思わぬ真意
どうにかこうにか間に合った!
誤字脱字チェックは、もう潔く諦めております……読者様だけが頼りです。
カイによって強制的に寝かしつけられ(思い返して気付いたが、アレはおそらく、一種の催眠術に近かった)、目が覚めたら昼前だった。こんなに寝てしまったら夜に眠れなくなるのではとどうでも良いことを真っ先に心配した辺り、気持ちはかなり上向いている。
寝台から降りて最低限の身支度を整えているところに、「失礼致します」と私室側から声が掛けられた。
「リタ?」
「はい、ディアナ様。入ってもよろしいですか?」
「えぇ、大丈夫」
許可を得て、リタが入室してくる。鏡台の前にいたディアナを一目見て、リタは安堵の息を落とした。
「お顔の色がよろしいようで、安心致しました。カイに感謝せねばなりませんね」
「そうね。やや強引ではあったけれど」
「それくらいでちょうど良いですよ。お気付きでないかもしれませんが、ここ最近のディアナ様、随分と眠りが浅かったですから」
「そうかしら? 眠る時間も起きる時間も、特に変えてはいないつもりだけど」
「ぐっすりと、安心して、熟睡できてはいなかったのでしょう。ディアナ様、それほど寝起きが悪い方ではいらっしゃらないのに、朝はいつも起き辛そうでした。夕飯前は眠そうで、それなのに寝台に入ってからは、なかなか寝付けずにいらしたようですし。これらは全て、不眠の初期症状だと記憶していますが?」
「……確かに」
第三者の目で最近の自分の様子を教えられると、眠りによってきちんと休息できていない――いわゆる不眠症状が出ているとよく分かる。〝眠れない〟という分かりやすい状態だけが不眠ではないのだ。
「ディアナ様のご状況を思えば、眠りが浅いのも無理はないことですが……疲労が蓄積し続けるのも、良くありませんから。数時間の仮眠とはいえ熟睡されていたようですので、かなりすっきりされたのではありませんか?」
「えぇ。頭もだけれど、気分もね。すごく落ち着いたと思う」
「よろしゅうございました。――それでは、時間ですのでご準備を」
真面目な顔をしたリタに、こちらも表情を改めて頷く。
リタが奥の衣装部屋から茶会用の準正装一式を出してきてくれる間に、ディアナは今着ている衣装を脱いだ。……室内用の普段着とはいえ、よくもまぁこの格好で熟睡できたものだ。
着付けをしつつ、有能な侍女はサクサクと状況を説明してくれた。
「今日の面会についてですが、私どもで諸々考えまして、『紅薔薇の間』にて行うのが一番〝マシ〟なのではないかという結論に達したのですが……」
「『紅薔薇の間』……って、ここで?」
「もちろん、ディアナ様のプライベートには、一切立ち入らせませんよ。ただまぁ、ディアナ様、普段から主室は公的な場と割り切って、仕事用に使っていらっしゃいますし」
「それはそうよ。そもそも『紅薔薇の間』の主室って、正妃様が正妃の仕事を行うための場所でしょう? 部屋の造りも、置いてある家具類も、明らかにそのための仕様だし」
正妃には、王の妻であるという王家の〝私〟の側面と、為政者である王を家政の面から補佐するという〝公〟の側面がある。がしかし、自室と仕事用の部屋が完全に分かれている国王と違い、正妃に執務室はない。では、正妃はどこで公的な仕事をしているのか――答えは簡単、普段ディアナが使っている、この『紅薔薇の間』なのである。
初めて『紅薔薇の間』に通され、自らに『紅薔薇』の呼び名が与えられたと聞かされた際、ディアナが「良いのかしらコレで?」と真っ先に思ったのも、至極当然の話であるわけで。前任者がリファーニアである以上、国家機密の類が残っていないことは確実ではあるけれど、それでも実質的に正妃の執務室とも取れる部屋に〝側室〟を入れるなど、いくら何でも危険が過ぎる。ディアナを『紅薔薇』とするのにヴォルツが一枚噛んでいたと分かって、ようやく少し安心できたくらいだ。本来なら、いくら無位の側室とするには問題のある令嬢が側室に上がることになったからといって、「部屋がそこしか余ってないから」なんてふざけた理由で使われて良い部屋ではないのだ――『紅薔薇の間』は。
「これまでは、疚しいことがないと広く示す意味も込め、敢えてサロンを使っていらっしゃいましたけれど。ディアナ様のお立場であれば、あくまで建前は少人数の茶会なのですから、『紅薔薇の間』を使用しても問題はないはずです」
「えぇ、そうね」
「今日の茶会でディアナ様が深いところまで探るには、耳目は却って妨げになるでしょう。スタンザの皇子も、人目につく場所で内密な話をするほど愚かではないはず。ディアナ様の領域に招かれたとなれば、気が緩んで口が軽くなる効果も期待できます」
「……逆に警戒される可能性もあると思うけれど」
敵陣のど真ん中である。ディアナが皇子の立場なら、即座に警戒段階を上げるだろう。
ディアナの懸念を、着付け中のリタは鏡越しに首を左右に振って否定した。
「皇子がディアナ様を信用していない場合ならそうでしょうけれど、これまでの態度を見る限り、彼はディアナ様に対し、一定以上の親密さを覚えているように見受けられました。その状態で部屋へと招かれても、警戒して口が固くなることはないでしょう」
「……親密さを覚えてもらえるようなこと、した覚えはないけどね。けどまぁ、リタの言っていることも分かるわ」
「ご理解頂けて良うございました。――とはいえ、ここまでの話はあくまでも前置きでして……私どもが『紅薔薇の間』を使用したい一番の理由は、この部屋の中でならある程度の越権行為をしても誤魔化せますから、より確実にディアナ様をお守りできるという、この一点に尽きるわけですが」
「……リタ」
「無茶をするなというご命令は、承れません。ディアナ様が危険を承知で、それでもご自分を曲げられないのであれば、我々もそんなディアナ様をお守りできるよう、最善を尽くさねばなりませんから」
外から丸見えのサロンでは、たとえディアナにどんな危機が迫ったとしても、控えている侍女たちは侍女の範疇を越えて動けない。侍女の瑕疵は主人の瑕疵であり、その越権行為が咎められては、却ってディアナの立場を悪くしかねないからだ。
しかし、完全なる密室であり、周囲の人目を気にしなくて良い『紅薔薇の間』であれば、そんな躊躇も必要ない。口出しだろうが手出しだろうが、ディアナを守るため、如何様にも動けると――。
「……そんな話を聞いてしまったら、わたくしとしてはサロンへ行くべきじゃないかと思ってしまうけれど」
「残念ながらこの提案は既にマグノム夫人へお話しして、了承を取り付けてあります。反対なさるのであれば、まずはマグノム夫人の説得から始めねばなりませんよ」
「それ……提案という名の、実質決定事項よね?」
「さすがはディアナ様。――というわけですので、さっさと準備を終えてしまいましょう。着付けが終わりましたら、アイナとロザリーに交代してお化粧と髪型、装飾品の類を揃えて貰わねばなりません。あまりのんびりもしていられませんよ」
「起こす時間も含めて、全部計算済みということね」
「ディアナ様の我儘に対抗するためには、私どもとて手段を選んではいられませんから」
ディアナがマグノム夫人と交渉して茶会の場所を変える時間を取らせないように、是が非でも『紅薔薇の間』を今日の舞台とするように、有能なる彼女たちは実に的確に動いたようだ。……この抜け目のなさは、もしかしたら、某隠密も一枚噛んでいるかもしれない。
全員でタッグを組んで挑まれたら、さすがのディアナも太刀打ちできない。……皆に無茶をさせないためには、ディアナ自身も極力、危険からは遠ざかる方向で皇子と対峙するしかないだろう。エクシーガ皇子はそれほど剣の腕が立つわけではないらしいし、そもそも客人の武器の持ち込みは厳禁なので、以前あったようないきなり剣を突きつけられるといった危機に陥る可能性は低いが。
着付けを終え、一歩下がったリタに、こちらもくるりと振り返って――ディアナは、柔らかく微笑んだ。
「ありがとう、リタ」
「……ディアナ様」
「皆の気持ちは、本当に嬉しく思ってる。……そして、その気持ちに応えられないことを、苦しくも思ってるわ」
「……それが、ディアナ様ですから。仕方ありません」
「えぇ。――でも」
心配してくれる大切な人たちの心に沿えない、心苦しさ。
原因不明ながら、自身の心中に渦巻く不安。
……逃れたいと思ってしまう、内なる弱さ。
それら全部をもう、否定したりはしない。それを抱いている自分を、間違ってるなんて思わない。
全部抱えて、受け入れて。――だから見えるものがある。
「応えることはできないけれど、受け入れられないわけじゃないわ。皇子の真意を探りながら、わたくしはわたくし自身を守れるよう、最善を尽くします。間違っても、わたくしを犠牲に皇子と取り引きするような真似はしないと、約束する」
「……本当ですね?」
「えぇ」
自分を守りたいと思ってしまうのは、たぶん、悪いことではないのだ。なのに否定して、間違っていると自分自身を責めるから、余計に守ろうとしてくれる皆の心を受け入れられなくなり、苦しくなってしまう。……こんな自分に守られる価値なんてないのにと。
保身ばかりを考えて、苦しんでいる誰かを見捨てるようになってしまったら――そのときは自責しなければならないだろうけれど、そんな自分になってしまうことを密かに怯えてもいたけれど、「大丈夫」だと彼が断言してくれたから。
今のディアナは、誰かが自分を守りたいと思ってくれていることに、もう後ろめたさはない。その気持ちごと全部受け入れて、自分自身を守る強さにできる。
ディアナの内なる確信を、リタも感じ取ったのだろう。優しく笑って、頷いた。
「信じましょう。……良かったです、本当に」
「心配かけてごめんね、リタ」
「いつものことですよ。物分かりが良過ぎるディアナ様も、それはそれで心配ですから。下手に隠して無茶をされるより、こうして堂々と我儘を言って頂いた方が、まだ安心できます」
誰より信頼する侍女であり、甘えられる姉でもあるリタと、ディアナは穏やかに笑い合うのだった。
***************
いつものように側近一人だけを連れて後宮を訪れた皇子は、いつもとは違い『紅薔薇の間』へと通されたことに、ほんの少しの警戒と圧倒的な喜びを感じているようだった。彼のスタンザ式美辞麗句はいつものことだが、その華々しさがいつもより二割くらい大袈裟に聞こえる。……背後に控える側近、サンバは、さすがに少し表情が固いようだが。
「こうして姫のお部屋へご招待頂けたこと、身に余る光栄です」
「喜んで頂けて何よりですわ」
「噂で聞いていた以上に、部屋の装飾も家具も、全てが素晴らしい。姫のお人柄がよく表れております」
「とんでもない。この『紅薔薇の間』は、歴代の正妃様が使われてきたお部屋です。側室に過ぎないわたくしが手を加えるなど、許されることではありませんわ。室内の家具も、装飾も、わたくしが持ち込んだものは何一つございません」
「……そうなのですか?」
「無論です。『紅薔薇の間』が素晴らしいのは、歴代の正妃様のお心映えと、何よりわたくしに仕えてくれている女官、侍女皆の力あってこそ。わたくしの人柄は、特に関係ないでしょう」
できるだけ淡々と、皇子の社交辞令を躱す。中身のない会話を続けながら、注意深く、皇子の言葉と様子を観察して、その真意を掴むとっかかりを探した。
(いけしゃあしゃあと『人質寄越せ』なんて言ってきた割には、態度が気さく過ぎるのよね……。普通、そんなことを言い出したら相手が激怒するだろうことは分かるはずだし、もう少しこちらの機嫌を窺う素振りがあっても良さそうなものだけれど)
この皇子は馬鹿ではない。ディアナが外宮の情報をほぼタイムラグなく入手できていることも、王とともにスタンザ対策に当たっていることも、確信レベルで分かっているはずだ。ならば、スタンザが人質を、よりにもよって後宮内の誰かをターゲットに要求している現状は、ディアナの怒りを買いまくっていると容易に想像できるはずなのに。
「……誠に、姫は謙虚でいらっしゃる。では、お部屋を姫のお好みに模様替えなさるのは、正妃となられるまで辛抱なさるおつもりなのですね」
「いえ……今のままでも、特に差し障りがあるわけではありませんので。もともと、模様替えしたいとも考えておりませんでした」
「何故です? 生涯を過ごす場所ならば、お好きなように整えられれば良いでしょう」
「わたくし、それほど暮らす場所にこだわりがあるわけでは……」
「それとも――エルグランド王は、あなたを正妃にと選んでおきながら、その居室に手を加えられることを許さないのですか?」
……皇子の口調が、空気が、微妙に変わった。ディアナだけでなく、室内にいた全員がそれを感じ取ったらしい。今日は『紅薔薇の間』の全員に加え、密室という状況を悪し様に噂される事態を防ぐため、マグノム夫人とクリスも同席してくれている。その全員が気を引き締めたことで、室内に強く、深い緊張感が漲った。
ディアナも気付かれない程度に背筋を伸ばし、表情だけは微笑を浮かべ、首を傾げて問い返す。
「ご質問の意味が、よく分かりませんわ。陛下は、わたくしが『紅薔薇の間』の模様替えをしたいとお願いすれば、きっと快くお認めくださるでしょう」
「本当に?」
「えぇ。陛下は、そのような狭量なお方では――」
「狭量ではなくとも、薄情ではあるでしょう」
思ってもみない言葉に、演技でなくディアナの眉根が寄る。国民一人一人にあれほど深い情を注ぐジュークのどこが、薄情だというのか。エルグランド王家ほど、薄情という言葉が似つかわしくない一族もそう居ないというのに。
「随分なことを仰いますね。ジューク陛下は情け深く、民への思いやり厚く、我々側室にも細やかなお気遣いをくださるお方です。陛下のどこをどう見て、薄情などと思われたのですか」
「……あなたは心から、王を信頼なさっているようだ」
「当然です」
「その信頼が、あなたの目を曇らせているのか。……いいや、違うな。気付いていて、敢えて気付いていない振りをしているのでしょう」
「……何のことです?」
「聡明なあなたが、気付かぬはずもない。ほんの一瞬、垣間見ただけの私ですら気付いたのだから」
皇子の気配が、どんどん、どんどんと、熱を帯びた得体の知れないものへと変わっていく。
一昨日、彼の去り際に感じた恐怖が蘇る中、ディアナはそれを、意志の力で押さえ込んだ。
表面は完璧に冷静を装うディアナに焦れたのか、ついに皇子はソファーから立ち上がって。
「あなたは、分かってるはずだ。エルグランド王が真に愛しているのは、あなたではないと!!」
とてつもなく真剣な表情で、全身全霊で憤りながら、言い放った。
ディアナにとっては一年以上前からよーく知っている事実なので、「それが何か?」と返したいのは山々なのだが、くどいようだが今はまだ時期ではない。現在のエルグランド王国において保守派と革新派の仲が非常に悪いことは、スタンザ帝国にも普通に知られているわけで。そんな中、王が実は新興男爵家(但し潰れかけ)の娘に惚れて、彼女を正妃にしたいと希望していることは、国内貴族にはもちろんのこと、国外にだって知られるわけにはいかないのだ。そんなことがちらりとでも漏れようものなら、諜報戦を仕掛けられて内戦ルート一直線である。ジュークが外宮で、シェイラが後宮で、ある程度の足場を固めるまでは、この事実は秘めておかねばならない。
――クスリと笑って、ディアナは立ち上がった皇子を見上げた。
「何を仰るかと思えば……陛下がわたくしを愛さず、どなたを愛すると?」
「もう誤魔化すのはやめましょう。私などが言うまでもなく、あなたは知っているはずなのだから。王が真に愛しているのは、あの娘――シェイラ・カレルドと呼ばれていた、あの側室だと」
「まさか」
ディアナはこれで、嘘をつくのが上手くない。何を言っても信じてもらえないのが日常茶飯事なので、もうそういうものなのだと諦めて、自分の言を信じてもらうスキルをそもそも磨いてこなかった。こんなところで苦手な社交から逃げていたツケが回ってくるなんて、人生とはなかなかに厳しい。
それでも、こうなった以上はやらなければ――。
「殿下はまさか、陛下がシェイラ様と二人きりでお話しされていたことを指して、そのように仰っているのですか? そうだとしたらわたくしは今後、陛下がお言葉を掛ける側室方全員と陛下の仲を疑わねばならなくなります」
「いくら何でも、そのような短絡的思考はしておりませんよ。後宮とは側室方の住まいなのですから、王が彼女たちと語らう機会など、いくらでもあるでしょう」
「えぇ。ですから、先日のような光景も、特に珍しいものではありません」
「光景だけなら、そうでしょうね。しかし――王があのような瞳で見つめるのは、あの娘だけのはずだ」
確信に満ちた口調で、身を乗り出して詰め寄られる。ディアナはそんな彼を、微動だにせず見つめ返した。
「あのような瞳、とは?」
「男が愛する女を見つめるとき特有の、熱の籠もった恋情の瞳です。エルグランド王があの側室を見つめていたとき、確かにその瞳には熱があった。……あなたを見つめるときには、なかった熱が」
「……殿下の思い違いでは?」
「あり得ません。思い違いではないと、あなたも分かっている」
ついに嘘が思い浮かばなくなったディアナの前で、皇子は蕩々と語る。
「あなたはお優しく、そして王に深い愛情を抱いておられる。だからこそ、王が他の側室を愛そうとも、じっと耐えて正妃の務めを果たされるおつもりなのでしょう。愛する王の幸福を願って……しかしそれでは、あなた自身の幸福はどうなる?」
(あ、そっちに解釈されたのか)
以前にも、似たような勘違いをされた。そのときはソフィアに……というより、彼女の侍女であったベルに。
あのときも、外から見たディアナはそんなにもジュークを健気に愛しているように見えるのかと不思議だったが、当時はジュークとの仲が劇的に改善した直後であり、ディアナの心情にも幾ばくか変化が生まれていたこともあり、「言われてみればそうも見えるか」と納得できたのだ。何も知らない人が外から見れば、まぁ恋心と解釈できなくもないだろうと。
しかし今回、覚えている限り、ディアナは別にスタンザ皇子の目前でジュークと特別に仲睦まじく振る舞った覚えはない。普通に信頼の視線は向けていたし、仲良くはしていたけれど、それだって友愛の範囲内だ。ジュークにはシェイラという本命がいるのに、彼女を差し置いて必要以上にいちゃつく趣味は、ディアナにはない。
それでどうして、ここまで好意的な明後日解釈をされるのか。ディアナは自分がそれほど自己犠牲精神旺盛な献身愛に満ちた人間だとは思っていないので、この勘違いははっきり言って居心地が悪い。
――いずれにせよ、皇子にジュークの真意が漏れていないのは幸いだった。ジュークはディアナを正妃に擁立するつもりだと皇子が思い込んでいるのなら、いくらでも誤魔化しようはある。
「わたくしの幸福の件ならば、ご心配には及びません。わたくしは、好きでこの座に就いているのです。充分、幸せですわ」
「……えぇ、そうなのでしょう。あなたは心清らかで、自分のことより他人の幸福を喜ぶ、慈愛に満ちた魂をお持ちだ。王の幸福を我がことのように喜び、幸せを感じていらっしゃる」
「そのようなできた人間ではありませんが、今が幸福なのは確かですね」
「ですが――今は良くとも、この先は?」
皇子の瞳は強く、鋭かった。熱の籠もったその眼差しに、ディアナはどんどん落ち着かなくなり、不安が、嫌な予感が膨らんでいく。
「愛する王が別の娘と結ばれ、幸福な生涯を過ごす傍らで、あなたは正妃の義務だけを果たし続けるおつもりか。王と娘の幸福を誰よりも傍で支え、守って……ご自分は愛されることのないまま、国母の栄誉を娘に譲って」
「……王は、わたくしのこともきちんと愛してくださっています」
「そうですね。人として、有能な正妃としては、この上なく愛し、重宝しておいでのようだ」
遂に皇子は歩き出し、机を回ってディアナに近づいてこようとする。リタたちが即座に動き、ディアナの座るソファーを囲む配置で守備陣形を取った。
ディアナもゆっくりと立ち上がり、皆に阻まれて机の角で止まった皇子と向き合う。
「わたくしが陛下を愛し、陛下もわたくしを愛してくださっている。何が問題なのでしょう?」
「――あなたは、この先一生、女として愛される喜びを知らないまま、生きていかれるおつもりなのか?」
「わたくしが誰からどのように愛されようと、殿下には関わりないことでは?」
皇子の表情が、どこか悔しげに歪む。
彼の瞳に焦燥が浮かび、その口が開かれる瞬間、本能が囁いた。
聞くな。――聞いてはいけない、と。
《大いに関わりあることだ。私なら……あなたを女性として愛する私なら、あなたに女として愛される喜びを、その素晴らしさを、教えて差し上げることができる》
彼が発したのは、スタンザ語。さすがに、エルグランド語で室内の全員に聞かせることは憚られたのだろうか。
……しかしながら、いくら言語だけ変えても、驚きのあまり言葉を忘れたディアナと、同じく背後で言葉を失いつつも完璧に殺気立ったリタを見れば、彼が何を言ったかくらい、有能な王宮侍女たちとミア、マグノム夫人、クリスにはお見通しだろう。
「な、にを……」
しばらくの間、息をすることも忘れて。頭が真っ白になる中、どうにか散らばる言葉をかき集める。口に出してから、そうだ、スタンザ語で答えなければと、微かな理性が知らせてくれた。
《何を、仰るのです。わたくしは、エルグランド王の側室筆頭ですよ》
《しかし、まだ正妃ではない》
《同じこと、です。陛下以外の方に思いを寄せられたところで……わたくしに、応える術はありません》
《これは、異なことを仰る。エルグランド王家にとって側室とは、正式な王族には数えられない存在のはず。神の前で誓いを立てることもなければ、妻として王族簿に名前が載ることもない……にも拘らず、あなたは王へ貞操を誓うと?》
《それは……》
《正妃であれば、それも致し方ないことでしょう。貞節を誓った王が他の女を愛し、側室として傍に置いたところで、それを止める術もない。王が他を愛したのだから自分もと、別の男に走ることも許されない……しかし、あなたは次期正妃ではあるかもしれないが、今はまだ側室。今ならまだ、間に合うのですよ》
必死に言葉を紡ぐ度、胸の奥の奥底で、何かが音を立てて壊れていく。確かに自分の意思で紡いでいる言葉のはずなのに、口に出した言葉に深く傷付く自分がいる。何を言っても虚しくて、足元から抜け落ちてしまいそうな……現実なのに、目の前の景色はひどく遠い。
散らばる言葉をかき集め、なけなしの理性でエルグランド語からスタンザ語へと訳して、話して。疎かになった自制心の隙をついて、厳重に封じていたはずの〝何か〟が飛び出そうとするのを、決死の覚悟で縛り上げた。
(だめ。――駄目)
解き放ってしまったら……気付いてしまったらもう、気付かなかった頃には戻れない。
封じている〝何か〟は危険だ。絶対に、捕まってはならないものだ。
――深く息を吸って、吐いて。荒れる心中を宥め、ディアナは目の前の男を睨み付けた。
《何を仰っても無駄です。わたくしの心が変わることはありません》
《……えぇ。そう仰るだろうことは、分かっていました。愛情深いあなたが、『紅薔薇』の座にある今、王への想いも役目への忠誠心も、投げ出すはずはないと》
《分かっているなら、》
《――ですが、姫。人の心は、変わります。己の心を縛るものから離れ、新たな世界に触れたなら、尚更》
皇子の言葉に、愕然とする。
……まさか。それでは。
「そのため、なのですか。殿下はわたくしをこの国から連れ出すために、あのような要求をなさったと?」
「お怒りは甘んじて受けましょう。それ以外に、あなたをこの国から、非情な王から救う手段が見つけられなかったのです」
「そのような……! そのようなことを、いつわたくしが望んだと!?」
「あなたは望まれない。ですが、あなたの望みを叶えることが、あなたの最善に繋がるとも限らないでしょう」
「わたくしの最善は、わたくしが決めます。たとえ世界中のほとんどから理解されないとしても、わたくし自身が望み、大切な人たちが祝福してくれる未来こそ、わたくしの最善なのです。間違っても、誰かの独断で決められるものじゃありません」
ディアナの言葉に、皇子は何度も、首を横に振って。
「……今はもう、何も申しますまい。ですが、あなたがどのように仰っても、私はあなたを連れてスタンザへと戻ります。エルグランド王国があなた以外を選んだそのときは――そうですね、正しく人質として、役目を果たしてもらいましょうか。現スタンザ皇帝は変わった毛色の女を好む方ですから、異国の美姫はきっとお気に召されるでしょう」
「――……あなたはもっと、異国とそこに住う人々へ、敬意を払えるお方だと思っていました」
卑怯者、と罵ってやりたいのを、すんでのところで貴族的言い回しに変換する。まさか皇子が、側室筆頭であるディアナを欲するがゆえに、『後宮の側室を人質に寄越せ』と言い出したなんて、常識外れもここに極まれりだ。たかが女一人のために、せっかく積み上げた親善外交を台無しにしかねない行動に打って出るなんて。
――怒りに震えるディアナに、皇子はこれまで見たことがないほど、満足そうに笑う。
「では、姫。良いお返事を、期待していますよ」
「……!」
返す言葉も見つからないディアナを置いて、皇子は悠々と退室していった。かろうじて冷静さを保っていたらしいマグノム夫人が見送りに出て、すぐに戻ってくる。
クリスが凄い速さでマグノム夫人の方を見た。
「奴は?」
「扉の前を守っていた後宮近衛に託しました。――ディアナ様」
立ち尽くしたまま、必死に現状を整理しようとして、何もできず呆然とするしかないディアナを案じてか、滅多にないことながら、マグノム夫人がディアナの前まで歩み寄り、背中にそっと手を当ててきた。のろのろと顔を上げ、ディアナは目の前の、頼りになる女官長を見る。
「マグ、ノム、ふじん……わたし、どうしたら、」
「ひとまず、ディアナ様はお休みを。――リタ」
「はい」
呼ばれたリタが、食い気味に返事をした。
「外宮に報告する必要がありますが、スタンザ語の部分は、私では聞き取り切れませんでした。あなたは、全て把握していますね」
「はい、マグノム夫人」
「ディアナ様のことは心配でしょうが、今は私を手伝ってくれますか?」
「……はい。――カイ、聞いていますね?」
〈聞いてるし、聞いてたよ〉
天井裏から聞こえてきた声によって、一気に現実へと引き戻される。
何故か全身に氷水が掛けられたかのような心地になりながら、ディアナはリタと彼の会話に耳を傾けた。
「ディアナ様をお願いできますか? 私はマグノム夫人をお手伝いせねばなりません」
〈任せて。そっちのことは現状、リタさんにしかできないでしょ。できるだけ早く外宮に伝えなきゃだし、急いで。――クレスター家にはさっき、シリウスさんが飛んでったから〉
「はい。よろしくお願い致します」
室内の空気が動き出す。マグノム夫人がミアとリタを伴って退室し、王宮侍女たちもユーリの指示でお湯や軽食をもらい直しに出て行って――。
「――ディー、まずは座ろう?」
誰も居なくなった主室に、カイが降りてきて。
午前中、ディアナを抱き締め、あやしてくれたときと一切変わらない優しい瞳の彼に、どうしてかとてつもなく安堵して――糸が、切れた。
「カイ……っ」
「……っと、」
ふらり、と傾いだ身体を支えられ、ソファーへと導かれた。何も言わずともディアナが震えていることに気付いたカイは、そのまま離れることなく寄り添ってくれる。
「ど、して……なんで、こんな、ことに、」
「んー……正直、俺は夜会の辺りから、嫌な予感はしてたんだよねぇ」
思わぬ返しに、言葉を失う。驚愕の視線を向けると、カイは困ったように苦笑した。
「アイツがディーに向けてた瞳って、どう控えめに見ても異国の王の側室に向ける種類のモノじゃなかったから。その後の展開見ても、あからさまにディーにだけ、異様な執着見せてたし。ディーへの賛辞ヤバかったもん」
「賛辞……」
「分からなかった?」
「やたらといつも、きらきらしい褒め言葉を積んでくるな、とは思ってた、けど。異国の人だし、スタンザ式社交辞令ってこんな感じなのかな、って」
「いやぁ……社交辞令だとしたら余計に、ディー限定なのは変でしょ」
というか、とカイは一度言葉を切って。
「ディー、マジでアイツの気持ち、分かんなかった? リタさん含む侍女さんたちが全力で心配する程度には、あからさまだったよ?」
「わ、分かるわけない……!」
「えぇー……ディーらしいっちゃらしいけど。この国のお貴族様って、そういう恋の駆け引きみたいなのも社交スキルに数えるんじゃないの?」
「それは……!」
カイの言葉は正しいが、何事にも例外はあるのだ。隣り合って座り、上半身だけ向かい合った状態のカイの肩に額を預け、ディアナはぎゅうっと目を閉じる。
「そりゃ、普通に社交で結婚相手を探すつもりの人たちなら、そういうスキル磨くけど。私はそんなこと考えてすらいなかったし、私に声を掛けるのはいつだって、私じゃなくて私の身体目当てな男性ばっかりだったし」
「……ふぅん」
カイの腕が背中に回り、不意に、息もできないほど強く抱き締められた。その力強さに、全身がふわっと温かくなる。
しばらくしてから腕を緩めたカイと、ディアナは至近距離で見つめ合った。
「ディーを好きだって言う男は、これまで居なかったんだね?」
「私は『クレスター伯爵令嬢』だもの。遊び相手には選んでも、生涯の伴侶にするなんてゴメンだって人が圧倒的大多数よ。……ましてや、好きになる人なんているわけない」
「けど、フィオネさんだってクレスター伯爵令嬢だったけど、ジンさんと結婚したでしょ?」
「言わなかったっけ? 叔父様と叔母様は幼馴染で、お互いがお互いの初恋なのよ。叔母様が社交界にデビューする前から二人は想い合ってて、今の私くらいの歳には、もう将来一緒になるって誓い合ってたから。恋愛面で参考には、あんまりできない」
「……ディーには、そういう相手居なかったの?」
「幼馴染で仲良しで、みたいな? うーん……歳が近くて仲の良い人は多いけど、誰か一人特別に、って人は居ないわね」
……本当は、何となく、ずっと昔に出逢っていたような気もするのだ。記憶にすら残らないほど幼い頃に、「とくべつ」だと感じた誰かがいたような、そんな心地がずっとしている。
けれど、仮に出逢っていたとしても、今に繋がってはいないから。カイとて、そんな記憶にすら残っていない曖昧な話を聞きたいわけではないだろう。
「だから……そもそも、私のことを〝女として〟好きになる人が現れるなんて、考えたこともなくて」
「あー……スタンザ語ではっきり、そう言われたんだ?」
「……聞き取れなかったの?」
「あのね。フツーの人間は、たった数ヶ月勉強しただけで、異国の言葉完全マスターしたりできないから。ディーと、それに付き合えたリタさんが異常なだけ。俺もそこそこ頑張ったけど、まぁ単語を断片的に聞き取れた程度だよ」
「そ、っか……」
「で、正確にはなんて言われたの?」
「えっと、確か……『あなたを女性として愛する私なら、女として愛される喜びを教えることができる』とか、そんな感じのことを」
「へぇー……」
「……っ」
片腕だけでもう一度抱き寄せられ、耳元で低く囁かれて、背筋にぞくりと痺れが走った。身体が勝手に身動いで、カイが吐息だけで笑った気配がする。
「で、ディーは知りたいの? 愛される喜びとやらを」
「分かり切ったこと、聞かないで。そんなもの、別に知りたくもないし……仮に知りたくなっても、あの皇子からは絶対に教わりたくないわ」
「ま、そんな感じで拒否ってたね」
「当たり前よ。……けど、どうしよう、カイ」
皇子は、本気だ。本気でディアナを求めて、あり得ない暴走をしている。
ディアナ一人のために、この国を騒動の渦に落とし込むなんて。……なまじ、王族としての権と無駄に回る頭、世間知らず特有の思い切りの良さを兼ね備えているだけにタチが悪い。
ディアナを抱き締めるカイも、流石にすぐには打開案が浮かばないようで。
「……まぁ、まずは外宮の人たちとクレスター家の皆さんに知らせて、全員で相談して、それからじゃない? こうなった以上は、要求自体を跳ね除ける方向性で進めるしかないだろうとは思うけど」
「そう、よね」
「皇子の本心を引き出すっていう、今日のディーの大仕事は終わったわけだし。諸々の問題は一旦置いて、ゆっくりお茶でも飲もう? ――ユーリさんたち、そろそろ戻ってくるみたいだから」
「……うん」
そうだ。何はともあれ、皇子の意向は分かったのだ。とんでもない事実ではあったが、それが分かったことは前進だろう。
いつまでも呆けてはいられない。しっかり頭を切り替えて、後宮を守る術を考えなければ。
腕の中で深呼吸を繰り返すディアナを、溢れる想いを静かに留め、カイがじっと見守っていた――。
うーわー……やっちまったなぁエクシーガ……
キーワードの『王様フルボッコ』を『王族フルボッコ』へ変えるべきか……?




