〝世界〟は愛で照らされる
〝決着〟編、最終話です。
ラスト、久々の甘々警報発令中!!
雲ひとつない晴天の夜空は、どこまでもどこまでも澄み渡り、冴え冴えとした月の光を、星々の煌めきを、地上へと届けている。
その光を、哀しいほど穏やかに見上げながら紡がれるマリアンヌの告解は、どこか神聖な空気すら纏う、厳かなものだった。
「デボラは、何度も、あの夜の出来事に私の過ちは何一つなかったと、あれ以上の手を打つことは不可能だったと、言ってくれるけれど……そんなことは、ないの。あの子を〝死なせて〟しまったのは、全て、私が弱かったから。弱くて……望まなかった〝現実〟に全力で立ち向かおうとしなかったから、起こったことだもの」
「……弱かった、から?」
「えぇ、そうよ。王宮という、自ら選んだ〝居場所〟を強引に奪われて、きっと、私はどこかで、己の人生を捨ててしまった。王宮侍女でなくなった私のことなんて、どうでも良かった。だから、シュラザードで、あの男の横暴に唯々諾々と従って、領主代行業務も反発することなく受け入れたの」
「そう、なんだ」
「……あのとき、もっと私自身に誇りと自信を持っていれば、あの男に形だけでも従うような真似はしなかった。仲間を集め、力を蓄えて、あの男からシュラザードの実権を完全に取り上げることだってできたはず。子を宿してからはなおさら、一年近くも時間があったのだから、その間に子を守る万全の体制を整えることはいくらでもできたわ」
マリアンヌの言は確かに理想的な〝たられば〟だが、当時の彼女がそのように行動したとして、確実に上手くいくとは断言できない。シュラザード侯爵は間違いなく醜悪で頭の足りない男だが、あの手の連中は己の地位を脅かす者の気配を本能で察知する。若い頃のマリアンヌが形だけでも従順だったから、侯爵はマリアンヌを脅威とは思わず、自己都合で邪魔になるまで排除しようとは考えなかった。
汚い手を使ってまで手に入れた妻も、要らなくなればあっさり毒を盛って殺害しようとする男である。若いマリアンヌが分かり易く叛旗を翻していたら、その時点で致死性の毒を与えられていた可能性は、決して低くないだろう。マリアンヌは己の弱さを嘆くが、結果だけを見れば、その〝弱さ〟こそが彼女を、デボラたち忠臣を、……そして。
「……いずれにせよ、あの子を〝死なせて〟しまった私は、もう、母親ですらないけれど」
紛れもない〝親〟の顔をしながら「死なせた」と語る〝子〟を、守ったといえる。
(……なんて俺が言っても、たぶん、なんの慰めにもならないんだけどね)
そもそも、マリアンヌは慰めを求めていない。――彼女の言葉は全て、もう二度と会わない相手へ贈る、別れの挨拶だろうから。
(俺、は……?)
果たして、マリアンヌと縁を切りたくて……己を〝棄てた〟存在と道を分かちたくて、今、この場に立っているのだろうか。ディアナが背を押してくれたから、マリアンヌと向き合えているのは確かだけれど、〝母親〟に対し思うところがカイの中に一つもなければ、あの聡明な『賢者』の末裔は、そもそも押そうとしないだろう。
カイがずっと、自分の中に抱えていたもの。抱えているのに見えなくて、未だ、言葉にできていない思いの片鱗を、ディアナは鋭敏に感じ取って。感じ取っていたからこそ、マリアンヌとしっかり向き合うべきだと――向き合って、見つけて、分かち合うべきだと、願ってくれたのではないだろうか。
そう、思った瞬間。
胸の内に、まるで緑の風が吹いたかのような心地がして。
ずっと、カイの中を覆っていた霧が、晴れていく。
霧が晴れた視界の先で、ゆっくりと立ち上がったマリアンヌは――。
「……たとえば。どこか遠い、別の世界で、あの子が今も生きているのなら。どうか幸福であってと――望むひととともに、望んだ未来を得て、幸福な生涯を全うしてほしいと、そう祈り続けることだけは、許してもらえるかしら?」
(あぁ――……そうか)
疑いを挟む、余地もない。
彼女は、カイを宿して、育んで。
己の命を賭け、この世へ送り出して。
カイに迫る魔の手を払い除け、己のできる精一杯を尽くし、守り抜こうとしてくれた――、
(俺の、母さん)
ソラと、同じく。
カイにとって、敬愛すべき、もう一人の〝親〟なのだ。
カイを見る、マリアンヌの瞳は。この奥庭で最初に対峙したときから、一度も決してブレることなく、我が子を愛する母のものだった。どうにもならない運命に翻弄され、清濁入り混じった感情の渦の中で、それでも彼女は必死にカイを愛し、母親として向き合ってくれた……否。
今も、こうして、向き合ってくれている。
(そう、だったんだ。だから……俺は)
あれほど見えなかった自分の心が、マリアンヌへと告げたい言葉が、今のカイにはくっきりと見える。
一度、気づけば。〝答え〟はずっと、同じところにあった。
「……許すも、許さないも、ないよ」
肩の力を、すとんと抜いて。
カイは、ゆっくりと一歩、マリアンヌへ近づく。
「俺の女神なら……たぶん、こう言うと思う。『心の中の真摯な祈りを、咎められる人なんていない。あなたが思うように祈り続けることは、神にだって止められない』って」
「……そう。そう、よね。――ありがとう」
凪いだ瞳で、静かに頷いて。
マリアンヌは視線をマグノム夫人へと向け、この場を立ち去る意思を、知らせてくる。
視線を受けたマグノム夫人は、物言いたげな眼差しをマリアンヌとカイへ向けたが、結局口を開くことはなく、その手を取って歩みを支えた。
そのまま、カイの横を通り過ぎ、回廊へ向かおうとするマリアンヌ。
ゆっくりと遠ざかるその背を、しばらく、無言で見守って――。
「……感謝、してるよ。俺は」
十歩ほど離れたところから、カイは静かに、言葉をかけた。
ぴたりと、マリアンヌの足が止まる。
「追手がつかないよう、誤魔化してくれたこと。旅人の目につきやすい、森の道近くに置いてくれたこと。拾った誰かが育て易くなるよう、〝養育費〟を用意してくれたこと。――極限の状態で、バレれば自分の命も危ういのに、それでも守ろうと、死力を尽くしてくれたこと。全部、全部、感謝してる」
……そう。マグノム夫人の話を聞いたときから、カイの中にあって。
あったけれど、見えなかったもの。
「……正直、思ってた。俺の存在は、俺を産んだ人にとって、重荷でしかなかったんだろう、って。事情を知ってますます、好きでもない男との間に義務感だけで授かった子なんて、本心では煩わしいばかりだったんじゃないか、って」
「そ――」
「――でも、違った。あなたはちゃんと、望んでいなかったはずの俺を受け入れて、慈しんで、この世に送り出してくれたんだよね」
気付いては、いなかった。拾って、育ててくれたソラが、実の親でもくれないような愛情を、カイに注ぎ続けてくれていたから。
〝自分は実の親から疎まれて、棄てられるような存在なのだ〟という自己否定概念が、薄ぼんやりと己の中にあったことなど、本当に知らなかった。きっと、その概念が形になるより先に、ソラが溢れんばかりの愛で散らしてくれていたのだろう。
それが見えてしまったのは、図らずも、マグノム夫人を通して、マリアンヌがカイを宿すまでを知ったから。絶望の中で宿った赤子である自分が、彼女をさらに追い詰めたであろうことは、想像に難くなくて。いくらマリアンヌが我が子を慈しんでいたと聞かされても、「どうして」という疑問が先に立った。
彼女がいかに、カイを愛してくれていたのか。守ろうとしてくれていたのか。
マリアンヌを知る人から聞かされる度、カイが感じていた奇妙な居心地の悪さと、らしくもない罪悪感の源は、物心つく前からカイの中にうっすら漂っていた、自己否定感情だったのだろう。
(……ディーは、気付いてた)
たぶん……もしかしたら出逢って間もない頃から、ディアナはカイの〝弱さ〟を見つけて、その〝弱さ〟ごと、受け入れていたのだ。
(そう、だよね。こんなの、俺が自分で見つけて、向き合わないと、意味がない)
向き合って、晴らさなければ……その先にある〝本当〟の心は、見えてこなかった。
「……俺があなたの中に宿ってから、あなたがどんな思いでこの命を育て、守ってくれたのか。どれだけ詳細に聞かされても、想像することしか俺にはできない。母になれば子を無条件に愛せるなんて幻想で、憎い男の血が流れる子のことを、心底憎んだ日だってあったはず。それでも……憎悪も確執も乗り越えて、あなたは我が子を愛する路を選び、母になることを、決断してくれた」
「――……っ」
「あなたは自分を弱いと、弱さゆえに我が子を〝死なせた〟と、罪の意識をずっと抱いているけれど。憎しみも、怒りも、絶望すらも受け入れて、飲み込んで、新たな命を愛情で迎え入れたその心根は、とても強いと俺は思う。強いと思うし――尊敬、してる」
マリアンヌの肩が、大きく震えた。
返ってくる言葉はないけれど、伝えるべき言葉を見つけた今、カイの口は滑らかに動く。
「シュラザードの嫡子は死んだ。でも、殺したのはあなたじゃない。シュラザード侯爵だ。望んで得たはずの嫡子を、あいつは己の身勝手で殺した。その報いが今になって巡ったからって、それはあいつの自業自得でしかない」
「っ、」
「そして……あなたが命をかけて守った〝カイルジーク〟は、あなたが望んだ通り、その翼を大海原へと拡げ、自由に、遠大な世界を飛んでいる。大変なことは多かったと思うけど、願ったとおり、幸せに生きてるよ」
「っ、……っ」
「……大海原?」
嗚咽が漏れるマリアンヌの肩を抱きしめていたマグノム夫人が、ふと疑問を音に乗せた。
思わず笑顔になり、カイは頷く。
「俺の、名前ね。旺眞語で、〝海〟って意味なんだって」
「うみ……」
「異国語が元になった名前と、実の母親がつけてくれた名前が同じ響きなの、すごい奇跡だよね」
――あなたがずっと愛されていた、その証明みたいな話。
優しい言葉が、カイの耳元で甦る。
……そう。ディアナは、言ってくれていた。「あなたは、ずっと愛されていた」と。
彼女の思いが、願いが、風となり。カイの中にしつこく漂っていた、自己否定という名の霧を晴らしてくれた。
生まれる前から……あなたはきちんと、愛されていた。存在を、肯定されていたと。
――だからこそ、見える。言える。
マリアンヌを知って、その心に触れてから、ずっと彼女に言いたかったこと。
「ありがとう、俺を産んでくれて。――母さん」
心からの……混じり気のない、感謝を。
マリアンヌの膝がついに折れ、地面に頽れた彼女を、マグノム夫人が優しく支え、その背を撫ぜる。
激しい嗚咽を漏らす彼女に、カイは、ゆっくり、歩み寄って。
「俺も、母さんに、同じことを言うよ。これまで苦しんだ分、どうかこれからは、望む人と、望む場所で、幸せに生きて。……母さんが幸せに生きられるよう、俺にできることがあったら、必ず力になるから」
「!!」
「マグノム女官長さんだって、知らない人じゃないんだし。母さんが幸せじゃなきゃ、女官長さんもたぶん、幸せにはなれない。で、女官長さんが幸せじゃないと、ディーは間違いなく気に病む」
「……間違いありませんね」
「でしょ? 俺の女神は、そういうところ、めちゃくちゃ欲張りだから」
空を、見上げる。煌々と輝く月は、どこか冷たいようで、実は形を変えながら太陽が照らす昼の空にも居座るほど、世界を遍く慈しんでいるのだ。
「……カイルジークが、姫神の絶対的な守護者であるように。俺も、俺の女神の〝総て〟を守る存在でありたいって、いつも思ってる。〝総て〟の中にはもう、母さんも含まれてるよ」
「――……カ、イ」
「一度、完全に切れたからって、縁がなくなるわけじゃない。望み合えば……また、新しい縁が結ばれる未来だって、あると思う」
「――っ!」
「だから、まずは元気になってよね。クレスター家に頼り切らない姿勢には共感できるから、マグノム女官長さん頼みでも良いと思うけど、不測の事態があったら都度相談はしてくれる感じで」
「心得ました」
マリアンヌより先に、マグノム夫人が頷いて。滅多に見せない満面の笑みを浮かべた。
「感謝します、カイ。ですが、ディアナ様の幸福のためには、何よりあなたの幸せが必要であること、どうかゆめゆめお忘れなく」
「俺は、ディーがいてくれたら、基本はずっと幸せだけど」
「えぇ。迷いなくそう返せる方であるからこそ――己の心に嘘をつかず、誠実に向き合い、得た〝答え〟のまま動ける方だからこそ、ディアナ様のお心を得られたのだと、私もようやく腑に落ちました」
「……女官長さん?」
首を傾げたカイの前で、マグノム夫人はマリアンヌを立ち上がらせる。
「あなたは、リアの息子。リアの愛する子なら、私にとっても我が子同然に慈しむ対象です」
「えぇと……そうなんだ?」
「はい。僭越ながら」
「僭越ってこともないと思うけど……俺別に、身分ある人間じゃないし」
「身分など、関係ありませんよ。リアが愛し、ソラ様が愛し――誰より、ディアナ様が深い想いを寄せられているあなたは、それだけ〝世界〟にとって、重んじられる存在なのでしょう。そこに加わるのは、私如き只人の身で、僭越というものです」
「……」
そういえば、父曰く、マグノム夫人もまた、エルグランド王国あるあるな『特殊核』の持ち主であるらしい。霊術が使えるほどの〝大きさ〟ではないので霊力者とは呼べないが、その『特殊核』が彼女に何かを感じ取らせていても、不思議はない。
(ディーのこともよく、〝祝福された魂〟って呼んでるし……マグノム女官長さんには、人間の本質みたいなのを感じ取れる、第六感があるのかも)
……だとしても、カイが〝世界〟にとって〝重要〟だなんて、大袈裟すぎる言い回しだが。
「そんな大層な存在には、これまでもこれからも、なるつもりないよ。――でも、マグノム女官長さんに認めてもらえたのは、素直に嬉しい」
「私の力など微々たるものですが、何かお困りごとなどあれば、遠慮なく仰ってください」
「うん。今後ともよろしく」
敢えて軽く頷き、カイは少し距離を取った。……そろそろ、マリアンヌはきちんと休むべきだろう。
「ひとまずは、母さんのこと、お願いして良い?」
「無論のことです。リアの世話を焼くのは、三十年以上前から、私の領分ゆえ」
「わぁ、大ベテラン。母さんも安心だね。……元気になったら、今度は良ければ、俺の〝これまで〟も聞いてほしいな」
その言葉に、マリアンヌは。
「――っ、え、ぇ」
嗚咽の中ではあったけれど、確かに大きく、頷いてくれた。
柔らかく笑って、カイは踵を返す。
「それじゃ、またね」
ここは、王宮内の奥庭だ。地面を蹴り、木々に紛れて気配を消せば、もう、カイの姿を捉えることはできなくなる。
庭の死角を進み、先ほどとは違う隠し通路の入り口を開き、滑り込むように中へ入ると。
「……おかえりなさい、カイ」
「――ディー」
フレッドは、約束を守ってくれたのだろう。隠し通路入り口のすぐ側で、壁にもたれかかるように、ディアナが夜会用の正装のまま、立っていた。
「……話、聞こえた?」
「直接、聞こえる距離ではなかったけれど……」
口ごもるディアナに、少し笑う。あれほど緑の多い場所で話していたのだ。多くの〝命〟と心を通わせ、中でも植物との相性がずば抜けて良いディアナは、知ろうと思えば彼らを通じて、あらゆるものを知ることができる。
「……盗み聞き、みたいなものよね。ごめんなさい」
「なーんで謝るかな? ディーにいて欲しいって、近くまで案内してって頼んだのは俺だよ?」
「でも、」
「ディーの霊力の特色だって、知ってる。知ってるんだからもちろん、〝聞かれてた〟って問題ない」
「……カイ」
重いドレスを纏いながらも、その重さを感じさせない足取りで、ディアナは滑るようにカイへと近づいて。
きゅ、と遠慮がちに、カイの服の裾を、摘む。
「……私、ね。世界って、とても残酷で、冷酷で、理不尽で。多くの場合、救いなんてなくて、ただただ絶望だけが押し寄せるものだ、って、知ってる」
「……そう、だね」
「でもね、決して絶望だけ、ってわけでもなくて。慈悲も、篤実も、道義も……希望も、たくさんあるって、分かってるの。分かっているけれど、なかなか、見つけられない。嵐のように、自分の意思とは無関係なところから襲ってくる絶望と違って、顔を上げて、目を凝らさないと見えないほど、希望は小さいから。〝ある〟と信じて見ようとしなければ、きちんと光ってすら、くれないから」
「……うん」
月の光が、わずかに届く、隠し通路の中。
間近で、うっすらと光る蒼の光は……ソラがカイへと与えた〝名〟、そのものにすら見えた。
「おせっかい、だったかもしれない。でも、見つけてしまったから。どうしても、マリアンヌ様の思いを、願いを、彼女の口から、あなたへ届けて欲しかった。……あなたの心が感じたものを、素通りして欲しくはなかったの」
(あぁ。本当に、ディーは――)
「――っ!!」
溢れ出る愛しさのまま、カイはディアナを引き寄せ、抱き締める。力を込め過ぎてしまったらディーを苦しめるだろうから、彼女が苦痛を感じないギリギリを見極めて。
一瞬だけ硬直したディアナは、次の瞬間には力を抜き、素直にその身を委ねてくれる。……だけでなく、おずおずとではあったけれど、その両腕をカイの背へと回し、控えめに抱き返してくれた。
「カ、イ?」
「ディー……ディーが見つけてくれた〝希望〟、受け取ったよ」
「!」
「カイも、カイルジークも、どっちも俺の名前だった。〝俺〟はちゃんと愛されて……望まれて、この〝世界〟に生まれてきたんだ、って」
「カイ……!」
出生にまつわるあれこれが明かされたところで、世界は何一つ、変わったりしない。カイはこれからもただの稼業者だし、エルグランド国籍が生えてくるわけでもないし、身分も何もかも、ディアナとは不釣り合いなままだ。
――けれど。
「ありがとう、ディー」
「……っ」
「俺を、想ってくれて。俺の〝世界〟が、ほんの少しだけでも、優しいものになるように、って。ディーが願ってくれたから、俺はちゃんと、目を凝らして見つけることができたんだ」
世界は、変わらず残酷なままでも。
己から見た〝世界〟の感じ方を、受け止め方を、変えることはできる。
カイの〝世界〟は……ずっと、ずっと。始まりから、優しかった。
そう、思わせてくれたのは。
「ディー――……俺の、女神」
彼女との出逢いこそ、カイの人生に訪れた、最大級の奇跡。
底はないと思い知ったはずの想いの〝沼〟が、また一段、深くなる。既に頭の先から足先まで浸りきっているというのに、これ以上どこを、愛しさで埋めれば良いのだろう。
(愛してる、って言葉にできたら。少しは息が、しやすいのかな)
……けれど、それは、絶対のタブー。
ディアナの立場を危うくするのは言うまでもないけれど……この〝想い〟の正体を言霊に乗せては、もう、カイ自身からディアナを守ることが、不可能になる。その確信が、カイにはあった。
(俺が息を吹き返せるのは……ディーから『紅薔薇』の蔓を全て断ち切って、後顧の憂いなく王宮を出られた、その先なんだろうね)
それまでは。
言葉にできない想いを、こうして少しずつ、態度に出していくしかないのかもしれない。
「ディー……?」
「……」
腕の中でか細い吐息を漏らすディアナが、言葉を返す気配はない。
少し腕を緩めて顔を覗き込むと、彼女は薄闇でも分かるほど、顔を真っ赤に染めていた。
なんで、と思いかけ、はたと気づく。他人には散々言ってきたけれど、ディアナ本人に〝女神〟と告げたことはなかったな、と。
愛しい女が、想いの丈を込めた言葉を、その通りに受け取ってくれて。受け取ったからこそ、言葉も出ないほど照れて戸惑い、全身を熱くさせているのだ。
その、とんでもなく可愛らしい仕草に、カイの頭も一瞬で煮えた。
「ははっ……かーわいい」
「っ! そ、ういう、不意打ちは、ずるい、って」
「えー? 不意打ちでもなんでもないよ? 俺、ディーのことはいつでも可愛いって思ってるもん」
「それ、は……知ってる、けど。今のは、違うでしょ」
「……ふぅん? 分かるんだ?」
ディアナのことは、いつでも可愛いと思っている。それは本心だ。
だが、彼女の存在そのものを可愛いと思うのと、カイの想いを受け取ったディアナが照れ、恥じらう様を〝可愛い〟と思う、その性質が〝違う〟のも、確か。
愛しい女を、心の赴くままに〝可愛がりたい〟と請い願う想いは、下心満載の欲望と、紙一重の位置にいる。
「ねぇ、ディー」
ゆっくりと、ディアナを抱き締めていた右腕を、彼女の髪に伸ばし。
綺麗に編まれた、その髪を撫でる。
ぴくりと肩を揺らしたディアナは、何かを感じ取ったのか、潤んだ瞳でカイを見上げてきた。
「……このあと、夜会に、戻る?」
「ぁ……」
「『年迎えの夜会』で『紅薔薇様』がすることは……もう、全部、終わったんだよね?」
「そ、れは……そう、だけど」
「誰かに、何か、頼まれてる?」
ふるふると、ディアナは首を、横に振った。
「陛下も、後宮に戻って構わない、って。さっき、シェイラたちにも迎えが来て、全員無事に部屋へ戻ったと、『闇』が教えてくれた、わ」
「……そっか、良かった」
「このあと、夜会ですることは……要注意人物の動向を、確認しておく、くらいで――っ」
くしゃり。
髪を撫でていた右手に力を入れ、カイは、結われていたディアナの髪を、誤魔化しようがないほどに乱した。
髪の隙間へ指を通し、カイは至近距離から、ディアナの瞳を射抜く。
「……戻らないでよ」
「カ、イっ」
「今夜だけで、いいから。……いちばん近くで、眠りに落ちるまで、ディーのことを可愛がりたい」
はっきりと、意思を込めて、ほとんどゼロ距離から囁いた。
潤んだディアナの瞳に、恍惚が宿る。
「ほん、とうに。あなたは、ずるいひと」
「うん。ごめん」
「そもそも、戻りようが、ないじゃない。髪も、服も、こんなに乱されちゃ」
「……だよね」
そう狙って乱したのだ。ディアナの責めは、甘んじて受けよう。
ディアナの夜目がさほど効かないのを良いことに、してやったりの笑みを浮かべていると、不意に彼女が腕を伸ばし、抱きついてきた。
「ディー?」
「……カイ。私、神様じゃないの」
「知ってる、けど?」
「神様じゃないから……たまには、〝ワルイコト〟だって、したく、なる」
「……」
「……『紅薔薇の間』へ、帰りたい。連れてって、くれる?」
そう言って、カイを見つめる、ディアナの眼差しには。……スタンザ帝国で〝なかった〟ことになった〝夜〟に見たものとよく似た〝色〟が見え隠れしていて。
(これは……自業自得だけど、自制心の限界に挑戦する感じかな)
調子に乗って、煽った自覚はある。だからといって、ディアナがここまで乗ってくれるとは思わなかったけれど。
「――もちろん」
二つ返事で頷き、カイはディアナを抱き上げた。
「カイ? 自分で歩けるから、」
「だーめ。ここに来るまでも、結構高低差あったでしょ? ここから『紅薔薇の間』までの最短ルートだと、一回地下に降りないとだし」
「で、でも、私重い……」
「前も言ったけど、ディー一人抱えられないような、柔な鍛え方はしてない。それに……」
「それ、に?」
「――ディーを可愛がる時間は、できるだけ長い方が、嬉しいから」
「~~~~っ」
真正面から言ってみると、一瞬で体温を上げたディアナは、カイに抱えられたまま、両手で顔を覆ってしまった。
全面降伏と判断し、笑い声を漏らしながら、カイは隠し通路を歩き出す。
「ぅう……慣れないこと、しなきゃ良かった」
「あ、やっぱりちょっと張り合おうとしてたんだ?」
「だって……いつもいつも、カイに言われっぱなしで反撃できないの、悔しいし」
「えぇ? そんなことないでしょ。俺も大概、くらってるよ?」
「その割に、ダメージ受けてるところ、見たことないけど?」
「そこはまぁ、俺にも意地ってものがあるしね?」
「なにそれ」
仲睦まじく語り合う二人を、隠し窓から差し込む仄かな月光が、柔らかく見守っていた。
……本編には一切関係ないし、どう足掻いてもR15未満なのに雰囲気だけやたら……なので載せどころが難しいんですが、この後の二人、要りますか?(´・ω・`)




