閑話その2-3 ~不思議な出会い~
今回で、ひとまずシェイラ視点は終わりです。
どうして、何故、陛下がこんなところに……!
混乱だけが、シェイラの頭を支配する。夜会の主催者でもある国王がこんな隅の方にいるなど、前代未聞。いくらシェイラでも、それくらいは分かる。
『大丈夫か?』
『……え、』
『大丈夫なのか? 『紅薔薇』に一体、何をされた!?』
何やら国王は焦っているようだが、肝心のシェイラは、質問の意図どころか意味すら掴めていない。『紅薔薇』に何をも、ただ普通に挨拶しただけだ。
そしてそれ以前の問題として、国中の貴族が集まる夜会の場でシェイラごときが国王と会話などしては、大変なことになる。ここはシェイラの部屋のような、閉鎖空間とは訳が違うのだ。
実際、周囲の者たちは目を丸くしている。まさか陛下がこんなところに、とでも思っているのだろう。正直シェイラも同じ気持ちだ。
……しかし。なかなか答えを貰えない国王は、頭がどうかしたかとしか思えない行為に出た。
『……シェイラ』
名を呼び、そっとその手を取ったのだ。
ざわり。周囲がどよめいた。
『『紅薔薇』に遠慮など、する必要はない。何か……あったのだろう? 話せ』
切々と、そのままの体勢で、国王は話し掛けてくる。あまりのことに、シェイラの気は遠くなった。
……何を、お考えなの、この方は。
大勢の貴族が集うこのような場で、国王が末端の側室を気にかければどうなるか。聡明な彼が分からぬはずはない。後宮の秩序を乱さぬため、密かに自分の部屋を訪れていた思慮深い彼は、一体どこへ消えたのか。
何かシェイラには思いもつかぬ、深い考えがあるのだろうか。いや、それにしたってあんまりだ。これでは、明日からの後宮で、自分の居る場所が無くなってしまうではないか。
冗談でも何でもなく、真面目に気絶しかけたシェイラを救ったのは、広間の中央で起こった大騒ぎだった。
突然、舞踊の途中だというのに音楽が途切れ、静寂が広間を支配する。数拍後、打って変わって騒がしくなった。広間の中央で何か起きたらしいが、シェイラの場所からは距離と人垣が邪魔をしてよく分からない。
ただ、その騒ぎのおかげで国王の注意が逸れ、その隙に取られていた手を取り戻すことができた。
『シェイラ?』
『お止めくださいませ』
鋭く、しかし小声で、シェイラは言った。
『お戯れが過ぎますわ』
『しかし『紅薔薇』が、』
『『紅薔薇様』とは、ご挨拶させて頂いただけです。それに、そこまで酷いお方とも思えません』
『馬鹿を言うな! 騙されているのだ、そなたは。クレスターには、決して、気を許すな』
『……私に優しくしてくださった方を疑えと、おっしゃるのですね』
シェイラの瞳に、涙が浮かんだ。
――もう、沢山だ。己の見たものを疑え、与えられた優しさすらも偽物だというのなら、一体この世界で、シェイラは何を信じれば良いのか。
何も、分からない。国王の気持ちも考えも、――自分自身の、心すら。
くるりと身体を回転させ、国王に背を向けて。
シェイラはその場を、立ち去った。
広間を出て、闇雲に歩いて走って、たどり着いたのはどこかの廊下の隅。小さな花瓶、古びたソファが一つあるだけの、人々から忘れ去られたような場所だ。
――ここならば、誰も来ない。
シェイラの膝から、身体中から、力が抜けた。混乱した感情が臨界点を突破し、涙が次々と溢れ出してくる。止める気もなく、ただただ気持ちの赴くまま、彼女は泣いた。
『……どう、なさったの?』
そんな彼女の涙を止めたのは、すぐ近くから聞こえてきた、たおやかで優しげな女性の声。戸惑い気味に、彼女は続ける。
『ごめんなさい。通りかかったら泣き声が聞こえたものだから。黙って立ち去るべきかしらとも思ったのだけど、あまりにもお辛そうで……どうしても気になって』
『いえ……、申し訳ありません。お見苦しいところを』
『貴女が謝られることなどないわ。何か、辛いことがあったのでしょう?』
労るような、穏やかで控え目で、それでいて温かな声だ。涙を拭きながら、シェイラは答える。
『辛いこと……辛いこと、なのでしょうか…』
『良かったら、話してみない? 貴女のお姿も、どこのどなたかも、私は知りませんから。吐き出すことができれば、少しは楽にならないかしら』
『……楽、に…』
こちらを気遣い、姿すら見せず、声の彼女は話してくれる。けれどシェイラは分からなかった。話すだけで、一体何が変わるのか。
……けれど、話してみたい。そう思った瞬間、『声』は言った。
『――ごめんなさいね。お節介だったみたい』
『いえ! いいえ、違うのです!』
慌てて立ち上がり、曲がり角の向こうを見る。見知らぬ人に向かって、シェイラは語りかけた。
『申し訳ありません。貴女様のお気持ちが迷惑だとか、そういうことではないのです。ただ、ただ、いつ、楽になれるのか、まるで分からなくて……!』
『……とても重たい問題を、抱えていらっしゃるのね』
『分からないのです。あの方のお心も、自分の気持ちすら、分からないことばかり』
『落ち着きなさいな。一つずつ、ゆっくり話していきましょう? 座れる場所があるなら、お座りになって。貴女も夜会に招かれた貴族なら、立ちっぱなしは辛いでしょう?』
『座れる場所……ソファがあります。ですがあの、貴女様は……』
『私は大丈夫。おまけであの場にいたようなものだし、そこまで疲れてもいないから。貴女の方が心配だわ』
彼女の声には、真摯な響きがあった。導かれるようにソファに座り、シェイラは姿なき『声』の彼女と語り合った。
『声』の主は、『ディー』と名乗った。恐らくは愛称名だろう。そんな短い名前があるはずがない。
驚いたことには、彼女も側室の一人――末端の貴族の家から来た、令嬢なのだという。しかし、今の後宮の在り方を嘆き、平和に暮らすことを望んでいた。それはまさに、シェイラの気持ちと同じ。
シェイラは一気に、ディーに心惹かれていく自分を自覚した。たおやかな声、穏やかな口調もさることながら、言葉の一つ一つに誠実な人柄が垣間見える。シェイラを気遣い、冗談を口にして和ませたりと、本当の意味で他人を思いやれるひと。声しか聞いていないが、このひとは心から信頼できると、シェイラは直感できたのだ。
――だから、話した。シェイラの抱える秘密、『陛下がずっと、自分の部屋に通っていらしている』ということを。
驚いて息を呑んだディーは、それでも冷静に、問い返してくれた。
『それは、あの、いつから……』
『『紅薔薇様』がいらした日の、翌日からです。陛下は『紅薔薇様』との噂を隠れ蓑に、密かに私の部屋へと……もう、私、『紅薔薇様』に申し訳なくて』
『……ですが、シェイラ様。まだ『紅薔薇様』が陛下のことを好きだと決まったわけではありませんし』
『たとえ『紅薔薇様』が陛下のことをお好きでなかったとしても、陛下は…』
『いえ、ですから陛下は、シェイラ様のもとに通っていらっしゃったのでしょう?』
『私、陛下のただの気まぐれだと思っていました。いいえ、今でも思っています。だって、あれほどのお方がいらっしゃるのに、それでも私を選ぶなど有り得ませんもの』
力強く断言すると、ディーは沈黙した。僅かの拍数の後、彼女は答える。
『人の好みは、人それぞれと言いますよ?』
『それは、そうかもしれませんが……。しかしそれでも、私、分からないのです。陛下が何を考えていらっしゃるのか』
『陛下の、お考え?』
『思慮深く、お優しい方なのだろうと思います。陛下は、私が怯えているのを見て、服の紐を解かれなかった。『シェイラがそういう気持ちになるまで待つ』とおっしゃったのです』
『……まぁ』
ディーの声は、何故だか純粋に驚いているように聞こえた。
『側室の務めを果たすわけでもないのに、陛下は毎日のようにおいでになって……お優しくて。ただの気まぐれだとは、分かっていましたが』
『そう……だったのですか』
『陛下の存在は、嫌でも大きくなりましたわ。毎日おいでになれば、気まぐれだと分かってはいても、大きくならざるを得ません』
『……確かに、そうですね』
ディーの声は優しく、ゆったりと先を促しながら、どこか困惑しているようにも感じられた。
『もう、陛下の考えていらっしゃることが分からないのです。何故、あのような目立つ場で、私に話し掛けたりなさったのでしょう? 『クレスターには気を許すな』などと……。陛下が『紅薔薇様』を想っていらっしゃるのは当然でしょうが……私のことは単なる気まぐれ、一時の暇潰しだと? だから私が『紅薔薇様』とお話するのがお気に障ったのかと、そう考えると…』
『シェイラ様、それは考え過ぎではありませんか?』
『そうでしょうか……? では何故、陛下はあのようなことを……。『紅薔薇様』に気を許すなとは、どういった意味で』
『それは……』
『『紅薔薇様』にも申し訳なくて……。陛下のお気持ちも、私自身の気持ちも、もう何も分からないのです』
後宮の片隅で与えられた優しさが、嬉しかった。優しさをくれたのは、本来ならば、手など届くはずもないひと。
気まぐれだと、思って。頑なに彼を拒んできた。
それでも、拒みながらも、彼女の中で彼は少しずつ大きくなって――。
彼との距離が、与えられた言葉が心を揺らすほどには、彼はシェイラの内に『存在』していた。
そんな国王と同じ高さにいる『紅薔薇』から貰った気遣いは、シェイラにとって、国王から貰ったものと同じだった。手の届くはずのないひとから貰った、人として同じ『想い』。
けれどそれを、同じ高さにいるはずの国王が否定した。それは、彼が自分で、彼の『想い』を否定したに等しい行為。身分高い者は所詮、末端の者など、騙す以外で気遣うことなどないのだと。
シェイラの内に混沌と渦巻いた感情を紐解けば、概ねこんな風になるのだろう。しかし今の彼女は混乱していて、ここまで冷静に考えられない。それを見越したのだろうか――ディーが優しく、言ってきた。
『シェイラ様。そのようにお疲れでは、良い考えも浮かびようがありませんわ。ここはひとまず考えるのをやめにしてお休みになって、落ち着かれてからもう一度、お考えになってはいかがかしら』
『落ち着いてから……?』
『はい。私も後宮に住まう身。ご相談になら、いつでも乗れますし。……ただ、』
ふっ、と、ディーの声が低くなった。
『姿をお見せすることは、できないのですが』
『え、何故……?』
『だって……私の姿を見られたら、絶対にシェイラ様、私をお嫌いになられますもの』
『まぁ、そんなことは』
『……私自身は、自分の姿が嫌いではありません。ですが他の人は、私の容姿を恐ろしく思われるようなのです』
呟いたディーの声には、悲壮な響きがあった。冗談でも何でもなく、ディーは真面目に言っているらしい。
正直ディーがどんな姿をしていても、怖がるどころか抱き着く自信がシェイラにはある。しかし、ディーが嫌がることを無理にすれば、彼女はシェイラから離れていってしまうかもしれない。……それは、嫌だ。
『分かりました。お姿は見ません。けれど、また私と、お話してくださいますか?』
『……えぇ。それは、もちろん!』
この廊下で交わした約束を、シェイラはもちろんディーも、忘れはしなかった。
夜会の日が開けてから、シェイラが後宮内の人気がない場所に行くと、かなりの割合でディーがやって来た。
夜会の日から、国王がシェイラの部屋にやって来ることはなくなり、やはり国王の一時の気まぐれだ、あんなに優しくしないで欲しかったと半ば嘆き、半ば愚痴るシェイラを、ディーは励まし、慰め、陛下の気持ちは陛下に確かめるのが一番だと助言してくれた。国王といえど一人の人間、下手に素晴らしい方扱いしない方が陛下のためではないのかという意見には、目から鱗が落ちた気すらした。考えてみればシェイラはこれまで、国王を至上の方と思い、固くなっていた傾向にある。しかし彼は、年相応の青年らしい仕草も見せてくれていたではないか。彼は国王であると同時に、一人の人間なのだ。
そんな風に気付けた、ある日の夜。
いつものように侍女が下がり、一人になった部屋に、ノックの音が響いた。そっと扉を開ければそこには、どこかむっつりとした顔の国王がいる。
「陛、下……?」
「……入っても、良いか?」
「……はい、どうぞ」
部屋に招き入れ、扉を閉める。椅子を勧めたが、彼は座らず、シェイラにちらちらと視線をやり、そして。
「――悪かった」
がばりと勢いよく、頭を下げた。
国王が臣民に頭を下げるなど、聞いたことがない。驚いたシェイラが息を呑むと、彼はそのままの勢いで続けた。
「何のためにお前のもとにひっそり通っていたのか、あの時はすっかり忘れていたんだ。貴族たちが集まり、側室も大勢いるあんな場で、俺がお前に話しかけたらどうなるか……そんなこと、考えすらしなかった」
「陛下……」
「ただお前が『紅薔薇』に何をされたのか、それしか考えられなかった。お前が心配で、仕方なかったんだ」
必死で訴えてくる彼は、これまでの物静かで穏やかな彼とは、まるで違っていた。シェイラに嫌われたくなくて、怒りを解いて欲しくて必死で、それしか見えていない。まるで子どものように、純粋で素直だ。
……これが、本当の陛下なのかしら。子どものような、この方が?
不思議な感覚が、込み上げてくる。ディーは正しかった。国王といえどただの人、その気持ちの有り様は、彼だけが定められる。シェイラが悩むなど、悩むだけ時間の無駄だったのだ。
「……分かりましたわ、陛下」
「! 許して、くれるのか!?」
「そこまで謝られては、許さないわけには参りません。……ですが、陛下。一つだけ申し上げたいのですが」
シェイラはまっすぐに、国王を見た。
「『紅薔薇様』は、やはり、悪い方とは思えないのです。私に向けて下さったお心は真のものだと、私は思いたいのですわ」
それだけは、シェイラの中で揺るがぬこと。世間の噂には惑わされず、己の見たもの、感じたものを、最後まで信じ抜く。それが、シェイラ・カレルドという娘だった。
「……そうか。そうだな。お前がそう言うなら、きっとそうなのだろう」
「――陛下。それはいけません」
相手を人だと思えば、意見もできる。シェイラは彼を――ジュークを、見た。
「私を信じてくださるのは、嬉しいですわ。しかし、私が信じているからといって、安易に陛下まで信じ込むのは危険です。陛下は陛下ご自身の目でご覧になり、お決めにならなければ」
「……そなたは、私が何も見ていない、と?」
口調が『国王』のものになるが、もうシェイラは怯まなかった。
「では、陛下はご覧になりました? 『紅薔薇様』ご自身を」
「当たり前だ!」
「噂に惑わされず、ですか?」
鋭く切り込むと、ジュークは沈黙した。こういうところは、本当に素直だ。
「私は、噂で人を判断するのは嫌いです。我が家の興りは貿易商。父の代までは、貴族位にはありましたが、実際に事業も行っていましたわ。そのせいか心ない人々から、金で爵位を買った成り上がりや、商売ばかりで家族を顧みないなどの噂を、立てられていたのです。けれど、私の父は忙しい人ではありましたが、私に沢山の愛を注いでくれました。噂など、人の気持ち一つで、いくらでも真実からは遠ざかるものなのです」
「……お前は、正反対のことを言う。自分の想いを否定するなと言い、自分を信じず俺自身が判断しろと。ならば俺は、どうすれば良い」
彼の表情はまるで、途方に暮れた子どものそれだ。シェイラは思わず、くすくす笑った。
「陛下。反対のことなど、申し上げておりませんわ。私はただ、私の感じたことを、否定しないで頂きたいだけです。私が正しいか間違っているかは、陛下がご自身でご覧になり、ご判断くださいと申し上げているのですわ」
「……その結果、やはり間違っていると感じたら?」
「そのときはお互いに、納得いくまで話し合いましょう」
ふわりと微笑んだシェイラは、花のように愛らしかった。ジュークもシェイラに釣られて笑い、ふと、何かを考える。
「……そうか。そうだな」
「はい、陛下。ところで、そろそろお座りになりませんか?」
「ん? あぁ、そうだった」
二人分の笑い声が、狭い室内に響く。
――穏やかな夜が、更けていった。
そして、翌日。
「あら。そちらにいらっしゃるのは、シェイラ・カレルド様ではないかしら?」
口調だけは丁寧で、その実高いところからこちらを見下した高飛車な声が、シェイラを捕らえる。
ディーに会いに行こうと後宮内を歩いていたシェイラは、『牡丹派』の頂点に君臨する令嬢、リリアーヌ・ランドローズに呼び止められた――。




