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悪役令嬢後宮物語  作者: 涼風
にねんめ
232/237

〝神の騎士〟の系譜

私の頭には一ミリもなかったはずの裏事情が明かされて、ひたすらビビりながら筆を進めてました。


 薬と、カムフラージュ用の敷布を持ってデボラが戻ってきたのと、脱出ルートを確保したカイが帰ってきたのは、ほぼ同時だった。カイがマリアンヌの身体を敷布で包んで抱き上げ、『隠形』をかけ直してから、ディアナはデボラを促して、来た道をまっすぐ戻り、領邸本棟を後にする。侵入時に極力人と出会わないルートを開拓していたことで、帰りは二人増えても実にスムーズであった。

 カイが開けたまま放置していた裏口の鍵も、変わりなく開いたままで。結局誰に止められることもなく、ディアナたちはすんなり領邸の外まで出てしまう。折しも夕暮れ時、街道を行き交う人の数は昼間よりずっと少なく、人とぶつかる心配もないまま、あっさり一行は〝メルナオの森〟の外れへ辿り着いていた。

 そのまま森へ入り、しばらく進んで外から見えづらくなったところで、カイは『隠形』の霊術(スピリエ)を解いた。


「この辺で父さんと合流する手筈なんだけど」

「馬車の内装に手を加えてくださってるみたいだし、もうしばらくかかるかしらね」

「たぶん」


 頷いて、カイは柔らかい草の上に、敷布ごとそっとマリアンヌを寝かせた。変わらず意識はないけれど、先ほどよりずっと深く、安定した呼吸をしている。

 横に膝をつき、マリアンヌの容態を確認してから、ディアナはデボラを振り仰いだ。


「デボラさん。マリア様のお薬を拝見してもよろしいでしょうか?」

「は、はい」


 デボラも草の上に荷物を下ろし、布袋の中から医者がよく使う薬袋を取り出す。


「こちらです」

「ありがとうございます。これは……丸薬と、粉薬、ですか?」

「はい。お食事をしっかり摂れるようなら、食後にこちらの丸薬を毎食後一錠ずつ。固形物を食べるのが難しいときは、スープやお茶に混ぜてこちらの粉薬を、やはり一回の食事につき一包ずつ飲むように、との指示でした」

「なるほど。……もう一つお伺いしても?」

「えぇ、何なりと」

「――マリア様のお部屋の暖炉で燃えていた、あの薪。どなたがご用意なさったものでしょう?」

「あの薬木ですか? 同じく、マリアンヌ様の主治医が用意したものですよ」

「薬木?」

「はい。マリアンヌ様の意識がはっきりしない日が多くなり、お水とスープを少し口に含めたら良いような状態だと話しましたら、『煙に薬効がある木――薬木があるから、今度持ってくる。暖炉で薪として燃やせば、少しは回復するかもしれない』と言って」

「……窓を閉めて燃やしていたのも、医者の指示ですか?」

「その通りです。『効果が高まるように、ドアと窓は閉め切って燃やすように』と指示がありました」

「…………最後に一つ、聞かせてください。マリア様の〝主治医〟を選んだのは、誰ですか?」

「あの、人は……もう随分と長く、マリアンヌ様の主治医を務めています。最初にやって来たのは、お産で崩された体調が、なかなか良くならないまま、十年近くが過ぎた、頃で。確か――『侯爵様のはからい』だと、城代が言っていた、かと」


 聞けば聞くほど、怒りが湧き上がる。眉間に皺が寄りそうになるのを、意志の力でどうにかこうにか無表情をキープして。

 心を落ち着かせるため、一度大きく深呼吸してから、ディアナはデボラをまっすぐ見据えた。


「今から、とても酷なことを申し上げます。お許しくださいませ」

「は……はい」

「デボラさん。こちらの〝お薬〟を、もう二度と、マリア様に投薬してはいけません。これらに、マリア様の体調を回復させる薬効は何一つないのです」

「そ、そんな、まさか!」

「それどころか……こちらには、マリア様のお身体をじわじわと蝕む〝毒〟が、多量に含まれています」

「まさか……」


 蒼白になったデボラが、力無く首を横に振る。


「そんな、そんなはずはありません。確かにマリアンヌ様の病状は一進一退を繰り返しておりましたが、急激に悪くなるようなこともなく、時には回復して、社交へ出られるときもあったのです」

「……申し上げにくいことですが、毒を与えていたのが医者ならば、体調のコントロールは容易にできます。医者が侯爵の指示を受けていたのなら尚更、マリア様の出席を望む社交の前には毒を投与せず、溜まった毒を排出しやすい〝薬〟に変えて、一時的に体調を回復させることも可能でしょう」

「そんな……」

「信じられないのは尤もです。しかし、少なくともマリアンヌ様の主治医を担っていたその者は、医者として正道を歩むものではあり得ません」

「そこまで、なんですか」

「はい、残念ながら。――その証拠に、先ほどお部屋で燃やされていた、医者が〝薬木〟だと言っていたあの黒い薪は、燃やすと呼吸が苦しくなる煙が大量に出ると知られています。広い部屋で十分に換気もされ、尚且つ健康な人が集う部屋で燃やすのであればさほど問題にはなりませんが、自力で動くことも難しい病人の狭い寝室で、窓を閉め切って燃やすとなると、非常に危険なものであると、かつて医療者の間で話題になりました」


 あの黒い薪は、火をつけてから消えるまで、生木を割っただけの通常の薪より長持ちする。それもあって、数十年前までは冬の診療所で当たり前のように使われていた。

 が、しかし。そうして黒い薪を愛用していた診療所のいくつかでは、冬場の患者の死亡率が異様に高いという統計結果が報告され。原因を調査したところ、黒い薪から出る煙が人間の呼吸を妨げる〝毒〟であることが判明したのだ。特に、狭く、窓を閉め切った部屋であの薪を燃やすと、死亡率が跳ね上がる。

 この衝撃的事実は医者の間で広く知られ、今ではあの薪の使用は推奨されておらず、やむを得ず使う場合は必ず部屋を換気しながら燃やすようにと通達されている。

 そう。マリアンヌの主治医が真っ当な医者ならば、あの黒い薪を「閉め切った部屋で燃やせ」と指示するはずがないのだ。


「マリアンヌ様の意識が戻らず、食事も満足に摂れない状態では、回復することも難しいでしょう。けれど、同時にこれ以上毒を与えることもできない。そう考えた主治医は、新たな〝毒〟としてあの薪を思いついた」

「そ、んな……」


 ディアナの話が、ようやく飲み込めたのだろう。デボラの瞳に、後悔と絶望が浮かぶ。


「そう、だと、したら。アタシは、ずっと、何年も。マリアンヌ様に、……毒を、」

「――デボラさん」


 震えるデボラの手を、強く掴む。しっかりと視線を合わせ、ディアナは強く首を横に振った。


「間違えないで。悪いのはあなたじゃない。卑劣な罠で、医者という身分を隠れ蓑に、マリア様のお命を狙った、その主治医。そして、主治医を背後で操っていたであろう侯爵こそ、マリア様を苦しめた加害者です」

「ですが!」

「医者が〝薬〟だと言って差し出してきたものを、患者が疑う術はありません。時折快方へ向かっていたのなら尚更、疑うことは難しかったはず。マリア様の回復を信じて、祈って、お薬を飲ませていただけのデボラさんが責められる道理がどこにあるの?」

「でも……アタシがもっと、用心してれば……!」

「この毒は、身体に溜まっていくことで、じわじわ健康を阻害していく(タイプ)なの。マリア様のお身体が元々弱っていたのならもっと、彼女に現れた症状が毒によるものか、弱っていたがゆえなのか、判断するのは難しかったことでしょう。デボラさんの用心が足りなかったわけでも、忠義が欠けていたわけでもありませんよ」

「……アタシ、は」

「デボラさんがマリア様に忠義を尽くしていたことは、この短時間見ていただけのわたくしでも分かります。デボラさんもまた、マリア様への想いを利用された被害者です。どうかもう、自分を責めないでください」

「お嬢様――……」


 涙を流すデボラの横へ移動し、ディアナはその背をゆっくりとさする。


「デボラさん。マリア様の主治医の名を、ご存知ですか?」

「な、まえ?」

「はい。……一人でも多くの人を救うため、過去の医者たちが積み重ねてきた研鑽を、知識を悪用し、人の命を奪おうと目論んだ輩を、わたくしは医者とは認めません。師匠たちにも情報を共有し、必ず報いを受けさせます」

「あ、りがとう、ございます。……主治医の名は、ゲルスト。王都で医術を学んだと、かつて得意げに話していました」

「ゲルスト医師、ですね。感謝します、デボラさん」


 聞くべきことを聞いて、ディアナは静かに空を見上げる。太陽が遠く西へと去り行く黄昏時は、どこか自他の境界が曖昧になりがちだ。


「……よくぞ今日まで、マリア様をお守りくださいました。あのような見捨てられたも同然の城では、できることも限られていたでしょうに」

「よしてください。……アタシは、ただ、」

「……はい?」

「シュラザードの、誇りを。その魂の現し身のようなマリアンヌ様を、喪いたくなかっただけの、臆病者です。本当にマリアンヌ様をお救いしようと思うなら、こんな風に城の外へお連れすれば良かったんだから」


 俯くデボラの言葉の意味が、よく分からなかった。カイに視線を流してみたが、彼もピンと来ていないらしい。

 少し思案して、ディアナはデボラの背を優しく撫ぜながら、敢えてゆっくり言葉を紡ぐ。


「先ほども、似たようなことを言っていましたね。マリア様は、この地に残った最後の〝光〟だと」

「……シュラザード家の血を引く侯爵ではなく、無理やり嫁がされた奥方であるマリアンヌ様の方が、シュラザードの〝光〟であらせられるのは、皮肉なことですが」

「もし、よろしければ。マリアンヌ様の何を以てシュラザードの〝光〟であり、〝魂の現し身〟であると思われたのか、教えて頂けませんか?」

「もちろんですとも。こんな老いぼれの昔話でよろしければ、どうぞよしなにお聞きくだされ」


 少し寂しそうに微笑んで、デボラは静かに唇を解く――。



  ■ ■ ■ ■ ■



 ――正しき神の騎士であれ。


 それが、シュラザード侯爵家の前身、シュラリフ聖騎士伯一族における、唯一絶対の家訓であった。

 アント聖教国黎明期から脈々と続く聖騎士を継ぐ一族であり、その功績によって伯位と領地を与えられた、生粋のアント聖教信者。

 それゆえに、かの一族は時代を降れば降るほど、アント聖教国の中枢とは距離を取るようになる。


 創世神たるアント神を祀るため、アント聖教は生まれた。生まれた当時の教義は、信じられないことに、とてもシンプルであったという。


『創世神アントに感謝を捧げよ。共に生きる隣人を敬い、愛し、日々を堅実に、誠実に生きるべし。弱きものに優しくあれ。強きものに阿ることなかれ』


 たったこれだけだったはずなのに、国が肥え、中枢が利権塗れになっていくほど、一部の有力者にとってのみ都合の良い勝手な教義が付け足され、いつしか宗教が人を縛るモノと化した。民を支配するための、便利な道具と成り果ててしまったのだ。

 当初のアント聖教国は、アント聖教の教えを守って堅実に生きていきたい人々が集まった、小さな国だった。外敵は数知れず、非力な民を守るため、戦闘が得意な者たちが〝神の騎士〟を名乗って立ち上がった。シュラリフ聖騎士一族も、そうして興った家の一つで。


 ――だからこそ、アント聖教が国を治める道具へと堕ちていくほどに、彼らは国から遠のいていったのだ。


 正しき神の騎士であれ。

 強さに驕ることなく、謙虚であれ。誠実であれ。

 常に弱きものの味方となり、民を守る盾であれ。

 民を害す敵には、勇猛果敢な矛であれ。

 共に戦う仲間を敬愛し、いかなるときも裏切ることなかれ。


 アント聖教国がどれほど肥え太り、歪み、内側から腐ろうとも、決して変わることなく〝神の騎士〟であり続けた、国家の異端児――それが、シュラリフ一族であった。

 歴史に残る〝五十年戦争〟時、かの一族が真っ先にアント聖教国を見限り、エルグランド王国と内通し、祖国を滅ぼす一矢となったのも、ある意味予定調和であったのだろう。当時のアント聖教国は、国の財を戦争へと注ぎ過ぎて、民の暮らしは飢餓寸前。そんな地獄の中でもシュラリフ家は民の暮らしを守るべく奔走していたが、国家の流れという大勢には抗えず、深く苦悩していたようだから。


 ――国が滅びようとも、神は滅びぬ。我らが〝神の騎士〟であることは揺らがぬ。

 ――この国に従い、弱きものへの蹂躙に加担する方が余程、アント神への裏切りである。


 裏切り者、と罵られた当時のシュラリフ聖騎士伯は、堂々言って胸を張ったという。

 やがて――五十年戦争が、エルグランド王国の歴史的な勝利で幕を下ろした頃。その高潔な騎士道精神と民への慈愛の心を高く評価され、シュラリフ聖騎士伯家は、新たに王国より〝シュラザード〟の家名と侯爵位を与えられ、アント聖教国時代と同じ土地を治めることを認められた。

 家名が変わり、属する国が変わっても。


 ――正しき神の騎士であれ。


 その家訓と騎士の心は、代々のシュラザード当主へ受け継がれてきたという。




 一方、〝国〟を亡くし、一宗教へと回帰したアント聖教は、残念なことに、その魂までもを原初の頃へ戻すことはできなかった。聖教国崩壊時こそ、教義を盾に国民を支配していた教会上層部――〝教義派〟が数を減らしたことで、原則理念を重んじる〝原則派〟が盛り返したように見えたけれど、そもそも絶対数の少ない〝原則派〟がそのままアント聖教を主導することは難しく。

 三百年という時間の中で、潜んでいた〝教義派〟がじわじわ忍び寄り、ただでさえ少なかった〝原則派〟を駆逐していった。アント聖教が興って二千年近く、長い歴史の中で原初の形が曖昧になりつつあったのも、教義をきちんと〝聖典〟として書き記していた〝教義派〟が伸びる一因ではあったろう。

 加えて、エルグランド王国が何となく〝国教〟と位置付けているアルメニア教が、自由度の高い寛容な宗教であったことも、間接的に〝原則派〟が数を減らす要因として作用した。アント聖教の原則であった〝神への感謝〟も〝隣人愛〟の精神も、日々を丁寧に生きる勧めも、弱きを援け強きを挫く心意気の推奨も、アルメニア教の教えに含まれていたのである。何しろ多神教の神だ、神ごとに教えが違うだけに、バリエーションも豊富であった。

 アント聖教の原則を愛した〝原則派〟たちは、国がエルグランド王国へと変わり、アルメニア教の教えに触れる中で、「アルメニア教の神々は、アント神の教えを否定していない」と知り、アルメニア教を受け入れ、勢力争いが絶えないアント聖教から離れていった。優しく穏やかな原則を大切にしていただけあって、〝原則派〟は争いを好まない穏健な人が多かったのだ。


 そうして、徐々に、半島統一から三百年近い年月をかけて――〝アント聖教は、唯一神アントを盲目的に崇拝し、何の意味もない理不尽で狂気じみた戒律を守ることに拘る、偏屈でヤバい連中の集まり〟というイメージが定着していった。


 イメージが浸透するということは、アント聖教の原初が忘れ去られていくことに繋がる。シュラザード侯爵家に伝わってきた『正しき神の騎士であれ』という家訓も、時代を下るにつれ、その始まりを知る者は少なくなり、今となっては数冊の歴史書と口伝がかろうじて知らせるのみ。

 それでも、ここまで〝シュラザード〟の名が残ったのは、代々の当主に勤勉な者が多かったのと、〝口伝〟の継承先が一つでなかったからだろう。シュラリフ騎士伯家であった頃、仕えていた騎士のうち、最も忠誠心厚かった者たちが数名、それぞれ領地守護職(エステイショナー)に任命され、各地へと散った。三百年の間に幾つかの家は断絶し、別の者が職を継いだが、それでもまだ『正しき神の騎士であれ』という家訓の〝真意〟を伝え聞く家は残っている。侯爵家の〝口伝〟が途切れそうになるたび、領地守護職(エステイショナー)となった騎士たちの子孫が、継承者の役割を果たしてきた。三百年間、そうやって繋いできたのだ。


 それでも――どうしても、限界は訪れる。


 何度か訪れた断絶の危機を乗り越え、先代のシュラザード侯爵はこの地に生まれ、成長した。彼自身は生真面目で実直な性格の持ち主であったが、先々代であった父侯爵は、不快を遠ざけ快楽を貪る、自分に甘い人物だったという。受け継ぐべきものすら満足に与えられず、それでも生来の真面目さから義務を放り出すなんて考えもしなかった先代シュラザード侯爵は、ただ実直に領地と、民と、向き合い続けた。

 そんな彼の姿に〝シュラザードの誇り〟を垣間見た、口伝を受け継ぐ領地守護職(エステイショナー)によって、先代は『正しき神の騎士であれ』という家訓の〝真意〟を知って。先祖の誓いを胸に、領地の民がより豊かになるよう、彼らに幸福な明日が訪れるよう、誠心誠意を尽くして来た。

 ――そんな彼の、最初の不幸は。


「……結婚、ですか」

「左様。そなたももう、妻を娶らねばならぬ年頃であろう。我の方で、良い娘を見繕っておいた」


 父に言われるがまま、アント神の御前で永遠を誓った〝妻〟は、敬虔なアント聖教信者と言えば聞こえは良いが、その実、無意味な戒律を他者に強いて当然の顔をする、いわゆる盲目的な狂信者に分類される女だった。

 その理不尽を彼女自身も粛々と受け入れていればまだ同情もできただろう。けれど、本人は教義の美味しいところをつまみ食いし、守りたくない戒律は屁理屈を捏ねて無視する。そんな傍若無人さを目の当たりにしては、情を抱くことすら難しかった。


 それでも、娶った以上は妻である。そして、先代シュラザード侯爵は、どこまでもどこまでも真面目だった。

 妻が孕むまで、律儀に〝夫の役目〟をこなし――やがて、当然の帰結として、彼女は子を身籠る。当代シュラザード侯爵となる、男児を。


 それこそが――先代シュラザード侯爵にとっての、次なる不幸であった。


「息子の教育に関わるなだと!?」

「は、はい。奥方様は、『口を開けば民だの領地だの、そんなことしか言わない面白みのない男に育てられては、この子までつまらない人間になってしまうわ。次期シュラザード侯爵はあたしとお義父様で立派に育ててみせますから、侯爵はどうぞ、お仕事に集中してくださいな』と仰っていて……」

「馬鹿な……」


 当時、先々代シュラザード侯爵はまだ元気で、侯爵位も譲られておらず、家内の最終的な決定権は父にあった。そして父は、自分で見つけて来たゆえか、嫁にとてつもなく甘かったのだ。それこそ、嫁の意向は何でも二つ返事で受け入れる程度には甘かった。

〝子育ての主軸を母と義父が担う〟という、あまり一般的ではない希望も、妻が父にお願いした時点で、シュラザード侯爵家の方針となってしまう。次期当主とはいえ、そこへ割り入れるほど、先代の権限は強くなかったのである。

 その結果――。


「きゃあ! 若様、お許しを、お許しくださいませ!」

「なに! 私に逆らうつもりか!?」

「若様、何卒、どうかお許しを……」

「――何をしている!?」

「父上ではありませんか。この娘が、私に逆らおうとしたので、折檻していただけです」


 十をいくつか過ぎる頃には既に、跡取りとして儲けたはずの子は、とんでもない暴君と成り果てており。

 ようやく亡くなった父から爵位を継いだばかりの先代は、必死に息子の軌道修正を図ろうとしたものの、なかなか上手くはいかなかった。彼が厳しく接すれば接するほど、妻は息子を甘やかし、息子もそんな母べったりになって、ますます話が通じなくなるばかりだったのだ。

 せめて、先代にできたのは、息子が他所様へ迷惑をかけないよう、王国貴族が集まる社交の場へ妻諸共出さないこと。彼自身も中央の社交から距離を置き、ひっそりと、しかし堅実に、領地を富ませ続けることだけであった。


「我が子とはいえ、〝正しき神の騎士〟であれない息子へ、爵位を譲ることはできない。遠縁か、あるいは領地守護職(エステイショナー)の家に、見込みのある若者はいないか――」


 甘やかす母を喪い(義父に似て己に甘い妻は、不摂生の見本のような暮らしを送る中で病を得て、あっという間に儚くなった)、三十歳半ばを過ぎて、それでもなお〝幼い暴君〟でしかなかった我が子に見切りをつけ、後継者探しに本腰を入れ始めた、まさにその矢先。

 先代は、急な病に斃れ、床に臥せってしまった。


「あの子が、シュラザードの、シュラリフの〝家訓〟を裏切り、〝神の騎士〟の誇りを穢す、ならば。……シュラザードはもう、生きながらに、死んだも同じだ」


 瀕死の床で、彼が最後まで抱いていたのは、『正しき神の騎士であれ』と謳う、現代まで続いたシュラザードの〝誇り〟。

 腹心の、配下の手を握り。彼は、涙ながらに訴えた。


「〝神の騎士〟であれぬシュラザードに、存在価値はない。あの子が、家を殺すなら。そのときはどうか、見苦しく名を残す恥を晒す前に、そなたらの手でシュラザードを終わらせてくれ」


 彼の死に際を看取ったのは、家族ではなく、彼を慕って集まった配下たち。妻子よりもよほど強い絆を結んだ配下たちの啜り泣きが響く中、彼は。


「無念、だ。あまりに、無念――」


 最期まで、己の無力を嘆きながら、息を引き取った。


長くなったので、次回へ続きます。

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