陰謀と真実
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――皇宮殿は、湧き立っていた。エクシーガが生まれてこの方、経験したことのないほどに。
「……では、神殿へはそのように」
「ところで、エルグランドへの連絡はどうなっている?」
「二日ほど前に、海鳥便を渡らせたようですよ。〝本日、エルグランド王国国使団の出立予定日ではあるが、海が酷く荒れているため船が出せない。もうしばらくのご逗留が必要である〟という内容で。実際、ここ最近の海が荒れ気味であることは確かですので、疑われることはないでしょう」
「ほほぉ。まるで、海までが我が国に聖女様を与えんとしているようではないか?」
「まさに。――手紙が海を越えるまでおよそ三日、無事に辿り着いたとして、そこからエルグランドの都へ届くまで更におよそ五日……エルグランド王の手元へ手紙が届き、仮にあちら側が対策を講じたとしても、その頃には全てが終わっている手筈です」
「いやはや、まったく……常々間抜けな国だとは思っていたが、まさか自国にお生まれになった聖女様の存在にも気付かず、ただの女として扱っていたとは。ここまで愚かとなると、少し気の毒になって参りますな」
「いやいや。これはむしろ、聖女様を我が国へ差し出すことで遠回しに服従の意を示す、高度な外交術なのでは?」
スタンザ帝国の首脳陣――皇帝陛下の側を許された者たちが、円卓を囲んで忍び笑いを漏らす。エルグランド王国の実態を知らない彼らからは、エルグランド王とその配下たちが何も知らず、無策のままディアナをスタンザ帝国へ放り込んだようにしか見えないのだろう。
「――して、聖女様のご様子はいかがか?」
「は。お変わりなく、献身的に皇帝陛下の治療に専念されてございます。ご指示も的確とのことで、医者どもが心酔し切っておりました」
「外部との接触はお控え頂いておるな?」
「無論のこと。出入りを許可しておりますは、聖女様が薬草運搬役に指名した侍女一名に留め、そちらの侍女が後宮外を動く際は、常時見張りをつけてございます。――さすがに、皇帝陛下のご寝所周辺まで見張ることはできませぬが、聖女様の補佐を申し付けた女官の話では、それほど長居はしていないとのこと。後宮の内に留めているエルグランドの女どもも、表立って騒ぐことはなく大人しくしているそうです」
「ふむ。今回我が国へ参った女たちは、全員がエルグランドの王宮にて聖女様にお仕えしていた者たちだそうだ。主の命がなければ下の者が動けぬのは道理、やはり聖女様を皇帝陛下にお召し頂くのは良い考えであったな」
「女の使用人など、所詮は覚悟も頭も半端な劣等種に過ぎませんから。主から引き離せば、捨て置いても問題はございますまい」
したり顔で笑う彼らは、知らない。今回、エルグランド国使として同行した娘たちが、どれほどディアナを大切に思い、彼女を守るべく最善を尽くし続けているか。ディアナを守るためならば、身分の高い男相手でも決して怯むことなく立ち向かう、勇気ある娘たちであることを。
大切な主が皇宮殿の奥に囚われて、ただ無策のまま時を無為に過ごすような愚かな真似を、あの娘たちがするはずもない。皇宮殿にいるほとんどの者はエルグランド語を解さないのだから、どれほど見張りをつけたところで彼女たちの真意が読み取れるわけがないのは自明の理なのに、〝女〟で〝身分低い使用人〟であるというただそれだけで、ここにいる男たちはエルグランドの娘たちを愚かで無力な存在だと決めつけ、軽んじている。
国を動かす上層部すら、こんな甘い認識で凝り固まっているスタンザ帝国が、性別や身分に関係なく優秀な人間を認め、重用しているエルグランド王国に敵うはずがない。……図らずも国の最高会議に参加できる立場を得て、ようやくそれがはっきりと分かる。
「陛下がお倒れになって、明日で六日目……医者どもの話では、そろそろお目覚めになっても良い頃らしい。陛下が目覚められた後、速やかに神殿にて誓いを立てて頂けるよう、抜かりなく準備を進めて参ろう」
「承知致しました。――それにしても、つくづく、皇妃の座が空位で良かった。このご慶事に、現皇妃殿下ご廃位の儀が重なるは、あまり縁起の良いことではございませんから」
「確かに。奇跡の聖女様をお迎えするに当たり、血の穢れは一つでも少ない方が良いに越したことはない」
「然り。それもまた、聖女様を我が国にお迎えせよという天啓なのでしょう。……もしかしたら、陛下がずっと皇妃の座を空けておられたのは、このことを予見しておられたのやもしれませぬ」
スタンザ帝国は一夫多妻の国ではあるが、序列をはっきりさせるため、皇妃に選ばれるのはたった一人と決まっている。側室たちも皇帝の妻ではあるが、〝皇族〟として認められるのは皇妃ただ一人。
そして、スタンザ帝国において皇族身分は、ただ死によってのみ喪われるものとされているのだ。――つまり、皇妃が存在する状態で、別の女性を新たに皇妃として娶りたければ、今の皇妃を処刑して位を空けるしかない。既に座っている者の生命が途絶えぬ限り、次の者にその座を渡すことはできないのだから。
新たな皇妃を娶るため、現在の皇妃を処刑することは『廃位の儀』と呼ばれ、長いスタンザ帝国の歴史の中で当たり前に繰り返されてきた。移り気な皇帝の御代においては、一年の間に三度、行われたとの記述も見受けられる。
現皇帝は皇妃の座を空けているため、『廃位の儀』が執り行われることはない。理屈の上では、神殿が認めさえすればいつでも皇妃を娶ることが可能だ。
それでも常ならば、皇妃候補に選ばれた女性は厳しく査定され、皇族に相応しい身上であると証明すべく、幾つもの試練と儀式を突破せねばならない。候補に上がってから神殿で神託を授かり、皇帝陛下とともに誓いを立てるまで、一年以上は概ねかかるが――。
「何しろ――天が我が国にお遣わしあそばされた、聖なるお方にございますからな。皇妃殿下として仰ぐにこれ以上の方はいらっしゃいません。大神官様のご異存もないとあらば尚更、陛下の目覚めと同時に誓いを交わして頂くことに、何の問題もないでしょう」
「左様、左様。無闇矢鱈と慣例にこだわっている間に、エルグランドの横槍が入っても面倒だ」
「横槍が入ったところで叩きのめせば済む話ではあるがな。仮にも聖女様の生まれ故郷を火の海にして、スタンザへの心証を悪くされても困る」
……首脳陣と神殿は、今すぐにでもディアナを皇妃として、スタンザ帝国に縛り付ける心算だ。彼女がエルグランド王の側室筆頭で、準王族身分を与えられた姫君であることは、積極的に忘れていく方針らしい。
(……仮に、この謀が上手く運んだとして、エルグランド王国が黙っているとは到底思えぬが)
ディアナと王の間に男女の情愛はなかったにせよ、王が側室筆頭として、また一人の人間として、ディアナを心から大切にしていたことに変わりはない。……ディアナの意に沿わぬ婚姻を、彼の王が看過する可能性は限りなく低いだろう。
(それに――)
〝あの夜〟、ディアナが自身を託した謎の存在――その存在、気配だけで他者を圧倒し、おそらくだが命すら容易に奪えるであろう〝それ〟にディアナが今も守られているとしたら、この企てそのものの成功率もがくりと下がる。
――どう考えても、ディアナを皇妃として娶るのは、スタンザ帝国にとって悪手だ。そして、それを確信に近いレベルで察しているのは、今のところエクシーガしかいない。
「私は……」
首脳陣の言葉が途切れたタイミングを見計らい、エクシーガは慎重に口を開く。
「私は、少なくとも姫――聖女様には、皇妃殿下としてスタンザ帝国にお留まり願う件を、ご納得頂く必要があろうかと考える。ご本人のお心を伺わぬまま、こちらで勝手に手続きを進めては、それこそご不興を買うこととなりかねぬゆえ」
「は――いやいや、殿下、何を仰います」
無難な落としどころを探っての発言は、言葉だけ丁寧な首脳陣に、軽く鼻で笑われた。
「聖女様は、あれほど献身的に、皇帝陛下の看病をしてくださっているではありませんか。かようなお振る舞いから拝察するに、聖女様も陛下を憎からず思ってくださっているはずでしょう」
「彼女が〝聖女〟であるならば、病の人間を前に献身的でない方がおかしかろう。……事実、姫は目の前で苦しんでいる存在に分け隔てなく手を差し伸べられる。〝聖女〟としての慈愛のお心と、個々人へ向けておいでの感情は分けて考えねば」
「そんな必要はございますまい。仮に聖女様が、個人的に皇帝陛下をどう思っておられようと――国へ帰る手段もなく、エルグランド国使団の者たちが我らの手中に落ちている時点で、選択肢などないに等しいのですから」
ボカした言い方ではあるが、要はエルグランド国使団の命が惜しければスタンザ帝国に従えと脅すつもりであるということだ。エクシーガは表情を険しくし、首脳陣へと向き直る。
「姫を〝聖女〟と崇め、天の御遣いであるとまで言いながら、人の業で縛り付けるつもりか。真に姫が天のお方であるならば、左様な振る舞いは神が決して見逃さぬぞ」
「殿下はまだまだお若くていらっしゃる。国を治むるに必要なのは、決して真実ではございませぬ。――支配に都合の良い筋立てを、いかに広く信じさせるか。それこそ、我々が考えるべきことなのですよ」
……つまり、ここに集まっている者たちは、最初からディアナを〝聖女〟だとは信じていないわけだ。伝説に謳われる『聖女』を彷彿とさせる異国の娘を手に入れ、皇妃として立てることで皇族の権威づけに利用する。最初からそれしか考えていないから、都合の悪いことは敢えて見ないようにしているのだろう。
(分かっては、いたが。……私はやはり、無力だ)
エクシーガが他の皇子たちを差し置いてこの円卓につくことを許されたのも、おそらくスタンザ人の中でディアナと過ごした時間が最も長く、彼女とエルグランド王国をよく知る身であったからだ。策を練る上で不明な点が出てきたときのため、いわば助言役として呼ばれたのであって、エクシーガ自身の意見はそもそも求められていない。
今、エクシーガが参加している会議は皇帝陛下の側近たちの集まりだが、昨日は第一皇子を担ぎ上げている一派の会合に呼ばれ、ディアナの為人を尋ねられた。この国は皇帝陛下の寵愛によって権力図ががらりと変わるため、今のうちに次期皇帝に擦り寄り、未来の権力を得ようとする者が一定数いるのだ。ときの皇帝の高齢化や病などで、その動きは更に加速する。
もちろん、現皇帝に気に入られている首脳陣は、できる限り長く権力の座にあり続けたい。だからこそディアナを――癒しの力を持つ〝聖女〟を皇帝陛下の傍に置き、一日でも長くその命を現世に留まらせようとしているのだろう。
一国の皇帝が病の床についているというときに、周囲が考えているのは己の損得ばかり。こんな様を見てしまうと、皇族などという身分に何の価値があるのかと虚しくなる。
(結局……今日も私は、何もできなかった)
会議の終わりと同時に席を立ち、無力感に打ち拉がれながら、エクシーガは皇宮殿の自室へと戻り――。
「――お疲れのところ、お邪魔を致しまして、誠に申し訳ございません」
エクシーガを訪ねてきたという、一人の兵士と休む間もなく対面した。ここ数日で一気にその名を知られた、皇都警備隊所属兵のブラッドだ。
皇帝陛下が倒れる直前、最後に出した勅命ということで、側室アルシオレーネの降嫁準備は順調に進んでいると聞く。その話が本当ならば、彼は今、幸福の絶頂にいるはずだが……。
「本日は、折り入って殿下にお願いしたき儀があり、御目通りを願いました」
エクシーガを前に礼を執る彼は、どう見ても最高の栄誉を受けて人生の頂点を極めた男とは思えない。その表情は険しく、憂いに満ちていて――何より、切羽詰まっていた。
ブラッドがなぜ突然訪ねてきたのかは分からないが、民の言葉を聞くのは皇族の務めでもある。ひとまず椅子を勧め、ブラッドの向かいに腰を下ろし、サンバに茶を頼んだ。
相変わらず気の利くサンバは、頼む前からこの展開を想定していたようで(エクシーガが戻ってくる前から、訪ねてきたブラッドを待たせていたのもサンバだ)、エクシーガが命じてすぐに適温まで冷まされた茶を運んでくる。
お互いに、まずは茶で喉を潤して――一息ついたブラッドは、真剣な瞳でエクシーガを射抜いた。
「私の如き下賤の者が、皇子殿下へ直接陳情申し上げるのが、いかに僭越であるかは重々承知致してございます。ですが――己の命かけてでも、私は申し上げねばなりません」
「……何をだ?」
「殿下。どうか、エルグランド王国の国使様――ディアナ・クレスター姫を皇妃としてお迎えするは、お留まりくださいませ。速やかに、姫様をエルグランド王国へとお返し願いたく存じます」
今の皇宮殿の流れに真正面から逆らう、ブラッドの言葉に躊躇いはない。清廉な瞳にただ憂いだけを乗せ、彼は言葉を紡ぐ。
「我が国でのディアナ様を、ずっとご覧になっていた第十八皇子殿下ならば、もうお気付きのはずです。……あのお方が、スタンザ帝国に骨を埋めることなど望んでいらっしゃらないことは」
「それ、は……」
「ディアナ様は、目の前の理不尽を素通りできず、消えゆく命を見捨てることもできぬお方。ゆえに帝国と民にも親身になってはくださいましたが、あの方のお心は常にエルグランド王国と共にあり、慣れ親しんだ自国へ帰ることをお望みでした。――それは、今も変わらぬはず」
「そうかも、しれぬが」
「姫様のお心を蔑ろにしての皇妃選定など、赦されるはずがございません。恩を仇で返すような仕打ちは、我が国の恥になりこそすれ、良い未来は決してもたらさぬでしょう」
……この男は、これほど優れた頭脳の持ち主であったのか。ディアナの意思を無視して皇妃へと押し上げようとする今の動きが、結果としてスタンザ帝国の首を絞めることになりかねないことを、ブラッドは的確に見抜いている。
「……そなたの言葉は、よく分かった。しかし何故、そこまで姫に肩入れする? 以前、そなたが姫をお救い申し上げた際に礼をされていたことは覚えているが、それ以上の関わりはなかったであろう?」
皇族であるエクシーガが、不遜を咎めることなく言葉を受け入れたからか、ブラッドは目に見えて安堵した。静かに呼吸を整えた後、改めて口を開く。
「……他言無用を、お約束頂けますか」
「承知した」
「姫様――ディアナ様は、私とアルシオレーネ様の恩人でいらっしゃるのです」
「……何?」
突然出てきた、降嫁が決まった側室の名。関連性が読めずに首を傾げると、ブラッドは静かに苦笑して。
「私がこの度発見した、キズーニャ地方の鉱山ですが。……厳密に申しますと、あれは私の手柄ではございません」
「どういうことだ?」
「私がアルシオレーネを望み、アルシオレーネもまた私を想っていることを知ったディアナ様が、お力添えくださったのです。――キズーニャに鉄が多く眠っている山があることを私に知らせ、発見の褒賞としてアルシオレーネを得られるようにと」
「な――!」
思ってもみない告白に、エクシーガはもちろん、側で聞いていたサンバの口もあんぐりと開く。
エクシーガは思わず、姿勢を改めた。
「真の話か、それは。姫は、スタンザに鉱山一つ発見させるという危険を冒してまで、そなたたちの仲立ちをしようとしたと?」
「左様にございます。戦のため、常に武器を欲している我が国に鉱山などを与えるは、エルグランド王国にとって脅威でしかないはず……しかしディアナ様は、『スタンザ帝国における鉱山の発見は、上手く使えば両国のためにもなること』だと仰いました」
「……意味がよく、分からないが」
「ディアナ様曰く――『スタンザ帝国の人々は、自分たちが暮らしている大地の恵みを、まだよく理解していないだけ。作物のよく育つ土だけが、大地の持つ恵みではない。己の足元にある大地の特性に気付き、その恵みを得る術を知れば、誰かから奪わなくても生きていけるようになる』と」
それはまさに、雷の如き衝撃だった。――ブラッドが語ったディアナの言葉に、スタンザでの彼女が次々と、エクシーガの脳裏に蘇る。
貧民街の人々の暮らしを間近で見て、「何もできない」と己の無力に怒り。
大学では、帝国の歴史や産業、そして植物研究棟が主に取り組んでいる、〝水捌けが悪い土地でもよく育つ作物〟を生み出す研究に、いたく興味を引かれていた。
また、東の商工業地区では、職人たちの手工業や加工技術、その継承などについて熱心に質問を重ねており――視察で得た知見を確認すべく、大学の図書棟に籠る日もあって。
(……探していたのだ。姫は、ずっと。スタンザ帝国の民が、自らを〝生かす〟術を。スタンザの大地が人間にどのような恵みをもたらして、それを我々が受け取るにはどうすれば良いのかを、姫はずっと探しておられたのだ――!!)
貧しさに喘ぎ、病を得ても薬を買うことすらままならない。そんな貧民たちに、持ってきた薬草を全て与えたところで、所詮一時凌ぎにしかならない。
彼らを真に、救うには。自分自身で、薬を買えるだけの充分な稼ぎを得られるようにしていく必要がある。
……だから、彼女は探したのか。スタンザ帝国が、誰かから奪うことなく、自らを生かし続ける道を。大地とともに生きる、その方策を。
そして――……見つけた道の一つを、ブラッドへと託した。導を示し、新たな生き方の〝種〟を、そっと一粒、蒔いた。
(何という、方だ)
それは、ともすれば見逃してしまいそうなほど小さな、希望の光。エルグランド国使という立場では、ただの提案すらも内政干渉だと言われかねないと察しているからこそ、中枢相手には敢えて何も言わず、密かに事を進めたのだろう。……どれほど密かであっても、心あるスタンザ人には必ず伝わると、信じて。
(皇子妃として共に……など、何とおこがましいことか)
エクシーガがディアナを得ようとあくせくしている間に、彼女は遥か先の未来を見据えていた。突出した一人の救世主に頼るのではなく、スタンザの人々が己の力で立ち上がり、互いを救い合う術を模索して。
ずっと。おそらくは、最初にスタンザ帝国の地を踏んだ、その瞬間から。
目の前で苦しむ人々が、確かな希望を得られるように――!
「ディアナ様は、私とレーネの恩人であり……我が国全体に対しても、返せぬ恩を多く与えてくださいました」
項垂れたエクシーガの前で、ブラッドが静かに語りかけてくる。
「かようなお方が、薄汚れた権力欲の犠牲にならんとしているこの状況を、見逃すことは決してできませぬ。ディアナ様は、権勢を争うための道具でも、帝国支配の象徴でもないのです。……伝説の聖女様と同じ奇跡のお力をお持ちだとしても、ディアナ様はディアナ様。スタンザ帝国との友好を築くべくおいでになった、エルグランド王国の心優しき一人のご令嬢でありましょう」
「……人、だと申すか。天の御遣いではなく」
「であればこそ、我らは人としての恩義を胸に、ディアナ様のお心を尊重する必要があるのです。神の使徒であれば人を救って当然と、愚かな傲慢さがあのお方を決定的に傷つける前に」
……つくづく、自分が嫌になる。これほど優秀な人間を、身分低いというだけでまともに見ようとせず、存在にすら気付けなかった。どんな身分であっても同じ〝人〟として見る目があれば、ブラッドがディアナを救ったあのとき、彼の非凡さが分かったはずだ。
結局のところ、スタンザ帝国の身分制度は、優秀な人材が頭角を現すのを阻むことで、長じては国の発展をも阻害している。国家の成長を代償に、一部の支配層が肥え太る構図となっているのだろう。
「殿下……何卒、ディアナ様をお救いくだされませ」
最後にもう一度、深々と最敬礼をしてから、ブラッドは退出していった。
残された部屋の中、エクシーガは静かに目を閉じる。
(分かって、いる。私が何故、皇族としてもっと強く、重臣どもの勝手を諫められないのか)
生母の身分低く、皇族とは名ばかりの、何の権限も持たない皇子だから。
どれほど言葉を尽くしたところで、所詮自分の意見など、誰も聞く耳は持たないから。
……全部、全部言い訳だ。その気になれば、聞く耳を持たせる方法などいくらでもある。
(結局……私の内にはまだ、姫への未練が凝り固まっているのだ。〝あの局面〟で己の全てを託せるほど心を許した〝誰か〟が姫に存在すると知ってなお、諦め切ることができていない)
その凝り固まった未練が、強硬に動いてディアナを救うことを、エクシーガに躊躇させている。
このまま重臣どもの企みが上手く運べば、彼女がエルグランド王国へ帰ることはなくなる、と。近くに居れば、もしかしたらいずれ、彼女の心を奪う機会が巡ってくるかもしれない――!
「殿下……」
控えめなサンバの呼びかけで、我に返る。……いけない、このような邪な心を抱いたから、サンバに罪を犯させてしまったのだ。あの夜のサンバは、エクシーガの真の望みを察して動いたに過ぎない。全ての咎は、エクシーガにある。
「何もするなよ、サンバ」
「しかし」
「未練は、ある。だが、私の身勝手さで姫を縛るわけにはいかぬのも、また事実だ」
「殿下……」
「そもそも……姫は私如きに縛られるような、小さき方ではあらせられなかった」
頭では分かっているのだ。望みはもう、一片たりとて無いと。
なのに、心は納得してくれない。諦め悪く、足掻こうとする。
(もう一度、姫に真正面から拒絶して頂ければ、諦め切れるであろうか……)
だが、今のディアナは皇宮殿の奥の奥、皇帝陛下の寝室に軟禁状態だ。たとえ皇族であっても、皇帝陛下の御座所に許しなく足を踏み入れることはできない。
それでも……言葉は交わせずとも、せめて一目、顔を見ることができれば。予想だにしない状況に苦しんでいる彼女を目の当たりにすれば、己の内の悪魔を退治できるだろうか。
――ゆっくりと立ち上がったエクシーガを、サンバの視線が追う。
「殿下、どちらへ?」
「少し、散歩だ」
「では、おともを」
「必要ない。宮殿内を歩くだけだ。……悪いが、茶を淹れ直しておいてくれるか」
「は……」
サンバが案じてくれているのは分かっていたが、己の気持ちにいい加減決着をつけるためにも、しばらく一人になりたかった。部屋を出て、慣れ親しんだ回廊を進んで……皇帝陛下の寝室の扉が見える、庭の片隅へと足を運ぶ。さすがに部屋の中を見ることはできないが、ここからなら、人の出入りの様子を見ることができるのである。
――夕方から始まった会議、その後のブラッドとの会話を経て、もう陽はすっかり沈んでいる。いくら皇宮殿は夜の方が賑やかとはいえ、主が倒れている奥が騒がしいはずもなく、人気のない回廊はしんと静まり返っていた。
どれほど時間が経ったのか……不意に扉が開き、中からエルグランド侍女の格好をした娘が出てきた。確か、ディアナから薬草の運搬を命じられた侍女だ。
その娘に続き、動き易そうな簡素なドレスに身を包んだディアナが回廊へ出てくる。およそ五日ぶりに見る愛しい女性の姿に、エクシーガの胸は高鳴った。
回廊へと出た二人は、穏やかな表情で語らっている。薬草の運搬役にも労いを忘れないとは、さすがは姫――。
(何、だ?)
ふと、〝何か〟がエクシーガに突き刺さる。その正体を探ろうとした瞬間、ディアナと話していた侍女の体勢が変わった。――ぐい、とディアナの背を柱へとつけ、自身の身体で完全に、エクシーガの視線からディアナを隠す。
(気付かれた――?)
まさか、と思う。いくら扉が見えるとはいえ、ここから寝室まではかなりの距離があるのだ。しかもエクシーガは、悪意や殺気を込めてディアナを見ていたわけではない。そんな視線、よほど修練を積んだ兵士でも気付けるかどうか――。
「……っ!」
エクシーガに刺さった〝何か〟が、一瞬にして圧を増す。ディアナをエクシーガから隠した侍女が、ほんの刹那、こちらへ視線を流してきた。
――〝三度目はない〟と警告する、本気の怒りと殺意が籠もった視線を。
(まさ、か)
エクシーガの中で、一つの疑念が生まれる。
〝あの夜〟、ディアナが助けを求めたのは――。
「ぁ……」
表情は、窺えない。だが、侍女の身体の向こう側でディアナの腕が動き、その白くたおやかな指が、侍女の髪に触れたのが見えた。
それに応えるべく、侍女の影がゆっくりとディアナへ近づいて……。
(――!)
これ以上は見ていられず、エクシーガは踵を返してその場を後にする。視線が外れたからか、先ほどまで刺さっていた圧は、器用にも霞となって消えた。
(なに、が。何故――!!)
見てしまった光景に、自分でも驚くほど、心中がかき乱される。エルグランド王とは全く別に、ディアナが心を預ける〝誰か〟が存在することも、その〝誰か〟がこの上なく厄介で強い力を持つことも、既に分かっていたはずなのに。……この目に現実を突きつけられるまで、分かったつもりになっていただけで、全く分かっていなかったのだ。
(あれは、〝誰〟だ。なんだ……!)
同じだ。ブラッドを〝身分なき兵士〟という記号でしか見ていなかったのと同じで、エクシーガはエルグランド王国の娘たちも、ディアナ以外は全員〝ディアナに仕える使用人〟としか見ていなかった。その能力と心意気を認めた気になっていただけで、一人ひとりを人としてじっくりと観察し、〝個〟を見定めようとはまるで考えなかった。
最初から、きちんと、ディアナ以外の全員もきちんと見ていれば。紛れ込んでいる異質な存在も、すぐに見抜けたはずなのに。
――混乱を極めたまま部屋へと駆け戻ったエクシーガを、お茶を淹れて待っていたサンバが目を丸くして迎え入れる。
「殿下!? 如何なさいました、そのような真っ青なお顔で」
「……サン、バ。調べて欲しい、ことがある――」
混乱したまま、気付けばエクシーガは、サンバにそう告げていた――。
さてさて次回は……? 視点はこのままエクシーガで!
※投稿時、前書き&後書きに置いてありました語りにつきましては、次話の予約投稿完了に合わせ、活動報告へと移動させております。




