新年の告発
「……私の居所を、何故、縁もゆかりもないお嬢さんへ問うのですか?」
ディアナが、シュラザード侯爵へ向けて踏み出した足を、足音高く降ろそうとした、瞬間。
前触れなく響いた、まるで鈴の音の如く可憐な声が、ディアナだけでなくその場にいる全員を硬直させた。
誰も――ディアナすら予想だにしなかった闖入者は、己の一言が場の空気を一変させたことを自覚しているのかいないのか(していないわけないとは思うが)、そのままゆっくりと、しかし自然な足取りで、騒ぎの中心部へと歩を進めて。
「――当代側室筆頭にして、正妃代理をお務めでいらっしゃる紅薔薇様に、ご挨拶を申し上げます。私の名は、マリアンヌ。かつて、この王宮で、侍女として働いておりました」
「……お話は、伺っております。どうか、頭をお上げください。正妃代理とは申せ、わたくしはあくまでも一側室ですから」
目の前で、王宮侍女が主へ執る、美麗な正当礼を見せられたディアナは、その仕草の優雅さと、それ以上に彼女の体調が心配で、思わず心からの言葉を発してしまった。反射で彼女の状態を解析しようとして、いつものように上手く細部が覗けない感覚に、そういえば今、大ホールは霊術が使えないんだっけ、と思い出す。……何となく感じ取れる雰囲気では、確かに支えなしで立って歩けるほどに回復はしているけれど、だからといって毒が抜けているわけではもちろんない。頼むから、病人は寝台で安静にしていてほしいと、うっかり医者の顔が出てしまいそうになる。
そんなディアナの葛藤を察したわけではないだろうけれど、目の前の女性――シンプルだが品の良い夜会用ドレスに身を包んだマリアンヌは、スッと姿勢を元に正す。
顔を上げた彼女と、必然、目が合った。
「――!!」
(……似て、る)
艶やかな枯葉色の髪は、大ホールのシャンデリアを受け、明るく煌めいて。
星の光のような輝きを宿す紫水晶の瞳は、揺らがぬ信念を宿し、ディアナをまっすぐ見つめている。
その目鼻立ちと肌の色、ひいては立ち居振る舞いに至るまで――。
(確かに、瓜二つだわ。――〝カリン〟と)
〝カリン〟を目の当たりにしたマグノム夫人が、ライアとヨランダが、即座に血縁関係を確信した理由が、一目瞭然で分かる。寝台で瞼を閉じているときも、顔パーツの形と配置がそっくり、これは似てるなと思ったが、目覚めて自らの意思のまま手足を動かすマリアンヌは、瞳の色と身長以外、何もかもが〝カリン〟そっくりであった。……ディアナはスタンザ帝国で、何が起ころうと決して揺らがない〝カリン〟の眼差しに幾度となく助けられたから、余計にそう感じるのかもしれない。
その、色こそ違えど輝きは〝カリン〟そっくりな瞳に、強い決意を乗せ、マリアンヌは口を開く。
「紅薔薇様におかれましては、夫と呼ぶのも憚られる男ではございますけれど、シュラザードの者がご迷惑をおかけいたしました。謹んで、お詫び申し上げます」
「いえ……シュラザード侯は、女官長のシャロン・マグノムに、強い敵意を抱いております。わたくしは側室筆頭として、女官長に危害を及ぼす可能性の高いシュラザード侯を、見過ごすことはできません」
「無論のことにございます。私の陳述と合わせ、どうぞ正当に、この者の罪を裁いてくださいませ」
ハキハキと受け答えるマリアンヌは、とてもではないが、ほんの数日前まで毒で人事不省に陥っていた人には見えない。側室として後宮入りしてから、ディアナは親世代の超人ぶりを何度も痛感しているが、もしかしてマリアンヌも超人寄りの人なのだろうか。
(……充分あり得る。なんていったって、あのカイを産んだ方だもの)
だとしたら、下手に心配して、マリアンヌの動きを遮るべきではない。ここはむしろ、マリアンヌのフォローへ回る局面であろう。
ディアナは、考えていた立ち回りを、ガラッと変えることにした。
「侯爵の責は、もちろん問われることとなりましょう。……しかしマリアンヌ様、〝陳述〟とは? 何か、侯爵について、王宮や国王陛下へ申し述べたいことがおありなのでしょうか?」
この先、場を主導すべきは、当事者であるマリアンヌであるべきだ。
そう考えたディアナの水向けは正しく伝わったらしく、マリアンヌはほんのわずか、唇を綻ばせた。
「左様です、紅薔薇様。私は本日、この男に長年強いられてきた非道を告発し、その罪を断じるべく、場違いは承知の上で、国王陛下とこの男が同じ場に存在するであろう夜会場へ参りました」
「そうだったのですね。ならば、告発の場には、陛下もご同席いただくべきでしょう。すぐに場を設けますゆえ、少々お時間を頂けますか」
「――それには及ばぬ」
絶妙のタイミングで、野次馬の向こうから朗々とした声が響いた。出て行くタイミングを図っていただけで、たぶん中の声が聞こえる範囲にはいてくれているだろうな、と思ったから、分かりやすく呼んでみたが。無事に通じたようで、何よりである。
ディアナの「出てくるなら今だよー」の合図に応えたジュークを通すべく、また野次馬集団が、息の合った連携プレイでぱかりと割れ、道を作った。……こうして見ると、実はエルグランド人、結構ノリ良く団結力もあるのでは。
アルフォードを伴い、人垣がチームプレイで作った道を堂々通ったジュークは、ディアナに気さくな笑みを向けてくる。
「まったく、遅いぞ紅薔薇。そなたと新年の挨拶をせねば始まらぬと思っていたのに、いつまで経っても姿を見せぬ。待ちくたびれて、迎えに来てしまった」
「ありがとう存じます、陛下。左様に懐深い我が国の国王陛下に、今年もますます、アメノス神のご加護がありますよう」
「寿ぎに感謝する。そなたにも、この上ない恩寵があるように」
恒例の「紅薔薇と仲良し」ムーブをサクッと終わらせ、ジュークは一転、真剣な表情をマリアンヌへ向けた。
「……母上から、聞いたことがある。私がまだ赤子だった頃、乳母の他に、とてもよく懐いていた侍女がいた、と。母上もその侍女を頼りにしていたが、王宮に忍び込んできた悪漢から私を守ろうと身体を張ったことがきっかけで、遠方の侯爵家へ嫁ぐことになった――と」
そう語るジュークを、マリアンヌは凪いだ眼差しで見つめている。
ゆっくりと、ジュークは一歩を踏み出した。
「その〝侍女〟とは、そなただろう? マリアンヌ・シュラザード」
「……左様にございます、陛下。大変ご立派になられましたこと、リファーニア様はもとより、オースター先王陛下も、お喜びでございましょう」
「世辞は良い。私は未だ、偉大な父上の足元にも及ばぬ。そなたのような旧臣にとっては、さぞ頼りない王であろう。――しかし、だからこそ、父上と母上が実力を認めたあなたが、再びこの王宮を訪れてくれたことを、とても頼もしく思う」
「勿体無いお言葉、身に余る光栄に存じます」
ここまで、ジュークはディアナとマリアンヌにのみ声をかけ、その背後にいるシュラザード侯爵へは一瞥すらくれない。よほど鈍くなければ、ジュークがシュラザード侯爵夫妻の〝どちら〟を重んじているかはすぐに分かるだろう。現金なもので、ディアナ一人のときはシュラザード侯爵に肩入れする心情を見せていた保守派のお歴々も、ジュークの様子を見て旗色を察したのか、いつの間にか野次馬から消え失せていた。言葉こそ発していなかったものの、野次馬の一人としてシュラザード侯爵寄りの姿勢を見せてしまった以上、その場に留まり続けることは得策ではないと判断したと見える。
――結果。
「さて、夫人。あなたが紅薔薇へ訴えていた、〝シュラザード侯爵に長年強いられてきた非道と、彼の罪〟について、詳細を聞かせてもらおうか」
シュラザード侯爵包囲網は、図らずもジュークの登場によって、一分の隙もない、堅牢なものとなったのである。
ちなみに、マリアンヌの登場からここまで、シュラザード侯爵は一言たりとも発していない。正確には、想像すらしていなかった事態に見舞われて度肝を抜かれ、何か言うどころの状態ではなくなったのだ。彼の顔には分かり易く、「何故マリアンヌがここにいるのか」「どうして平然と立って、話しているのか。もはや死ぬのを待つばかりという状態であったはずなのに」と書かれていた。
ジュークが話題を軌道修正したことで、ようやく魂がこちらへ戻ってくる気配を感じたけれど、完全復活には今しばらくかかるだろう。――ちょうど良い。邪魔される前に、本題はサクッと提示しておこうではないか。
「女官長への狼藉事件を契機に、シュラザード侯爵について、一通りの調査は行いました。彼は、わたくしの侍女の一人がマリアンヌ様に大変似ているという噂を小耳に挟み、彼女の詳細な素性を教えろと、女官長に再三迫っていたのです。しかしながら、内宮に仕える者は皆、上は側室、下は下働きの下女下男に至るまで、全て王家の私に属する存在。その素性の詳細を知るのは王族のみであり、本人が承諾した情報のみ公表されることは、内宮の規定にある通りです。女官長に堂々と服務規程違反を強要するシュラザード侯爵は、正気の沙汰とは思えません。そこで調べてみたところ、彼は二十年前に嫡子を亡くして以降、実子に恵まれていないそうですね」
「その通りです。大方、紅薔薇様の侍女殿が私に似ていると聞いて、二十年前に亡くしたあの子が奇跡的に生きていたか、仮に赤の他人であったとしても、〝母親〟とそっくりだという理由で強引に嫡子だと押し通す腹づもりだったのでしょう」
凍てついた眼差しでシュラザード侯爵を一瞥し、マリアンヌはジュークに深く礼を執る。
「……これからお話しすることは、シュラザード侯の罪であると同時に、私の罪でもあります。どうか、公平なお裁きをお願いしたく存じます」
「当然、裁可に私情を挟むようなことはしない。……楽にして、話を頼む」
「寛大なお心に感謝いたします」
許可を得て姿勢を正したマリアンヌは、ゆっくりと口を開いた。
「シュラザード侯との婚姻は、決して私の望むものではございませんでした。しかし、どれほど心と違えども、親が決めた家へ嫁ぐは、エルグランド貴族の定め。シュラザード侯爵領にて、アルメニアの神々とは異なる神、アント神へ結婚の誓いを捧げ、私はシュラザードの姓を持つ身となりました」
ざわざわと、この告白だけで野次馬が大いに揺れる。宗教に無頓着な国民性ではあるけれど、唯一アント聖教だけは、長く戦争をしていた〝敵国〟の宗教ということもあり、忌避する向きが強い。そんな宗教を、侯爵位にある貴族が結婚を誓うほど深く信仰していたという事実は、それだけ衝撃だったのだろう。
「結婚してから一年ほどは、覚悟していたほど悲惨ではございませんでした。侯爵は私のことを、都合よく領主の仕事を押し付けられ、気が向けば好きに嬲れる道具程度に扱っておりましたけれど、皮肉にも領主の仕事を代行することで、シュラザード領には心ある民が大勢おり、そんな彼らと共に領政を行うことで、絆を深めることが叶いましたので」
「……嫁いで間もない夫人に領主の仕事を代行させるなど、その話だけでシュラザード侯の資質は明らかではあるがな」
「はい。そちらも間違いなく、侯爵の罪でしょうけれど……私が訴えたいのは、嫁いで一年余りが経ち、私が出産した、その後からの話です」
静かに瞳を閉じたマリアンヌは、しかし沈黙を長くは続けなかった。
次に瞼を開いたとき、その美しい紫水晶の瞳には、ただ混じり気のない決意だけがあって。
「ご存知の方も多いかと存じますが、アント聖教の教義の一つに〝黒は禍つモノ〟という一文がございます。エルグランド王国の一部にも黒が不吉だという言い伝えはございますけれど、アント聖教の、特に教義を重視する〝教義派〟の者にとって、黒は徹底的に排除すべき色。その教義は徹底しており、身体の一部に黒を持って生まれた子は〝悪魔の子〟とみなされ、その場で〝始末〟することこそ、神の御心に叶う正義とされているのです」
「なんと!」
「そのように野蛮な振る舞いが……」
「……まさか、侯爵夫人がお子を〝死産〟されたというのは」
「……お気付きの方もいらっしゃるでしょう。わたくしが産んだ息子は、瞳が黒に近い色でした。明るい場所であれば全き黒には見えぬでしょうけれど、私があの子を産んで三日経ち、侯爵が初めてあの子を見たのは、月の光さえ届かぬ新月の夜だったのです」
野次馬たちが息を呑み、信じられないものを見る目を侯爵へと向ける。マリアンヌの語りが巧みなこともあるけれど、かなりのスピードで、シュラザード侯爵への嫌悪感が募っているようだ。
「息子を一目見て、侯爵は激怒しました。よりにもよって〝悪魔の子〟を産むとは何事か、そんなモノは我が子でも跡取りでも何でもない、今すぐ〝始末〟せねば私もろとも騎士の剣のサビとする、と……。追い詰められた私にできたことは、どうにか侯爵の目を盗み、息子を領邸の外へ逃すことだけでした」
「……ではもしや、そのときの子が、紅薔薇の侍女か?」
「いいえ、陛下。あの子は確かに男の子でしたし、邸の外へ逃がせたとは申せ、現実は危険な場所へ置き去りにしたようなもの。朝晩は雪がちらつくほど寒い季節に、一人取り残された赤子が生き延びられる可能性は、限りなく低いでしょう。紅薔薇様の侍女殿は、それこそ赤の他人の空似と存じます」
「侍女も同じことを申しておりました。〝カリン〟はマグノム侯爵家の遠縁で、両親の素性もはっきりしております。マリアンヌ様と似ていたとしても、単なる偶然ではないか、と」
「なるほどな。……しかし、夫人には辛い現実であるか」
「お気遣い、ありがとうございます。しかし、あのように理不尽な圧力に屈し、本来であればこの命を賭して守るべきであった王国の未来を担う子を、私はみすみす手放してしまったのです。国王陛下に忠誠を誓う王国貴族として、決して犯してはならない罪であったと、ここに懺悔いたします」
跪き、深々と、地面につくほどの低さで頭を下げるマリアンヌ。古式ゆかしい、エルグランド貴族が国王へ罪を告白する際の姿勢となった彼女に、野次馬たちから悲痛な視線が注がれる。
そんな野次馬たちの同情心に後押しされた形で、ジュークはマリアンヌの前で膝をつき、彼女に手を差し伸べる。
「夫人が頭を下げることではない。王国中央の常識が及ばぬ土地で、そなたはできるだけのことをしてくれた。王家への忠義はありがたく思うが、その心ゆえ、必要以上に己を責めることはしないでほしい」
「……陛下」
涙ぐむマリアンヌの背を支え、ジュークは彼女をゆっくりと立ち上がらせた。やはり本調子ではないらしく、立った瞬間に大きくふらついたマリアンヌを見て、野次馬の一人が給仕を呼び、椅子を持って来させる。……〝観客〟全員がマリアンヌの味方となった現状、ディアナの役目はもう終わったようなもの。あとは見届け人として、結末を見守るのみだ。
給仕が持ってきた椅子に座らされたマリアンヌは、持ってきた給仕とそれを命じた貴族に感謝を述べてから、正面のジュークを見上げた。
「〝悪魔の子〟を産んだからか、出産後、侯爵の私への興味関心は消え失せました。子を喪ってからの私は身体を大きく壊し、なかなか体調が快復せぬ中、変わらず領主代行を務め、〝侯爵夫人〟が必要な社交に引きずり出され、死んだ心で日々を過ごしていたのです。侯爵は『跡取りがいないと家が途絶える』と尤もらしい理屈をつけ、別邸にて愛人と淫蕩に耽るばかりで、領邸へは滅多に姿を見せません。それならばいっそ離婚してくれれば良いものをと、そう持ちかければ、『アント神の御前で誓った婚姻を破棄するなど、貴様は私を地獄行きの重罪人にしたいのか!』と怒鳴られるばかりで、話にすらなりませんでした」
「酷い話だ。アント聖教が離婚を禁じているという話は、聞いたことがあるが。だからと言って妻を蔑ろにし、邸で飼い殺しにして良い理屈にはならぬ」
「侯爵が陛下のように誠実な男性であったなら、私はきっと早いうちに、離婚できていたのでしょうけれど……シュラザード侯爵は、死後地獄行きになりたくないという理由だけで、とっくに破綻している婚姻関係を、形のみ継続させました。しかしながら――」
言葉を切ったマリアンヌは、ここで初めて、強い憤りを表に出し、椅子に座ったまま振り返り、立ち尽くしているシュラザード侯爵を睨み据えた。
「これは、私の体調を案じた腹心の侍女が密かに私を連れ出し、湯治で有名な療養所へ逗留できたことで、明らかになった事実なのですが。……シュラザード侯爵は長年、身体の弱った私を治療する名目で、薬と偽った毒を、与え続けていたのです」
「な――!?」
目を剥いて〝初めて聞いた事実に言葉を失った〟演技をしたジュークの周りでは、野次馬たちがそれ以上にざわめき、声なき悲鳴を上げていた。バカな、まさかそこまで、何と非道な……耳を澄ませるまでもなく、シュラザード侯爵を非難する声が、群衆のそこかしこから聞こえてくる。
「何とも小狡いことながら、そちらは蓄積型の毒物であり、体内含有量が基準値を大きく上回れば上回るほど、体調を崩していくというものでした。毎日微量ながら毒素は体外へ出ていきますので、毒を与える量を調整すれば、私の身体をもコントロールすることができます。シュラザード侯爵はそのようにして、〝妻〟が必要な社交が控えている時期は私の小康状態を保っていたのです」
「それは……何ともとんでもない話だ。侯爵自らが薬を手配していたのか?」
「いいえ。侯爵が雇った私の〝主治医〟がもともと、医者とは名ばかりの、金さえもらえればどんな悪業も良心の呵責なく行える、性根の歪んだ者だったのです。彼は長年、侯爵の命令に従い、私の体調を悪くしたり、たまに快復させたりを、繰り返しておりました」
「聞けば聞くほど、悪辣な行いではないか。シュラザード侯はまさかと思うが、殺人未遂や暴行罪は、貴族であっても夫婦間であっても成立すると、知らなかったのか?」
「……どうでしょう。長い間、シュラザード領を支えてくれている領民たちによりますと、彼は領地に関する報告書もまともに読み解けぬそうですが」
遠回しに「王国の刑法を知っているかも怪しい」とバッサリ切り捨て、マリアンヌは深々とため息をついた。
「私がこれらの事実を知ったのは、先ほども申し上げました通り、腹心の侍女が連れ出してくれたからなのですが……彼女が私をこれ以上領邸に留め置けぬと決断したきっかけは、件の医者から渡された、〝薬効のある煙が出る薪〟だったそうです」
「そのような薪があるのか? 聞いたことないが」
「その薪は、アント聖教が到底認められぬような、黒い色をしていたそうです。医者は、『薬効のある煙が逃げないよう、窓と扉は閉め切って、薪を燃やすように』と指示したそうなのですが……侍女はかつて、〝冬場、黒い薪を狭い部屋で炊いて、一家が危うく命を落としかけた〟逸話を聞いたことがあったらしく、医者の話を疑問に思ったらしいのです」
「……それはまた、何とも恐ろしげな逸話であるな。その黒い薪とは、結局何なのだ?」
「湯治場のお医者様によりますと、そちらの薪は、医者の間では広く知られた、〝通常の薪より長持ちするが、呼吸を妨げる煙を出すため、換気の行き届かない狭い部屋で使うことは推奨されない薪〟だそうです。侍女が聞いたという〝逸話〟も、あり得ぬ話ではないとのことでした」
「そのような薪を……病で身動きままならぬ夫人の寝室で、窓と扉を閉め切って燃やすよう、その〝医者〟は命じたと?」
「左様です、陛下。話を伺ったお医者様は、『状況から判断して、明確な殺意があったことは間違いない』と仰っておりました」
「あぁ。私も同感だ」
深く首肯したジュークへ、マリアンヌも頷いて。
「医者に疑問を抱いた侍女の力添えもあり、私はシュラザード領を離れ、療養することが叶いました。私の侍女は有能で、医者から与えられた薬も、件の薪も、実物を手元に残しておりましたので、侯爵が医者と共謀し、私を殺害せんとした証拠は、すぐにお出しできます。……長年、生かさず殺さずを続けておきながら、何故今頃、本格的に殺そうとしているのか、その理由は存じませんけれど」
「……なるほど。夫人の話はよく分かった。そのように非道な仕打ちを受け続けながら、よくぞ己の命を守り切り、こうして姿を見せてくれたこと、王として心より敬意を表し、感謝する。夫人の無事を知れば、母上もさぞ喜ぶであろう」
「そのお言葉を頂戴しましたことこそ、何よりの誉にございます。――陛下。私の訴えを、お聞き願えますでしょうか」
「無論だ。申すが良い」
「――私、マリアンヌ・シュラザードはここに、現シュラザード侯爵がここ二十年あまり、領主業務を放棄していた事実を告発いたします。並びに、陛下の臣民たるシュラザード侯爵家の血を引く子を、瞳の色が黒であることを理由に殺害せんと図ったこと、その母である私にも毒を盛り続けていたこと、最終的に殺そうとしたことも、併せて申し述べます。現シュラザード侯爵は領主として甚だ不適格であり、身勝手な理由で他者の命を奪うことを悪とも思わぬ振る舞いは、到底民を導く貴族の行いではございません。……加えて、二十年以上も前の話にはなりますが、そもそも、私がシュラザードへ嫁ぐきっかけとなった〝王太子殿下襲撃事件〟に関しても、侯爵が裏で手を回していた事実が明かされております」
マリアンヌが最後の〝告発〟を閉じた瞬間、今日イチのどよめきが、主に両親世代以上の貴族たちから上がった。若い世代はむしろ、大人たちの尋常でない様子に驚いているようだが、彼らもシュラザード侯爵には厳しい眼差しを向けているので、ここはこのまま突き進むべきだろう。
「当時はまだ赤子であった陛下を危険に晒してまで、自身の欲望を優先させた侯爵の行いが、王国貴族としてどう断じられるべきかは、陛下をはじめとした王宮の方々に委ねたく思います。……ですが、一つだけ希望を述べるなら、始まりからそもそも歪んでいた私の婚姻を、どうかこの場で終わらせて頂きたく、お願い申し上げる次第です」
マリアンヌが、座ったままではあったが、ジュークに向かって深々と頭を下げた。王国貴族の結婚は、結婚する両者と見届け人が署名した婚姻誓約書を王宮が受け取ることで成立し、離婚の際は同じく、両者と見届け人が署名した婚姻破棄届を王宮に提出する。この〝署名〟がかなり重要で、後々偽造を訴えられ、筆跡鑑定で認められた場合、かなり重い偽証の罪に問われるのだ。
しかし、結婚はともかく、離婚は揉めることが多い。どちらも離婚を望んでいる場合はともかく、片方が婚姻関係の継続を望んでいる場合、〝両者〟の署名が揃うことはまずないだろう。マリアンヌと似たケースの、夫の横暴に耐えかねた妻が離婚したくとも、夫の署名欄が空白のままではそれも叶わないということになりかねない。
そのため、あまり知られていないけれど、王国法には救済措置があった。片方が頑なに離婚を認めず、婚姻破棄届の署名欄が空白の場合でも、婚姻継続が不可能であると王が認めた場合のみ、届なしで離婚が認められるのである。国王陛下に〝結婚〟などという私事を訴える者など基本いない(し、そんな機会もそもそも多くない)ため、広く知られた救済措置ではないが、長年王宮侍女として宮仕えしてきたマリアンヌはさすが、王国法規に詳しいようだ。
長年の苦難を白日の元に晒し、控えめながら「離婚したい」と訴えるマリアンヌは、そのやつれた風情ですら人々の同情を広く誘う、楚々として儚げな美貌の華人であった。野次馬たちは彼女の訴えに心を打たれ、ジュークの裁可を固唾を飲んで待っている。
全てがマリアンヌの――ディアナたちの望む方向に進んでいると思われた、そのとき。
「――許さぬ、許さぬぞ!! シュラザードに嫁いでおきながら、身勝手にも離縁しようなど! そのような狼藉、断じて認めぬ!!」
何が、彼を再び動かしたのか。呆然と立ち竦むばかりだったシュラザード侯爵が、突如として喚き出した。足音高くマリアンヌの前へ飛び出して来ようとするのを、空気が読める王宮騎士たち(先ほど、ディアナに跪いた二人だ)が、槍をクロスさせて取り押さえる。
動きを阻まれながら、それでも侯爵は、怯むことなく叫び続けて。
「端女風情であった貴様を、その美貌を買い、娶ってやったというのに! 感謝しひれ伏すどころか、何を勘違いしたのか、いつまでも不遜な態度のまま、私を立てることもしない! 後継すら満足に産めぬ不出来な女を、それでも妻として使ってやっていたのだ! 感謝されこそすれ、罵られる道理などないわ!!」
「……シュラザード侯よ。つまりそなたは、夫人の証言が真実であると、認めるのだな?」
「――なに?」
「夫人が、そなたに代わり、領主業務を行っていたこと。夫人が産んだ子を〝悪魔の子〟と罵り、始末するよう命じたこと。夫人を蔑ろにするばかりか、長年毒を与え、生かさず殺さずの状態で飼い殺しにしていたこと。――そして遂に、殺害せんと図ったこと。全て、認めるのだな?」
「……加えて、かつて王宮で起きたという、〝王太子殿下襲撃事件〟の主犯であることも、です」
「あぁ、そうだった」
件の事件に関しては、ジューク自身当事者なだけに、なかなか言いづらいだろう。そう思って口を挟めば、ジュークからは感謝の視線が返ってきた。やはり、己が絡んだ事件に関しては、言及しづらかったようだ。
シュラザード侯爵は――既に正気は失せているように思えたが――意外なことに、ジュークとディアナの追及に対し、すぐには反応しなかった。
二人が語った内容を、おそらくはしっかり、頭の中で吟味して。
「……領主の仕事は、夫婦が共同で行うもの。私は、妻の得意分野を任せたに過ぎぬ。私自身、大局を見て、領地守護職に指示は出していた。領主の仕事を完全に放棄していた事実は、ない」
「……そうか。それで?」
「他については、身に覚えのないことだ。大病を患った妻のため、医者を手配したことは認めるが。もしもその医者が毒を与えていたとしても、私には関係のないこと。全て、その医者が勝手に犯した罪である。医者を見つけ、好きに裁くと良い。――が、私が罪に問われる謂れはない」
先ほどの激昂から一点、不気味なほどの抑揚のなさで訥々と語る〝申し開き〟は、感情が欠片も伝わってこないだけに、ひたすら不気味であった。……実際、侯爵本人の言葉というより、どこか不自然な、〝他人の言葉を借りて話すお人形〟のような印象を受ける。
(どう考えても詭弁だし、彼の言い分はバッサリ却下しても、陛下の評判に傷はつかないだろうけど……)
できれば、あとひと押し、決定的な〝何か〟が欲しい。
歯がゆい思いをディアナが噛み締めた、その瞬間。
「陛下、お待たせいたしました――!」
新たに現れた人物の朗々とした声が、大ホールに響く――!




