突然の別離
連続更新2日目!
本日は、二人分の視点をお届けします。
――例の〝策〟を実行に移すため、カイが密かにイフターヌを発ってから、四日が過ぎた。
「おはようございます、ディアナ様」
「おはよう、リタ。……あれ、今日はいつもより控えめね?」
「えぇ。……まぁ理由は分からなくもないのですが」
いつもと同じ時間に目覚め、身支度を整えて、毎朝恒例となった〝嫌がらせ〟の確認に出向いたディアナは、屑籠のゴミが適当にばら撒かれているだけの廊下に目をぱちくりさせた。ディアナの身支度を手伝ってくれたルリィも、箒で掃けば事足りそうな廊下を見て、「今日は掃除が楽そうですねぇ」と呟いている。
「この程度なら、ディアナ様にお手伝い頂かずとも、私たちだけで事足ります。――リタ、あちらでディアナ様にお茶でも淹れて差し上げて」
「ありがとうございます、ユーリさん」
侍女の人数分の箒を持ってきたユーリに促され、ディアナはリタとともに奥へと戻り、食事用の席についた。できる侍女リタは、無駄なくテキパキ動いて用意を整え、すぐに温かいお茶を淹れてくれる。――エルグランド王国から持参した、気分を落ち着ける効能のあるハーブティーだ。
促されるままに一口飲んで、ディアナは静かに深呼吸する。
「……美味しい」
「それはようございました。まだございますから、ごゆっくりお楽しみください」
「ありがとう、リタ。……今日も良い天気ね」
「朝晩は冷え込んで参りましたが、日中はまだまだ暑くなりそうです」
「えぇ。……雨が少ないのは、この国の民にとっては厳しいことなのかもしれないけれど。広範囲を移動したり、野宿することを考えると、晴天が多くて雨があまり降らないこの国の気候は、水害対策をあまり気にせず済んで助かるわ」
「水源を探す知識と技術が乏しければ、逆に心配ではありますけれども……まぁ、あれなら心配ないでしょう」
「そうね。あのひとなら、大丈夫。……彼は、何処に居たって、誰と居たって、きっと大丈夫なひと」
四日。……たったの、四日だ。彼の気配が身近に感じられなくなって、まだたった四日しか経っていない。
それなのに――ほんの僅か、四日の間に。遠い彼方に想いを馳せて、ぼんやりと空を見上げることが、すっかり癖になってしまった。
「……寂しい、ですか?」
空を、遠くを見つめるディアナに、ふとリタが問い掛けてくる。たった一言の曖昧な問い掛けは、その気になれば誤魔化すことも流すこともできるだろう。普段はまるで遠慮なく痛いところを突いてくるのに、ディアナが自分でも分かるほど落ちているときは絶対に逃げ道を塞がない辺り、やはりリタは優しい。
リタの気遣いをありがたく受け取って……ディアナは、こくりと首肯した。
「さびしい。思ってた以上に、さびしいわ。……覚悟はしてた、つもりなんだけど」
「……考えてみれば、あれが完全にリリアーヌ様と決別してから、これほど長くディアナ様と離れたことはありませんでしたね」
「なんだかんだ、ちょくちょく顔を出してくれていたしね。……でも、そうか。去年の降臨祭からだから、まだ一年も経ってないのよね」
出逢ったときは、敵方だった。言葉を交わして、敵でも味方でもない存在になった。
交流を重ねる中で、彼の優しさを、思いやりの深さを知って。軽い態度とは裏腹に情篤く、一度こうと決めたら揺らがない、鋼のような強い意志を持つひとだと知った。
彼を一つ、知るたびに。敵味方など関係なく、彼個人を大切に想うようになって――だから、彼が立場を超えて手を差し伸べてくれたときは、本当に嬉しかった。
……そう、嬉しかったのだ。最初は単なる偽名に過ぎなかった〝ディー〟の呼び名も、シェイラが大切に呼んでくれて、それを密かに聞いていた彼が〝後宮で取り繕っていないときのディアナ〟だと見抜いて呼んでくれるようになったことで、かけがえのない特別な名前になった。
そうやって、同じ時間を共有して。ときに些細なことで、くだらないケンカをしたりもして。
彼と共に過ごすようになってから、それほど長い時間が経過したわけではないのに。彼と出逢う前、彼の居ない時間をどんな気持ちで過ごしていたのか……もう、思い出すことができない。
「……手紙を、出しますか?」
不意に、リタが尋ねてきた。咄嗟のことで意味が分からず、視線だけで問い返したディアナに、リタは少し切なげに微笑む。
「リクならば、頼めばカイを探して、手紙を届けてくれるでしょう。日数的にも、もう作戦の山場は超えているはずです。ディアナ様が一言、『寂しいから早く帰ってきて』と手紙に書けば、彼奴は飛んで帰ってきますよ」
「馬鹿を言わないで。私が頼んで策を託したのに、やっぱり寂しいから帰ってきてなんて、そんな勝手なこと言えるわけないでしょ」
「ディアナ様のワガママなら、あれは喜んで受け入れると思いますよ?」
「ワガママと自分勝手は違うでしょ。私は大概ワガママな性格してるけど、だからって自分勝手に他人様を振り回して当たり前と思えるほど恥知らずじゃないわ。……ただでさえあのひとにはいつも、自分勝手ギリギリのワガママをぶつけている自覚あるのに、これ以上は求められない」
傍にいる、と言ってくれる彼の優しさに甘えて、守ると言ってくれる強さに縋って――いつの間にかディアナの中で、こんなにも彼の存在は大きくなった。
……それでも。今ならばまだ、間に合う。
「……ちょうど、良かったのかも」
「……ディアナ様?」
「あのひとが……カイが、私の傍に居てくれるのは、彼の純然たる厚意によるものなんだから。それに寄り掛かって、カイの存在を当たり前にしちゃいけない」
「それは……」
「彼のこれまでを考えれば、一緒に居てくれることが、そもそも奇跡なのよ。感謝しこそすれ、傍に居てくれることを当然のように思うなんて、あまりにも傲慢だわ」
「……」
「いつか……私の傍に居るよりもっとやりたいことが見つかったとき、笑顔でカイのことを見送れるように。彼の存在を当たり前にして、身勝手にも縛ってしまう前に――気付けて、良かった」
たった四日、顔が見られないだけで、予想だにしなかった寂しさに襲われる。……彼に、これほど心を占められていたことを知る。
それを自覚し、傲慢になりかけていた己を自省できた今ならまだ、立ち止まれるはず。――彼の幸福を、未来を一番に考えて、離れる選択を受け入れる覚悟だって、持てる。
「寂しい、けれど。……慣れなきゃ、ね」
「ディアナ様――」
リタが、何か言おうと口を大きく開く。
しかし――言葉が口から発される、その直前。
「ディ、ディアナ様!」
廊下を掃除していたはずのミアが、慌てた様子で駆け込んできた。
「おくつろぎのところ、申し訳ありません。何やら緊急の用件らしく、〝外〟からこちらの手紙が届けられたのですが――」
基本的に一日の始まりがゆっくりなスタンザの皇宮殿で、こんな早朝に〝外〟から手紙が届くなど、それだけで充分な異常事態だ。即座に頭を切り替え、ディアナはミアから渡された手紙を開く。
その、内容は――。
「ディアナ様、手紙には何と?」
「……殿下が、今から後宮を訪ねるから、いつもの部屋で待っていて欲しいと」
「いつもの、って……ディアナ様が外出される際、皇子殿下と待ち合わせられるお部屋ですか?」
「この書き方を見るに、そうでしょうね。……もしも、わたくしが部屋に居なければ、皇帝陛下の許しは得てあるから後宮の中まで迎えに行く、って」
「どういうことでしょう……?」
「分からないけれど、皇帝陛下もご承知の案件となれば、無視するのは悪手ね」
朝食もまだだが、仕方がない。ディアナはリタが淹れてくれたお茶を飲み干し、立ち上がった。
「リタ、着替えを手伝って。ミア、廊下の掃除はどんな感じ?」
「粗方済んでおります。あとは軽く拭き掃除をして、道具を片付けるだけですね」
「さすがね。じゃあ、ミアが抜けても何とかなるかしら?」
「問題ないかと」
「なら、ミアも一緒に来て。もしかしたら外交案件かもしれないから」
「外交案件なら、女官のミアさんがいてくださった方が心強いですね」
「えぇ。リタは、ユーリたちと一緒に朝食の準備を――」
「なに寝言仰ってるんです。私も同行しますよ」
「え? でも、リタが居ないと通訳が」
「――大丈夫です、ディアナ様。スタンザへ参ってから、時間を見つけてリタに初歩のスタンザ語を教えてもらいましたので、日常の意思疎通程度ならジェスチャーを交えれば何とかなります。特にロザリーには語学の才があるようで、この数日間で聞き取りもかなりできるようになりましたから」
ディアナの言葉が聞こえたらしいユーリが、掃除道具を持って入室しつつ、進言してきた。そのまま、彼女はリタの方を向く。
「私からもお願いします、リタ。ディアナ様のお傍に控えていてください」
「ありがとうございます、ユーリさん」
「ユーリ……」
……ユーリがここまで心配するほど、最近のディアナは落ちていたのか。落ちていることは自覚していても、それでもどうにか取り繕えていると思っていたが、彼女の態度を見る限りまるで取り繕えていなかったらしい。
「……分かったわ。リタも一緒にお願い」
「もちろんです。残れと言われても、ついて参りますよ」
――指定された部屋は、後宮の外にある、兵士たちの詰所のようなところだ。スタンザの後宮は馬鹿みたいに広いので、あまり悠長にはしていられない。リタに手伝ってもらいながら大急ぎで着替え、ディアナは駆け足ギリギリの早歩きで部屋へと向かった。
《――あぁ、姫。良かった、今お迎えに上がるところでした》
急いで良かったと言うべきか、ディアナが後宮の外門まで辿り着いたとき、エクシーガは既に門の前で警備の兵士相手に、何やら命を出していた。手紙の雰囲気といい、彼の様子といい、どうやら本当に急ぎの用らしい。
《おはようございます、殿下。お待たせ致しまして、申し訳ありません》
《いえ。こちらこそ、朝から不躾にお呼び立てしましたことを、お詫び申し上げます》
《お気になさらず。何か、エルグランド国使団に関わる大事でもありましたか?》
挨拶もそこそこに用件を切り出すと、エクシーガは一瞬、ぐっと押し黙って。
《――姫。少し、遠出をしませんか》
《遠出、ですか?》
《我々スタンザ国使団は、エルグランド王国の王都へ参るまで、道中の各地を案内して頂きました。しかし、姫はイフターヌ以外のスタンザを、まだご覧になっていない》
《……えぇ》
《姫の滞在日数も、残り僅か。このままでは、我々がエルグランドで受けた歓待と、あまりに釣り合わない。――それは、帝国の威信に関わることです》
……言っていることは、分からないでもない。エルグランドの王都は内地にあるため、一番近い港に船をつけたとしても、王都へ着くまで幾つかの土地を経由することになり、必然的にそこで歓待を受ける。一方、イフターヌは皇都であると同時にスタンザ帝国最大の港街でもあるので、わざわざ他所に船をつける必要がないのだ。訪れた土地の数も受けた歓待も劣るとなれば、確かにあまり平等ではないし、「エルグランド王国は異国の国使に盛大な歓待をしたのに、スタンザ帝国は随分と貧相だった」と言われかねないという懸念は分かる。
(……でもそれって、もの凄く口実っぽいわよね)
歓待の程度を気にするなど、まるでスタンザ帝国がエルグランド王国を対等な国として尊重しているようではないか。エルグランド国使団を戦果扱いして、実質的な人質のように認識していたスタンザ側がこんなことを言い出すなんて、裏があると疑わない方がどうかしている。
《……お気持ちはありがたいですが、あまり気になさらないでください。イフターヌの人々と交流を重ねることも、国使としてとても有意義なことです。歓待の方向性が違っていたとしても、そのようなことでスタンザ帝国を判じるつもりはございません》
やんわり貴族的な言い回しで、遠出の回避を試みる。……顔色どころか表情一つ変えない皇子を見る限り、上手くいっているとはお世辞にも言えないが。
(……今、イフターヌを離れるわけにはいかない)
スタンザ人はブラッドを除いて誰も知らないが、エルグランド勢は現在、重要作戦の真っ只中。――その最前線を任せているひとを放置して、遠出などできるわけがない。
……いいや、違う。言い出しっぺとしての責任も確かにあるけれど、でも、それ以上に。
(私は、カイを――)
「……何か、イフターヌを離れられない理由でもあるのですか」
何故かいきなり、エクシーガが言葉をエルグランド語に切り替えてきた。……すぐ近くにいるスタンザの護衛兵たちに、聞かれたくない話でもするつもりか。
「エルグランド王国の上層部は、おそらく我らを信用してはいないでしょう。……万一、我らスタンザがあなたを帰国させまいとしても、必ず迎えに行くからとでも言われましたか。――あの、王に」
「いいえ、まさかそんな……」
「あなたが我が国へいらしてから、十日近くになります。そろそろ、お国が恋しくなる頃でしょう。特にここ最近の姫は、随分と遠くに思いを馳せられているようです」
皇子の指摘に、ひやりとする。……エクシーガと行動を共にしているときは、なるべく気を抜かないよう、いつも通りの振る舞いを心がけてはいたけれど、やはり今のディアナは自分で思っている以上に不安定なのだ。
「――姫。聡明なあなたなら、もうお気付きのはずだ。国を離れ、寂しい思いをしていらっしゃるあなたを、あの王は政略以上の意味で大切にはしておられない。姫が見上げている先の空で、王は同じように、空を見つめてはいないでしょう。……彼の瞳の先には、彼が愛するシェイラという側室しかいないのです」
「そ、れは……」
「愛情のない王を待って、気落ちしたまま皇都に留まることはない。雨の少ない国ではありますが、スタンザには姫がお好きな緑溢れる土地も多くあり、その中の一つを私が拝領しております。気分転換には良い場所ですよ。数日、泊まりがけでゆっくりなされば、きっとお気持ちも晴れましょう」
……分かっている。多少強引なところはあるけれど、エクシーガは基本的に悪い人ではない。この申し出もきっと、見るからに気落ちしているディアナを励まそうと、純粋に気遣って持ちかけているのだろう。
毎日、午後の決まった時間にディアナを迎えに来てくれて、ディアナが行きたい場所へ連れていってくれる。出掛けた先でディアナが誰とどんな交流をしても決して咎めることなく、おそらく詳細をスタンザの首脳陣へ告げてもいない。初日にかなりディアナの心証を悪くしたという負い目もあるのかもしれないけれど、たぶん初日のあれこれがなくたって、彼はディアナが思いのままスタンザで過ごせるよう、手を尽くしてくれたはずだ。
エクシーガは、ディアナがジュークを愛していると思い込んでいる。気落ちすることが多くなったディアナを見て、ホームシックを連想するのは自然な流れで――薄情な王を想って落ち込むことはないと苛立ってしまうのも、無理はないのかもしれない。
(……私が本当に、心身ともにエルグランドの後宮に縛られてしまっていたのなら。きっと、殿下の強引なところも、頼もしく思えたのでしょうね)
けれど、違う。そうではない。
ディアナは今、ただただ単純に。
(カイを、待っていたい。戻ってきたカイに、まっさきに「おかえりなさい」って言いたい。「ありがとう」って伝えて……)
……いいや、違う。話は、もっとシンプルだ。
(逢いたい、んだ。私、できるだけ早く、カイに逢いたい。だから、イフターヌから離れたくない――)
なんだ、これは。この、混ざり気なく純粋で、呆れるほど本能的で、
――ぞっとするほど凶暴で激しい、この感情は。
自身の内から溢れるこの感情は、確かに自分のものなのに。
己の理性で、制御することができない――!
「……行きましょう、姫」
気がついたときには、エクシーガの顔が間近にあった。呆然としている間に、距離を詰められていたらしい。
断る隙もなく手を取られ、そのまま肩を抱かれる。
――いけない、と必死に思考をかき集めた。
「お待ちください、殿下。泊まりがけで遠出をするのならば、まずは支度をせねばなりません。衣服も、日用品も、わたくしはこちらへ持ってきていないのです」
「向かう先は、私の宮殿です。衣服も身の回りの品も、不足なくお世話できます」
「ならば……せめて、侍女たちも共に。部屋に残してきた者たちも連れて参りますゆえ、しばしお時間を」
「姫のお世話をする者は、私の宮殿にもおります。お荷物などはこちらへ残すのですから、後宮の留守を預かる者も必要でしょう。――こちらの二人のどちらかが同行すれば、充分かと」
……これが単なる気晴らしの遠出であり、長であるディアナが皇宮殿から離れるのなら、官身分のミアはスタンザ側との折衝役として残らねばならない。消去法で、連れて行けるのはリタだけになる。
ディアナに時間を与え、後宮に戻してしまったら、何らかの策を立てて遠出を回避されると、エクシーガは警戒しているのだろう。ディアナの肩に置かれた手からは、後宮へは帰さないという確固たる意志が感じられた。
「――ご無礼をお許しくださいませ、皇子殿下。どうか、紅薔薇様からお手を離して頂きたく」
硬直した空気の中、静かな強い決意を込めた声が響いた。――ディアナの背後で、ずっと成り行きを見守っていた、ミアだ。
「……控えよ」
「無礼は重々承知の上で、伏してお願い申し上げます。――紅薔薇様に、遠出の意思はございません」
「私の言葉が聞こえぬか。エルグランド王国の恥となりたくなくば、謹まれよ」
「恥知らずと、無礼者と、罵られることになろうとも。私は紅薔薇様にお仕えする者として、主をお守りする責務がございます。……今、イフターヌから離れるは、紅薔薇様にとってあまりに酷なことです」
(あぁ……)
何を、しているのだ。
己の感情に振り回されて、ミアを危険に晒して、こんなの『紅薔薇』として以前に、貴族として、人として失格ではないか。
――思い出せ。ディアナが最優先することは、何よりも守らねばならないものは、何だ。
(――わたくしは、『紅薔薇』。今はエルグランド王国準王族の身分で、国の名を背負う者)
エルグランド王国とスタンザ帝国の架け橋となり、全員で無事に国へと帰ることこそ、ディアナに与えられた、果たさねばならない使命だ。
その、ためには――!
「……分かりました」
ゆっくり、深く、呼吸して。
ディアナは、至近距離にあるエクシーガの顔を見上げる。
「殿下のお言葉に甘えて、しばし、お世話になりましょう」
「姫――!」
「ディアナ様!」
「大丈夫よ、ミア。泊まりがけで、イフターヌ以外のスタンザ帝国を拝見するだけだから。殿下のご領地で、危険なことは何もないわ」
「ですが……」
「第十八皇子領は、治安が良いことで評判なのよ。――殿下が拝領されている、自然豊かな土地となりますと……トールノやラーズでしょうか?」
「光栄です、姫。トールノは少々距離がありますので、今回はラーズをご案内しようかと考えております」
「ラーズなら、これから出発すれば、今日のうちに到着できますものね」
「姫はまこと、博識でいらっしゃいます」
穏やかに微笑み、ディアナはもう一度、ミアを見る。
「ね? 大丈夫よ」
「ディアナ様……」
「ミアには、留守を任せるわ。もしもエルグランド王国から何か連絡があれば、対応をお願いね」
「いけません、ディアナ様。どうか――」
「急で悪いけれど、リタはついてきてくれる? いくら殿下の宮殿の方がお世話くださるとはいえ、侍女が一人も控えていないのは、さすがに外聞が悪いから」
ディアナの瞳を真っ直ぐに見つめるリタは、怒っているようにも、悲しんでいるようにも見えた。深い激情を瞳に宿しながら、リタは静かに一礼する。
「承知致しました」
「――リタ!」
「ミアさん。ディアナ様のことは、私が命に換えても、必ずお守りします」
「リタ……」
「――ですからミアさんは、留守を預かっていてください。出立の挨拶ができないままになりそうですが、皆さんにも、どうかよろしくお伝えを」
今にも泣きそうな顔で、ミアがぐっと押し黙った。話はまとまったと判断したらしく、エクシーガはディアナから手を離すことなく、外へと歩き出す。
「ミア! わたくしが戻るまで、国使団を頼みます――」
何とか振り返りつつ、出立を告げて。
思ってもみない形で、ディアナはイフターヌを旅立った。
■ ■ ■ ■ ■
気を抜けば膝から崩れ落ちてしまいそうな絶望の中、込み上げる叫びを必死に堪え、ミアは無我夢中で後宮の部屋へと駆け戻った。足運びが優雅でないなど、そんなことは構っていられない。
バン、と大きな音を立てて扉を開けると、室内ではユーリたち王宮侍女が、食卓の上を綺麗に整えてくれていた。
……それ、なのに。
「ミアさん……? どう、なさいました?」
「ディアナ様は……?」
ルリィとユーリの質問が、必死に堪えていたものを、容易く溢れさせて。
「ごめん、なさい。ごめんなさい――!」
「ミアさん!?」
「止められなかった。何が何でも、絶対に止めなければならなかったのに……!」
「落ち着いてください、何があったのです?」
言葉とともに崩れ落ちた身体を、ユーリが支えてくれる。ルリィとアイナ、ロザリーも駆け寄ってきた。
仲間たちの前で、己の無力を懺悔するべく、ミアは顔を上げる。
「ディアナ、様が。エクシーガ皇子に、連れ出されて」
「……こんな朝早くに? 皇都で何か催しものでも?」
「いいえ。イフターヌから離れた土地へ」
全員の目が丸くなり、揃って悲壮な表情になった。――ミアと同じことを、皆も即座に思ったのだ。
「そんな! だって、もうすぐカイが帰ってくるのに?」
「何か問題があればリクを通じて手紙を出すって話で、今まで便りは一通もありませんから、予定通りなら今日の夜か明日の朝には……」
「ディアナ様、ずっとカイの帰りを待っていらっしゃるのに……っ」
アイナ、ロザリー、ルリィの言葉に、ミアも何度も頷いて。
「だから……絶対に、ディアナ様を行かせてはならなかった。ディアナ様がカイをきちんと出迎えられるよう、お守りしなければならなかった……っ」
いつもディアナに付き従う、出自不明の隠密、カイ。最初は『牡丹の間』に雇われた隠密だったという彼のことを、ミアは実のところ深くは知らない。
けれど。彼がディアナのことを、この世界中の何よりも慈しんで、大切にして、深く、深く愛して。ディアナの命はもちろんのこと、心まで全て包み込んで守ろうとしていることは、側で見ていればすぐに分かる。
そして……ディアナも。カイが自分を守ってくれる男だから頼りにしているのではなく、単純にカイ自身を想い、その心を預けていた。無自覚ではあったけれど……否、無自覚だからこそ曇りない愛を、一途に捧げていた。
――側室としては、禁忌の想いだ。王以外の男を愛するなど、ひと昔前なら、決して許されなかっただろう。
でも、ミアは。『紅薔薇の間』の侍女たちは、ディアナの想いを肯定し、応援しこそすれ、その禁忌を諫めようなどとは欠片も思わなかった。
王が既に愛するひとを得て、後宮を廃止し彼女を正妃にするべく動き出している、という裏事情もあるけれど――それ、以上に。
「ディアナ様には……幸福になって頂きたいから。カイと、この上さらに離れ離れになる遠出なんて、この身を犠牲にしてでも阻止しなければならなかった」
「ミアさん……」
「見ていれば、分かるわ。ディアナ様が、誰を想っていらっしゃるのかなんて。そして、ディアナ様の想いびとが、いつだってディアナ様しか目に入っていないことも」
「……ですね。分かりやすいですよね、あのお二人」
「想いは重なっているのだから、敢えて離れる必要なんてない。いつも他人のことばかりなディアナ様だからこそ、ご自身の望みは決して手放すことなく、幸福を得て頂きたいと……そう思ってお仕えしてきたのに!」
もっと上手い立ち回り方があったはずだ。ディアナを守るため、できることがきっとあった。
己の無力が恨めしく……権力を前に為す術もないことが、悔しい。
「……皆、同じ気持ちですよ」
ミアを支えていたユーリが、深い声音で言葉を紡ぐ。
「カイとお話ししているディアナ様は、驚くほどに愛らしく、華やいでいらっしゃいました。ディアナ様に、あれほど幸せそうな笑顔を与えられるのは、きっとカイ以外に居ないでしょう」
「……えぇ」
「ご側室に仕える王宮侍女として、間違っていることは百も承知です。それでも私はディアナ様の幸福のため、カイとの仲をお支えし、何があろうと守り抜こうと、密かに決意しておりました」
「私もです、ユーリさん」
「もちろん、私たちも」
何となくわかってはいたけれど、侍女たちの心も一つだったようだ。
表面上は淡々と、けれど言葉の端々に深い情を忍ばせて、ユーリはミアを鼓舞してくる。
「ディアナ様にはディアナ様の守りたいものがあり、そのためならば私どもの心配を他所に無茶をされることは、今に始まった話ではありません。――ならば、我々がディアナ様の御為に少々の横紙破りをしても、それはお互い様というものでしょう」
「ユーリ……」
「――ルリィ。確かカイは、緊急の連絡用に、リクを呼ぶ笛を残していましたね?」
カイの邪魔をしないよう、生死に関わる重大事案が勃発しない限り連絡はしないと決めていたディアナだから、たかが数日の遠出程度を報告するなど、後で知ったら怒られるかもしれない。
けれど――そうだ、ユーリの言う通り。自分の身を惜しまない主の命令を、こんな状況下で馬鹿正直に守ってどうする。
――ですからミアさんは、留守を預かっていてください。出立の挨拶ができないままになりそうですが、皆さんにも、どうかよろしくお伝えを。
別れる前の、リタの言葉が蘇る。……あれはきっと、ディアナの言いつけなど無視してカイに知らせてくれという、精一杯のメッセージ。
ユーリに尋ねられ、保管場所から笛を持ってきたルリィの後ろから、筆記用具を持ってアイナが続く。
「なんて書きましょう? ディアナ様がエクシーガ皇子に連れ去られたから、すぐに戻ってきて欲しいって書けば良いですか?」
「私たちから見ればそうなんだけど、事実としてはちょっと語弊があるような……」
「建前をつらつら書いたって意味ないじゃない」
言い合うアイナとロザリーの前に、ミアは確かな足取りで進み出る。――仲間たちの心を知り、己の為すべきことが見え、いつの間にか身体の震えは止まっていた。
「――いいえ、二人とも。もっと良い文面があるわ」
『エクシーガ皇子の申し出により、ディアナ様とリタが皇都を離れ、ラーズという地に向かわれました。ラーズにある皇子宮に、しばし滞在されるとのこと。
どうか急ぎ、ディアナ様のもとへ向かってください。ディアナ様をお守りください――』
全員の祈りを込めた手紙が結えられたリクが、翼をはためかせてカイのもとへ飛び立つまで、あと少し――。
この回、ディアナ視点がやたら時間かかりました。キャラを降ろしての執筆である以上、キャラが迷っているとどうしてもそれに付き合って、執筆時間がえらいことになる……
ミア視点は初めてでしたが、彼女は本当に実直な人柄なので、こちらはすらすら書けましたね。『紅薔薇の間』メンバーの迷いゼロ感、書いていて清々しかったです。