マリアンヌとの対面
王宮に住んでいるとうっかり忘れそうになるが、普通の貴族邸宅は隠し通路が充実していない。
時間に余裕があれば〝隠形〟の霊術と尾行術の合わせ技で、使用人エリアから邸の主人たちが住まう本棟へ侵入するのがセオリーだが、その余裕すらないとなると、こっそり窓ガラスを割って鍵を開け、忍び込むのが一番だろう。
この辺の段取りは慣れているカイに任せ、ディアナはカイが切り開いてくれた侵入路をありがたく使わせてもらう形で、無事に(と言っていいのかどうかは微妙だが)シュラザード侯爵領邸の本棟へ入ることができた。
「……探ったときも思ったけれど、びっくりするほど人の気配が希薄なのよね」
「侯爵本人は別邸で愛人と過ごすのが常態化してたわけだから、本邸には必要最低限しか人を置いてない感じかな」
「別邸が実質的な領邸の機能を果たしてた、ってこと? だとしても、これだけ広大な邸を維持するには、必要最低限であっても相当な人数が必要だと思うけど」
何度か増改築はしているのだろうけれど、邸の建築様式を見るに、元となっているのはアント聖教国時代に建てられた〝城〟だ。高い塔と塔の間に堅牢な城壁が張り巡らされ、侵入者を寄せ付けない砦を兼ねた造りは、なるほど、戦が常だったアント聖教国の歴史を感じさせる。
これほど立派で重厚な領邸ならば、維持するだけでもかなり手がかかる。住居とは、人が住まなくなれば、途端に荒れて崩れる代物だ。次世代に瑕疵なく引き継ぐためには、百人規模で人がいても驚かない、どころか至極当然だと、少なくともディアナは思うが。
(細かな命の数までは数えてないけど、どう考えても人が百人いる気配はしなかったのよね。その半分……ううん、もっと少ないかも)
カイはかなり気を遣ってガラスを割ってくれたけれど、普通に割っても気付かれなかったのではと思うくらい、少なくとも本棟一階はがらんとしている。
「――それで、目的地は?」
「えっと、この棟の四階。階段脇の小部屋を寝室にしていらっしゃるみたい」
「へぇ? まぁ、出入りはし易そうだけど」
「とはいえ、部屋から一番近い階段周辺は、さすがに無人ではなさそうだけど」
「そりゃそうだよね。じゃあ、ここから一番近い階段で四階まで上がって、こっそり隠れながら小部屋まで行こうか」
サクッと方針を決め、カイについて歩き出す。探れども探れども人の気配はない。ディアナの霊力は人以外の命の気配も感じ取れるため、この周辺の〝命〟そのものは見つかるけれど、その全てが建物内部を間借りしている小動物たちばかり。今のところ、ディアナたちの数十歩圏内はまごうことなき無人である。
「本当に誰もいない……いくら昼間とはいえ、灯りすらついてないのはどうかと思うわ」
「この邸、周囲全部が石壁で囲まれてるから、日当たり良くないもんね。昼間でもなんとなく薄暗い感じするから、灯りはちゃんとつけた方が良い気がするけど、それもしてないとなると、単純に予算不足かな?」
「照明用の油すらケチらないとやっていけないほどの低予算ってこと? 曲がりなりにも領の本拠地に回すお金削っても、良いことなんて一つもないでしょうに」
「俺もそう思うけど、シュラザード侯爵って話に聞いただけでも頭悪そうな感じだったし。愛人たちと豪遊する金欲しさに、〝本邸〟の必要維持費をガンガン削るとか、いかにもやりそう」
「確かに、道理が一切通じない雰囲気はしてたわね……」
「二十年以上前から自分の欲を押し通すことしか考えてないような奴だったんでしょ? 本邸のこととか、そこで働いてる人のことなんて、眼中にも入ってないよ、きっと」
カイの分析はとことんシビアだ。シュラザード侯爵の顔すら見たことのない彼にとって、侯爵は正しく〝他人〟なのだろう。それだけに、その人物評は的確だった。
(実際、あれだけ言葉が通じない人も珍しいものね。言いたいことを言うだけ言って、聞きたい答えをしつこく求めて、でも相手の話を聞く気はゼロって感じ)
あそこまで自分のことしか考えてない人間であれば、自分の住処でない本邸の予算を削れるだけ削るなんて身勝手も当然のこととして実行しそうなのが怖い。それでも足りないとなれば領民へ不当な税を課すまでやりそうではあるが、そういった報告は聞いたことがないので、おそらくは領地守護職が有能なのだろう。
――そんなことを話しつつ、誰とエンカウントすることもなく、ディアナたちは四階へと上がって。
「……カイ。この通路を曲がった先に、見張りらしき人が立ってる」
「りょーかい。ちょっと寝ててもらおっか」
どこからともなく取り出した薬を布に染み込ませ、カイが音もなく駆けていき、ゆっくり十数えるうちに戻ってきた。「いいよ。行こう」と促されて歩いた先には、壁にもたれるようにして座り込んでいる衛兵の姿。言葉の通り、どうやら眠っているようだ。
「……メインはレンバクの果汁、そこにシシィの花とサジの実を加えて、シプロの蜜で効果を高めた感じ? これ、少量吸うだけならただの眠り薬だけど、うっかり飲んだら大変よね」
「吸入系の即効性高い薬は大概、〝うっかり飲んだら大変〟なんじゃない? 心配しなくても、用途外の使い方はしないよ」
「モノによったら胃で普通に消化されるから、大変じゃない場合もあるんだけどね。この薬の場合、レンバクの果汁がダイレクトに毒だもの」
「高原地帯にしか生えてないとはいえ、あんなに美味しそうな果物が毒とか、とんでもない罠だよねぇ」
「罠すぎて、そこそこ有名よ? 〝高原に生えている背の低い木の実を食べてはいけない〟って。けどまさか、レンバクの毒素を眠り薬に使うなんてね」
「『闇』の人たちは使わないの?」
「使ってない、と思う。少なくとも私は聞いたことないわ」
『闇』も眠り薬は何種類か常備しているが、レンバクがメインのものはなかったと記憶している。この使用感を見る限り、即効性も高ければ眠りも深く、ついでに誤飲時の危険性も段違いなので、敢えて常用していないのかもしれない。『闇』とカイたち獅子親子では、同じ裏社会に属していても仕事内容は大きく異なるわけだから、その辺りの使い分けだろうか。
気配はしっかり読み解きつつ、二人は静かに目的地へと進む。
「あと二人、小部屋へ行くまでに見張りが居るみたい」
「はーい。近くなったらまた教えて」
カイに気負いはまるでなく、その後もディアナが見つけた衛兵をカイが眠らせる工程を二度繰り返し、ついに二人は目的の部屋へと到着した。
「……クレスター家にもお邪魔したから、分かるけど。この部屋、元々は絶対、寝室じゃないよね」
「階段脇だから、たぶん使用人の控室の一つか、物置か……そういう用途を設定されてた部屋なのは確かでしょうね」
そもそも扉が両開きでなく、片開きの一枚ドアな時点で、どう考えても〝侯爵夫人の寝室〟ではあり得ないが。――中の気配は、紛れもなく。
「……開けるよ」
ドアには鍵すらなく、言葉とともに扉は容易く開かれて。
開いた瞬間、ディアナの目に飛び込んできたのは。
「――っ、カイ、窓を開けて!」
「わ、わかった!」
カイに指示を出しつつ、ディアナはサイドテーブルに置かれている水差しを取りに走り、燃えている暖炉に中の水を撒いた。幸いにも水差しがそこそこ大きかったおかげで、炎は大人しくその姿を消し、後には燃えかけの黒い薪だけが残る。
(マリア様は――!)
カイが窓を開けてくれたらしく、新鮮な空気が入ってきたことを肌で感じつつ、ディアナはベッドへ歩み寄る。
「……っ」
「…………ディー?」
「……大丈夫。まだ、助かる。助けられる」
肌の色は真っ白で、胸も上下していないけれど、口元に寄せた手鏡はわずかに曇る。呼吸は止まっておらず、弱いながらも脈が触れるベッド上の住民は、まだ、生きることを諦めていない。
(それならば――!!)
左手は患者の脈を取ったまま、ディアナは急ぎ、霊力を流して全身の状態を調べる。
体内の臓器は毒素の影響か機能が衰え、多臓器不全一歩手前。
そこに、ダメ押しのつもりか、呼吸を妨げる効果の高い煙をよく出す薪を、窓を閉め切った室内で燃やすという鬼畜の所業が加わり、軽い酸欠状態にまで陥っている。
この状態から、持ち直すには。
(どうか、生きて。あなたの声を聞きたい人が、あなたを生きる縁にしている人が、ずっと、ずっと、待っているのです。この声が聞こえたなら、どうか、私の霊力を受け入れて……)
患者の手を両手で握り、祈りを込めて額へつける。これまでのように、身体の一箇所だけ狙うのではなく、全身へとくまなく『森の姫』の〝奇跡〟が届くように。特に弱っていた消化器系の臓器と心臓へは、持ち直せるギリギリを見極めながら、少しずつ。奪われかけていた新鮮な空気が体全部へ行き渡るよう、呼吸を司る胸の臓器の機能も補助して。
(奪わせない。もう絶対に、私の目の前で、命を理不尽に奪わせはしない――!!)
指先から〝何か〟が抜け出ていく感覚が続くほど、頭の芯が冷えていく。『森の姫』だけが使えるいう、〝命を与える〟奇跡――その本質が理屈ではなく肌で実感できるほど長く、ディアナは〝何か〟を流し続けた。
(もう、少し。あとちょっと……)
頭が、身体が、――心が、冷えて。
己の全てが希薄になっていく――……。
その、寸前。
(ここ!!)
先ほどまで〝死〟へと傾きつつあった、彼女の命の天秤が、ギリギリではあるがはっきり〝生〟へと傾いた。
それを察知すると同時に目を開き、与えていた〝何か〟を堰き止める。
――途端、冷えていた全身に熱が戻り、世界に己が存在しているという〝実感〟も戻ってきた。
「っ、!」
「ディー!」
足元がふらつき、大きく傾いだ身体を、ずっと背後で見守ってくれていたらしいカイが抱き留めてくれた――という感覚は、遅れてやってきた。……自分でも驚いたことに、これまで感じたことがないほど身体が重く、指一本すら動かすのが億劫なほどの倦怠感が全身を巡っている。『森の姫』の〝奇跡〟を行使するのは今回で三度目だが、前回前々回に比べ、それだけ〝患者〟が重篤だったのだろう。
「ディー、俺のこと分かる?」
「大丈夫、分かるわ。意識ははっきりしてるの。ただ、身体が重いだけ」
「そりゃ、これだけ長時間、あんな繊細な霊術使ったら、疲弊もするだろうけど。にしても、いきなり倒れたからびっくりしたよ」
とりあえず座ろっか、と言われたと同時に抱えられ、ベッド脇をぐるりと回って窓際にあった椅子へと座らされる。流れるような一連の動作に、驚く暇はもちろんのこと、恥ずかしさを感じる間さえない。
座り心地の良い椅子に落ち着いて、ディアナはきょとんと首を傾げた。確か、カイはさっき、妙なことを言わなかったか。
「……長時間?」
「俺もちゃんと測ってたわけじゃないけど、そろそろ夕暮れ時だから、結構な長時間だったと思うよ?」
「えっ」
言われて窓の外を見る。太陽は大きく西へと傾き、空の色はそろそろ赤へと変わりそうな頃合い――いくら日没が早い季節とはいえ、この部屋に辿り着いて間もなく夕暮れが訪れるはずはなく、つまりはディアナがそれだけ長く、患者を〝治療〟していたということなのだろうけれど。
「確かに、前より長く霊力を使ってるとは感じてたけど。それでもせいぜい、数分単位の誤差だと思ってた……」
「体感時間がどれだけアテにならないか、こういうときによく分かるよねー」
「そういう話だったかしら、これ? 今日は時間に余裕あったから良かったけど……」
「まぁまぁ。患者の状態によって〝治療〟の時間が変わるってことが今回で分かったわけだし、今後の参考にすれば良いんじゃない?」
「……そうね。そうする」
ディアナの霊力は特殊なものゆえ、他の霊力者との比較参考ができない。となれば、過去との違いを検証しながら、自分なりの使い方を探っていくのが、結局のところ霊力を使いこなすのに一番の近道となる。過ぎたことをグタグタ言うより、ここは前向きに考えるべきだろう。
(……よし。話しているうちに、身体の重さもマシになってきた)
ここからは先は『森の姫』の〝奇跡〟ではなく、人が積み上げてきた〝医術〟の領域である。
――そして、彼女の〝治療〟はある意味ここからが本番であった。
「カイ。マリアンヌ様の診察と薬の調合に入るわ。手伝ってくれる?」
「もう? もうちょっと休まなくて平気?」
「手に力も入るようになってきたし、大丈夫」
有言実行すべく、椅子から立ち上がる。足元のふらつきも治まり、思った以上にしっかりと歩き出すことができた。
そのまま、先ほど無意識のうちにベッドサイドに置いていた、愛用の薬箱の隣まで進む。――実は、礼拝旅が始まる前夜、ソラとの話し合いでシュラザード侯爵領行きが確定した時点で、ディアナは旅行用荷物にそっと愛用の薬箱を忍ばせていたのだ。
それを、移動陣に入る前にしっかり背負い、もちろん領邸へ向かうときも背負い、ここまでやって来たのである。
「失礼いたします。……マリア、さま」
改めて、静かに眠るベッドの住人を覗き込み、そっと声をかけた。かなりやつれてはいるものの、艶のある枯葉色の髪に、目を閉じていても分かる整った目鼻立ちは、なるほど、背後でディアナの一挙手一投足を注視している彼によく似ている。この人が、マリアンヌ本人で間違いないだろう。
「改めて、お身体を拝見しますね」
マリアンヌの意識が戻る気配はないが、ディアナはいつもの診察と同じように言葉がけをし、脈を取り、視診、触診を行なっていく。加えて霊力で、より詳細な〝命〟の状態を読み取って。
(マリア様に使われている毒は、やはり……)
一通りの診察を終えると、ディアナは詰めていた息を吐き出した。
「……どうだった?」
「マリア様に長年投与されてた毒なんだけど、いわゆる〝金属毒〟でね。健康な人が少量摂取するだけなら、自然と体外へ排出されるけれど、マリア様は産後に長く患っていたそうだから、その頃からじわじわと、排出し切れない量を毎日与えられていたんじゃないかしら」
「その手の毒って、一気に多量を与えて中毒を引き起こす使い方もできるけど、人によって〝毒〟になる量に個人差があるから、長年少しずつ与えてじわじわ体を壊していくやり方が主流なんだよね。俺たちみたいな稼業者にはあんまり縁がない毒だよ」
「さすが、詳しいわね。なら、説明するまでもないと思うけど……」
「うん。――即効性のある解毒薬は作れない、だよね?」
話がとても早くて助かる。
肯定の意を込め、ディアナは大きく頷いた。
「えぇ。解毒は主に、体内に溜まった毒素を排出することで進められる。要するに〝毒抜き〟ね」
「毒を盛るにも時間がかかるし、解毒にも時間かかる。ホント、気の長い話だよ」
「呑気なこと言ってるけど。その〝時間のかかる〟毒抜きをするには、マリア様を安全な場所へお連れしないと、現実的に厳しいわ。ひとまず、毒で弱っていたお身体の機能は回復させたけれど、毒が体内に残ったままだと、遅かれ早かれまたお命が危険に晒されてしまう」
「〝安全な場所〟の心当たりはあるの?」
「ここから馬車で半日程度走ったところに、クレスター伯爵領の一つ、ツテムノがあるわ。あそこは温泉地帯だから、湯治技術が発展しててね。昨年、お兄様の監修で、湯治場と治療院を兼ねた施設が試験的に作られて、ちょうど運用され始めたところなの」
「うっわ、さすがクレスター家。そんな都合良いことある?」
「私もびっくりしてるけど、あるんだから使わないと損よ」
「確かに」
笑って頷いたカイに、マリアンヌを運び出すため、具体的な策を相談しようと、ディアナは腰を上げかけた――、
瞬間。
「ディー、止まって。――誰か来る」
「見張の兵を眠らせたこと、バレちゃった?」
「いや、戦闘員の気配じゃない。たぶん、お付きの侍女とかじゃないかな? ……ちょっと手荒になるけど、その人が誰に毒を盛られてたか、聞き出してみようか」
「……危険のない方法でお願いね」
「ディーと俺は危険じゃないよ」
不敵に笑い、カイはドアのすぐ横に身を潜め、懐に手を入れる。ディアナはベッド脇、マリアンヌを庇う位置に立った。
それほど待つこともなく、全く警戒していない足音が徐々に大きくなり、小部屋の前で止まって。
一拍置いて、いかにも軽く、扉はあっさり開かれた。薄暗い廊下から薄暗い室内へ、件の人物は迷うことなく入り、自然な動作で扉を閉める。
と、同時に。
「動くな」
カイの懐から取り出された短刀が走り、入室した人物へと迫る――!!