入宮
季節は進み、夏――。
「では、ディアナ様。本日より、こちらの『紅薔薇の間』をお使いくださいませ」
「分かりましたわ」
何だかんだありつつ結局は後宮入りしたディアナは、無駄に高待遇を与えられたらしいことを内心嘆きつつ、素晴らしい裾捌きで入室し、一室の『主』となった――。
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エルグランド王国にて、『伯爵』という位はそれなりに高い。王族の次に、臣下に降りた『公爵』、建国当初より王族に仕えてきた『侯爵』、重要な領地を任されている『伯爵』、遠方を任されている『子爵』、最後に『男爵』と続く。これだけで見れば真ん中の位だが、実際には『伯』と『子』の間には大きな壁があり、また『伯』の中でも暗黙の階級がある。
そして肝心のクレスター伯爵家はといえば、『伯』の階級の中でも最上位、実際には『侯』の身分を賜っていてもおかしくはなく、『侯』の下位に位置する貴族ならば遠慮しなければならないほどの家格であった。厳然たる身分制度を敷いているエルグランド王国にとっては、まさに例外ともいえる家なのである。
そんな実家を持つ姫君が、後宮内で蔑ろに扱われるわけもなく――。
「どうします、姫様? 『紅薔薇の間』って、要は正妃候補ですよね?」
「予想以上の待遇ね……。単に家格順なのだろうけど。確かどこかの侯爵家からも、後宮にはいらしているはず。こうもあからさまだと、嫌になるわね」
現在この後宮には、侯爵、伯爵、子爵、男爵、それぞれの階級から姫が集められ、五十人近い大所帯となっているはずだ。何事にも無駄を好まないディアナは、この場所の非生産性をしみじみ感じてしまう。
「無駄よね、後宮って。確かに陛下の好みを手っ取り早く探るには良いかもしれないけど、それにしたって、人を集めすぎだと思わない?」
「おっしゃるとおりですわ。五十人もいたのでは、陛下の好みが見つかるのが先か、陛下の精力が尽きるのが先か……」
「毎晩別々の女性と閨を共になさったところで、タイミングが合わなければ御子もできにくいだろうしね」
女性が子どもを授かるには、愛情の次に時期が重要なのだということは、クレスター家では常識だ。それを考えれば、数打ちゃいつかは当たるだろう、な後宮思考は、まさにお粗末としか言いようがない。むしろ正常に機能している後宮ほど、子どもが出来にくい場所はないのではないだろうか。
「仮に子どもが授かっても、男か女か、男の子だったら次期王に……って、純粋に子どもを慈しむこともできない場所だもの。やっぱりあまり実用的なところとは思えないわね」
「ディアナ様はお優しいですから……あ、お茶入れますね」
「ありがとう、リタ」
リタは伯爵家から唯一連れてきた侍女だ。歳も近く、お互い姉妹のように育ち、誰より気心知れている。後宮に入ることが決定事項となったとき、両親と兄に、リタだけは一緒に連れて行きたいと懇願した。実家から使用人を連れていくのはあまりよろしくないと言いながらも、最終的には両親はリタに、娘をよろしく頼むと頭を下げたのだ。
「そういえば、聞いた話ですと、位の高いお嬢様方は実家からわんさか侍女を連れて来ようとして、後宮管理の女官から慌ててストップかけられたそうですよ」
「当たり前よ。ただでさえ側室が五十人も増えたのに、侍女までわんさか来られたら、後宮の予算はパンクするわ。国庫だって無尽蔵ではないのだから」
「旦那様はそこも、ご心配なさっていらっしゃいましたものね」
できるだけ国の負担にならないように、ディアナの後宮入りに関しての支度は全て、クレスター家が取り仕切った。国からの援助は一切受け取らず、万事滞りなく済ませた両親と兄は、さすが有能だ。
……ただその行為が何故か、世間でますます『クレスター伯爵家』の悪名を高めてしまったことに関しては、もうどうしようもない。
コン、コン。
リタが入れてくれたお茶を楽しんでいたところ、部屋の戸がなった。リタが問い掛ける。
「はい、どちら様でしょう?」
「後宮管理の最高責任者を務めております、女官長です。入ってもよろしいでしょうか?」
「失礼致しました」
ディアナは目で開けるよう促し、リタがドアへ走る。ディアナは立ち上がって椅子を戻し、机の側で待機した。
「どうぞ、お入りください」
「ありがとう」
入って来た女性は、女官のお仕着せドレスの上に濃紺の上衣を重ね着た、ふくよかな婦人だった。彼女は入るなり足を止め、まじまじとディアナを見つめてくる。
「……何か?」
「! いえ、失礼を致しました」
気を取り直したのか、彼女は部屋の中央まで足を進め、ディアナに向かって頭を下げた。
「お初にお目にかかります。わたくし、女官長職を与えられております、サーラ・マリスでございます」
「マリス……というと、マリス伯爵様とご関係が?」
「恥ずかしながら、マリス伯はわたくしの夫です」
「そうなのですね。初めまして。わたくし、ディアナ・クレスターと申します。今日からよろしくお願い致します」
挨拶を返し、お互い顔を上げた。微笑んで、ディアナは続ける。
「ずっと領地で暮らして来ましたから、王宮の作法など、詳しく存じ上げませんの。折々に導いて頂けると助かりますわ」
「いえ、わたくしなど! 『紅薔薇様』にお教えすることなど、何も……!」
「そう……? なら、仕方ありませんわね」
……心なしか、女官長の顔色が、悪い。
「後ほど、『紅薔薇の間』のお世話をする侍女と、管理する女官をお引き合わせ致します。何か不都合などあれば、その者たちにお伝えくださいませ」
「分かりましたわ」
では……と女官長はしずしず、心なしかそそくさ、退室していく。無表情で見送った後、ディアナはリタを振り返った。
「……どんな解釈をされたと思う?」
「そうですね…。遺憾ながら、『王宮の作法など、詳しく存じ上げませんの』から、『だからわたくしの好きにさせなさいね』。『折々に導いて頂けると助かりますわ』が、『わたくしの手足となりなさい』に聞こえたのではないかと」
「……誰もそんなこと、思ってすらいないのにねぇ」
いつものことながら、ディアナは呆れ返ってしまう。クレスターの血の徹底ぶりを感じてしまうのは、こんなときだ。
ディアナ・クレスター伯爵令嬢。
社交界での二つ名は、『咲き誇る氷炎の薔薇姫』。
背まで流れ落ちるは緩やかに波打った太陽のごとき金の髪、輝く蒼の瞳は海の色、母親譲りの美しいその二色はしかし、クレスター家の血にかかり、ある意味芸術的な変貌を遂げた。
涼やかな切れ目、高い鼻、艶やかな紅い唇。その美貌は一瞬で老若男女を魅了するが、同時に恐怖も与えるという。己に逆らう人間に容赦はせず、婉然たる微笑で男共を動かし、全てを思い通りに運ぶ。
彼女が何か『楽しみ』を思いついたときの微笑みは氷のように冷たくぞくりとするもので、なのにその艶やかさはそんなときほど燃える炎の美しさを纏う、――恐ろしき薔薇の花。
15歳で社交界デビューしてたちまち、そんな噂が広まった。
「はっきり言って、身に覚えのない噂ばっかりだったのよねぇ、昔から。どうしてわたくしたちクレスター家の人間は、言葉の後ろに思ってもみない副音声を纏わせてしまうのかしら」
「周囲の人間が怯えるのがいけないのですよ。普通に聞けば、副音声など聞こえるはずもありません」
「それはそうなのだけどね」
ディアナも貴族のお嬢様。社交界デビューは、人並みに楽しみにしてきた。これまで領地で暮らしてきて、『外』の世界に憧れていたこともあるだろう。
しかし、デビューの場となった舞踏会で兄にエスコートされ会場入りした瞬間、賢いディアナは『人並み』の付き合いを諦めた。それくらい、刺さった視線は強烈だったのだ。
ディアナを取り囲むのは打算的な目をした者たちばかり、特に年頃の男がディアナを見る目には悍ましさすら感じた。15歳にして出るとこばっちりの豊満な肉体美を持ってしまったディアナを、堂々と隠すことなく『一夜の遊び相手』として見る視線。そりゃ、確かにディアナの容姿だけを見れば、遊びまくりの女に見えたかもしれないが。
『どうです……今夜。私と一緒に、楽しいひと時を過ごしませんか?』
『お断り致しますわ。私は今日が社交界デビューなのです。その意味、お分かりでしょう?』
言外に『15歳の小娘にナニ発情してんだこのロリコン』という意味を含ませたこの言葉が、何故か『あなたなどお呼びでないのよ、華々しいデビューを飾るのにもっと相応しい方がいるの』と受け取られ、デビュー初日にして『男を弄ぶ小悪魔』と囁かれるようになった。それからも、何か適当に言葉を交わす度に明後日の解釈をされ……気が付けば、『社交界きっての悪女』というありがたくもない称号を手に入れてしまっていたのだ。
「それにしても……身に覚えがあるかないかは別にしても、私の評判って良くないどころか底辺這ってるのにね。何故『紅薔薇の間』を与えられたのかしら?」
「さぁ……評判と待遇は別、ということでしょうか? それかもしかしたら、今回のディアナ様の後宮入りは旦那様の圧力によってごり押しされたということになっていますから、後宮側が要らぬ気を回したとか……」
「……その可能性は高そうね。全く、誰も後宮入りなんて望んでいないというのに……」
ディアナ本人はもちろん、母エリザベスも、父デュアリスも、妹思いの兄エドワードも、誰一人としてディアナの後宮入りなど考えてすらいなかった。ディアナの気性に後宮という場所は合わないと、家族ならば知り抜いているからだ。
にも関わらず世間では、クレスター伯が娘可愛さと中央掌握のために強引に娘の後宮入りを推し進めたと噂され、ディアナ本人も正妃の座を狙って後宮へ乗り込んだと思われている。こんな勘違いが起こったのにも、色々と理由はあるのだが。
「正妃とか面倒くさい……。それ以前の問題で、後宮の人付き合いとか厄介な予感しかしない……。どうしてわたくし、こんな場所に来てしまったのかしら」
「おいたわしやディアナ様……。私、必ずディアナ様をお守りし、後宮から出る方法を見つけてみせますわ!」
「ありがとうリタ。あなただけが頼りよ」
……後宮入り初日、しかも正妃候補が入る部屋を与えられた主従の会話としては、色々間違っているが。ディアナとリタはいたって真剣だった。
コン、コン。
そこへ鳴らされた本日二度目のノック。リタが取り次ぎに行き、侍女と女官が参りましたと告げる。
「入ってもらって」
「はい。皆様どうぞ、お入りくださいませ」
リタが開けた扉から、十人ほどの侍女と二人の女官が入って来た。ちなみに両者の見分けはいたって簡単、服がかなり違う。
「『紅薔薇』様、お初にお目にかかります。本日より『紅薔薇の間』付きになりました、女官のミアでございます。こちらは同じく女官のアイラと、侍女次長のユーリです」
「初めまして」
「誠心誠意、お仕えさせて頂きます」
紹介された二人が頭を下げてくる。どうやらこの三人がトップらしいな、と理解したディアナは、笑顔を浮かべて口を開いた。
「ご丁寧にありがとう。わたくしは、ディアナ・クレスター。こちらはわたくしが実家より連れてまいりました、侍女のリタです。今日よりリタ共々、こちらでお世話になります。よろしくお願い致しますね」
挨拶を返すと、頭を下げていた侍女の一人――名前が分からないが、珍しい黒髪だったので印象に残る――が、驚いたように顔を上げた。視線が合ったのでとりあえず笑いかけておくと、ますます目を見開かれた。……また何か、勘違いされただろうか。
「……あの、ディアナ様。よろしいでしょうか」
「え? えぇ、何でしょう?」
いつの間にか全員顔を上げている。ミアに話し掛けられ頷くと、彼女は重々しく、口を開いた。
――今宵、陛下がこちらにお渡りになります、と。