迷走する〝星〟
今話、涼風の趣味全開なお方が登場します。
スタンザ編において、気付けば二番目にお気に入りのキャラクターとなっていました。
小規模な宴、と書いてあった。だからおそらく、参加者は多くても十人前後で、特に派手なこともない、ちょっとした晩餐のようなものだろうと、勝手に解釈していた。
(国が違えば〝小規模〟の範疇も違って当然なのかもしれないけど……)
普通に広々とした宮殿のホールに招待客たちの席が並べられ(右側と左側を合わせて、おそらく三十人以上は招待されている)、出される食事はどれも高級な食材を使った一流の料理人の仕事と分かる美麗さで、飲み物も果物も贅を尽くした雰囲気で、ホールの中央では宴のために呼ばれたと思われる芸者たちが次々と歌や踊り、曲芸などを披露してくれるとなれば、ディアナの感覚ではもう普通に大掛かりな宴である。これを小規模と言われてしまったら、知り合いだけをこっそり招いてこぢんまり開いているクレスター家の晩餐など、単なるお食事会だろう。いや別に、お食事会で悪いことはないと思うけれど。
《姫。お楽しみ頂けておりますか?》
《はい、殿下。とても楽しく拝見しております。招待客の皆様も親切な方々ばかりで、ありがたいことと感じておりますわ》
一応賓客であるディアナの席は、エクシーガの隣だ。身分高い者のところへ下の人が挨拶に来るのはどこの国でも変わらないらしく、宴が始まってしばらく、ディアナは招待客のスタンザ要人たちからひっきりなしの挨拶を受けていた。ここラーズは、イフターヌまで馬車でゆっくり走って半日足らずという近さにありながら風光明媚な土地として知られ、普段はラーズや近郊に住んで、何か大きな行事があるときだけイフターヌへ出るという要人たちが一定数存在するらしい。本当の第一線で動いている人はさすがにそんな悠長な真似はできないから、招待客は第一線から退いたご隠居や敢えて皇宮殿から遠ざかっている人がほとんどで、だからかエルグランド王国に対する見方も、微妙に皇宮殿の権力者たちとは違っているようだった。
《ほっほっほ。いややはり、エルグランド王国は油断のならん国ですのぅ。人畜無害な顔をして、しれっと姫様のような御仁を送り込んでこられる。……昔、ローレンと会ったときも感じましたが、エルグランド王国は友となれば心強く、しかし一度敵となれば容赦はない、実に二面性の激しいお国でいらっしゃる》
《まぁ。バルルーンのご隠居様、それは少々エルグランド王国を高く見積りすぎていらっしゃいますわ。ローレン・ストレシア様の留学事情までは存じませんが、少なくとも今回わたくしがスタンザ帝国へ参ったのは、スタンザ国使団の方々からのご招待を頂いたからですもの。陛下や宰相閣下が、意図的にわたくしをスタンザ帝国へ送り込んだわけではございませんよ?》
《ほっほ。さぁて、どうでしょうなぁ。あのローレンも絡んでおる時点で、まぁ無策ということはなかろうて》
上座にほど近い場所で好々爺然と笑っているのは、前バルルーン当主の弟――つまり、ライアの母の叔父に当たる人物だ。とはいえ一夫多妻のスタンザ名家のことだから、当然ライアの母方の祖父とは、半分しか血が繋がっていない。母親の身分が低いことを理由にバルルーン家内での権力闘争から離れ、ラーズに余生用の家を建てて、そこでのんびり暮らしているのだとか。
が、若い頃はなかなかの切れ者として知られ、ライアの祖父が当主をしていた時代はその右腕として活躍していたこともあったらしい。当然、スタンザ帝国へ留学に来て、ライアの母と恋に落ち、彼女を妻としたストレシア侯爵のことも知っている。その頃、ご隠居はバリバリの現役時代だ。
《ドーラはスタンザ名家バルルーンの娘としては毛色の変わった子じゃったが、それだけに常識に囚われず、物事の本質を見抜く目は鋭かった。そんなドーラが見込んだローレンも、まぁごくありきたりなエルグランド貴族の坊ではなかったの》
《えぇ。ストレシア侯爵閣下は、非凡な才をお持ちの優れた政治家でいらっしゃいます》
《いやはや、全く……ドーラの選択は正しかった。エルグランド王国の国力を鑑みれば、かの国と早い段階から繋がりを持って損ということはない。正直、陛下の後宮で正妃を目指すより、長い目で見れば国のためにもバルルーンのためにもなることじゃ》
《もちろん、政略的な意味合いもございますが……ストレシア侯爵ご夫妻はとても仲睦まじいことでも有名ですから、きっとドーラ様は、ご自身のお心に従われることこそ正解だと、そう思われたのではないでしょうか?》
《これはこれは、一本取られたのぅ。……そうさな、政略以前に、ドーラはローレンに惹かれ、ローレンもまたドーラに惹かれていた。当初、ドーラはエルグランド語がまるで分からず、ローレンのスタンザ語も拙いものであったのに、二人は自然と言葉の壁を越えておってのぅ。ああいうのを――人は〝運命〟と呼ぶのじゃろう》
昔を思い返しているらしい、バルルーン翁の眼差しは優しい。……当時から、彼がストレシア侯爵夫妻の味方であったことは、何の説明がなくても分かる。
《……国に戻りましたら、必ず、ストレシアご夫妻に伝えますわ。バルルーンのご隠居様が、今でもお二人を思っていらっしゃることを》
《姫君は……まこと、優れたお心映えでいらっしゃるの。儂のことなど、気にされずともよろしい。――ただ、二人には謝っておいてくれんか。現当主、ドーラの兄の暴走を止められんで済まなかった、と。ドーラが気軽に里帰りできんような家にしてしまって悪かった、とな》
《ご隠居様……》
……大切な人を思う気持ちは、国が違っても何一つ変わらない。アルシオレーネを後宮へと送り込んだ現当主は、その執着心で知らず知らず、多くの人を分断しているようだ。
(密かに進行中の〝作戦〟が上手く嵌れば……また状況は動くかしら)
ライアはあまり母の生家に興味はない風だったが、大叔父がこれほど父母を案じている人だと分かれば、また違った思いを持つだろう。最悪、バルルーン家がどうなろうとも、バルルーン翁とストレシア一家が再会できれば良い。
――ディアナがバルルーン翁と話している間も、エクシーガの元へはひっきりなしに挨拶の人間が訪れ、翁と話すディアナを驚愕の目で見ているのが分かる。……皇宮殿や後宮で慣れたつもりではいたが、やはりスタンザ人にとって、異国の言葉を自在に操る女性というのは非常に物珍しい存在らしい。エルグランド王国では、貿易商の女将などであれば普通にスタンザ語や、場合によっては山向こうの国の言葉だって話すから、珍しい存在ではあってもそれほど驚かれはしないが。
ただ、ここでの視線は「女性にもこれほど異国語が堪能な者がいるのか」という純粋な驚きがほとんどで、「女だてらに生意気な」「賢しらな」といった侮蔑の意図は感じられない。それもまた、皇宮殿とは違うところだ。
(もしかして……スタンザ帝国って、地方に住んでいる有力者は、結構柔軟な考えを持っていたりするのかしら?)
それとも、エクシーガ皇子のお膝元であるラーズが特別なのだろうか。――招待客たちとエクシーガの様子を見れば、彼らが互いに信頼し合い、ラーズの土地を盛り上げるべく良好な協力体制を築いていることがよく分かる。父デュアリスと領地守護職たちとの関係にも似た、領主の一種の理想形だ。
(これだけ、自身の領地の有力者たちと密に連携を取れるエクシーガ皇子なら、やり方次第で皇宮殿だってまとめ上げられそうなものだけど……)
彼は自分を卑下していたが、ディアナが見る限り、為政者としての才は充分にある。この国の未来を変えられるだけの力がきっと、エクシーガには眠っている。
(気まずいことは気まずいけど……大事なことはやっぱり、きちんと腹を割って話さないとね)
ディアナは密かに、そう決意した――。
その、とき。
(……っ、この、気配は)
宴が始まってからずっと、密かに警戒していた〝とあるモノ〟の気配が、使用人たちが食事や酒を運んでくる扉周辺からほのかに感じられた。それはゆっくりとした速さで、徐々に、しかし確実に、ディアナへと近づいてくる。
(どう、して……? やっぱり、〝これ〟が目的でランラを?)
ディアナのローブについていたランラの香りは、日中ずっと陰干ししておいたことで、目論見通りかなり薄くなっている。多少甘さが気になる人もいるかもしれないが、それでも「甘めのランラの香水だな」で流せる程度には落ち着いた。
――が。当たり前のことながら、布に染み込んだランラの香りが強く出る成分そのものは、きちんと水で洗わない限りずっと残る。香りが飛んでも、ローブに染み付いたランラのエキスがなくなったわけではないのだ。
だから、ずっと警戒していた。ランラの香り成分を〝劇薬〟へと変える、とある要素に。
「アルコール度数七十パーセント以上のお酒と、チューリの花……ですか? それとランラの香り成分が合わさることで、とんでもない薬が誕生すると?」
「〝聞いた〟話だけどね。ランラはエルグランド王国には咲かない植物だし、チューリも南の方でちょこっと咲いているだけで、あんまりメジャーな花じゃない。アルコール度数七十パーセント以上のお酒に至っては、北部の山間部でのみ作られているキツいお酒だもの。エルグランド王国じゃどう足掻いたって誕生のしようがない薬だから、この前、大学のランラから〝聞く〟まで、わたくしも知らなかったわ」
「……で、その薬の効果とは? ディアナ様のお口ぶりでは、直接的な生命の危険がある毒薬の類ではないようですが」
――昼間、泉のある雑木林への道すがらに交わした、リタとの会話が脳裏を過ぎる。
効能を聞かれ、答えたときも、まさかそれが現実に起こるとはあまり考えていなかった。
「ある意味、致死毒よりもっとタチが悪いかもね。体温を高め、五感を鋭敏にさせ……感覚の中でも特に性的快感を強制的に高め、快楽を引き出す――まぁ、一言で纏めれば〝媚薬〟ってやつ」
「な……!」
「この薬、特に女性の方が効果をよく感じるみたいね。アルコール度数の低いお酒にランラとチューリを混ぜれば、それだけで結構敏感にはなるみたい。薬として知られるほどじゃないけれど、何となく察して使っている人はいるかもしれないわ。――ただ、アルコール度数が高くなれば、話は別よ」
「……タチが悪い、ですか?」
「飲み物として出されるなら、まだマシなんだけどね。アルコールってお腹の中に入った時点で分解が始まるから、効果が出てもそれほど長引かずに消える。……それでも、無理に感覚を引き出されることに違いはないから、嫌な薬には違いないけども」
「経口摂取は、まだ効果が薄いわけですか。となると、ディアナ様が警戒しておいでなのは――」
「えぇ。――経皮吸収による、この薬の摂取。これが一番タチが悪くて、危険度も高い」
要するに、肌からの吸収だ。一般的なのは打ち身や切り傷を治療するための塗り薬だろうけれど、実はそれ以外にも経皮摂取が効果的な薬というのは意外と多い。仕組みについてはまだ解明段階だったりするのだけれど、フィガロのような研究者もいることだし、そう経たないうちに分かることも多いだろう。
――そして。ランラがとてつもない〝劇薬〟と化けるのも、アルコール度数七十パーセントの酒とチューリの花をランラと合わせ、それを経皮摂取したときなのだ。
「肌からこの薬が入ると分解のされようがない上、ダイレクトに肌の感覚を刺激してくるから、ほとんどタイムラグなく薬効が現れる。身体の中に一度入った薬が薄まるまでにも時間がかかるわけで、効果はかなり長く持続するみたいね。……量によっては頭まで薬が回るから、下手をしたら深刻な後遺症が残ることもあるみたい」
「ちょ……それ、かなり危険な薬じゃないですか!」
「だから、最初から言っているでしょう。〝ある意味、致死毒よりタチが悪い〟って」
自分の意志とは無関係に己の感覚を暴走させられ、しかも死ぬまでその後遺症に苦しめられかねないなど、人によっては「いっそ一思いに殺してくれた方が楽だった」と思わんばかりの苦痛だろう。……命こそ奪わないが、相手の人生と人格を生涯に渡ってズタズタにするという、悪夢のような〝毒〟が世の中には存在するのだ。
「この薬、チューリとアルコールを一緒に蒸留して、最後にランラの香り成分を投入すれば完成なのよね。――だから理論上、ランラの成分が染み込んだローブを着たわたくしにチューリ入りアルコール度数七十パーセント以上のお酒をかければ、その場で薬を完成させつつ投薬もできるわ」
「……状況的に、最悪の部類なのでは?」
「あくまでも、そういう計画が進行していたら、の話よ? ランラそのものはスタンザでは一般的な花だし、香水を入手できなかった場合、ランラの香り成分をそのまま使うというのも、一昔前までは普通に行われていたみたいだし。……あのローブだけで、殿下の真意を推し量ることはできない。少なくともあの文から、殿下が今更わたくしに危害を加えようとしている気配は読み取れなかった」
「ですが……ランラの香り成分と同じく、チューリの花弁と蜜、実を使ったチューリ酒も、スタンザではありふれた果実酒の一つでしょう。宴で提供される可能性は高いですよ」
「チューリ酒の度数は、高くても二十パーセント程度と聞くわ。そもそもスタンザ帝国では、アルコール度数の高いお酒はあまり作られないの。宴でアルコール度数七十パーセント以上のお酒が出てくる可能性は、限りなくゼロに近いでしょうね。――そうじゃなかったら、スタンザではメジャーなランラとチューリを使ったこの危険な薬が、それほど知られていないなんてあり得ない」
「確かに……投薬相手をほぼ確実に廃人化できるなんて危険物が、後宮で出回らないわけがありませんね」
「処置が手遅れになってしまったら、この薬そのものへの依存性も残るみたいだから、本当に危険な薬よ。――薬というより、ここまでくると精神毒ね」
ため息をついたディアナの解説に、大きく一つ頷いて。
リタは強い眼差しを向けてくる。
「それで、ディアナ様。その精神毒の対策は?」
「実は、中和薬そのものは、割と簡単に作れるの。ミシの根とシッピロの葉と、あと咲いたペッラの花を一緒に煮詰めた煎じ薬だから。それを予め飲んでおけば、入る場所関係なく、完全に毒効を打ち消せるわ」
「どれもエルグランドではあり触れた植物ですね」
「えぇ。色々と便利な子たちだから、今回持ってきた薬草類の中にもちゃんと入ってる。だから……イフターヌでなら、今の状況もさほど危険じゃないんだけど」
「……持ってきた荷物、薬草類も全部、こちらには持ち込めませんでしたものね」
「そういうこと。かろうじて代替できそうなモノが、これから行く雑木林に生えているみたい、なんだけど。――圧倒的に、効果が弱い」
それでも、ないよりはマシだ。少しでも中和させることができれば、短時間で毒の効果を飛ばすもう一つの方法が使える。
そうしてリタと雑木林に赴き、必要な薬草を摘み取り、宮殿へ戻って密かに調薬して。宴が始まる直前に薬を飲んで、宴中もできるだけ中和効果のある果物や野菜を多めに食べ、万が一に備えておいた。
そう。あくまでも〝万が一〟だ。隣席のエクシーガから邪な思いは感じられなかったし、招待客たちもディアナに概ね親切で、やはり取り越し苦労だったかと思いかけていた。
だが――……。
(間違い、ないわね。……近づいてくる)
不自然でない程度に視線を動かし、気付かれないよう気配のもとを確認する。……アルコールの気配までしっかり判別することは難しいが、チューリの気配は間違えようもないし、それに。
(運んでいる、あの女の子の注意は……ずっと、私に向いている)
ここまで条件が揃えばもう、〝万が一〟が現実となったのだと確信する他ない。おそらく、彼女はディアナの近くまで酒を運び、転んだフリをしてローブにかけるつもりなのだろう。宴の雰囲気を壊さないよう、上手く回避することができるか――。
(――――っ!!!!!!)
それは、直感というより衝動に近かった。じわじわ近づいていた彼女が、何故かディアナより少し離れたところで足を止め、よろめいた瞬間。
稲妻のような閃きが脳裏に轟き、気付いたときには足が動いて、彼女へと駆け寄って。
(う……、覚悟は、してたけど……!)
彼女が盛大に酒壺を放り出す直前に、腕を支えて押し留める。……おかげで壺の中身が広く飛び散ることはなかったけれど、なみなみ注がれていた壺は斜めに傾いて、しっかりとディアナのローブを濡らしていた。……かろうじて何とか、主に背中が濡れる体勢は作れたが、それでも結構な量だ。
《姫!》
慌てた様子のエクシーガが駆け寄ってくる。ディアナは少女と酒壺を支えつつ、これ以上酒壺の中身が溢れないように、そっと床へ下ろした。
《姫、ご無事ですか。お怪我は……》
《大事ありません。少し、背中が濡れただけです。……それより、》
ディアナは、震える声と身体を叱咤し、気合で背後を振り向いた。……真後ろに座っていたバルルーン翁が、目を丸くしつつ表情を険しくするという離れ技をやってのけている。
《姫君……》
《バルルーンの、ご隠居様。大事ございませんか?》
《そなた……儂が酒を受けつけぬ身体であること、気付いておったのか?》
《大変失礼ながら……他の方々と違い、給仕の方が固定されておいででしたので。杯の減り方も、お酒のそれとは少々異なるかとお見受けし、もしやお酒が害となるお身体なのでは、と》
……本当は、違う。離れているならともかく、斜め前に座って言葉を交わせる距離にある人間の体質くらい、少し集中すれば感じ取ることは可能だ。バルルーン翁が飲んでいるのが、スタンザではごくありふれたお茶の類であることも。
アルコールを受け付けない体質の人間というのは、それほど珍しくない。本当に無理な人は、それこそ少量を経皮摂取するだけで中毒症状に陥り、命を落とすことすら有り得る。……バルルーン翁は、そんな人なのだ。
(馬鹿正直に、私を狙えば、逃げられることは、目に見えているから。……私の近くにいる、誰かを狙え、とでも、指示された? 正しいけど――!)
身体が、酒に濡れた部分から、急速に熱を帯びていくのが分かる。衣擦れの感覚が嘘のように鋭敏になり、視界がぼんやりと霞み出す。
――今初めて、目以外は人目に触れない、スタンザ式のローブに感謝した。さすがにこの表情は、人前には晒せない。
(まだ、ダメ。……耐えられる、大丈夫)
かかった酒の量も、場所も。想定していた最悪より、随分とマシだ。中和薬も仕事をしてくれているらしく、頭はまだしっかりしている。
《殿下。すぐに、ご隠居様のお席の移動を。随分、強いお酒です。このように溢れた場所の近くにおいでなのは、危険です》
《は――》
《それより、姫。ローブが濡れておる。もう宴も終盤じゃ、一足先にお部屋へ戻って、お休みなされ。……儂のことは心配いらん、酒への対処は心得ておる》
有無を言わさぬ強い口調で、バルルーン翁がディアナとエクシーガの会話に割って入った。その瞳は恐ろしいほど真剣で、ディアナを案じる色に染まっている。
(まさ、か)
知って、いるのか。バルルーン翁は、この薬のことを。
だからこそ、これだけ真摯に心配してくれている。
《……ありがとう、ございます。殿下、ご隠居様のご厚意に甘え、退室願ってもよろしいでしょうか》
《もちろんです。……申し訳ありませんでした、姫。ありがとうございます》
《大したことではございませんよ。そちらの侍女も、体調がよろしくなかっただけでしょう。あまり、責められませんように》
青い顔で立ち尽くしていた彼女に、穏やかな笑みを向ける。……目だけしか見えないので、笑顔だとどこまで伝わったかは怪しいが。
そのまま、ディアナは悠々とした足取りで宴の広間を横切り、廊下へと出て。
――ずっと控えてくれていたリタの、真っ青な顔とご対面した。
「ディアナ様……っ」
「だい、じょうぶ。……部屋へ戻りましょう、リタ」
「……はい」
スタンザの宮殿建築は、風通しの良いスカスカな造りだ。いくら広間の奥の方での出来事とはいえ、リタが察せないわけもない。
――与えられた部屋へと入ってすぐディアナはローブと衣類の全てを脱ぎ、万一を想定して準備しておいた、大量のピピ(例の雑木林で採取できる薬草)の煎じ薬が入った盥に入れた。手伝おうとするリタを制し、しっかりと漬け込む。
「ディアナ様……」
「リタ。この盥、絶対に触ってはダメよ。明日の朝まで、このままで。その後、盥ごと、水場へ持っていって……」
「明日のことは、明日伺います!」
ディアナの説明を止めつつ、リタはもう一つ用意してあった盥に、どうやら上手く理由をつけて運ばせていたらしいお湯を注ぎ、柔らかい布を浸した。
「今更拭き取っても、遅いかもしれませんが……」
「……ううん、少しはマシ、だと思う。どのみち、こんな毒が残った身体で、寝台へは上がれないし」
「……ピピで中和すれば毒の効果は弱まるから、一晩寝れば抜けると、そう仰いましたね?」
「…………えぇ」
「――本当ですね?」
「……………………本当に、ちゃんと、抜くから。私が寝室に入った後は、絶対、誰も、部屋の中へ入れないで」
中和薬は、確かに効いている。酒の量も考えていたよりは少なく済んだし、この状態なら一晩で毒を抜くことは可能だと、ディアナの感覚が――恐らくは霊力が、告げている。
だが……。
(さすがに、抜き方は言えない。言えるわけ、ない)
この薬は、どれだけ効果が凶悪であろうと、種類としては媚薬だ。……この手の媚薬の効果をさっさと終わらせるには、いわゆる性的絶頂を何度か極めるのが一番手っ取り早い。
そんな施術を人に任せるわけにもいかないから、自分でどうにかするしかないのが、正直なところ不安ではあるけれど。……ディアナも一応医療を勉強した身、人体の構造は分かっているし、フィオネの教えと本の知識で、女性であっても自分で性的欲求をある程度満たす方法があることも知っている。やり方も、まぁ、頭には入っている。
だから、大丈夫。何とか、なる。
――ふわり、と。身体を拭いてくれたリタが、清潔な寝衣を羽織らせてくれた。スタンザの寝衣は一枚布を巻きつける形なので、こういうとき、袖を通したりしなくて良いのは助かる。
(正真正銘、初挑戦だけど。やるしか、ない)
「……リタ。繰り返す、けど」
「絶対、中へは、誰も入れるな、ですね。――承知致しました。扉向こうで、お待ちしています」
「ありが、とう……」
最後の気合で立ち上がり、寝室へと移動する。寝台へと潜り込み、寝具を頭から被って。
リタの気配が部屋の外へ出たのを確認し……覚悟を、決める。
(やるしか――ない!)
そろそろと、本の知識を思い出しながら、自身の身体に指を伸ばして――。
■ ■ ■ ■ ■
――さすがに看過はできなかった。
「何を考えている? ……誰の、指示だ?」
酒を運んできたのは、エクシーガがラーズとこの離宮を父皇帝より授かった頃から、両親とともに仕えている娘だ。決して身分は高くないが、幼い頃から器量良しだったため、侍女としての教育を受けていた。――そして今回、宴の接待役として抜擢されたのだ。
エクシーガは、彼女がもっと幼い頃から知っている。たとえ熱があったとしても、招待客に粗相をするような振る舞いは、彼女にはできない。それほど真面目なのだ。
だから……誰かの命令でもなければ、こんな不自然な〝粗相〟はあり得ない。
――今日の宴はほとんど無礼講、客たちの接待は宮殿の使用人たちがこなしてくれているため、ここまで終盤になれば、エクシーガがおらずとも問題はない。そのため、バルルーン翁に改めて不始末を詫び、良い席へと移動してもらって最上のもてなしを指示した後、エクシーガは控えさせていたこの侍女とともに、別室へと移動した。
そして……先ほどから詰問しているのだが。侍女は俯き、口を閉ざして、何も語ろうとはしない。
出そうになるため息を押し殺し、もう一度質問しようと口を開きかけた、そのとき。
「殿下!」
宴の采配を任していたサンバが、少し焦った様子で飛び込んできた。
「何の用だ、サンバ」
「いえ……あの、紅薔薇の姫君が、酒を浴びて一足先にご退室なさったと伺ったのですが」
「その通りだが。あのような濡れた状態で、留まって頂くなど非礼であろう」
「……その際の、姫君のご様子、などは」
常とは違うサンバの様子に、確信にも似た予感が過ぎる。
エクシーガは身体の向きを、侍女からサンバへと変えた。
「――まさかサンバ、お前の仕業か?」
「……仕業、と仰いますと?」
「姫があのように、酒を被ることとなったのは、お前が仕組んだことかと聞いている」
「……ヤサミーンは、何も話さなかったのですか?」
ヤサミーンとは、侍女の名だ。潤んだ瞳を、彼女はサンバへ向ける。
「サンバ、様……」
「……馬鹿だな、お前も。全て私に命じられたことだと、正直に話せば良いものを。口止めなどしなかっただろう」
「いいえ。私も、サンバ様に賛同したのですから……」
「私の罪を、被るつもりだったのか……?」
「同罪、ですもの」
「――罪、だと? お前たち、姫にいったい、何をした?」
二人の会話は、聞き捨てならない。エクシーガが割り込むと、サンバが真っ直ぐな目で見返してきた。
「酒を被ったのち、姫君のご様子に変化はなかったのですか?」
「……強いていえば、少し目が潤んでいらしたようだが。口調も、足取りも、しっかりしておられた」
「やはり、一筋縄ではいかないようですね……」
「――私の問いに答えろ! 姫に何をしたのだ!」
きつい口調で問い詰めても、サンバの強い瞳は揺らがない。
――そのまま、真正面から答えてくる。
「秘薬を、投与致しました」
「な、に?」
「我が家に代々伝わる、禁断の秘薬です。――これを与えられた娘は、どれほど強靭な精神の持ち主であろうと抗えず、男を求めずにはいられなくなると伝わっております。あまりに強力なため、禁忌とされた薬です」
「……それが、あの酒、なのか?」
「正確には、少し違いますが。姫があの酒によって、秘薬を摂取したことは確かでしょう。その割には、効果が薄いようですが。……この薬は効き目がすぐに現れ、女はすぐに立つこともままならなくなると書いてあったのに」
「姫は、歩いてご退出されたぞ?」
「えぇ。さすがはエルグランド王国の名を託されるだけの、強いお心をお持ちのようです。――しかし、あの薬を投与された以上、平時のままではいられないはず」
「……ふざけるな」
ふつふつ、ふつふつと、湧き上がってくるもの。――圧倒的な、怒り。
「――何故、そんなことをした!! エルグランド国使の姫に薬を盛るなど、王国への危害と受け止められかねん! その程度のこと、お前が分からぬはずもないであろう!!」
「それでも!!」
エクシーガ以上の、激しさで。サンバは強く、断言する。
「この行いによって、私が断罪され、首切られることとなろうとも。殿下に憎まれ、永遠にお側に上がることが叶わずとも。……それでも私は、エクシーガ様に、望むお方を得て頂きたい。幸せに、なって頂きたいのです」
「サン、バ。そなた……」
「紅薔薇の姫君――ディアナ様ほど、殿下の妃に相応しいお方はいらっしゃいません。かのお方は必ず、公私ともに殿下を支え、盛り立ててくださることでしょう」
……気付かなかった。サンバがこれほどまでに、エクシーガの恋心を肯定し、実現のため尽力してくれていたなんて。いつも側にいて、エクシーガを支え、その命を受けることが当たり前で――サンバ自身にも思いがあって、意志があって、それがときにエクシーガの考えと相反することがあることなんて、今の今まで思いもしなかった。
サンバの瞳はいつしか、爛々と、一途な信望に輝いていて。
「――殿下。罪を償って死ねと仰るなら、仰せの通りに致します。ですからどうか、今すぐ、姫君のお部屋をお訪ねください。あの薬を被った以上、今の姫君は男が欲しくて堪らないはず。……肌を許したお相手を、あの姫君ならば一夜限りとはなさらないでしょう」
「そのような……卑怯な真似は、できぬ」
「よろしいのですか? あの薬……処置が遅くなった場合は、心まで壊しかねないと伝わっておりますが」
「……!」
サンバの言葉は、紛れもない脅迫だ。……しかし同時に、そんな事態に追い込まれたことに、心のどこかで狂喜している己がいる。
この事態ならば――ディアナに触れても、誰に咎められることもない、と。
それは、悪魔の囁きだった。結局のところエクシーガはまだ、ディアナを望む心を捨て切れていないのだ。
……当たり前だろう。そんな簡単に、人の心は変えられない。
サンバの爛々とした瞳に見つめられ……エクシーガは視線を逸らし、身体を反転させた。
扉へと向かうエクシーガに、サンバの声がかかる。
「殿下。――ご武運を」
「……姫の様子を、お伺いするだけだ。もしかしたら、お前が考えているほど薬の効きは良くないかもしれないのだから」
否定の言葉を口にしつつ、心はそうでないことを望んでいる。ディアナが、薬の効果に苦しんでいることを、願っている。
(恋とは誠に……身勝手だ)
廊下へと出て、歩き出した。少しだけ足早に、ディアナの部屋へと向かう。
回廊を曲がったところで、正面に人影が見えた。
(あれ、は)
「これは、殿下」
杖をつき、悠々とこちらへ向かって歩いてくる、バルルーン翁。……宴はまだ続いているはずだが、彼も先に抜けたのか。
「バルルーン。宴は、もう良いのか」
「ほっほ。殿下と姫の抜けられた宴など、花が枯れた庭園のようなもの。こんな老いぼれを相手にする者もおりませんでな」
「謙遜するな。――それで、こんなところで何を? 案内の者は、部屋を教えなかったのか?」
「いやいや。恐れ多くもこちらの宮殿には幾度かお招き頂き、造りも理解できております。案内の者の手を煩わせるまでもないと思っただけのこと」
「しかし……この先にあるのは、ディアナ姫のお部屋だけだが」
エクシーガの問いに、バルルーン翁は彼特有の、まるで読めない笑みを浮かべる。
「……殿下。神殿が星読みを日課としているのは、もちろんご存知ですな」
「それは……当然、知っているが」
「神官たちはその星読みの力で、国の、ときには世界の未来を読みます。この国がここまで大きく、強くなれたのも、神殿の力が欠かせませんでした」
「……分かっている。それがどうした?」
「星読みたちが読む、その〝星〟ですが。――十数年前から不規則な動きが増え、昨年の夏頃から、それはさらに混迷を深め……遂には昨日、まるで読めなくなったそうです」
「それ、は……」
事実であれば、大変なことだ。国の行く末をも左右する。
だが何故、今このときに、バルルーン翁はこのような話を持ち出すのか。
「その進言は、皇帝陛下へ頼む。私は、姫にご用事が、」
「――読めなくなったのは貴方の〝星〟ですよ、殿下」
深い声音に、動きと、心が止まる。
まるで幼子に言い聞かせるように、ゆっくり、ゆっくりと、バルルーン翁は言葉を紡いだ。
「……人には、生まれながらに定められた〝星〟が、確かに存在する。しかし、人にはその〝星〟を打ち破り、予定調和の先にある未来へと踏み出す力もまた、あるのかもしれません。貴方はおそらく、その境目に、今立っている」
「バルルーン……」
「殿下。どうか、賢明なご判断を下されますよう」
杖をついているとは思えない優美さで一礼し、バルルーン翁はやはり悠々と、エクシーガの横をすり抜けて立ち去った。呆然と彼の後ろ姿を見送りながら、エクシーガの頭は疑問符で埋め尽くされる。
(私の〝星〟が、読めなくなった……? どういうことだ……?)
分からないが、今はその疑問を検証している場合ではない。
頭を振って切り替え、エクシーガは再び歩き出した。
ディアナを、救うために――。
バルルーンのご隠居様は、気がついたらしれっと登場して、しれっと良アシストを連発してくださいました。
私『水戸黄門』と一緒に育ったので、かっこいいおじいちゃんにめちゃ弱いんですよね……
来週、R15展開入ります。
もともとこのお話はR15なので、15歳未満の読者様はいらっしゃらないとは思いますが、もしかしたらレーディング指定に気付かず読んでるかもしれない15歳未満の方は、来週のお話を読むのは15歳のお誕生日を迎えてからにしましょう。
しかしながら、特に小説の場合、レーディング指定表現のさじ加減が本気で難しい……何度も繰り返しますが、「これはアウト」な内容でしたら、教えて頂けますと非常に助かります。




