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悪役令嬢後宮物語  作者: 涼風
にねんめ
238/248

お世話になった方々と

今回、少し閑話的な雰囲気です。


「陛下、紅薔薇様。楽しまれておりますか?」


 これまでになく長い挨拶タイムに、ディアナの心がそろそろ悲鳴を上げ始めた頃。

 ディアナの内なる叫びが聞こえたわけではないだろうけれど、まさに図ったようなタイミングで、唯一無二の豊かな響きを宿す声の持ち主、ストレシア侯爵が現れた。傍には、スタンザ帝国風美貌が冴え渡った奥方、ドーラを伴っている。


「おぉ、ストレシア侯。紅薔薇とは国使団の帰還式以来か?」

「そうですね。ストレシア侯爵、その節はお世話になりました。侯爵夫人、ご無沙汰いたしております」

「これはご丁寧に、ありがとうございます。スタンザ帝国にて、紅薔薇様がバルルーンのご隠居殿と親しくされていたと話したところ、妻がぜひ、紅薔薇様と直接お話ししたいと申しましてな。陛下、恐れ入りますが、しばし紅薔薇様との時間を頂戴してもよろしいですか?」

「もちろんだ。紅薔薇も、そろそろ夜会を見て回りたい頃合いだろう。私のことは気にせず、楽しんで来ると良い」


 これは、もしかしなくてもアレ――実は夜会慣れしていないディアナの限界を察した仲間たちによる、救済措置というやつか。『シーズン開始の夜会』でヨランダの弟アベルが出てきてくれたように、今回はストレシアご夫妻がその役を引き受けてくれた、らしい。

 貴族のくせに貴族慣れしていない、こんな若輩者如きを救済するには、あまりに恐れ多いご夫妻ではあるけれど。正直ディアナの精神もそろそろ臨界点へ到達しそうだったので、ここは素直に乗っかることにする。


「ありがとう存じます、陛下。お言葉に甘えまして、少しこの場を失礼いたしますね」

「あぁ、無理はしないように。そなたほど、代えの利かぬ存在も居ないのだから」

「恐れ多いお言葉ですわ」


 普通に聞けば、側室『紅薔薇』をこの上なく重用している王の心情が込められた台詞に聞こえるだろうけれど、ジューク的には「無理をさせてそなたの心身に異常でも出たら、気軽に国を滅ぼしかねない男が控えているのだから、ほどほどに休んでくれ」と言いたいだけだろう。ジュークはこれでも王宮生まれの王宮育ちなので、本心を敢えて誤解させるニュアンスで包んで言語化する程度、朝飯前なのである。

 ジュークの言葉に、周囲がざわりと不穏に揺れる中、張本人であるディアナは敢えてその空気を全スルーし、ストレシア侯爵夫妻とともに上座を離れた。


 そのまま、会場中ほどに設置された、歓談スペースまで足を運んだところで。


《……いやはや、大変でしたな》


 ストレシア侯爵の口から出てきたのは、流暢なスタンザ語。どうやら本格的に突っ込んだ話をするつもりらしいと察し、ディアナも素早く、頭をスタンザ語モードへ切り替えた。


《正直、これほどまでに外宮で『紅薔薇』が支持を集めているとは思いませんでした》

《それはあまりにも、過小評価が過ぎましょう。スタンザ帝国との交流以来、特に外務省内で、紅薔薇様の評価は天井知らずで高まっていますよ》

《……わたくしとしては、『紅薔薇』の評価より、もっと他に欲しいものがございますから、なかなか素直には喜べません》


 純度百パーセントの本音をぶちまけ、ディアナは改めて、目の前のストレシア夫妻へ簡易的な礼を示す。


《こうして個人的にお話し申し上げるのは、初めてのことと存じます。改めまして、クレスター伯爵家が娘、ディアナにございます。ライア様には、常日頃より、大変お世話になっております》

《堅苦しい挨拶は止めましょう。こちらこそ、ライアの友人とこうしてお話しできて、嬉しい限りです。――今更ではありますが、今後とも、あの子をよろしくお願いいたします》


 鷹揚に頷いてくれた侯爵に続いて、侯爵夫人が歩み出た。――実際にスタンザの後宮(ハレム)で帝国風美人を数多く見てきたからこそ改めて実感できるが、ライアの母である侯爵夫人ドーラは、確かに側室として王の寵愛を得ていると言われても納得できる美貌を誇っている。顔立ち自体はアルシオレーネに似通っているのだろうけれど、彼女が野に咲く花の楚々とした可憐さを纏っていたのに対し、ドーラのそれは威風堂々たる大輪の〝華〟だ。仮にドーラとアルシオレーネが同年代だったとしても、纏う雰囲気があまりに違い過ぎて、似ているとは感じなかっただろう。逆に、アルシオレーネを「ドーラに似ている」と見出した現バルルーン当主が、いかに妹の価値を顔にしか置いていなかったか、二人を見比べれば分かってしまう。


(……って、バルルーンのご当主は、ドーラ様の兄君だったわよね。うっかり悪口言わないように気をつけなきゃ)


 ディアナが気を引き締めたところで、ドーラの唇が解け、流れるようなスタンザ語が紡がれていく。


《ディアナ様、とお呼びして構わないかしら? うちの子から、ディアナ様は地位や立場で呼ばれることを望まないと聞いているの》

《もちろんです、侯爵夫人》

《私のことも、ドーラと呼んでちょうだいな。未だに侯爵夫人と呼ばれることには違和感があるわ。私はローランと結婚しただけのつもりだったのに、気がついたらエルグランド王国の貴族になって、次期侯爵の嫡妻になって、いつの間にか侯爵夫人になってたのだもの。本当、人生って何が起こるか分からないわ》

《……えぇ、まことに》


 実感を込めて頷けば、ドーラが茶目っ気たっぷりに笑いかけてくる。


《ライアの話では、ディアナ様も、ただの側室のつもりで後宮に来てみれば『紅薔薇』の地位が用意されていて、突然派閥のトップに祭り上げられて、とてもご苦労なさったそうね。望んでもいなかった地位で呼ばれても、嬉しくない以前にピンとすら来ない気持ち、よく分かるわ》

《そう仰ってもらえると、少し気持ちが軽くなります》

《殿方ってどういうわけか、女なら誰でも、皇帝や王の妻になるのを心の底では望んでいる……みたいな、根拠不明の確信を抱きがちなのよ。ウチの兄なんて、その典型例みたいな困ったさんだったわ》

《……バルルーン家の、現御当主様ですね。直接お話ししてはおりませんが、スタンザでの社交の場でお見かけいたしました》

《えぇ。その話は、私も叔父様から手紙で聞いているわ。エルグランド王国と国使様に対して不敬も甚しかった振る舞いを、寛大なお心でお目溢し頂けた、と。私からも、重ねて謝罪と感謝を申し上げてほしいと書いてありました》


 ディアナたちが最新の高速船でスタンザ帝国からエルグランド王国へと帰ってきて、十日以上が経過している。それだけの日数があれば、ディアナ帰国後にバルルーン翁がドーラに宛てて書いた手紙も、無事に海を渡ったということだろう。エルグランド王国式の最新快速船については、いずれ両国の技術があの水準に追いつけば、細かい部分まで情報開示することにして、今はまだ王国の切り札の一つとして、存在だけがお披露目されている状態。まだしばらく、両国間の手紙のやり取りには、2週間ほど時間がかかるのだ。

 ――姿勢を正してバルルーン翁の言葉を告げるドーラに、ディアナはゆるゆると首を横に振った。


《謝罪も、感謝も、もう充分にスタンザ帝国で頂戴いたしました。どんな国にも、自身の考えに固執するあまり周囲が見えなくなり、礼節に欠けた振る舞いをしてしまう人はおります。帝国が国としてバルルーン当主の無礼を許したのであれば話は別ですが、わたくしにきちんと謝罪を入れてくださった上で、当主への厳罰も確約してくださいました。それ以上は必要ございませんでしょう?》

《……ライアから聞いてはいたけれど、ディアナ様は本当に理知的で冷静で、それでいて情深い考え方をなさるのね。あなたと言葉を交わした上で『氷炎の薔薇姫』みたいな噂を流す人って、目がどうかしてるんじゃないかしら?》

《ドーラ様ほどのお方からそのようなお言葉を頂戴できたことこそ、何よりの誉れですわ。――わたくしたちクレスター一族は、伝統的に、目がどうかしている方々より、誉れをくださる方とのご縁を大切にしております。今後とも、よろしくご指導くださいませ》

《こちらこそ。ライアともども、どうぞよろしくね。……ディアナ様のお陰で、スタンザにもやっと新しい風が吹きそうよ。本当に感謝しているの》


 安心したように微笑むドーラの姿を見れば、彼女が生まれ故郷を捨てたわけではないことがよく分かる。現ストレシア侯爵、ローランが留学先のスタンザ帝国でドーラと出逢い、恋心を育んでいたとき、彼は気ままな次男坊だった。先代ストレシア侯爵だった彼の兄は優秀な人物だったらしいから、そもそもローランに爵位を継ぐ気はなかったのだろう。エルグランド貴族ではあるけれど、国に戻る気はさほどないローランとの婚姻は、スタンザ帝国の名家の姫だったドーラにとっても都合が良かったはず。

 思わぬ運命の悪戯で、次男坊だったはずのローランがストレシア侯爵位を継ぐこととなり、結果としてスタンザ帝国から遠く離れることになったけれど。ドーラは変わらず故郷を大切に思っていると、直接言葉を交わせたことで、ディアナは確信できた。


《いつか……そう遠くない未来、バルルーンのご隠居様とドーラ様が再会できますことを、心よりお祈りしております》

《ありがとう、ディアナ様。私も一度、落ち着いたら里帰りしたいとは思っているの。ライアは結局、スタンザを知らないまま、あんなに大きくなってしまったし。別に今更、スタンザ帝国人になって欲しいとは思わないけれど、自身のルーツの片方を自分の目で見ておくことは、あの子にとっても大切だろうから》

《そのときはぜひ、アルシオレーネ様ともお話しなさってください。ライア様とお歳もそう離れていませんし、きっと話が合うと思います。……レーネ様がいつ、後宮(ハレム)を辞してブラッド殿へ嫁がれるのか、わたくしも詳しくは存じませんが》

《叔父の手紙によると、件の姫君の下賜は、数ヶ月以内に実現するそうよ。姫君が降下するに当たって、お相手の兵士に家を持たせたり、階級をある程度引き上げたりする必要があるから、少し時間はかかるけれど。若い二人をそう長く待たせることのないように、と皇帝陛下が仰ったとか》

《そうでしたか。陛下が……》


 ディアナの相槌に頷いて、ドーラがくすりと悪戯に笑う。


《スタンザ帝国の宮廷は今、大騒ぎだそうよ。次期皇帝は揺るぎないと思われていた第一皇子が、度重なる失政と民への横暴、そして〝聖女様〟への不敬を理由に廃嫡され、代わって〝聖女様〟より神託を授けられた第十八皇子が、メキメキ頭角を表しているのですって。皇帝陛下の意に背き、他国と内通していた裏切り者を炙り出されるなど、大活躍だと書いてあったわ》

《その〝他国〟って、おそらくエルグランド王国のことですよね? その〝裏切り者〟の詳細、わたくしも是非知りたいです。こちらに情報を流してもらうことは可能でしょうか……》

《あら、知りたいの?》

《ストレシア侯爵様も、お知りになりたいでしょう? スタンザ皇帝陛下の意に背いた内通ということは、おそらくエルグランドとの迅速な開戦を目的としていたはずです。そんな者たちと通じていたエルグランド人は、我が国にとっても身中の虫では?》


 ディアナの問いかけに、ドーラが話し出してからこちら、彼女の一歩後ろで聞き役に徹していたストレシア侯爵は、盛大に苦笑した。


《こういう場でくらい、楽しいだけの雑談をなさればよろしいものを、楽しいだけにならないのはお血筋ですかな。デュアリス殿も、何気ない話題の中から抱えている問題解決の〝種〟を拾うのがお得意ですが》

《えぇと……細かいことが気にかかるのは、確かにクレスターあるあるかもしれません》

《なるほど。さすが、『エルグランドの影軍師』を代々継いでいらっしゃるだけのことはある》

《影軍師、ですか? 初めて聞いたのですが》


 突然、藪から棒に、全く知らない単語が出てきた。文脈からしておそらく、『エルグランドの影軍師』とやらはクレスター伯爵家を指すのだろうけれど。そんな大層なものにはこれまで一度たりとて、なったことはない。強いて言えば、初代ポーラストがクレスター姓を賜る以前に、必要に迫られ止むに止まれずアスト王の軍師をしていたことはあるが、伯爵位を得てからはスッパリ足を洗ったはずだから、やっぱり当て嵌まらないだろう。

 演技でなく、本心から盛大に首を傾げたディアナに、ストレシア侯爵は破顔した。


《ディアナ嬢はデュアリス殿によく似ておいでだが、素直で親しみやすいお人柄は、お父君にはない美徳でいらっしゃる。是非ともその美徳を大切に、素敵な女性へと成長していただきたいものです》

《あなたね……実の子も、その連れ合いも、素直とは無縁に育ってしまったからって、ディアナ様に無責任な希望を言わないの。ごめんなさいね、ディアナ様?》

《いえその、褒められているということはなんとなく分かりますので……それより、『エルグランドの影軍師』についてご説明をお願いできますでしょうか?》

《あぁ、そうでしたな。とはいえ、説明するほどのことでもなく……単に、クレスター家が代々エルグランド王と近しく、相談相手のような立場にいることを察している家の者たちが、いつの頃からか、貴家をそのように称するようになっただけの話なのですが》

《ええぇ……我が家は、そのように大層な存在では……》


 そういった目端の利く家といえば、ユーストル家に代表される、権力忌避思想の古参貴族だろうけれど。まさか、好意的をすっ飛ばして、そんな裏ボス的何かに思われているとは知らなかった。世間で噂されている『王国の悪を牛耳る、裏社会の帝王』とどっちがマシか、真剣に悩む。

 ディアナの困惑をどのように受け取ったのか、ストレシア夫妻はさらに笑みを深くして。


《往々にして、人は自身を客観視しづらいものですからな》

《あなたたち一家が知らないだけで、その知略に救われている人は、実のところ少なくないということではないかしら? だからこそ、短くはない年月を王国とともに歩んできた人々の間で、その功績が二つ名として語られているのでしょう》

《……複雑ですが、褒め言葉としてありがたく受け取ります。――あの、ところで》

《スタンザ帝国側の、内通者情報でしたね? それは確かに、向こうの情報を共有できれば、王宮および外務省としても、大変に助かります》

《そうなのね? なら、一通り炙り出しが終わったところで、その詳細をこちらにも回して頂くように、叔父様を通じてお願いしておくわ》

《感謝いたします、ドーラ様》

《これくらい、お安い御用よ》


 話が綺麗に纏まったところで、ダンス用に演奏されている曲調が大きく変わる。エルグランド夜会の決まりごとの一つに、ダンス曲はエンジョイ勢とガチ勢が好むものを、交互に演奏するというものがあるのだ。ガチ勢が好む曲に合わせるダンスは、複雑なステップや派手なパフォーマンスが多く、見応えがある。……つまり、ガチ勢用の曲が流れている間、周囲の視線は中央のダンス場へと向き易い。


《……良い頃合いですね。しばらく幕の後ろに下がって、ゆっくり休憩されると良いでしょう》

《『シーズン開始の夜会』のときみたいに、休憩場所を用意できず申し訳ない、って伝言を預かっているわ》


 ストレシア夫妻の囁き声に、ディアナは小さく礼をして。


《本日、外宮室の皆様方がお忙しいことは、承知しております。夜会に休憩などないのが当然のところ、こうしてお気遣い頂いているだけ、本当にありがたいこと。どうか、皆様によろしくお伝えくださいませ》

《ご丁寧に、ありがとうございます》

《また改めて、今度はエルグランド語でお話ししましょうね》


 ドーラの言葉は、遠回しなプライベートな集まりの誘いだ。懐深いストレシア夫妻にもう一度頭を下げてから、ディアナはスッと気配を消し、幕の後ろへと滑り込んだ。ストレシア夫妻がディアナとスタンザ語で話していたときから、周囲の人々より感じる興味は、かなり薄くなっていたから、あくまで念のための気配消去ではあったけれど。


(人は、理解できない会話に対して、いつまでも興味関心が続きはしないものね)


 ストレシア夫妻がスタンザ語を使っていた一番の理由は、会話内容を周囲に悟らせないためだろうけれど、副次効果として野次馬からの注視を散らす目的もあったのではないかと推察できる。意味を理解できない言語に耳を傾け続けられるほど、人間の忍耐力は頑強にできていない。スタンザ語での会話が自分には理解できないものだと諦めてさえもらえれば、単なる雑音と化したやり取りを交わすディアナたち自体から、注目を逸らすことができる。

 相変わらず、デュアリス世代の〝できた〟エルグランド貴族の皆様は、人心操作技術がとんでもないな――と、感謝しつつも畏怖を抱いた、そのとき。


「……ディアナ?」


 幕裏内、少し離れたところから、囁くような声が掛けられた。驚いて飛び上がりそうになったけれど、よくよく気配を感じ取れば、相手は馴染みの人物だ。


「まぁ、フィガロ様!」

「やっぱり、ディアナだよね? この辺をウロウロしてたら、やたら流暢なスタンザ語が聞こえてきたから……この国でこれくらい話せるのなんか、ストレシア侯爵一家とディアナくらいだと思って。ディアナなら、そのうち隠密行動のために幕裏に隠れるんじゃないかなと思って、待ってたんだ」


 そう言いつつ、幕の間から現れたフィガロは、格好だけなら見違えるような貴公子の姿をしていた。『シーズン開始の夜会』では用意が間に合わず、明らか着丈の合っていない正装をローブで誤魔化し参加していた彼だけれど、今日はきちんと流行に即した、彼の長身にピッタリの夜会衣装に身を包み、絹のような銀髪も美しく結い上げている。普段から研究室に引き籠もって実験を繰り返し、滅多に外へは出ない人だからか線も細く、色も抜けるように白い彼は、その長身さえどうにかできれば、衣装次第で絶世の美女へもなれそうだ。さすがはエルグランド王室が誇る大輪華、リファーニア王太后の甥である。

 しかしながら、いくら衣装を整えてもやはり、フィガロはフィガロ。夜会という華やかな場で、明るい光の下に居続けるのは、彼の神経が耐えられなかったらしい。……実のところ、ディアナも社交では隠密行動の方が落ち着ける側なので、その気持ちはとてもよく分かる。


「わたくしとしましては、フィガロ様が王宮夜会にご参加されていることが意外でしたわ。本日も、ダイナ様が参加されるからですか?」

「まぁ、それもあるけど……一番は、ディアナの様子が気にかかってたからかな」

「わたくしの……? あ、すみません。お手紙でもお知らせしましたが、お借りしている器具類は、今しばらく使用できればありがたいのですが」


 今後、刻一刻と体調が変化していくであろうナーシャをフォローするのに、フィガロが発明した成分抽出器具があるとないとでは雲泥の差である。加えて、マリアンヌの身体から毒を抜くための湯治にも、薬草をそのまま使うより、やはり成分だけを抜いて調薬した方が、効果は段違いに高くなるだろう。一応、現地のエドワード宛に、器具がなくてもできる簡単な薬効成分抽出方法は図解してソラへ託けたが、フィガロの器具を使った方が良いのは間違いない。


「本当に……取り急ぎ、お手紙では申し上げましたけれど、フィガロ様のご助力に、どれほど助けられたか分かりません。心より御礼申し上げます」

「僕らの間で、形式ばった挨拶はナシだよ。ディアナが必死になって、あれほど特殊なエクス鳥に手紙を託すほど、危急のことだったんだ。きっと誰かの命が危険に晒されていて、それを助けるために無茶しようとしてるのは、あの短い手紙でも充分に伝わってきた。僕にできるのは、ディアナが望んだ器具を貸すくらいだったけど、それでディアナと、ディアナが助けたい誰かが助かるなら、それ以上のことはないよ」

「……ありがとうございます、フィガロ様」

「器具の返却だって、気にしなくて良いからね。ウチお抱えのガラス職人なら、あれくらい、いつでもまた作れる。抽出器具の一つや二つをあげたところで困る研究もしてないし。それより、ディアナがやりたいことを、満足いくまでできることの方が大事」


 過剰なまでの人見知り気質が災いし、他人と上手く付き合えないフィガロだが、一方で彼は、心を許して懐へ入れた相手に対しとてつもなく甘く、全面肯定してくる側面がある。初期の警戒心が異様に高いため、懐に入るまではそこそこの時間を有するけれど、入ってしまえばその甘やかしについつい絆され、底なし沼のような情深さについ浸りたくなる、そんな魔性の魅力を秘めた人。それがフィガロだと、以前エドワードが苦笑混じりに評していたか。なにしろ、人に甘えるのが苦手なディアナでさえ、さほど気負わず助力を求められるほど、フィガロには不思議な包容力がある。

 それを遺憾なく発揮している彼の言葉をありがたく受け取りながら、ディアナは軽く、首を傾げた。


「お優しいお言葉に感謝します。ですが、それほどわたくしの行動をご理解くださってなお、何を気掛かりに思われたのですか?」

「理解できたからこそ、だよ。ディアナは昔っから、誰かの命が懸かった場面で、自分を惜しむことがなかったから。目の前にいる誰かの命を救うことに必死で、自分をちゃんと大事にできてないんじゃないか、って心配で」

「フィガロ様……」

「こればっかりは、手紙じゃ読み切れないからね。ディアナは絶対、大丈夫じゃなくても、手紙には〝大丈夫〟って書くもん」

「それは……否定できませんが」


 強がりの悪癖を指摘され、思わず苦笑が落ちる。

 そんなディアナを真正面から見たフィガロは、少しだけ、目を見開いた。


「……そっか。否定しないんだ」

「目の前の命に執着するあまり、無意識で自身を削りがちだったことは、自覚しております。後宮に入ってからこちら、何度も無茶してはその度、色々な方に怒られてきましたから」

「そうなんだね」

「何度怒られても、いまいちピンと来なくて、結局同じことを繰り返してきましたが。……誰かと、目指す未来を共有して、その未来を生きたいと願って。己を削ってばかりでは、その未来に辿り着けないと実感したとき、はじめて怖くなったのです。わたくしは自業自得ですが、あのひとが望んでいる〝私〟との未来を、わたくしの身勝手で奪ってしまったら……悔やんでも悔やみ切れませんし、謝って許されることでもない、と」


 そう思えるようになったのは、カイが態度で、言葉で、ディアナのことが何より大切なのだと、伝え続けてくれているからだろう。カイがこれほど大切に慈しむ〝ディー〟を、いくら本人とはいえディアナが粗末に扱うのはとてつもない罪悪ではないかと、いつしか自然とそう思うようになった。家族とてディアナを大切にしてくれているし、その思いを疑ったことなどないけれど、人間は不思議なもので、身内でない〝誰か〟から与えられた特別な〝情〟でなければ動かない心が、確かにあるのだ。

 今もきっと、天井裏か隠し通路のどこかで見守ってくれている隠密を想うと、ディアナの心に甘やかな痛みが走り、けれど同時に何より安心できる。……願わくは、彼も同じように感じてくれていると、それだけでとても幸福なのだけれど。


「……よかった」


 静かに響いた、フィガロの声。

 カイを想い、伏せていた視線を上げると、とてつもなく優しい眼差しでディアナを見つめる、フィガロの瞳が飛び込んできた。


「ディアナは、もう、生き急いでないね」

「……わたくし、生き急いでいるように見えていましたか?」

「うん。初めて会った頃のディアナは、今よりずっと小さかったけれど、子どもらしい無邪気さの中に、自分の命を顧みない危うさが見え隠れしてた。この子は、この幼さで、一体何を背負ってるんだろうと不思議だったよ」

「……」


 ――囂々と渦巻く水流の音が、耳の奥でこだまする。叩きつけるなんて言葉など生温い、まるで巨大な滝が突如として空中に姿を現したかのような、地上の総てを押し流さんばかりの圧倒的な〝力〟。

 初めて明確に〝間違えた〟日からきっと、ディアナは心のどこかで、命あることを悔いていたのかもしれない。悔いて、悔いてはいけないと無理に前を向き、進み続けていたのかもしれない。


 ――自己(ディアナ)に、その命に、せめて意味を見出したくて。


(……そうね。私は確かに、生き急いでいたのかもしれない)


 フィガロは、初対面時は人見知りでほとんど会話も成り立たなかった目の前の男は、それでも確かにディアナよりずっと年長の、頼れる大人であったのだ。会話は成り立っていなかったけれど、話し相手のディアナを冷静に観察して、その内面を推し量れる程度には、ずっとずっと大人で。ディアナがこうして、自身の過去を落ち着いて振り返れるようになるまで、何も言わず見守ってくれるほど、思慮深く優しい先達だった。


(『賢者の慧眼』も、大したことないわね。身近な方の、これほど優しいお心遣いに、今の今まで気付けなかったのだもの)


「……ディアナ?」

「――ありがとうございます、フィガロ様。わたくし、もう絶対に、生き急ぎはしません。幼い頃より背負っているものは確かにありますけれど、生涯背負ったままでも、自分を削らない生き方はできるはずですから」

「……うん。ディアナがそう思えるようになって、本当に良かった。新しい人と出会うのは緊張するけど、いつか、ディアナが未来を共有した〝誰か〟のこと、紹介してね。僕の大事な、大事な女の子の心を掬い上げてくれた人に、ちゃんとお礼を言いたいから」


 優しい眼差しは変わらず、ディアナに注がれている。思えばフィガロはずっと、ディアナにとって兄のようでありながら、ある意味で実の兄よりも素直に甘えられる、不思議な年長者だった。今は難しいけれど、いつかしがらみがなくなったら、カイを連れてフィガロの研究室を訪れたいな、と思う。


「もちろんです、フィガロ様。……色々とお気遣い頂きまして、ありがとうございます」

「そんな改めてお礼を言われるほど、大したことはしてないよ」


 そう返してくれたフィガロと笑い合ったところで、幕裏の奥から新たな気配が近づいてきた。この位置からすると、一度大ホールの外へ出て、通用口から回り込んで来たのだろう。


「――あ、いた。フィガロ、探したぞ」

「ダイナ!」

「ダイナ様、ご無沙汰しています」

「……ディアナ?」


 現れたのは、フィガロの学友であり、アルフォードの兄でもある、ダイナディル・スウォン。フィガロとは抽出器具を借りる都合上、手紙ではあったが挨拶を交わしたが、ダイナとは本当に『シーズン開始の夜会』以来だ。アルフォードの話だと、これまで回って調査してきた遺跡の研究結果をまとめつつ、長子としてスウォン伯爵家の仕事を手伝っているらしい。

 フィガロを探していたダイナは、ディアナが一緒にいる想定はしていなかったのだろう。驚いたのち、嬉しそうな笑みを溢す。


「久しぶりだな。元気にしているか? 何かと大変なことが続いているらしいと、アルの様子から察してはいるが」

「国使になってスタンザ帝国へ派遣されるとか、大変どころの話じゃなかったでしょ。ホント、無事に帰ってきてくれてホッとしたよ」

「あれは確かに大変ではあっただろうが、逆にあれほどあからさまに国を追いやられて、クレスター家が黙っているわけもない。ディアナ自身の能力も高いとくれば、帰国できない道理はないと、個人的にそこはあまり心配していなかったかな」

「……ダイナはそういうところ、結構ドライに状況把握するもんね」

「学者として事態の見極めに優れていると言ってくれないか? ――ところで、どうしてフィガロとディアナが一緒にいたんだ?」


 ダイナの質問は、少々意外なものだった。フィガロとダイナはこの通りとても仲が良いし、実際フィガロはダイナがいるからと、苦手な夜会にも出席する程度には、自身の好意に素直である。そういう人たちは、何かと互いに近況報告しているイメージを勝手に持っていたが、ダイナの質問から察するに、フィガロは抽出器具をディアナへ貸し出したことを、ダイナに伝えていないらしい。


「大したことじゃないよ。ちょっと前、後宮で急病人が出たとかで僕の持ってる成分抽出器具を貸し出したんだけど、ディアナがまだ返せそうにない、って気にしてたから。同じものはまだまだ家にあるし、足りなくなればお抱えの職人に作って貰えば済むから気にせず使って、って話してたんだ」

「なんだ、そんなことか。相変わらずディアナは遠慮がちだね。フィガロの器具なんて家にゴロゴロしてるんだから、もらったつもりで使い潰しても、こいつの懐は少しも傷まないぞ?」

「……さすがに借り物ですし、使い潰すほどぞんざいな扱いはできません。ですが、今後も手元にあれば助かることは確かですから、フィガロ様のお言葉に甘えますとお返事していたところです」

「それがいい」

「なんでダイナがドヤ顔なのさ」


 再び戦場へ戻るまでの、わずかな時間。

 新たに知った旧交を、ディアナは穏やかな心地で温めた。


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