襲撃と邂逅
最近執筆がとても楽しくて、筆の進みも良くて何よりなのですが、おかげで誤字脱字もえらいことになっている気がします……誤字脱字報告、いつもありがとうございます。
また、頂く感想も、いつも励みにしております!
――その不穏な気配は、最初に訪れた食堂を離れた頃から、じわじわ、じわじわ迫りつつあった。
ポルテの案内で、北区一賑わっているというバザールや人気の芝居小屋、夜は大勢の人が集まるらしい酒場などを見て回るうち、時間は飛ぶように過ぎていった。サージャとポルテの姉弟はどこへ行っても人気者で、特に芝居小屋では、若い娘たちがポルテの無事を喜び、サージャにまた近いうち顔を出してくれと声を掛けていたのが印象的だ。サージャは踊りがとても上手で、以前は踊り子として舞台に立っていたこともあるらしい。
ポルテが案内してくれた場所は、ディアナのリクエスト通り、いずれも人が大勢集まっていて活気があり――そういう所の治安が必ずしも良いとは限らないというのは、どうやら万国共通らしかった。
[姫様!]
リクの鋭い鳴き声が響く。日も陰りつつあり、そろそろイフターヌ散策も終わりにしようとエクシーガとサンバが馬車を呼ぶため離れた一瞬の隙をついて、いかにも堅気でない雰囲気の男たちが人混みから飛び出し、ディアナの肩を掴んでそのまま裏路地へ引き摺り込もうとしてきたのだ。これから混み出す酒場前ということもあり、人通りの邪魔になってはいけないと道の端の方に寄っていたことが、なまじ悪く働いた。
《ディアナさま……っ》
悲鳴を上げるポルテを、大柄な男が背後から抱えて口を塞ぐ。青くなるサージャ、険しい表情のユーリにも、別の男たちが手を伸ばしていた。彼らの気配は、昼間の食堂からディアナ一行をつけ狙っていたものと同一で、隙を見て誘拐する気満々であったことが窺える。エクシーガとサンバが離れるのを待っていたということは、ずっとつかず離れずの距離にいたあの二人を、護衛か何かだと思っていたのだろうか。
(どうする――?)
彼らはならず者ではあるが、戦闘訓練をみっちり積んだ職業武人ではなさそうだ。動きを見るに、隙をつけばディアナでも倒せそうではあるが……人数的には不利だし、ポルテを抱えられてしまったこの状況下では、よほど上手く動かなければ人質に取られてしまう。
ディアナは少し考えてから、目でユーリに〝抵抗しないように〟と合図した。押されるまま後退り、裏路地へと移動する。ディアナに続いて、ユーリ、サージャ、ポルテの三人も裏路地へと押し込まれた。
ギリギリ通りが見える位置で踏み留まり、ディアナはここで初めて、男たちに向き直る。
《何の御用でしょう? 突然、声も掛けずに無理やり狭い道へ押し込むとは、穏やかではありませんね》
《いやぁ、大したことじゃありませんよ。こんな貧民のガキに情けを掛けるお優しいお嬢様なら、俺たちにもお恵みをくださるんじゃないかと思いましてねぇ》
にやけた顔の男たちは、その態度だけで自分たちの品性が下劣極まりないと親切に教えてくれている。正直、会話するのも嫌になる下衆さだ。
自国でこんな連中と相対した際は、問答無用で叩きのめす一択だが。残念ながら今のディアナはエルグランド王国国使として、どれだけ話が通じなさそうな輩とも、一度は会話を試みる義務がある。ため息を押し殺し、ディアナは目の前の男へ冷たい目を向けた。
《仰る意味が、よく分かりませんわ。わたくしは別に、サージャさんとポルテくんに情けを掛けているわけではありませんし……仮にそうだとしても、だからといってあなた方にまで恵まねばならない理屈はないでしょう》
《はっ。貧民なんざ、辛うじて奴隷落ちしてないだけの、人間のなり損ないみたいな連中だ。そんなのまで構う余裕があるってことは、さぞかし大金持ちのお嬢さんなんだろ。貧民如きにばらまく金があるなら、ちゃんとした人間の俺らに寄越すのが筋ってもんだ》
サージャとポルテの表情が苦しげに歪む。――今日巡った場所で会ったスタンザの一般階級民は、概ね貧民である姉弟にも親切で、差別意識などないように見えたが……その一方で、統治側の思惑にまんまと嵌り、貧民や奴隷を自分たちより〝下〟に見ることで苦しい生活の鬱憤を晴らしている民もいるということか。生き辛さへの不満を真っ当に政へ向けるのではなく、自分たちより〝下〟を見て「アレよりはマシ」だと安堵する。自身が抱える生き辛さは、何一つとして変わっていないのに。
無知を無知と気付けぬまま踊らされている男たちの姿は、とてつもなく滑稽で、――哀れだ。
《……どうやら、あなた方の考える〝ちゃんとした人間〟と、わたくしが考えるそれとには、とても大きな隔たりがあるようです。わたくしから見れば、あなた方よりサージャさんとポルテくんの方が、よほどちゃんとしていますよ》
《んだとぉ……?》
《〝人間のなり損ない〟という言葉も、よく分かりませんね。人の親から生まれた子は、皆等しく人間でしょう。人間のなり損ないなど、そもそも存在しません》
冷静に反論しつつ、ユーリに目で合図する。有能な侍女は視線だけで正しくディアナの意図を理解し、サージャの腕を取ってそっと足を動かすと、ディアナの近くへと回り込んだ。
二人が移動したのを確認してから、ディアナは視線をずらしてポルテを抱えている大柄な男を睨みつけた。
《それで、あなたはいつまで、幼気な子どもに狼藉を働くつもりなのです?》
《な……っ》
《今すぐその手を離しなさい。さもないと――》
仄かな殺気を漂わせるディアナに、男たちが警戒の色を見せる。武器らしきものを持った何人かが身構え、全員の視線がディアナに集中した。まさに、一触即発の気配――!
――ガァンッ!!
突如響いた場を震わせる大きな音は、男たちの背後、裏路地の入り口近くから聞こえた。どうやらその場にあった廃材を蹴り飛ばした音だったらしく、それはものの見事に、ポルテを抱えていた男の背中へとヒットする。不意の衝撃に耐えられず緩んだ腕から、隙を逃さずポルテは逃げ出し、一目散にサージャへと駆け寄った。
《お姉ちゃん!》
《ポルテ!》
跪いてしっかと抱き合う姉弟を守れるよう、すかさずユーリが立ち位置を変える。その頃には既に、ならず者たちと、新たに登場した闖入者との戦闘が開始されていた。
(あの服装……どうやら、スタンザ兵のようね)
もちろんディアナは、ならず者たちが最初に接触してきたときから、近くで自分たちを気にかけている気配があることも、その気配の持ち主が助けるタイミングを量っていることにも気付いていた。見知らぬ気配ではあったが、感じ取る限り、少なくともディアナに対する悪意はない。隙さえ作ればその〝誰か〟が助けに入ってくれるだろうと予測したからこそ、わざわざ裏路地まで誘導されたのだ。助けが来ない状況であったとしたら、さすがに黙って大人しく裏路地に連れ込まれたりはしない。
ならず者たちを相手に、堂々と剣を振るう、その兵士は強かった。ディアナの周囲にわらわらしている戦闘力お化けクラスの超人たちと比べるのは可哀想だが、一般兵としては充分過ぎる強さだ。粋がってはいても、おそらくマトモな戦闘などほとんど経験したことがないであろうならず者たちなど、相手にもならない。あっという間に動いている人影は少なくなり、狭い裏路地には呻き声を上げる男たちが所狭しと転がった。
――最後の一人を鮮やかな剣捌きで沈めた兵士は、ディアナへと向き直るとそのまま滑らかに膝をつく。
《お助けが遅れ、御身を危険に晒しましたこと、誠に申し訳ございません。如何様な罰でもお受け致します》
《何を仰るのです。――ありがとうございます、本当に助かりました》
実際、助かった。ディアナはそれなりに戦えて、こんなならず者相手に遅れを取らない程度の心得はあるが、できることならそれをスタンザ側に知られたくはない。カイの存在と同じく、こういった〝切り札〟は一枚でも多く温存しておきたいのが正直なところだ。本当に危険な場面で躊躇わずカードを切るためにも、今はあまり目立ちたくなかった。
――彼がいてくれなければ、この程度の小者相手に、貴重な一枚を失うところだったのだ。感謝しこそすれ、罰を与えるなんて発想はない。
ディアナの言葉に驚いたらしく、兵士は不意に顔を上げる。浅黒い肌に黒い髪、透き通った薄水の瞳が印象的な、精悍な顔立ちの青年だった。歳はおそらく、カイより少し上か。
《――姫!!》
何となく無言が落ちた裏路地に、おそらくは他の兵士に知らされてだろう、エクシーガが血相を変えて駆けつけてきた。なんでもないことを示すため、ディアナは敢えて笑ってみせる。
《殿下》
《姫、ご無事ですか。お怪我は……!》
《えぇ。この通り、わたくしにはかすり傷一つございません。そちらの兵士殿が、お見事な剣捌きで悪者を退治してくださいました》
《そう、ですか。良かった……》
ほっとした様子のエクシーガは、跪く兵士を穏やかな目で見下ろした。
《よくやってくれた。礼を言う》
《勿体ないお言葉にございます》
《あの、殿下》
エクシーガの背後から、ディアナはふわりと、スタンザ兵へ微笑みかけた。
《差し支えなければ、そちらの兵士殿に何かお礼をしたいのですが……どのみち、この狼藉者たちの捕縛と事情説明に、わたくしどもも同行する必要があるでしょう。殿下がお仕事をしていらっしゃる間、事情説明も兼ねて、兵士殿にお礼をさせてもらえませんか?》
《な……!》
驚いたのはエクシーガより、言われた当の本人だ。エクシーガは数日を共に過ごすうちに、民に対するディアナのスタンスを何となく察しているらしく、それほど意外そうにはしていない。
《お礼、といっても内容によりますが……あまり高価な品などは、規定違反となる可能性がありますので》
《助けてくださった方を逆に窮地へ追い込むような真似はしませんわ。そうですね……そろそろ日も落ちることですし、何かお食事でも御馳走させてください》
《男と二人で店に入って頂くことはできませんよ》
《もちろん、存じております。この辺りには、持ち帰りの食事を売っているお店も多いでしょう。そちらをいくつか買い求め、お渡ししようかと》
《分かりました。その程度でしたら、問題になることもないと思います。……確か、兵士の詰所には外から見える休憩所もあったな?》
《ありましたね。それなりに広い机もあったと記憶しています》
《ならば、この不届き者の始末を終える間、姫にはそちらでお待ち頂きましょう。周囲が開けた場所ならば、兵士相手に話していても二人きりということにはなりませんから》
当事者を置いてけぼりに、エクシーガとディアナ、時々サンバの間でさくさく今後の段取りがまとまる。お礼を受けるはずの当人は、困惑の表情から、徐々に青ざめていった。
《そのような……どうか、私のことは捨て置いてくださいませ。スタンザ兵として、当然のことをしたまで。お礼を頂くようなことは、何一つしておりません》
《あなたにとっては当たり前のお仕事でも、わたくしにとっては充分、お礼に該当することなのですよ。……ご迷惑なら無理にとは申しませんが》
《いえ……》
狼狽えていた兵士だが、目の前のエクシーガが発する無言の圧もあったのだろう。最終的には、オロオロしつつも頷いた。
ディアナは微笑んで頷くと、背後のサージャとポルテを振り返る。
《サージャさん、ポルテくん。怪我はありませんか?》
《は、はい》
《大丈夫です!》
《良かったわ。……怖い思いをした後だし、あまり無理は言えないのだけれど、できればもう一つ頼みたいことがあるの》
ディアナの言葉に、姉弟は瞳を輝かせて頷いた。
《はい、ディアナ様。何なりと!》
《ありがとう。――この辺りで売っている、美味しい持ち帰りのお料理を教えてくれる?》
《分かりました! それなら――》
震えの止まった二人を確認し、ディアナはほっと胸を撫で下ろした――。
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サージャとポルテに教えられた店でオススメ料理を買い、ついでに持ち帰りし易そうな軽食と、案内の礼として僅かばかりのスタンザの貨幣を姉弟に渡して、比較的安全な道まで一緒に出てから別れ、そこでようやくディアナは馬車に乗った。兵士は特別に馭者席に乗せてもらったようで、無事に兵士たちの詰所へと到着する。ちなみにエクシーガとサンバは、例の狼藉者たちの処理があるとかで、別の馬車に乗って先に詰所へ入っていった。
エクシーガに指定された休憩所は、大きな屋根の下に無骨な木の長机と長椅子がいくつも並んでいるだけの開けた場所だった。確かにここなら人目があるので(すぐ近くに訓練場と通路があるため、割とひっきりなしに人が通っている)、たとえ男女が一対一で話してもいかがわしい噂は立たないだろうと思われた。――今回の場合、ディアナにはユーリがついているので、そもそも一対一ですらないが。
一つの長机を囲んで腰を降ろし(兵士は立ちっぱなしでいようとしたが、落ち着かないので座ってくれとディアナが頼み込んだ)、買ってきた食事類を机の上に置いて、改めてディアナは頭を下げる。
《本当に、ありがとうございました。わたくしはもちろん、ここにおりますユーリも、先の姉弟も、あなたに助けられました》
《いえ……先も申し上げましたが、あなた様をお守りすることは、私の職務なのです。にも拘らず、離れた場所にいた故、すぐにお助けすることができず、御身を危険に晒すこととなってしまいました。これは、紛れもない私の失態。罰されるべき落ち度です》
《ですが――あなたが離れて警護なさっていたのは、下手に近寄って、わたくしと共にいた姉弟を怖がらせぬためでしょう?》
兵士の目が大きくなる。ディアナはふわりと微笑んだ。
《つい先日、あなたと同じ制服を纏うスタンザ兵に斬り捨てられそうになった姉弟の視界に入らぬよう、無闇に幼い心を傷つけることがないよう、気を付けて警護してくださっていたのですよね? 被差別階級である貧民の子どもを、同じ人として気遣うスタンザ兵がいてくださることを、わたくしはとても嬉しく思います。それに、裏路地へと誘導されましたのは、周囲への被害を大きくせぬよう、わたくし自らが選択したこと。あなたが落ち度を感じることではありませんよ》
《国使様……》
《そういえば、自己紹介もまだでしたね。わたくし、エルグランド王国貴族、クレスター伯爵家の娘で、ディアナと申します。よろしければ、あなたの名もお伺いしたいのですが……》
《――はっ。スタンザ軍、皇都警備隊所属兵、ブラッドと申します》
《ブラッド殿、でいらっしゃいますね》
《いえ、国使様、どうかブラッドと。家名も持たぬ身には、敬称など過ぎたるものにございます》
《そうお望みならばブラッドとお呼びしますが……個人的には、あなたは充分に敬称をつけられるに相応しい方だと思いますよ》
《え……》
《わたくしは、人の尊さとはその人自身の生き様にあると考えておりますので。お仕事や街の人々に対するあなたの誠実な姿勢は、わたくしにとって敬意を払うに充分値します》
生まれゆえに自身を卑下するなと遠回しに告げれば、ブラッドはその薄水の瞳を丸くして、ディアナを見つめ返してくる。言葉の裏を正しく理解したらしい彼は、剣技に優れているだけでなく、どうやら頭の回転も速いようだ。
やがて彼は、どこか遠い、懐かしいものを見る目になって、ゆっくりと口を開いた。
《……国使様は、私が師と仰ぐお方に、とてもよく似ていらっしゃいます》
《まぁ。武芸のお師匠様ですか?》
《いいえ。……学問と、人生の師です》
ディアナは微笑んだまま、視線だけで話の続きを促す。兵士――ブラッドは、当初とは違う打ち解けた表情で、静かに言葉を紡いだ。
《私は、皇都の外れに居を構える、貧しい家に生まれました。かろうじて平民身分ではありますが、姓もなければ蓄えもない、明日をも知れぬ家です。物心ついたときにはもう、親兄弟の手伝いに明け暮れていて……唯一の楽しみが、近くにお住まいの学者先生のお宅へ遊びに行くことでした》
《……、え?》
《学者先生はとても懐の広い方で……『人はどこに生まれても、学びを深めてより良い生き方を選ぶことで、いくらでも尊い人になれる』というのが口癖でした。学者先生のお宅へ遊びに行く子どもは多く、先生はそんな我々に、無償で基礎的な学問を教えてくださったのです》
……ブラッドの語る生い立ちには、ものすごく聞き覚えがある。というか、つい数時間前に聞いたばかりな気がする。
《……その、学者先生が、お師匠様ですか?》
《はい。最近はお会いできておりませんが……念願が叶った暁には、必ず先生の元へ参り、恩返しに生きる所存です》
《念願、とは?》
《それは……いえ、大望は口に出すと叶わぬと申しますゆえ、どうかご容赦を》
ブラッドは口籠ったが、その瞳に一瞬灯った強烈な熱を見れば、それが何かはある意味言葉にしなくても分かる。
そして、その深く、激しい情念は――それこそ数時間前、とある花を通して感じ取ったものと、そっくり同じだった。……いや、花に念を刻んでから数年が経過する間に、本人の〝想い〟はより深く、激しいものとなっている。
(願掛け以前の問題で、まぁ普通は言えないわよね。――皇帝陛下の側室を貰い受けるつもりだ、なんてことは)
いくらディアナがスタンザ帝国の内部事情とは一切の関係がないエルグランド人とはいっても、さすがにこれは言えないだろう。場合によっては、皇帝への叛意とすら受け取られかねない〝大望〟だ。実際、アルシオレーネを奪ったバルルーン家と皇帝陛下を、彼がまるで恨んでいないかと言えば、それは微妙なところだろうし。
(レーネ様は『諦めの悪い人』と仰っていたけれど……そもそも『諦める』の単語が辞書にない人みたいね。他のことはともかく、レーネ様に関しては、何一つ妥協できないみたい)
アルシオレーネの父親、テバラン博士は学者だが、彼女がバルルーン家の養女となるまでは皇都の隅っこで細々と研究を続けていただけで、それほど高い身分ではなかったらしい。ブラッドは姓こそ持たないが平民身分で、成長してからはテバラン博士の助手として働いていたそうなので、二人の身分はそれほど離れてはいなかったはず。本来なら――バルルーン家の現当主が下らない夢に取り憑かれさえしなければ、アルシオレーネとブラッドを阻むものは何もなかったのだ。
しかし、運命はときに、思いもよらない残酷を強いる。バルルーン家に目をつけられたアルシオレーネは、父の研究を守るために養女となり、請われるまま後宮へと上がる以外に生きる術はなく、皇帝の側室となってしまった。本来ならなかったはずの、高く分厚い壁が、二人の間に立ち塞がって――。
(……それでも、彼は諦めない)
ここまで考えて、ディアナは何だかおかしくなった。
――国も、後宮の仕組みも、何もかもが違うのに。同じ頃に後宮絡みで、「絶対に脱出してやる」「絶対に幼馴染を救い出す」と似たような不可能に挑む、諦めを知らない人間がそれぞれの国にいたなんて。ブラッドはディアナのことなんて何も知らないけれど、一方的な親近感を覚えてしまう。
《……あの、国使様?》
突然、ディアナが黙ったからだろうか。ブラッドが少し不安そうな声でディアナを呼ぶ。ゆっくりと顔を上げて、ディアナはブラッドの瞳を真っ直ぐに射抜いた。
《……ブラッド。あなたの〝大望〟が何か、それは分かりませんけれど。応援していますよ、必ず叶いますようにと》
《国使様……》
《きっと、お師匠様も……その日を心待ちにしていらっしゃることでしょう》
当たり障りのない言葉を返しつつ、ディアナは密かに決意した。
次に、アルシオレーネに会うことがあれば。今もまだ、ブラッドはレーネを諦めていないと、そっと伝えよう。そして彼女に、まだブラッドを望む気持ちがあれば――。
(想い出だけでいい、ってレーネ様は仰っていたけれど。心が通じ合っているのに、二人を阻む壁は高くて分厚いかもしれないけれど、突破口だって見つかっているのに……手を取り合う未来を望めないのは、あまりにも虚しいわ)
諦めの悪い人間一人なら、ただ足掻いて終わりかもしれない。
だが、そこに諦めの悪い人間がもう一人加われば。思ってもみない相乗効果で、〝何か〟を起こすこともきっとできる。
フィガロが、よく実験しているではないか。生まれも育ちも違う二つの物質を、ガラス瓶の中で融合させるとき、予想だにしない反応が起きる。それらの反応は使い方次第で、世界をより便利に、明るいものへと導けるかもしれないと、彼は以前楽しそうに話していた。
(エルグランド王国とスタンザ帝国の、諦めを知らない人間同士が組めば。きっと、これまで誰も見たことのない、〝化学反応〟が起こせるはず――!)
まずは、アルシオレーネの気持ちを確かめるところからだ。
――無言で深々と首を垂れるブラッドを見ながら、ディアナの心中は静かに熱く、燃え始めていた。
ぼちぼちスタンザ編は〝転〟へと差しかかってますね。まぁ、涼風の書く話は概ね〝転〟がめちゃ長いんですが……
2020年内にはスタンザから帰れるように頑張っておりますので、今しばらくお付き合いくださいませ。




