末裔の決断
(作者にとって)想定外の過去話を経て、時間軸は現在へ戻ります。
「……アタシが知ってるシュラザードと、マリアンヌ様と坊っちゃま――カイ様の話は、これくらいです。坊っちゃまを喪った後のマリアンヌ様は、満足に動かぬ身体に鞭打って、領主のお仕事をほぼ代行していらっしゃいました」
陽が完全に沈み、暗闇が訪れた森の中、静かなデボラの声だけが響く。思いもよらない話の連続に、ディアナはただ言葉を忘れ、老婆が語る〝シュラザード〟の歴史に耳を傾けた。
「産後の肥立ちが悪いときは、とにかくあまり動かず、身体を暖かくしてゆっくり休むこと、栄養のある食事をすることが大切ですが、マリアンヌ様はそのどれも、充分にできていませんでした。領主代行や侯爵夫人のお仕事、別邸で暮らすことになった侯爵や愛人の世話の手配……侯爵が流行病で倒れたときは、その看病や流行病の対応までさせられていたのです」
「なんてこと……」
「そこまでさせられていたのに、邸に当主が不在だからという理由で、本邸用の予算は年々削られ、別邸の運用費へ回されていました。質の良い使用人を雇うことも、満足いくお食事を用意することも難しい状況で……マリアンヌ様はずっと、お身体が全快しないまま、ご自身の不遇を中央へ訴える手段も奪われ、飼い殺しにされておいでだったのです!」
聞けば、領地守護職たちがマリアンヌの味方だと何となく察した侯爵は、彼らとマリアンヌが面会する際は、子飼いの部下を同席させるようになっていたという。自身は別邸で愛人とヨロシクやりながら、マリアンヌを自由の身にしようとは考えなかったのだ。
そんな中では、マグノム夫人がリファーニアから預かり、見舞いを口実に手渡した女官への推薦状を使うこともできない。
何より――。
「マリアンヌ様は、侯爵からのあまりにも不当な扱いに、文句や不満を仰ったことはありません。〝坊っちゃま〟を喪われてからは、アタシ相手に気軽な愚痴すら言わなくなりました。……お尋ねしたことはありませんが、きっと、〝シュラザード〟に尽くして骨を埋めることを、贖罪だと思われていたのでしょう」
デボラの言葉に、ディアナはカイと二人、深々と嘆息する。カイもこれで、父親に似て自分に厳しいところがあるが、話を聞く限り、彼の産みの親はそれ以上に自罰的なようだ。
「今の話のどこに、マリアンヌさんが贖わなきゃならない〝罪〟があるのか、俺にはさっぱり分かんないけど?」
「それだけ、お子様を守れなかったことが、お心に重くのしかかっているのでしょうね……」
「夫から子どもを始末しろって言われて、産後の弱った身体の妻が取れる手段なんて限られてるでしょ。デボラさんに預けて遠くまで逃したところで、見張りがついてたんじゃすぐ追っ手がかかるだろうし。下手したら、デボラさんの実家が潰されて、領民にさらなる苦境を招く可能性だってある。デボラさん、第一の領地守護職の家出身なんだよね?」
「は、はい。今の当主は、兄の息子――アタシの甥ですが」
「領主代行者なら、領民に公平な領地守護職は絶対に失えない手足みたいなモノじゃない? 我が子を助けたいからって領地守護職を使い捨てるような真似、エルグランド王家に忠実な〝貴族〟はたぶんしない。この人たちはどこまでも、民を第一に考えるから」
穏やかなカイの言葉に、目を丸くする。彼はどちらかといえば貴族に厳しい目を向けることが多いと思っていたが、まさか〝自分たち〟をそんな風に評価してくれていたとは知らなかった。
ディアナの視線に何を思ったか、カイはこちらを流し見て笑う。
「俺もディーと逢うまで知らなかったけど、エルグランドの王様一家も、王様一家を慕って〝貴族〟をやってる人たちも、お人好しが集まってるよね。まぁ、その中でもダントツなのがディーだけど」
「そう、かしら?」
「うん。自分勝手で、貴族以外は人を人とも思わないような連中が多いのも確かだけど、国に生きる一人ひとりに心を向けて、日々を守って、明るい未来を築こうと真摯に取り組んでる人が、少なくても確かに〝居る〟。ディーと出逢ってそう実感できたし、実感できたからこそ、見えるものもあるよ」
デボラの話を聞いたカイは、先ほどまでとは違う穏やかな顔で、眠るマリアンヌを見つめていた。
「マリアンヌさんもきっと、エルグランド王家に心惹かれた一人、なんだと思う。幼い頃から王宮勤めをしていれば、先代、先々代の王様を間近で見る機会もずっと多かっただろうし。自然と〝民が第一〟って思想に染まって、それがシュラザードの〝家訓〟と相性良かったんだ」
「確かに、そんな雰囲気は感じたわね」
「だからこそ、絶体絶命の窮地でも、その思想から抜け出せなかった。侯爵が寄越した見張りがいる状態じゃ、頼れるのはデボラさんだけ。デボラさんを犠牲にすれば、子どもの命は確実に助けられただろうけど、その思考が働いたかも怪しいかな」
「あー……最初から選択肢にないし、そもそも考えついてすらないかも」
「その結果が、父さんの言った〝産着に魔除けの刺繍を刺して、養育費を忍ばせて、森の中の見つかりやすい場所に捨てる〟っていう、中途半端な状態になったわけだ。……話を聞かなきゃ、分かんないもんだね」
静かに言葉を落とすカイの顔に、もう、戸惑いはない。自らの過去が一本の線で繋がり、関わった人たちの思いも見えたことで、何かしらの区切りがついたのだろう。
微笑んで、ディアナも頷いた。
「本当に、聞かなきゃ知らないことばかりだったわ。――アント聖教のことも、ね」
「そう、それ」
カイの首がぐるんとこちらを向いた。シュラザード家の興りにまつわるエピソードは、彼にとっても驚きだったらしい。
「俺はアント聖教のこと、ディーから聞いた以上に知らないんだけどさ。この宗教がトンデモになったのは後からで、初期はめちゃくちゃシンプルだったって、クレスター家も知らなかったの?」
「クレスター家は別に過去を見抜く特殊能力持ちってわけじゃないからね? 一を聞けば大まかな全体像が見えるってだけで、とっかかりの〝一〟がなくちゃ、分かりようがないの。アント聖教が興った当時、クレスター家はマミア大河を挟んで遠く離れた『賢者の森』に住んでたわけで、関わりようもない。ご先祖様が知らなきゃ、家に伝承も残されていない。つまり、私が知る機会もないってわけ」
「でも、五十年戦争のとき、シュラリフ家は味方に引き入れたんでしょ? そのとき、アント聖教について聞かなかったんだ?」
「話を聞く限り、〝家訓〟にまつわるアレコレは当主とその側近一族にだけ代々伝わってる感じじゃない? 騎士って己の功績とか思想とかを喧伝しないのが美徳みたいに言われてるところあるし、たぶん寝返った当時のシュラリフ家当主も、エルグランド側に多くを語らなかったんだと思う。半島統一してから三百年、シュラザード侯爵家の評判は昔から一緒で、〝王都の社交に出てくるのは最小限で、ほとんど一年中を領地で過ごしている、マミア以西の有力貴族の一つ〟だし」
「あー……『正しき神の騎士であれ』?」
「実践してたんでしょうね。三百年間、ずっと」
半島が統一され、大きな戦は無くなっても、王都から遠いマミア以西はどうしても中央の目が届きづらく、放っておけば治安はみるみる悪くなる。
そんな中、シュラザード侯爵家が〝正しき神の騎士〟として、弱き民を守る盾、民を害す者の矛であり続けたことは、侯爵領のみならず、この地方一帯を治める領主たちにとっても、心強かったに違いない。
歴史が現在へと近づくにつれ、〝騎士〟の素養は失われても。
シュラザード侯爵家の心は、〝正しき神の騎士〟であり続けたのだ。
「前に、お兄様がちらっと言ってたのよ。マミア以西の重要な土地は、概ねエルグランド王家に近い貴族――ウチもそうだし、モンドリーア公爵家やスウォン伯爵家、その他いくつかの家で分けて領地にしてるけど、『メルナオの森』周辺だけはエルグランドの有力古参がいない。三百年間、大きな問題は起きてない地方だから、どこかの家が中心になって面倒を見てたんだろうけど、今は目立った実力者もいない。後継が育ってないんだとしたら、これからが心配ではある、って」
「エドワードさん、マジで凄すぎない? 全然別の角度から、かなり真実に近づいてるじゃん」
「お兄様の視察担当地域的に、〝一〟を知り易かったのは確かよね。――つまり、半島統一時、シュラザード侯爵家は『メルナオの森』近隣地方のお目付役を任されるほど、統一王アストからの信頼が厚かった。歴代の当主もその信頼に応え、領地と近隣地方を守ることに専念していた。結果、中央の評判はさほど高くなかったけれど、分かる人には分かる〝西の雄〟として、敬意を集めていたんだと思う」
そうでなければ、ストレシア侯爵家やユーストル侯爵家と社交場が被ることもあるまい。ライアとヨランダが、社交界にデビューしたばかりの頃、シュラザード侯爵夫人として出席していたマリアンヌと顔を合わせたことがあると言っていた。当代侯爵が家の評判を落としに落としてなお、〝シュラザード〟が重んじられていた何よりの証である。
「……つくづく、あのおっさんのヤバさとダメさが鮮明になるなぁ」
ため息とともに吐き出したカイの感想に、ディアナと、静かに控えていたデボラも頷いた。
「父から聞いた話ですが、いかなシュラザード家といえど、時代を経るにつれ、〝正しき神の騎士〟であれない当主が増えてはいたそうです。シュラザードに名前が変わってしばらくは、騎士剣術を修めて戦いの際は先陣を切るのが当主の役目でもあり、〝神の騎士〟の実感も持ち易かったけれど、戦いが少なくなってからは、領地運営に重きを置くようになった。そうなっては〝騎士〟を実感できず、歴史書と口伝で継承していくのも限界があったんだろう、と」
「分からなくはありませんね。領主もまた、民を守る盾であり、敵を討つ矛であることに違いはありませんけれど、騎士とはその戦い方が大きく違います。〝正しき神の騎士〟としての精神、その根幹を伝えていくのは、一朝一夕でできることではないでしょうから」
「その通りです、お嬢様。ですが、それでも、かつての従騎士であった領地守護職たちの口伝もあり、完全に途切れることはありませんでした。歴史を書から学ぶこともせず、周囲の言葉に耳を傾けることもしない――先々代が、若くして家を継ぐまでは」
「当代侯爵の祖父ですね?」
「はい」
頷いたデボラの顔には、渋面が広がっている。先代侯爵と同世代だという彼女は、その父である先々代とも、当然ながら顔見知りのはずだ。
「先々代のお父上は、大層ご立派な方であったと、父より聞かされております。父が幼い頃に亡くなったそうですが、領地守護職のみならず、民のことも細やかに目配り気配りしてくださる、高潔な〝正しき神の騎士〟であられたと」
「そうなのですね……」
「しかしながら、先々代の成人前に、お父上は不幸な事故に見舞われ、還らぬ人となられました。奥方も先々代をご出産の折に儚くなられたため、先々代は成人するより前に、若き侯爵となられたそうです」
「あー……周囲から死んだ父を見習うようにとばかり言われ、反発して先人の知識関連から遠ざかったパターンですか?」
「……お嬢様は鋭いお人ですね。父からの又聞きですが、どうもそのようです」
先ほどの昔話でも、先々代侯爵は〝不快を遠ざけ快楽を貪る、自分に甘い人物〟と評されていた。そんな人間に「立派だったお父様を見習って」などと言えば、逆に父親に関するあらゆるモノを遠ざけるだろう。やがて生まれた息子が、自身の父を彷彿とさせる真面目な人柄だったとなれば、息子すらも厭っただろうことは、想像に難くない。
「先代侯爵様は、ほとんど一から、〝シュラザード〟を甦らせようとなさったのね。それなのに、父も妻も息子も、彼にとっては敵だったなんて」
「ぶっちゃけ、先々代の時代から、この土地は領地守護職の人たちで保ってた、ってことだよね?」
「……正直なところを言うと、エルグランド王国の領地運営に関しては、領主の仕事ってサボろうと思えばいくらでもサボれるのよ。領主の仕事は領地の特色を知り、その土地に合った産業を興して、領民がより豊かになるよう、采配していくことだから。民が直面する日々の小さな困りごとの解消とか、税の徴収とか計算とか、そういう細々した仕事は領地守護職がしてくれる。領主の最低限の仕事は、領地守護職から上がってきた領地運営報告書を確認して、王宮に提出するくらいなのよね」
「要するに、領主がどれだけダメダメでも、領地守護職がしっかりしてれば、その土地は安泰ってこと?」
「エルグランド王国あるあるの一つよね。この国の領主って割とコロコロ変わるから、民の生活を安定させるためにも、領地守護職の役目って重要なのよ。領地運営に重きを置いている貴族なら誰でも、自領の領地守護職とは密に連携しているわ」
初代シュラザード侯爵も、領地守護職の重要性は理解していたに違いない。だからこそ、自分と近く、連携の取りやすい従騎士たちに、その職責を与えた。
そして従騎士たちは主の期待に応え、代々の子孫にシュラザードの〝家訓〟の真意を伝えて、三百年間、陰から主家を支え続けたのだ。
「……そう考えると、シュラザード領はまさしく、〝正しき神の騎士〟たちによって守られてきた土地なのね」
ディアナの呟きに何を思ったか、カイは視線をマリアンヌへと移し、じっと静かに思索する――。
「話は終わりましたか?」
「えっ? あっ、ソラ様!」
沈黙が訪れてしばらく経ったところで、言葉とともにソラが森の奥から現れた。驚くディアナとは対照的に、カイはその気配を察していたようで、ごく自然に立ち上がる。
「馬車、用意できた?」
「あぁ、内装も問題ない。今から出発すれば、明け方までにはツテムノへ到着できるだろう」
「……そっか」
頷くカイに、ソラは分かり難いが、その漆黒の瞳に息子を案じる色を乗せた。
「お前は、どうするんだ?」
「どうって?」
「ツテムノへ同行するのか?」
「何でさ。聞きたいことは全部聞けたし、ディーと一緒に戻るよ。礼拝組の護衛だって、別に万全ってわけじゃないんだし」
二人の様子から、そろそろ移動が始まりそうな気配を察し、ディアナも急いで薬箱から紙と筆記具を取り出した。
「マリア様の治療方針の大枠については、こちらの紙に記しておきますね。使えそうな薬草類も、ソラ様にお預けしてよろしいですか?」
「もちろんですとも」
「湯治に関しては、わたくしも師匠から聞いたことがあるだけで、実践経験はございません。知識に基づいて考案しておりますので、現地の治療師様ともご相談の上、最終的な治療方法を決定して頂けますよう、兄に伝えてください」
「承知いたしました。話によりますと、エドは予め、ツテムノの優秀な湯治師と医者に声を掛け、最新設備が整った湯治場にすぐ招けるよう、手配しているそうです。その方々に、薬草もろともお預けすれば、良いように計らってくださるかと」
「……お兄様に、『気配りありがとう。そこまで察せるなら、マミア大河以西の状況について、もう少し心の準備をさせて欲しかった』とお伝え願えますか?」
「こちらの地方、特に旧アント聖教国地域は特殊ですから、エドも何を話すべきか迷ったのでしょうね」
……複雑なのはシュラザード領だけではないということか。〝正しき神の騎士〟であるはずの侯爵家に、瞳の色が黒に近いというだけで子殺しを命じる領主を育てる女が嫁いでくる時点で、もっと悍ましいものが渦巻いている気配は確かに感じるが。
盛大なため息を吐きたくなる気持ちを抑えつつ、治療方針や薬草の効果的な使い方を記した紙と、使えそうな薬草類をピックアップして薬草袋に詰め、ソラへ手渡す。
手渡してから、気付いた。
「えぇと……カイがわたくしと戻るということは、ソラ様がツテムノへ同行してくださると勝手に解釈してしまいましたが、それで合ってます?」
「必然的に、そうなりますね。今のところ、領邸から侯爵夫人が消えたと騒ぎになっている気配は感じませんが、気付かれたら最後、さすがに追手はかかるでしょう。そのような状況下で、ご婦人二人を放り出すような真似はできませんよ。――ましてやそのうちのお一人は、カイをこの世へ産み落とされた方なのですから」
「……ありがとうございます。お手数をお掛けしますが、よろしくお願いいたしますね」
そんなディアナとソラの会話に、思うところがあったのだろう。マリアンヌの側に座っていたデボラが立ち上がり、ディアナと話すソラへ近づいてくる。
「……あ、あの、お嬢様。お話中のところ、申し訳ありませんが」
「構いませんよ。なんでしょう?」
「その……そちらの御仁は、もしや」
「あぁ、ご紹介が遅れてしまいましたね」
とはいえ、ソラの紹介を自身の口からしても良いものか……。
ディアナが迷い、一瞬沈黙が訪れた、そのタイミングで。
「――俺の父さん。『黒獅子のソラ』って呼ばれてる」
少し離れたところで荷物をまとめていたカイから、簡潔な言葉が飛んできた。
薄々は察していたらしいデボラが、感極まった眼差しをソラへと向ける。
「では、貴方様が、坊っちゃまをお助けくださった……!」
「……まぁ、結果的にはそうなりますが」
「それなんだけどさ、デボラさん」
荷造りを終えたカイが、バスケット等々一式を抱え、戻ってくる。
「俺は確かにマリアンヌさんが産んで、とんでもない夫から逃がすために捨てた子どもなのかもしれない。でも、間違っても〝シュラザード侯爵家の坊っちゃま〟じゃないよ」
「そ、それは」
「他でもないマリアンヌさんが、そう言ってたんでしょ? 『シュラザード侯爵家の嫡男は、生まれてすぐに死んだ』って」
「そうですが、しかしそれは!」
「俺は、エルグランド貴族として育ってない。ましてや、『正しき神の騎士であれ』なんて教えも知らなければ、従う気もない。俺はディーを守る盾、ディーを害する敵を討つ矛には喜んでなるけど、それ以外にはなれないから」
「……そこで私を引き合いに出されても困るんだけど」
「引き合いとかじゃないよ、単なる事実」
あっさり言い切られてどうしようかと思ったけれど、確かにカイは〝主〟を定めて忠義を尽くす気質とは程遠い。エルグランド貴族であれば、まず第一に王族を敬い、忠誠を誓う必要があるけれど、カイの場合はジューク、シェイラを個人的に知っていて、力を貸すに値する人物だと判断したがゆえの助力であり、忠誠心など欠片もないだろう。今更、彼がシュラザード侯爵家の嫡男として名乗り出たところで、ジュークもシェイラも困惑以外の感情を持てない気はする。
「これまでも、これからも。俺は『黒獅子』の子、『仔獅子』以外の何かになるつもりはない。シュラザードの成り立ちを聞いたからこそ、俺はそこに立つべき人間じゃないって思うよ」
「坊っちゃま……カイ様、しかし、それではシュラザードが」
「さっき、ディーが言ってたでしょ? シュラザード領はずっと、〝正しき神の騎士〟たちが守ってきたんだ、って。このままシュラザード家が断絶しても、領地守護職として各地を守る〝騎士〟たちは残る。この先、どんな貴族が領主になっても、領地守護職たちが〝正しき神の騎士〟の精神を継いでいく限り、シュラザードの魂は消えない」
「……」
「むしろ――〝正しき神の騎士〟でいられなくなったシュラザード家を無理やり残す方が、先人の意思に背いてるんじゃない?」
カイの言葉に、デボラはハッとして、その瞳を瞬かせる。
「あの方……先のシュラザード侯爵も、同じように仰せでした。『〝神の騎士〟であれぬシュラザードに、存在価値はない』と」
「だろうね。騎士とかは分かんないけど、〝こうありたい〟と決めて歩いてきた生き様を自分で裏切るくらいなら、死んだ方がマシって俺も思うもん」
深々と頷き、カイは。
「なら、やっぱり。――シュラザード家は、ここで終わらせるべきだ」
月明かりの下、いつもより深く染まる紫紺を煌めかせ、厳かに告げた。
神託のような響きを宿したカイの声に、デボラはただ、ゆっくりと跪いて。
「それが、マリアンヌ様のお子でいらっしゃる、貴方様のご決断なら……アタシどもに、否やはございません」
「シュラザード侯爵家は終わらせるけど、領地を巻き込むつもりはないよ。領地守護職の人たちは据え置いてもらうように頼んどくから」
「新たな領主につきましても、シュラザード家の興りと成り立ち、歴史、その中で受け継がれてきた〝家訓〟を理解し、アント神の〝騎士〟でこそなくとも、その魂を繋いでくださる方をお選び頂けるよう、わたくしから口添えいたします。このお話を聞けば、国王陛下もきっと、長きに渡るシュラザード家の献身に、心からの感謝を示されることでしょう」
「お嬢様……ディアナ様、と仰いましたか?」
「はい」
「国王陛下と心易くお話しできる〝ディアナ様〟とはもしや、昨年の春に後宮入りなさったという――」
……どうやら、後宮に関する噂話は、いつの間にか王国中へ広がっているらしい。ディアナは微苦笑しつつ、デボラの前に膝をつき、人差し指を唇に当てた。
「わたくしが何者なのかは、あまり重要ではありません。お気づきになりましても、どうぞお心に秘めてくださいませ」
「わ、分かりました」
「……随分と長く、お邪魔してしまいましたね。そろそろ帰らなければ」
帰る準備は、カイがあらかた整えてくれている。ディアナが持つのは薬箱のみだ。
立ち上がり、薬箱を背負ってカイと並び、最後にもう一度、デボラを振り返った。
「デボラさん。俺が言うことでもないけど、マリアンヌさんの看病を頼むね」
「何か不安なことなどあれば、ツテムノに私の兄がおりますので、お気兼ねなくお話しくださいませ」
「……何から何まで、本当にありがとうございます。この御恩は、生涯忘れません」
深々と頭を下げたデボラに別れを告げ、ディアナはカイとともに、移動陣が敷いてある森の奥へと入る。
ふと気づけば、ソラもまた、二人の後ろからついてきていた。
「どうしたの、父さん」
「お前たちが帰った後、陣を回収しなければならないからな」
「……マリアンヌさんとデボラさん、二人にして平気?」
「もちろん、守護の結界は張ってある」
「そりゃそうか」
おそらく、〝陣の回収〟は建前で、本音はカイを案じ、見送ろうとしてくれているのだろう。
せっかくソラがいてくれるなら、とディアナは、先ほどのデボラの話で気になった、本筋とは全く関係ない疑問をぶつけてみることにした。
「ところで、ソラ様。ソラ様は、カイの産着に魔除けの刺繍がしてあることを、知人の方から教わったと以前仰っていましたが」
「はい、その通りです」
「その〝魔除けの刺繍〟について知ったのは、カイを名付ける前ですか、後ですか?」
「――は? ディー、なにその質問」
「……かなり後、ですね。カイと出逢ってすぐは余裕もなく、産着の刺繍に気づいたのが、そもそも半年以上経ってからでしたので」
「そう、でしたか。ならば当然、〝獅子〟に関する詳細もご存知ない、のですよね?」
「エルグランド王国で好まれる、魔除けの絵柄の一つとは教わりましたが。それだけですね」
「なるほど……ありがとうございます」
……で、あれば。
(カイが〝カイ〟なのは、本当に偶然なのね……。すごいな、こんなことあるんだ)
〝獅子〟は確かにエルグランド王国でよく使われる魔除けの絵柄の一つだが、その成り立ちまで知る者は、そう多くない。王国の中でも、『湖の王国』を中心とした都市国家群が広がっていた地方にのみ伝わる逸話が元なのだ。貴族が好む駒取盤遊戯――ルグラスで、〝獅子〟の駒がある一定の条件を満たしたときのみ〝最強〟となる由来も、この逸話にある。
マリアンヌが、言っていた通り。姫神の守護獣であった〝獅子〟には、特別な名がついていた。『湖』と二千年の時を同じくしてきた『森』の末裔であるディアナはもちろん、その〝獅子〟の名を知っているわけで。
(デボラさんの話を聞いたとき、もしかしてソラ様も刺繍に気付き、姫神の〝獅子〟の名を知ってて……? と思ったけれど。違うのなら、それはそれですごい偶然というか、奇跡かも)
「ねー、ディーってば。その質問、どういう意味?」
産みの母と、血は繋がらずとも真の絆を結んだ父親と。
二人の愛情が共鳴して起きた〝奇跡〟の体現者は、辿り着いた移動陣を前にして、素直な疑問を言葉と表情に乗せている。
少し考えて、ディアナは笑った。
「そのうち分かることだと思うけど、落ち着いたら改めて話すわね」
「え、なに怖い」
「悪い話じゃないわよ。――あなたがずっと愛されていた、その証明みたいな話」
「そ、っか」
はにかむように頷いたカイに、ディアナも晴れやかな微笑みを返す。
頷き合って移動陣に入り、しっかりと互いの手を握り。
「それじゃ、父さん。後のこと、よろしく」
「マリアンヌさんの容態が急変するようなことがあれば、いつでもお知らせください」
「承知いたしました。末姫様も、ご無理なさいませんように。陣による空間移動と、侯爵夫人の治療で、自覚はなくとも大変疲れておいでのはずです。今日はゆっくりお休みなさいませ」
「はい。無理はしないようにいたします」
ありがたいソラの言葉に頷いたと同時、足元の陣が光り出す。
行きと同じ、身体が〝どこか〟を通り抜ける感覚に、ディアナはしばし目を閉じて――。
「お戻りなさいませ、ディアナ様!」
「お疲れ様でございました……!」
「湯浴みの準備、整っております」
行きと同じく、三人揃って出迎えてくれた、ミア、ユーリ、ルリィの姿に、ほっと肩の力を抜くのだった。
「ただいま、みんな!」
新たな真実を手に入れ、降臨祭は後半へと向かう――。




