろう。


「ひとまずは、母さんのこと、お願いして良い?」

「無論のことです。リアの世話を焼くのは、三十年以上前から、私の領分ゆえ」

「わぁ、大ベテラン。母さんも安心だね。……元気になったら、今度は良ければ、俺の〝これまで〟も聞いてほしいな」


 その言葉に、マリアンヌは。


「――っ、え、ぇ」


 嗚咽の中ではあったけれど、確かに大きく、頷いてくれた。

 柔らかく笑って、カイは踵を返す。


「それじゃ、またね」


 ここは、王宮内の奥庭だ。地面を蹴り、木々に紛れて気配を消せば、もう、カイの姿を捉えることはできなくなる。

 庭の死角を進み、先ほどとは違う隠し通路の入り口を開き、滑り込むように中へ入ると。


「……おかえりなさい、カイ」

「――ディー」


 フレッドは、約束を守ってくれたのだろう。隠し通路入り口のすぐ側で、壁にもたれかかるように、ディアナが夜会用の正装のまま、立っていた。


「……話、聞こえた?」

「直接、聞こえる距離ではなかったけれど……」


 口ごもるディアナに、少し笑う。あれほど緑の多い場所で話していたのだ。多くの〝命〟と心を通わせ、中でも植物との相性がずば抜けて良いディアナは、知ろうと思えば彼らを通じて、あらゆるものを知ることができる。


「……盗み聞き、みたいなものよね。ごめんなさい」

「なーんで謝るかな? ディーにいて欲しいって、近くまで案内してって頼んだのは俺だよ?」

「でも、」

「ディーの霊力(スピラ)の特色だって、知ってる。知ってるんだからもちろん、〝聞かれてた〟って問題ない」

「……カイ」


 重いドレスを纏いながらも、その重さを感じさせない足取りで、ディアナは滑るようにカイへと近づいて。

 きゅ、と遠慮がちに、カイの服の裾を、摘む。


「……私、ね。世界って、とても残酷で、冷酷で、理不尽で。多くの場合、救いなんてなくて、ただただ絶望だけが押し寄せるものだ、って、知ってる」

「……そう、だね」

「でもね、決して絶望だけ、ってわけでもなくて。慈悲も、篤実も、道義も……希望も、たくさんあるって、分かってるの。分かっているけれど、なかなか、見つけられない。嵐のように、自分の意思とは無関係なところから襲ってくる絶望と違って、顔を上げて、目を凝らさないと見えないほど、希望は小さいから。〝ある〟と信じて見ようとしなければ、きちんと光ってすら、くれないから」

「……うん」


 月の光が、わずかに届く、隠し通路の中。

 間近で、うっすらと光る蒼の光は……ソラがカイへと与えた〝名〟、そのものにすら見えた。


「おせっかい、だったかもしれない。でも、見つけてしまったから。どうしても、マリアンヌ様の思いを、願いを、彼女の口から、あなたへ届けて欲しかった。……あなたの心が感じたものを、素通りして欲しくはなかったの」


(あぁ。本当に、ディーは――)


「――っ!!」


 溢れ出る愛しさのまま、カイはディアナを引き寄せ、抱き締める。力を込め過ぎてしまったらディーを苦しめるだろうから、彼女が苦痛を感じないギリギリを見極めて。

 一瞬だけ硬直したディアナは、次の瞬間には力を抜き、素直にその身を委ねてくれる。……だけでなく、おずおずとではあったけれど、その両腕をカイの背へと回し、控えめに抱き返してくれた。


「カ、イ?」

「ディー……ディーが見つけてくれた〝希望〟、受け取ったよ」

「!」

「カイも、カイルジークも、どっちも俺の名前だった。〝俺〟はちゃんと愛されて……望まれて、この〝世界〟に生まれてきたんだ、って」

「カイ……!」


 出生にまつわるあれこれが明かされたところで、世界は何一つ、変わったりしない。カイはこれからもただの稼業者だし、エルグランド国籍が生えてくるわけでもないし、身分も何もかも、ディアナとは不釣り合いなままだ。

 ――けれど。


「ありがとう、ディー」

「……っ」

「俺を、想ってくれて。俺の〝世界〟が、ほんの少しだけでも、優しいものになるように、って。ディーが願ってくれたから、俺はちゃんと、目を凝らして見つけることができたんだ」


 世界は、変わらず残酷なままでも。

 己から見た〝世界〟の感じ方を、受け止め方を、変えることはできる。

 カイの〝世界〟は……ずっと、ずっと。始まりから、優しかった。


 そう、思わせてくれたのは。


「ディー――……俺の、女神」


 彼女との出逢いこそ、カイの人生に訪れた、最大級の奇跡。

 底はないと思い知ったはずの想いの〝沼〟が、また一段、深くなる。既に頭の先から足先まで浸りきっているというのに、これ以上どこを、愛しさで埋めれば良いのだろう。


(愛してる、って言葉にできたら。少しは息が、しやすいのかな)


 ……けれど、それは、絶対のタブー。

 ディアナの立場を危うくするのは言うまでもないけれど……この〝想い〟の正体を言霊に乗せては、もう、カイ自身からディアナを守ることが、不可能になる。その確信が、カイにはあった。


(俺が息を吹き返せるのは……ディーから『紅薔薇』の蔓を全て断ち切って、後顧の憂いなく王宮を出られた、その先なんだろうね)


 それまでは。

 言葉にできない想いを、こうして少しずつ、態度に出していくしかないのかもしれない。


「ディー……?」

「……」


 腕の中でか細い吐息を漏らすディアナが、言葉を返す気配はない。

 少し腕を緩めて顔を覗き込むと、彼女は薄闇でも分かるほど、顔を真っ赤に染めていた。

 なんで、と思いかけ、はたと気づく。他人には散々言ってきたけれど、ディアナ本人に〝女神〟と告げたことはなかったな、と。

 愛しい女が、想いの丈を込めた言葉を、その通りに受け取ってくれて。受け取ったからこそ、言葉も出ないほど照れて戸惑い、全身を熱くさせているのだ。

 その、とんでもなく可愛らしい仕草に、カイの頭も一瞬で煮えた。


「ははっ……かーわいい」

「っ! そ、ういう、不意打ちは、ずるい、って」

「えー? 不意打ちでもなんでもないよ? 俺、ディーのことはいつでも可愛いって思ってるもん」

「それ、は……知ってる、けど。今のは、違うでしょ」

「……ふぅん? 分かるんだ?」


 ディアナのことは、いつでも可愛いと思っている。それは本心だ。

 だが、彼女の存在そのものを可愛いと思うのと、カイの想いを受け取ったディアナが照れ、恥じらう様を〝可愛い〟と思う、その性質が〝違う〟のも、確か。


 愛しい女を、心の赴くままに〝可愛がりたい〟と請い願う想いは、下心満載の欲望と、紙一重の位置にいる。


「ねぇ、ディー」


 ゆっくりと、ディアナを抱き締めていた右腕を、彼女の髪に伸ばし。

 綺麗に編まれた、その髪を撫でる。

 ぴくりと肩を揺らしたディアナは、何かを感じ取ったのか、潤んだ瞳でカイを見上げてきた。


「……このあと、夜会に、戻る?」

「ぁ……」

「『年迎えの夜会』で『紅薔薇様』がすることは……もう、全部、終わったんだよね?」

「そ、れは……そう、だけど」

「誰かに、何か、頼まれてる?」


 ふるふると、ディアナは首を、横に振った。


「陛下も、後宮に戻って構わない、って。さっき、シェイラたちにも迎えが来て、全員無事に部屋へ戻ったと、『闇』が教えてくれた、わ」

「……そっか、良かった」

「このあと、夜会ですることは……要注意人物の動向を、確認しておく、くらいで――っ」


 くしゃり。

 髪を撫でていた右手に力を入れ、カイは、結われていたディアナの髪を、誤魔化しようがないほどに乱した。

 髪の隙間へ指を通し、カイは至近距離から、ディアナの瞳を射抜く。


「……戻らないでよ」

「カ、イっ」

「今夜だけで、いいから。……いちばん近くで、眠りに落ちるまで、ディーのことを可愛がりたい」


 はっきりと、意思を込めて、ほとんどゼロ距離から囁いた。

 潤んだディアナの瞳に、恍惚が宿る。


「ほん、とうに。あなたは、ずるいひと」

「うん。ごめん」

「そもそも、戻りようが、ないじゃない。髪も、服も、こんなに乱されちゃ」

「……だよね」


 そう狙って乱したのだ。ディアナの責めは、甘んじて受けよう。

 ディアナの夜目がさほど効かないのを良いことに、してやったりの笑みを浮かべていると、不意に彼女が腕を伸ばし、抱きついてきた。


「ディー?」

「……カイ。私、神様じゃないの」

「知ってる、けど?」

「神様じゃないから……たまには、〝ワルイコト〟だって、したく、なる」

「……」

「……『紅薔薇の間』へ、帰りたい。連れてって、くれる?」


 そう言って、カイを見つめる、ディアナの眼差しには。……スタンザ帝国で〝なかった〟ことになった〝夜〟に見たものとよく似た〝色〟が見え隠れしていて。


(これは……自業自得だけど、自制心の限界に挑戦する感じかな)


 調子に乗って、煽った自覚はある。だからといって、ディアナがここまで乗ってくれるとは思わなかったけれど。


「――もちろん」


 二つ返事で頷き、カイはディアナを抱き上げた。


「カイ? 自分で歩けるから、」

「だーめ。ここに来るまでも、結構高低差あったでしょ? ここから『紅薔薇の間』までの最短ルートだと、一回地下に降りないとだし」

「で、でも、私重い……」

「前も言ったけど、ディー一人抱えられないような、柔な鍛え方はしてない。それに……」

「それ、に?」

「――ディーを可愛がる時間は、できるだけ長い方が、嬉しいから」

「~~~~っ」


 真正面から言ってみると、一瞬で体温を上げたディアナは、カイに抱えられたまま、両手で顔を覆ってしまった。

 全面降伏と判断し、笑い声を漏らしながら、カイは隠し通路を歩き出す。


「ぅう……慣れないこと、しなきゃ良かった」

「あ、やっぱりちょっと張り合おうとしてたんだ?」

「だって……いつもいつも、カイに言われっぱなしで反撃できないの、悔しいし」

「えぇ? そんなことないでしょ。俺も大概、くらってるよ?」

「その割に、ダメージ受けてるところ、見たことないけど?」

「そこはまぁ、俺にも意地ってものがあるしね?」

「なにそれ」


 仲睦まじく語り合う二人を、隠し窓から差し込む仄かな月光が、柔らかく見守っていた。


……本編には一切関係ないし、どう足掻いてもR15未満なのに雰囲気だけやたら……なので載せどころが難しいんですが、この後の二人、要りますか?(´・ω・`)

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― 新着の感想 ―
えっ、無いってことはないですよね?真顔。
え、ください(真顔)
すっごく欲しいです!
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