〝シュラザード〟を継ぐもの
父親の死によって爵位を継いだ当代シュラザード侯爵は、先代が危惧していた通り、民を慈しんで領地を富ませるのではなく、民が生み出した富を搾取する暴君として君臨した。先代の頃より何割も高い税率を設定し、その金で王都の社交界へ登るべく、高級な宝飾品や衣装を買い漁る。
絵に描いたような暗君っぷりに、領地守護職たちの心が離れるのは早かった。
「こんな税を本当に課しちゃ、農村部の連中はその日暮らしになっちまう」
「森林部もだよ。植林事業だって、先代様の庇護でようやっと形になったところなんだ。あんな高い税を課せられちゃ、伐採用の森を育てるどころの話じゃなくなる」
「酪農部も同じさ。動物を売り払うか、首を括るかってな」
「…………やるか」
「やるしか、ねぇだろ」
歴史の中で血統は滅んでも、領地守護職たちの間に、〝正しき神の騎士〟の配下であるという誇りは生き続けている。ましてや先代は、シュラザード家の歴史書と〝口伝〟から、『正しき神の騎士であれ』という家訓の〝真意〟を、ほぼ正確に把握していた。
そんな彼が信頼し、共に領地を育むべく手を取り合った領地守護職たちは、先祖が誰であるかなど関係なく、心は一つだった。当然、全員が、シュラザードの〝誇り〟を、その根幹を熟知し、忠実に守っている。
暴君の愚かな指示が降りてくるたび、彼らは民を殺しにかかる愚かな文言を握り潰し、適当に辻褄を合わせた税収報告書を上げるようになった。領地守護職が領主の指示を無視して好き勝手采配するなど、国にバレたらタダでは済まない重罪だが、彼らは罪を被ってでも、〝正しき神の騎士〟であることを、先代の遺志を重んじたのだ。
幸い、暴君であり暗君でもあった当代は、税収報告書の読み方もろくに知らなかったようで、領地守護職たちの画策に気付くこともなかった。わざわざ税率を上げずとも、先代が若い頃からコツコツと育ててきたシュラザード領は充分に豊かであり、収入も年々右肩上がり。元の税率のままでも、彼一人の贅沢であれば支えることは容易かったのだ。
読み方も分からないまま、何となく税収報告書を読んで、父が生きていた頃より収入が上がっているとだけ理解した当代は、「母上の仰っていた通り、私には領地経営の才能があるのだ!」と事実とは正反対の勘違いを炸裂させ。「これほどの領地を持つ侯爵家であれば、嫁の来手はいくらでもある」と鼻高々に、中央の社交界へ乗り込んでいった。
その、〝中央の社交界〟で、愚かな当代が何をしたのか――詳細が領地に伝わったときには、何もかもが遅かった。「中央のまともな女性であれば、あんな男は相手にしない」と、お目付役を付ける手間を惜しんだことを、どれほど後悔しただろう。
二年ほどの社交期間を経て、当代が領地に連れ帰ってきたのは。
「初めまして。マリアンヌ・トランボーノと申します」
彼の年齢の、およそ半分にしか満たない……やっと少女の域を脱した年頃の、若い娘だったのだ。
息を呑むほど眩いながらもどこか儚い美貌と、女性らしいほっそりとした肢体は、なるほど、あの好色な男が気にいるはずだと、下世話な納得をしてしまったけれど。
「マミア以西の文化については、本で読んだ以上の知識はありませんの。慣れないことばかりでご迷惑をお掛けすることも多いと思いますが、よろしくご教示くださいませね」
こちらを使用人だからと侮ることもなく、かといって必要以上に阿るような態度も見せず、柔らかく微笑んで挨拶する彼女のどこからも、愚者の気配は感じられない。中央から遠く離れたこんな土地で見るには却って不釣り合いな、洗練された貴族女性の振る舞いである。
あなた様のようなお方がどうしてあんな男と、と喉元まで出かかった言葉は、どうにかこうにか飲み込んだ。
新たに迎えた女主人は、驚くほどに聡明で、寛容だった。中央貴族には馴染みがない、アント聖教式の結婚式にも文句一つ言わず、夜毎訪れる〝妻の役目〟も反発することなく受け入れる。
やがて当代は、さほど好きでもなかった領主の仕事――家政だけでなく領地運営の細々した雑事、書類作成や決裁確認なども、「嫁いだからには妻の仕事であろう」と押し付けるようになった。
しかしながら、当代がしていた仕事など、そもそもが微々たるもの。しかも、彼が作成する領地運営に関する指示書と、その結果を記した報告書は、そのどれもが面白いほどに食い違っている。
唯々諾々と夫に従っているだけに見えた新妻は、領主の仕事を振られ、書斎でこれまでの書類を確認して。
「――こちらの報告書を作成された領地守護職の方々とお会いすることはできますか? 一言、お礼を申し上げたくて」
澄み切った紫水晶の瞳に紛れもない慈愛の色を乗せ、開口一番、そう言った。
そのとき、思ったのだ。
――シュラザードの〝誇り〟を継ぐお方が、再びシュラザード家に舞い降りた。
マリアンヌ様こそ、新たなシュラザードの〝光〟、そのものでいらっしゃる――と。
愚かで頑迷な当代は、マリアンヌのことを、単なる〝子を産む腹に好みの顔がくっついているだけの従属物〟としか見ていなかった。普通、地方の侯爵夫人ともなれば、中央の社交から遠ざかることはあっても、住んでいる地域の社交の中心となって働くものだが、当代はマリアンヌを「女だてらに城勤めに固執していた、ふしだらで野心家な輩」だと決めつけ、機嫌が悪ければ面と向かってそう罵る。「ふしだらな女を外になど出せるものか。いつこちらの隙を突いて、他所の男に足を開くか、分かったものではない」と吐き捨て、マリアンヌを社交場どころか、領邸から一歩も出さないまま、季節は過ぎた。
「城に勤めていらっしゃったことが、なぜふしだら呼ばわりされるのか、アタシにはサッパリ分かりませんが」
「あの男のアタマには、王宮で侍女勤めをしている貴族令嬢は結婚相手を探しに来ているという、とんでもない思い込みがあるみたいなのよ。私が侍女職に拘っていたから、『自分以上に条件の良い男を探そうとしていたのだろう。危ないところを助けられておきながら、何とふしだらで野心家な女か』ってことみたい」
「……ですが、当代が〝助けた〟事件とて、狂言だったのでしょう?」
「エリザベス様がくださったお手紙によると、そうね。あの夜、王宮に侵入した男を手引きしたのは、他でもない、ロガン準男爵だった。準男爵は、病気の家族の面倒を見るという甘言を囁いて、王宮騎士の一人を身代わりにしたようだけれど、クレスター家の追跡をそんな小細工で乗り切れはしないわ」
「その……ロガンなんたらを落とせば、当代と共謀していると明らかにできるのでは?」
そう提案してみたものの、マリアンヌは複雑そうな苦笑を浮かべ、ゆっくり首を横に振って。
「エリザベス様も、畏れ多いことにリファーニア様も、そう仰ってくださったのだけれど。……この件はもう、これ以上、掘らずにいようと思うの。――この子の、ために」
腹に手を当て、静かに目を伏せるマリアンヌは……確かに、〝母〟の顔をしていた。
……そう。どれほど望まなくとも、男の精を受け続ければ、新たな命が女の腹に宿るのは、健康な男女同士であれば自然の摂理。特に、マリアンヌを娶ってしばらく、当代は若い新妻にひどくご執心であった。おそらく、本当の意味で彼女の心を得たわけではないと、頭のどこかで分かっていたから、なおさら見苦しく執着していたのだろう。ほぼ毎夜、多くとも三日と空けることなく、当代はマリアンヌの寝室を訪れ続けていた。
どれほど枕を交わそうとも、マリアンヌは一切、当代に心を許すことも、寄せることも、ない。
それでも――命は、宿るときは、宿る。
「マリアンヌ様……望んで得たお子ではいらっしゃらないのに」
「宿った以上は、私の子よ。それに、あなたからシュラザードの物語を聞いた今では、あの男の血筋もそう悪いものではないと思えるの」
夫となった男だけは、どうしようもないけれど――と、マリアンヌは笑いながら遠くを見る。
「『正しき神の騎士であれ』――だったかしら? 弱き民の盾であれ、民の敵を穿つ矛であれと鼓舞する家訓は、エルグランド王国の王族方が抱く万民への慈愛と繋がるものがあるわ。民への慈愛を忘れた者に貴族たる資格はないと、陛下も妃殿下もよく仰っておいでなのよ」
「左様でございますか……」
「私は生粋のエルグランド人だから、マミア以西の文化に疎かったし、アント聖教のことも噂話程度にしか知らなかった。こうして、辿ってきた歴史が全く異なる土地にやって来て、あなたのような人に巡り会えて、相容れないと思い込んでいたアント聖教が、実はエルグランド王国の理念ととても近いと知ることができたわ。……知ってしまったら、この土地のことも、我が子に流れる血筋の半分も、憎み切ることなんてできない」
「マリアンヌさま――!」
望んだ婚姻ではなかった。男たちの身勝手さに振り回され、全ての希望を断ち切られた先に押し付けられた、彼女にとっては苦痛だけが満ちる絶望の現実だったはずだ。
それ、なのに。その、苦難を強いてくる現実の中で、彼女はそれでも前を向き、己を取り巻く世界と向き合い続けた。シュラザードを、その歴史を、抱える土地を、知ろうとしてくれた。
それだけでもう、彼女を〝光〟と仰ぐには、充分過ぎたのに――。
「この地なら。……あなたたちと、なら。遠く離れていても、私は確かにエルグランドの民であり、陛下と妃殿下に仕える〝貴族〟であると、胸を張れる気がするの。やがて生まれるこの子のことも、あのどうしようもない男の血に連なる仇ではなく、誇り高き〝神の騎士〟の末裔として、新たなる民の守り手として、愛せると信じられる」
シュラザードを、受け容れて。
エルグランドと、繋いで。
――〝神の騎士〟の系譜を、その継承者を、慈しむ。
それほどの器の広さを示されて、誰が首を垂れずにいられよう。
「あなた様こそ、真の〝シュラザード〟を体現されるお方です。まるで、歴代の騎士様の魂が、その身に宿られているかのよう……アタシの忠誠は、生涯、マリアンヌ様へお捧げします」
「気持ちは嬉しいけれど。あなたもアント聖教の信者なら、一番の忠誠はアント神に取って起きなさいな。――私への忠誠は、二番目で構わないわ」
配下の忠義を、受け取るときでさえ。
彼女は、正しく〝シュラザード〟であった。
妊娠中の女性は往々にして体調を悪くするものだが、マリアンヌの経過は驚くほどに順調だった。マリアンヌが妊娠したと知った当代は、「これで他に取られることはない」と安心し、方々の社交へ連れ回す非常識をやらかすようになったが、そんな仕打ちもどこ吹く風で、腹の子はすくすく育っていく。
「マリアンヌ様、何を縫っていらっしゃるのです?」
「赤ちゃんの産着よ。生まれて最初に着る産着は、母親が手ずから縫うというエルグランドの風習があるの」
「……最初に着る産着なのに、二枚ありますよ?」
「男の子と女の子、どちらが生まれるか分からないでしょう? 性別によって、破魔の守りも変えてあげたいから」
「破魔の守り、ですか?」
「最初に着る産着の裾にね、魔を払うとされている縁起物を刺繍するの。そうすることで、我が子を悪いものから守り、健やかな成長を祈願するのよ」
お腹が目立ち始めた頃から、そう言ってマリアンヌは針仕事に精を出し、見事な〝破魔〟が刺繍された産着を二枚、縫い上げた。
「これは……こちらは何かの動物で、こっちはえっと、星、ですか?」
「えぇ、〝星〟と、動物は〝獅子〟よ」
「どちらが坊っちゃま用で、どちらが嬢ちゃま用です?」
「〝獅子〟が男の子、〝星〟が女の子ね。……実は二つとも、子どもの名前にちなんであるの」
「お子の名に?」
「あの男が、子どもの名前にこだわるとは思えないもの。命名書を前に適当なことをされるくらいなら、いつもやっている書類仕事に紛れて、私が書くわ」
「賢明なご判断です」
マリアンヌが懐妊し、床の相手ができなくなった途端、街へ降りて女を買い漁るような最底辺だ。子どものことも、認識しているかどうかすら危うい。命名権を与えたくないと思うのも、至極もっともである。
「それはそうと、〝獅子〟とは……」
「アント聖教には馴染みないわよね。エルグランド王国――その前身だった〝湖の王国〟時代から伝わる逸話に出てくる、神の守護獣よ。強靭な肉体と天翔る神の力、勇猛果敢な魂を持つその獣を従えたい者は多かったけれど、彼は唯一敬愛する姫神に跪き、姫神の絶対的な守護者としてその力を奮ったと言われているわ。〝神の騎士〟の継承者にぴったりのお守りでしょう?」
「伝説の生き物でしたか。どうりで、見たことのない動物だと思いました」
「この子が男の子だったら、姫神が獅子に与えた名前をつけようと思うの」
「それは、縁起良い御名にございますね」
「でしょう?」
そう言って笑ったマリアンヌは、産着をそっと、抱き締めて。
「……今度、王宮夜会へ参加することになったわ。この先、どうなるかは分からないけれど、今の暮らしがそう悪いものでないことは、伝えてくるつもりよ。あの男が何をしようと、領地と領民には累が及ばないよう、できる限りの手は尽くします」
「どうか、ご無理はなさいませんように。我らにとっては、マリアンヌ様の御身の無事こそ、何より優先されるべき重大事にございます」
「……ありがとう」
穏やかに微笑したシュラザードの〝光〟は、確かに役目を果たしたのだろう。中央へ出向き、戻ってきたマリアンヌは、これまでで一番穏やかな顔をしていた。
「……懐かしい方に、お会いできたの。あの方に伝えられたから、きっと大丈夫」
そう言って、臨月の身体で領主の仕事に励んでいた矢先。
マリアンヌは産気付き、丸一日以上かかった末、元気な男児を出産した。
マリアンヌによく似た髪色、顔立ちで――紫紺の瞳を宿した、男児を。
「ねぇ、見て。なんて綺麗な瞳でしょう。まるで、澄み渡った夕闇の空……明日の晴天を告げる、吉報の宵闇色だわ」
「えぇ、えぇ、まことに」
「無事に生まれてくれて、本当にありがとう。――――」
神の獣より頂戴した〝名〟を、マリアンヌは赤子の耳元でそっと囁く。
それはまるで、アント聖教の宗教画によくある、〝聖母〟の佇まいそのものであった――。
「跡継ぎが生まれたと聞いたぞ!? もっと早く知らせに来い、愚図が!」
誰がどう知らせたのか不明だが、赤子が生まれて三日が経った夜、突然連絡もなしに、当代が領邸へやって来てがなり立てた。妻が産気づいたことも知らず、社交だ付き合いだと言っては遊び呆けていた男に、労いの言葉などそもそも期待してはいなかったが、赤子を抱いた妻を目前にした第一声がコレである。マリアンヌの寝室には、呆れを通り越した白けの空気が漂った。
「ふん、男か。男ならまぁ良い。家も継げぬ役立たずの女など産んでいようものなら、女腹の穀潰しを嫁にしてしまったと、後悔せねばならぬところであった」
「……はぁ、左様でございますか」
エルグランド王国は爵位の継承に男女の別を設けていない。子どもが女児一人の場合、大抵は婿を取って家督を継ぐ。その際、慣例として婿入りした夫を爵名で、跡取り娘である妻を夫人と呼ぶことから勘違いされがちだが、実は家の諸々を相続しているのは妻の方で、爵位も妻が持っている。入婿が妻の実家の爵位を〝共有〟できるのは、あくまでも結婚している間のみだ。
要するに、〝女が家を継げない〟というのは当代の勝手な思い込みでしかないのだが、間違いを正したところで素直にそれを受け入れるわけもないと判断したのか、マリアンヌは無表情でさらりと流した。
――そのときだ。
「ぅ、あ」
マリアンヌの腕に抱かれていた――先ごろ起きて泣き、母乳を与えられてようやく落ち着き微睡んでいた赤子が、不穏を感じたのかぱちりと目を開けた。
目を開けて、母を見て。その視線をくるりと、招かれざる闖入者へと向ける。
――美しい、宵闇の瞳を。
その瞳に射抜かれた、瞬間。
当代の顔色が、一瞬で青黒く染まった。
「な、な、なんだその目は! 黒目など、人間の目ではあり得ない!」
「――は?」
「よ、よくもこんな悍ましい〝モノ〟を跡取りなどと……! 黒は魔の色、忌まわしき禍の色ということも知らんのか!」
「……仰る意味が分かりません。そもそも、この子の瞳は黒色ではなく、紫紺。夜と黄昏の狭間の色であり、全き闇ではありませんよ」
「黙れ! そのような詭弁で己の罪を誤魔化そうなど、小賢しい女め!!」
恐怖と怒りに満ちた表情で妻を怒鳴りつけた当代は、何度か肩で大きく息をすると、先ほどまで〝跡取り〟と言っていた赤子に、憎々しげな眼差しを向ける。
そのまま、ゆっくりと腕を上げ、その指先を生まれたばかりの小さな命へ突きつけて。
「――処分しろ」
「…………、な、んですって?」
「言葉をまともに聞くことすらできんのか。其奴は〝ヒト〟ではない。女の腹に紛れ込み生まれ出た、この世に禍をもたらす悪魔だ。ここで処分しておかねば、いずれ我が領、ひいてはこの国に、滅びをもたらす災禍となろう。そうなる前にこの世から消し去ることこそ、アント神の御心に適う、神の使徒の役目である」
「な――……にを、仰る、のです。この子は、」
「〝子〟ではない! 其奴は悪魔! 忌色を瞳に宿していることこそ、その証だ!!」
血走った目で赤子を睨め付けたまま、当代は口から泡を噴いて怒鳴る。
「かつて、アント聖教国時代、黒を纏った悪魔たちによって、国に未曾有の禍が訪れたという! 事実、数年前、母の実家――ベルフェゴ伯爵領に現れた黒髪黒目の悪魔は、領都を半壊にした! 黒を宿すものを手元に置いては、ろくなことにならぬ!!」
「左様なことは――」
「黙れ!! だまれだまれだまれぇ!! 誰かおらぬか!! 騎士ども!!!!」
喚く当代はもう、目の焦点すら合っていない。赤子を〝悪魔〟と罵る彼の方がよほど、悪魔本体か、それに憑かれた人間の様相をしている。
今すぐにでも騎士を呼んで、母子もろとも切り殺しかねないその姿に、せめてこの身を盾にしてでもお二人を守らねば――と足を踏み出そうとした、そのときだ。
「……承知いたしました。旦那様の仰るとおりにいたしますゆえ、どうぞお怒りをお鎮めくださいませ」
ぎゅ、と腕の中の赤子を抱きしめて。
一度も、当代と視線を合わせることなく。
静かな、囁きに近い……けれど、激昂する当代を圧する〝強さ〟を宿した声で、寝台の上のマリアンヌが言った。
彼女の迫力に言葉を封じられた当代は、ガタガタ震えつつ、本能的にマリアンヌを恐れたのか、ベッドから飛び退く。
「ゆ、猶予は、明日の朝までだ! 明日の朝までに処分せねば、兵士に悪魔の首を切り落とさせる! 部屋の前に見張りを置くゆえ、逃がせるなどと思うでないぞ!!」
言いたいことを言うだけ言って、当代は逃げるように寝室から出ていった。
先ほどと同じ、けれど全く空気の違う静けさの戻ってきた室内で――。
「……あなたを、この領邸内で唯一の味方と見込んで、頼みがあるの」
マリアンヌはゆっくりと顔を上げ、星のような瞳を苛烈に光らせた。
「今から言うものを、誰にも知らせず準備して。それから――……」
短い指示は、彼女が赤子の命だけでも、どうにか逃がそうと策を巡らせたと伝わるもの。
それに背く意思など、シュラザードの〝魂〟そのものに忠誠を誓った身として、持つわけもない。
マリアンヌの指示通り、しっかり編まれたバスケットに少しの細工をし、必要なものを集めて彼女の寝室へ戻る頃には、いかにもな柄の悪さを醸し出す男たちが、格好だけは領兵の制服で、扉の前に陣取っていた。マリアンヌが赤子を連れて逃亡しないよう見張れとでも言われたのだろう、入ろうとするこちらにはお構いなしで、扉の方だけを注意している。
そうして、怪しまれることなく扉を通り抜け、マリアンヌとともに全ての〝準備〟を終え。
「ああっ。あああぁぁ、あああああああああああ……っ!!」
東の空が白んできた頃、マリアンヌの寝室に、悲痛な叫び声が満ちた。
「坊や! 坊や、許してちょうだい。愚かな母を、どうか……!!」
手ずから縫った産着を血で真っ赤に染め、先ほどまで〝生きていた〟モノを腕に抱いて泣き崩れるマリアンヌを見れば、彼女が自らの手で赤子を葬ったことは、誰の目にも明らかに見えた。
尋常でないマリアンヌの悲鳴に、扉の前を見張っていた兵士たち(おそらく、当代が小銭をチラつかせて雇った破落戸だろう)が室内に踏み込み、その惨状に息を呑む。
彼らが言葉を失った、まさにその瞬間を見計らい、マリアンヌの背に手を置いて。
「奥方様。お気持ちはお察ししますが、〝悪魔〟にかような情を寄せてはなりませんよ。肉体を残せば、どのような禍が降りかかるか……決して復さぬよう、焼いて灰にしませんとね」
「……は、い」
頷いたマリアンヌは、〝赤子だったモノ〟を抱いたまま立ち上がり、蹌踉とした足取りで歩き出す。バスケットを抱え、もつれるように歩く彼女を支えながら、兵士たちが見張る中、ともに庭へと降りた。
庭には、あらかじめ指示しておいたように、超高温の竈が組み立てられている。
泣き濡れたマリアンヌが、鉄板の上に〝赤子だったモノ〟を置き、その鉄板を兵士たちと一緒に竈の中へ押し込み――火を、つけると。
「ああっ、坊や――!!」
火はみるみるうちに燃え上がり、竈の中を満たしていく。〝赤子だったモノ〟が炎に呑まれていく様を、その場にいた者たちはただ黙って見つめた。
「こ……これはっ、なんの騒ぎだ!!」
そこへやって来たのは、元凶である当代。明け方に高温の竈が灼熱の炎を噴いている異様な光景を目の当たりにした彼は、泣いている妻を抱き起こすこともせず、こちらに説明を求めてくる。
そんな男を、心の底から軽蔑しながら、表面上は従順を装って。
「〝悪魔〟を処理しろと仰ったのは、旦那様でございましょう? 奥方様は抵抗なさいましたがね、アタシがこうしてきちんと、奥方様御自ら、悪魔を産んだ罪をそそげるよう、こうして導いて差し上げましたよ」
「お……おぉ、左様であったか」
「はい。奥方様の手で〝悪魔〟を刺して息の根を止め、今、こうして燃やしております。強い力を 持つ悪魔だったら、肉体を残しておくのは危険でしょう? この竈の最高温度なら、骨も残さず灰になりますよ!」
「ふむ。――確かに、死んだのだな?」
当代の質問は、手下の兵士たちへ向けてだ。視線を向けられた彼らは、次々に頷く。
「この目で見ましたよ。お高そうなおくるみが、血で真っ赤になってやした」
「自分で刺した赤ん坊に泣いて縋るとか、奥方様もまぁまぁなご様子で」
「床も血だらけでしたからねぇ。あれじゃあまず、助からんでしょう」
「そうか」
兵士たちの答えを聞いて、ようやく安堵したのだろう。当代は泣き崩れているマリアンヌを一瞥すると、冷たく言い放つ。
「赤子は死産とする。届け出ておけ」
「……は、い」
「悪魔を産んだ女など、即刻離縁したいところだが、アント聖教の教義により許されぬ。跡取りは別の女に産ませるゆえ、貴様はこの邸で雑務を処理せよ。国向きの〝妻〟を要する社交が必要な際のみ、使いを寄越す」
「承知、いたしました」
もはや立ち上がる気力も喪われたようなマリアンヌへ、非情な言葉をぶつける当代。
内心の憤りを抑え、愚かな使用人の気配を醸し出しながら、一歩を踏み出した。
「……あのぅ、旦那様」
「なんだ」
「こちらの肉切り包丁は、どういたしましょう。奥方様が〝悪魔〟を処理なさるときに使ったモノです、もうお料理には使えないでしょう?」
「当然だろう!」
「でしたら、他の〝証拠〟と合わせて、森に埋めちまうのがよろしいかと。まだ外は暗いですし、今からアタシ、行ってきますよ」
「そうか、分かった。――誰か、ついて行ってやれ」
命じられ、兵士たちの中から、まだ若そうな男が一人、いかにも嫌々そうに出てくる。他の兵士たちから背を押されていたから、どうやら押しつけあった挙句の貧乏くじを引かされたようだ。
「アタシのような者にまでお気遣いくださるとは、旦那様はお優しい……すぐ、行って参りますので」
領邸から〝メルナオの森〟までは、歩いてもそう遠くはない。夜明けを迎えた街道はほの明るく、肉切り包丁を隠したバスケットを抱えていても、兵士と一緒であれば危険なこともなかった。
そうして――森へ、到着し。
「じゃあ、アタシは向こうの方で穴を掘って、この辺のマズいもんを埋めてきます。すみませんが、人が来ないように、見張っていてもらえますかね?」
「分かったよ。早くしてくれよな」
街道が見える絶妙の位置に兵士を置き、バスケットを抱えて獣道を歩き……彼の背が見えなくなった辺りで、一目散に走り出す。
目指すは、この獣道を抜けることで辿り着ける、旅人がたまに通る森の小道だ。
(マリアンヌさま……!)
どれほど苦渋の選択だったろう。時間も人手も限られた中、彼女は必死に、我が子を救う道を模索した。
探して、探して――……最後まで見張りが外れなかった今、取れる手段は、もう、これしかない。
「坊っちゃま……! 坊っちゃま、どうか、どうかご無事で」
マリアンヌの指示は、〝赤子が入るサイズの籠を二つ重ね、傍目にはそうと見えないよう細工すること〟。大きさの似た取手付きのバスケットとそうでない籠を素早く探し、二重底となった方には身代わりの子豚(締めたてで血抜きをしていないもの)を詰め、取っ手がついた上の方にはその他の小道具を、そしてそれらが見つからないよう、全体を大きな布で包んで一つのバスケットに見せかけた。
あの限られた、短い時間でそれをこなし、尚且つ厨房へ「夜明けまでに、一番高音で焼ける竈を庭に組み立てといてくれ」なんて指示ができたのは、腐っても〝シュラザード〟に仕えて長い、忠臣の血筋だからだ。幼い頃から行儀見習いの名目で領邸に上がり、数歳年上だった先代侯爵の遊び相手として仕え、いくつかあった縁談も全て振り切って、生涯を独身のまま〝シュラザード〟に捧げ尽くした。父が先々代に厭われていたし、自分自身も先代の妻に嫌われていたから身分上はただの侍女だが、勤めて長い老いぼれのことは、皆それなりに気遣ってくれる。
マリアンヌに託された、何より大切な宝物――身代わりの子豚と交代で隠した彼女の赤子を、二重底の下のバスケットごと、小道の脇に置いて。
(神様。どうか、どうかお慈悲を。アタシは、このまま地獄に堕ちたって、一向に構いやしませんから)
静かに、切実な祈りを捧げ、適当な茂みに〝証拠品〟を隠すと、大急ぎで兵士を残した場所へと戻る。
あまりやる気のない男は、幸いこちらの様子を注視することもなかったようで、欠伸をしながらぼうっと立っていた。
「あー、やっと帰ってきたか。おせーよ、ばぁさん」
「すみませんねぇ。なにしろ歳のせいか、穴を掘るのも一苦労で」
「全部埋めたんだな?」
「もちろんですとも」
言いつつ、空になったバスケットを見せた。二重底がなくなった分、バスケットは明らかに薄くなっているが、あらかじめ布で全体を巻いていたため気付かれてはいないようだ。
「確かに空だな。じゃあ戻るか」
「はい」
本当は――この男がついて来なければ、バスケットを抱えて森を抜け、一番近い領地守護職のもとへ向かう予定だった。彼に赤子を託し、シュラザード領から逃す手筈を頼むつもりだったけれど。
(獣たちがあまり通らない、地元の人も使わない、旅人が領を突っ切るとき専用の小道だけれど。獣が見つけにくいよう、敷布に森の匂いを染み込ませておいたけれど。……明るいうちに目が覚めて、泣いて、あの男の配下に見つからないよう、強めの睡眠剤を飲んで頂いたけれど)
全部、全部、全部。……人気のない森の中に〝捨てた〟時点で、彼の命を伸ばすには、ほぼ無意味な偽善に成り下がってしまった。
(神様……地獄には、どうぞアタシをお連れください。アタシをお連れになる代わりに、どうか坊っちゃまをお救いください――!!)
祈って、祈って。
屋敷に帰りつき、マリアンヌの寝室の扉を開くまで、ひたすら祈って。
――赤子を喪ったばかりの彼女が、誰もいない寝室にたった一人、ポツンと放置されている様に、糸が、切れた。
「マリアンヌさま――……!」
膝を折り、床に額をつけて。
ひたすら、ただひたすらに、言葉を紡ぐ。
「申し訳ありません……。アタシの力及ばず、坊っちゃまを安全なところまでお届けすることは叶いませんでした。森の外縁付近、旅人が通る森の小道脇にバスケットを置いて参りましたが、あれでは、あれでは……!!」
「――デボラ」
寝ているか、起きているかも判然としなかったマリアンヌに、はっきりした声で名前を呼ばれ、思わず顔を上げる。
枕を頭から上げることはできないまま、首だけをこちらへ向け、マリアンヌはゆっくりと口を開いた。
「ありがとう。あなたは、できる限りの精一杯を尽くしてくれました」
「そんな……!」
「理由はどうあれ、あの子を守れ切れなかったのは、母である私の咎。あなたは、この邸に、シュラザード家に仕える者として、主の命に従っただけです。あの子を置き去りにするしかなかったのは、あなたでなく、私。背負う必要はないわ」
「何を仰います!」
「本当のことよ。命だけは奪わせまいと、悪あがきしてみたけれど……結局できたのは、あの子を邸から逃すことと、後を追わせない小細工だけだったわね」
そう呟くマリアンヌの瞳に、光はない。どんな過酷な現実の中でも、星のような輝きを発していた紫水晶が、雨雲のような仄暗さに沈んでいる。
「きっと、ね。あの子豚に包丁を突き立てたとき、実際はどうあれ、私は〝息子〟を殺したの」
「マリアンヌ様!!」
「〝シュラザード侯爵夫人〟が産んだ子は、あのときに死んだ。国にも、死産として届け出すわ。……もしも、どこかの森で、親切な誰かに赤子が拾われ、無事に大きくなったとしても、その子は私の子ではない」
「そんな……! そこまで、そこまで仰らずとも」
「あのように愚かな男が実の父で、腹を痛めて産んだ我が子を守り切る器量もない脆弱な女が実の母だと知るより、その方が幸福でしょう。……何より、シュラザードの当主があの男である間、領地はともかく〝シュラザード侯爵家〟はあの子にとって敵でしかないわ」
細いながらも芯の通った声が、まるで身体を刺すように響く。マリアンヌの決意は、固い。
返す言葉が見つからず、ただ深く頭を下げると、少し緩んだ声が降ってきた。
「デボラ、本当にありがとう。あなたが居てくれて、どれほど心強かったか」
「そんな……過分なお言葉です」
「心からの言葉よ。さすが、〝正しき神の騎士〟――シュラリフ家に剣を捧げた第一の従騎士、セスバルの末裔ね」
主への忠義を直々に認められるのは、騎士にとって何よりの誉だ。
遠い昔――〝シュラザード〟の興りとともに、第一の領地守護職としてこの地に根を下ろした従騎士セスバルの末裔、デボラは、〝最後のシュラザード〟へ、もう一度、深く叩頭するのであった。
長く生きているだけあって、デボラさんの辿ってきた〝歴史〟は深く、シュラザード家関連で語られていないことはまだまだ山のようにありますが、ひとまずマリアンヌサイドの事情を語ってもらい、過去話を閉じようと思います。




